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報道などで、容疑者を呼称するときに使う「男」「女」ですが、これは考えてみると、その人物が男か女か性別を明らかにするときに使うのが第一義的な言葉ですよね。それなのに、いい感情を持っていないと言うことを表明するために使う、というのはどういう理由によるのでしょうか?ほかになかなか当てはまる語がないというのもあります。しかし、容疑者が男であるか女であるか、とりあえず報道を受ける側にとってはあまり問題ではないし、それに、「男」「女」と言う言い方が、感情的に同情できないものというニュアンスを含むと言うことがあると思います。たとえば「ひき逃げをした男を逮捕した」を「ひき逃げをした者を逮捕した」「ひき逃げをした人を逮捕した」とはいずれも不適当です。どうしても男女の性別を持ち出さないと、呼称できないものでしょうかね?

A 回答 (6件)

「人物」なら言い換えても違和感は無かと思いますが


性別が男・女の二つしかないので、それが特に必要な情報ではなくともニュースに盛り込んでも差し支えない、というのが慣例なんでしょうね。
もちろん、警戒や情報提供を求める意味を含んだニュースなら性別を伝えたほうがいいかもしれません。
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この回答へのお礼

男か女か、厳密には分けられるのでしょうが、一見わからないし本人もその気でないという中性的な例もありますよね。そういう配慮がないというのはいかがなものかと思います。

それよりも疑問なのは、この「男女」と言う言い方が、多くの場合、自慢げにあるいは確信的に自分の信条を明らかにするとき、「俺(私)はそんな男じゃない」「私は誠実な男だ」とか、強調で使いますよね。それはちっとも侮蔑的ニュアンスでないわけです。むしろ、男女の属性を強調することにより、よりアイデンティティを評価する場合に多く使います。その場合「私はそんな人じゃない」「私は誠実な人だ」より、より宣言度や真面目さが高いのに、一方で文脈によって(犯人報道など)侮蔑的ニュアンスに成り下がってしまう。そんな言葉(まるで「貴様」みたいにころっと意味が変わってしまう、もっとも「貴様」は時代で変遷したんで今使う分ならまぎれようはないですがね)を、報道で使う寒冷にしているのがおかしいと思います。本当に「者」がいいんじゃないでしょうかね。

お礼日時:2009/01/27 09:41

男か女かということは、情報として伝えるべきだと思います。



もし、「ひき逃げをした人を逮捕した。それは男だった」だと長いですね。ひき逃げをしたのは人であることはわざわざ言わなくても分かっています。

上記の情報を伝えるには、「ひき逃げした男を逮捕した」で十分です。

また仰るように、「男」「女」という呼び方は、「悪いやつ」という感情がこもっています。ただし、容疑者を侮蔑する言い方でもないので、うまく考えられているのだと思います。

そういえば、現在は「○×△容疑者」と敬称を付けて報道されますが、ずっと前は、容疑者の段階で「○×△」と呼び捨てで報道されるのが当たり前でしたよね。有罪・無罪すら確定していないのに。
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この回答へのお礼

「情報」ならばいいですが、多くの場合「情報」はニュース報道にはあまり関与していない場合が多い。性別をどうしてそんなに強調する必要があるだろうか?これが「悪いやつ」と結びついているあいまいな言葉です。そんなあいまいさを持った用法を報道で使うべきか?

それよりも疑問なのは、この「男女」と言う言い方が、多くの場合、自慢げにあるいは確信的に自分の信条を明らかにするとき、「俺(私)はそんな男じゃない」「私は誠実な男だ」とか、強調で使いますよね。それはちっとも侮蔑的ニュアンスでないわけです。むしろ、男女の属性を強調することにより、よりアイデンティティを評価する場合に多く使います。その場合「私はそんな人じゃない」「私は誠実な人だ」より、より宣言度や真面目さが高いのに、一方で文脈によって(犯人報道など)侮蔑的ニュアンスに成り下がってしまう。そんな言葉(まるで「貴様」みたいにころっと意味が変わってしまう、もっとも「貴様」は時代で変遷したんで今使う分ならまぎれようはないですがね)を、報道で使う寒冷にしているのがおかしいと思います。本当に「者」がいいんじゃないでしょうかね。

容疑者を呼び捨てにするのは乱暴ですが、男女の話よりは筋は通っていますね。

お礼日時:2009/01/27 09:43

おそらくですが、「動物の雌雄」というぐらいの区別をしておけばいいほどのけしからん奴。


といったような無意識が、「男・女」という性別を以って容疑者の代名詞とさせているのではないでしょうかね。
人や者など、人間に関連した言葉を使うことさえ勿体無い?といったような感じでしょうか。
 
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この回答へのお礼

「男女」というとおっしゃるように差別的なニュアンスが生ずる。それを便宜的に利用しているんでしょうかね。

それよりも疑問なのは、この「男女」と言う言い方が、多くの場合、自慢げにあるいは確信的に自分の信条を明らかにするとき、「俺(私)はそんな男じゃない」「私は誠実な男だ」とか、強調で使いますよね。それはちっとも侮蔑的ニュアンスでないわけです。むしろ、男女の属性を強調することにより、よりアイデンティティを評価する場合に多く使います。その場合「私はそんな人じゃない」「私は誠実な人だ」より、より宣言度や真面目さが高いのに、一方で文脈によって(犯人報道など)侮蔑的ニュアンスに成り下がってしまう。そんな言葉(まるで「貴様」みたいにころっと意味が変わってしまう、もっとも「貴様」は時代で変遷したんで今使う分ならまぎれようはないですがね)を、報道で使う寒冷にしているのがおかしいと思います。本当に「者」がいいんじゃないでしょうかね。

