チョコミントアイス

戦艦大和は巨大な船なので、どこにいても敵にすぐ発見されてしまうと思います。
港などに停泊していれば、格好の攻撃の的になったはずです。
しかし、ミッドウェー海戦、レイテ沖海戦を経て、昭和20年4月の最終出撃天一号作戦のときまで生き残っていました。
大和と同じタイプの戦艦、武蔵・信濃に比較しても長く存続しています。
どうしてこれができたのでしょうか?
単なる偶然でしょうか?
戦闘をしていないときは、どこかに隠されていたのでしょうか。

A 回答 (7件)

もともと、戦艦は敵艦隊との遭遇がある前提で出港する船です。

目一杯の攻撃力と防御を備えている替わりに、船員の寝泊まりするスペースは犠牲にされているし、何よりも大型船なもので行って帰ってくるだけで相当の重油を喰うからです。遭遇するかどうか分らない長期航行には、巡洋艦という戦艦を小型にした軍艦が適していました。

それに、日本は物量で英米に劣るため、英米海軍に負けない海軍力を維持するために、戦いは1対1で絶対負けないように攻撃力・速度重視、その代り航続力は犠牲にして、遠征はせずに日本近海で戦うという方針があったため、なおさら長期航行には向かない設計になっていました。

特に、大和級は世界最大の戦艦でしたから、重油消費量も半端ではないし、太平洋戦争はすでに軍艦同士の撃ち合いよりも航空機主体の戦いとなっていたため、30ノットの速度が出せない大和型よりも、高速の金剛型などが空母の随伴戦艦として重用されました。

ですので、太平洋戦争初期はトラック、中期はボルネオなど、最前線から少し離れた拠点で出番をずっと待っていましたが、結局出番がなく退いてきたので、最後の無謀な突撃まで出番がないまま後方待機を続けていました。

武蔵もほぼ同じ程度の出撃回数でしたが、レイテ沖海戦もある意味成功確率の低い突撃作戦でした。連合艦隊の旗艦を務めたこともあり、名前的にも日本の象徴である大和だけはどうしても守りたかったからなのか、レイテ沖海戦にあたっては、武蔵を敢えて目立つ白い塗装にして、敵攻撃の標的にされやすくして出撃しています。

信濃に至っては、日本近海の制空権・制海権もない時期に、乗員の訓練もままならない状態で避難目的で航行中に魚雷攻撃を喰らって沈没してしまいましたので、悪い時期に未成熟な乗員達で航行中に敵潜水艦に見つかってしまったという不運が重なってしまいました。

もともと日本海軍の切り札ということで、後方で大切に扱われていたのですが、大和に至っては武蔵と比べてもレイテ沖で特別待遇を受けたことが最後まで生き残った原因でしょう。
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決戦兵器として完成しましたからね


下手なところには 出していません
何回か 潜水艦の魚雷攻撃を受けてますけど
それだけ丈夫でもあったんです

まあ、重巡以上の艦は、レイテ沖までは かなりの数が
残ってました
メインでやられていたのは 空母だったんです

武蔵が レイテ沖で白塗り というのも 都市伝説的なとこがあります
武蔵が残って、大和が沈んでた可能性もありました
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 他の方の補足です。



 停泊中の重装甲の軍艦を沈めるのは意外と大変です。
 1トンクラス以上の特殊爆弾、または魚雷で攻撃することになります。
 いずれも低空からの攻撃をせねばなりません。
 このような攻撃のできる艦載機なり航続距離が長い機体を、数百機単位で用意するのは経費がかかるのです。

 情報面でも薄気味が悪いものだったと思われます。
 米軍の掴んでいた大和の情報は少なく(40cm砲搭載艦と思われていました)、意外な反撃も計算に入れなければいけません。武蔵を沈めるのには異常に大量の弾薬を必要としました。今度は何発で沈んでくれるかは定かではありません。瀬戸内海は停泊地によっては水深が浅く、雷撃が難しいところもあり、そのような地理的なソフトウェアも必要でした。

 停泊中の戦艦を攻撃する場合、迎撃機のほか、陸上からの対空砲火の反撃もあります。撃沈は可能でも、低空からの空撃なので、これらの反撃によるそこそこの損害も想定されます。
 米軍がいくら余裕があったとはいえ死にたくはないので、B29ですらルメイによって高高度爆撃に作戦変更されていました。
 もう軍艦の数ではなく、焼き尽くした都市の数が問題でした。
 城壁は崩れているので、市内を襲えばいいのです。
 わざわざ残っている城壁の兵士と戦う意味はありません。
 放っておけば引きこもってじっとしててくれる戦艦を、わざわざ沈めにいくのは割に合いません。浅い停泊地で沈めることになるので、サルベージが可能です。対空砲台として再利用されては、沈める意味すら希薄です。

 結果的にも大和は自分から飛び出してきて、少ない損害で深海に葬り去ることができたので、米軍の作戦は成功だったといえます。
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漫談です。


簡単に言えば、使わなかったから残っていたのです。前線にだして敵と戦わなければ、狙われなければ、そりゃ残るのは道理ですよね。

日本の海軍は軍艦(この場合菊のご紋章のないフネもひっくるめて)を損傷させるのを極度に嫌う体質がありました。陛下から預かった軍艦、という意識もありましたが、外地での修理能力が低かったからです。ガダルカナルの第一次ソロモン海戦のとき、一回だけ目的地に突入して軍艦のみ攻撃し、本来目標であった輸送船は沈めていません。もちろんもう一回突っ込むか会議は行われたのですが、鳥海艦長以外みな「あぶないからやめよう」で帰ってしまいました。敵艦沈めたのだから、危ない確立は最初より低いはずなのですが(鳥海が司令部機能の付近に被弾して、司令部がナーバスになったこともあると思われます)。

ですから、大和を使うなんて考えられなかったのです。最終兵器使って、もしものことがあったら誰が責任をとる? という極めて日本的な考えが働いたわけです。じゃ、旧式の扶桑、山城使わないのか?といわれれば、ガダルカナルのころから米軍の戦艦数に対応するため「いなければならず」、使ってこわして内地行き、となったらパワーバランスが崩れるので、これまた使えなかったのです。アメリカ人なら「使ってこわしても相手も壊れればいいのだ」と考えるのでしょうが。伊勢と日向は航空戦艦という中途半端な改造されていたので、内地にいたりテストしていたりで勘定に入れることができませんでした(まあ、対空砲火が増強されて生き残り、北号作戦で大和よりは働いたとも言えますが)。

ところが、航空機の攻撃能力増大と、日本の対空装備の劣悪さから、昼間出したら飛行機で沈められてしまうことが、武蔵で判明しました。自分たちがマレーで英国戦艦2隻沈めていたのに学習していなかったのかといいたくなります。なので、大和は内地に引きこもるようになり、ついには組織の暴走から、まったく無駄な使い方をされて沈むに至りました。
信濃はいったん建造が停止されたのち、泥縄的に航空母艦にすることとなり、またその方針が二転三転して工期が延び延びとなり、進水式でケアレスミスで事故を起こしてまた延びて、その間横須賀がますます危険になったので呉に移すことになり、駆逐艦3隻だけの護衛、機関は未完成で20ノットでたらいいなあ状態、で移動実施したら潜水艦から魚雷が撃ち込まれたのは他の方のおっしゃる通りです。けど、元は戦艦だから沈むまで7時間以上かかったのですが、建造中のため隙間だらけ、さらに連絡がうまく行かず無理に関西(大阪か神戸)に行くことにこだわり(名古屋に行く選択があってもよかった)、無駄に時間を空費して転覆沈没となりました。

大和はそれでも、残っている世界最大の軍艦なのだから、同じく生き残っていた長門と共に終戦工作に役立てよう、とか、海軍のごく一部では、長門、大和をソ連にゆずって燃料と航空機を購入することを計画するグループもありました。自国沿岸を主に行動し、陸から航空機の援護をうけることを前提に、敵の自国上陸を阻止する手段として強力な大砲を運ぶ装甲された戦艦を、ソ連海軍はことのほか重視していたからです。
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>戦闘をしていないときは、どこかに隠されていたのでしょうか。



隠されていたというより退避行動をしていたという方が適当だろうと思われます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_ …
レイテ沖海戦後、呉に戻った後は、
呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦した後、呉から徳山沖に退避
佐世保に回航しようとして、空襲を避けるため徳山沖に退避
米軍機によって呉軍港と広島湾に機雷が撒かれた後は、呉軍港に帰還する事も困難に。

>戦艦大和は巨大な船なので、どこにいても敵にすぐ発見されてしまうと思います。
>港などに停泊していれば、格好の攻撃の的になったはずです。

瀬戸内海だから可能だったのだと思います。
攻撃目標の港に停泊していればともかく、大小様々な島々の間にいれば
B29等による航空偵察&写真解析で発見は可能としても、翌日に同じ場所にいるとは限らないですし
関西、四国、九州、中国地方に囲まれた内海ですから、米軍の艦載機、空母部隊にしても
リスク無しにのんびり索敵した後、攻撃が出来るというわけにはいかなかったはずです。
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レイテ沖海戦までは、艦隊決戦が起きるのではという考えから、主力の戦艦は温存されました。


米軍が、ガタルカナルの攻防で、新鋭戦艦2隻を投入してきたのに比べ、建艦能力のなさによって、大和は温存されて、代わりに比叡霧島が打撃を受けて沈んでます。
このときに、大和がいれば逆転できたのでは?と戦史に詳しい方が惜しむほどですね。最期のような沈み方をするなら、相手の戦艦と打ち合って最期を迎えた方が、戦艦としていいだろうということです。
トラックで大和ホテルと陰口を叩かれて、活躍する場もなく、空襲で沈められたのは、連合艦隊の司令部の用兵の間違いでしょう。
ミドウエー攻略戦でも、第一航空艦隊より先行して相手の航空機攻撃を吸収してれば・・・とも思います。

油を食うからってのは、瀬戸内海に戻ってからで、トラックやブルネイに居た頃は十分に油はありますから、動かしても問題はなかったと思います。大和の機関出力は15万馬力ですが、瑞鶴クラスや、赤城と比べても小さいぐらいです。(航空母艦はそれこと走り回ってましたから)
ただ、主砲は砲齢ってのがあって、200発ぐらいを撃つと交換しないと破損の恐れがあるので、しょっちゅう撃てたわけではないのですけどね。特に大和武蔵の場合は、スペアの砲もなかなかできなかったということがあります。
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そりゃ、単艦でボーっとしていれば早々に攻撃に遭うでしょうが・・・・



普段は、日本海軍の制海権の内部に温存されてますし、周囲の基地航空隊のカバーもあるし
作戦行動中だって、中陣以降に温存されています。
そもそも連合艦隊の旗艦ですから実際の戦闘行動よりは、司令本部としての役割の方がウェイトが高かったのでは?

なので、武蔵の方が先に実戦行動に駆り出されて喪失しました。
最後の作戦は、すでに艦隊司令本部は陸上に移動してしまったので司令本部としての役割も終えたし、
そもそも率いるべき艦船群も見る影も無く、
そんなことなら、いっそ彼の艦の戦闘能力に賭けてみて米軍に一泡でも吹かせられれば、
ひょっとしたら、停戦とかある程度尊厳をもった終戦を迎えられるかも?
という期待の元の行動だったのでは?
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