お礼日時:2009/01/27 09:44

私は「者」でいいと思いますがね。


万が一ですが、容疑者がおかまやおなべの場合、被告人の人権がどうこう…ってなりそうですし。

報道の用語って、ときどき慣習がいっせいに変わったりしますが、最初は奇異に思っても、すぐ慣れますからね。
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この回答へのお礼

そうですね。中世の場合どうするのかの配慮も生かしたほうがいいのではないでしょうか。「者」にしたら、そういう矛盾点は感じないですみます。

それよりも疑問なのは、この「男女」と言う言い方が、多くの場合、自慢げにあるいは確信的に自分の信条を明らかにするとき、「俺(私)はそんな男じゃない」「私は誠実な男だ」とか、強調で使いますよね。それはちっとも侮蔑的ニュアンスでないわけです。むしろ、男女の属性を強調することにより、よりアイデンティティを評価する場合に多く使います。その場合「私はそんな人じゃない」「私は誠実な人だ」より、より宣言度や真面目さが高いのに、一方で文脈によって(犯人報道など)侮蔑的ニュアンスに成り下がってしまう。そんな言葉(まるで「貴様」みたいにころっと意味が変わってしまう、もっとも「貴様」は時代で変遷したんで今使う分ならまぎれようはないですがね)を、報道で使う寒冷にしているのがおかしいと思います。本当に「者」がいいんじゃないでしょうかね。

お礼日時:2009/01/27 09:45

「男」には、蔑称的な意味合いは本来なかったはずなんです。

(女も一緒)
最近「男」や「女」というと、悪者だと思うような人が増えてきました。
一方、「男性」「女性」というと丁寧な表現だ、敬称だと思う人が増えてきました。
本当は「性」という字がくっついている分、人間のオス、メスという言い方になっているんですけどね。

「昔、男ありけり」・・・蔑んではいません。

「男」や「女」が蔑称のように感じるようになったのは、我々がニュースで「容疑者の男を逮捕した」なんて、しょっちゅう聞かされているからです。
男や女と聞くと何かの犯人を想像するように馴らされてしまいました。

男や女と言う呼び方を変えても同じでしょうね。
どうせその新しい言い方の言葉も、犯人についての言い方ですから、侮蔑的色合いに染まるでしょう。
なにせ、毎日、しょっちゅう、悪者や犯人のニュースを聞かされていますのでしょうがありません。
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この回答へのお礼

卵か鶏かってことになるのではないでしょうか。つまり、報道でそういう使い方をされるから、男女が侮蔑的意味合いを持つのか、それとも、もともと茶飯に男女というのがそういうニュアンスを持っていたのか。あまり後者じゃないような気もしますよね。もっとも、目撃証言などではどうしても、「男が」「女が」という慣例で使うので、そっちの方で採用されたということも考えられるでしょうかね。

いずれにしても、もともとは蔑むことではないはずです。

お礼日時:2009/01/27 23:03

>それよりも疑問なのは、


>「俺(私)はそんな男じゃない」「私は誠実な男だ」とか、
>それはちっとも侮蔑的ニュアンスでないわけです。
:結局、おっしゃるように「>便宜的に利用」してるのでしょう。
なぜ便宜的に使用されやすいかと言えば、「男・女」が良い意味でも悪い意味でも「本能的要素」に立脚した言葉だからではないかな、という気がしますね。

つまり、
「>俺(私)はそんな男じゃない」
と言う場合は、自分の本性(本能関連の自分)を擁護しようとしているわけでしょう。
それとは別に、
「俺(私)はそんな人間じゃない」
という場合は、自分の人間性(超自我関連の自分)を擁護していることになるのではないでしょうか。

このでんでいくと、
「私は誠実な人間だ」のほうが一般的だと思うのですが、
「私は誠実な男だ」と表現することもあります。
この場合、おっしゃるように「>宣言度や真面目さが高い」とみなしても良いと思いますが、それは、誠実という超自我性と男という本能性のどちらも兼ね備えていることを強調しようとしているからでしょう。
むろん、無意識的にですが。

「ひき逃げをした男を逮捕した」
の場合は、本能性の要素だけが強調されるわけですが、
たとえば同じ「雪」であっても、
「豪雪」と言えば重く悩ませるもので、
「淡雪」と言えば柔らかく優しいイメージが自動的に湧くように、つまり前後の関連から「>便宜的に利用」(=感覚を使い分け)しているのと似ているようです。
報道ではそういう感情(感覚)が(無意識的にせよ)意図されているのは、おっしゃるとおりでしょう。

とはいえ、
「ひき逃げをした者を逮捕した」という表現は明らかに不自然と私は思います。
おそらくですが、「者」という言葉自体に「個人を特定する要素」が希薄なためではないでしょうか。
指示代名詞を冠して、
「この者が言うには」とか
「その者の態度が~」とかいう表現であれば可能だと思うのですが。

「ひき逃げをした男」と言う場合、
「>感情的に同情できないものというニュアンス」だけではなく、
「性別を明示することで個人を特定する印象が強まる」という側面も、もしかしたらあるのかもしれません。

以上、感覚だけの見解で学問的根拠は全くありませんので悪しからず。
 
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この回答へのお礼

非常によくわかりました。
男女という言い方は、社会的文脈というよりも、より生物的であり即物的でもある、それゆえに「人」「者」というよりも、強い直接的なニュアンスがあるのです。そこで、「~~という男だ(女だ)」などと宣言するあるいは描写される場合、より受ける印象が強い、よりその人物の真に迫っているという印象を持ちます。つまり、「人」というのはなににせよオブラートに包む余韻のようなものがあるんですよ。そのオブラートをとった表現は、容易に侮蔑的なニュアンスにも傾倒できる、という理屈なんじゃないでしょうかね。

お礼日時:2009/01/27 23:07

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