「永遠回帰とニヒリズム」についての基本的な事柄を友達に説明したいと考えているのですが、基本的な説明さえうまく出来ません。
なので、力を貸してください。
お願いします。

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A 回答 (2件)

ニヒリズムは、


1.ただの虚無。無気力、何も無い。
2.キリスト教による精神の支配を超克し、新たな価値、「生命への意志」へと、つき進むもの。

この↑2種に分類すべきです。
2番目のニヒリズムから、生きる意味に覚醒した者=超人
超人の生き方=永劫回帰、となるので、この順に説明します。

『超人』 は、すべてを肯定し、生きる意味を希求する、あらゆる問いに、「然り」と答える。

「こんな私でも、幸福になれるのか?」 「然り。幸福を求め、手をのばせば、必ず幸福になれる」

「私は生まれつき、頭が悪くて、理解も記憶も、他人に劣る。こんな私でも、この生まれつきの必然をのり超えて、幸福になれるのか?」
「然り。幸福になれる。生まれついた、必然。それを恨まず、和解もせず、『この必然を、私は欲したのだ』と言うのだ。
この必然を、私は欲して、こう生まれついて、私は自己を実現したのだ。

この私の姿は、私が欲した私だ。『生きる意志。それは創造する者だ』と、教えられたではないか!
私は、私の生きる意志によって、この私を創造したのだ。 (この部分、「ツァラトゥストラ」第2部、救済)

これが私なのか?これが私の人生か? 何という人生だろう?よし、ならばもう一度!この同じ人生を! ←これこそが、永劫回帰だ。」

『ニヒリズムの極点、つまり否定の極北にあって、その現実を直視し、いっさいをあるがままに肯定すること・・・
すなわち、一切の事物が、醜いものも美しいものも、弱者も強者も、
一切の事物が、力への意思の無限の運動の中で、
幾度も幾度も、無限の回数にわたって回帰する
現実をそのまま認め、肯定すること。』 ←これが、永劫回帰
(「ニーチェ」三島憲一、岩波新書、180頁)<一部の表現を、変更させて戴きました>

永劫回帰を、体現できるよう自己を変革した者が、『超人』である。(同、182頁)
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ポッドキャスト「町山智浩のアメリカ映画特電」の中で


映画評論家・町山智浩さんが映画『恋はデジャブ』で
ニーチェの永遠回帰を説明しています。(第73回)
詳しい人からは絶対に批判がでると思いますが参考になると思います

参考URL:http://www.enterjam.com/tokuden.html
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Q永遠だった筈の未来でさえも、壊れ物と知って、人は戦士に生まれ変わる??!!

永遠だった筈の未来でさえも、壊れ物と知って、人は戦士に生まれ変わる??!!

Aベストアンサー

永遠の未来?・・・100年も経ずに人は死ぬのに?
そんな心配は、自己の肉体を超えた他我=博愛に至ってからしましょう。

Q科学における説明と日常的にひとが行う説明について

「科学における説明と日常的にひとが行う説明の相違点を述べよ」という大学のレポート課題について質問しますが、これは客観的な一般命題と、主観的な価値命題による差、ということでよいのでしょうか?

最初にレポートを提出した時は、
科学における説明は数学の定理のように客観的な説明であって説明者によりその内容が異なることは無く、対する日常的な説明は説明する人の背景知識や経験に依存するため説明の内容が異なることがある、と書きました。
結果は不合格で、科学における説明は経験にもとづくことはないのか?また、日常における説明は何でも説明になるわけではありません、といわれました。

以下のように直したいと思います。
 科学における説明 → 一般命題、AはBである、といった定義された公理のもとで体系が展開されるもので、主観を排した客観的法則を重んじ、ポパーのいう反証可能性を認めているため定理が改善されることがある。
 日常生活における説明 → Aはよい、わるい、といった定義の確立されていない価値命題であり、主観的な世界でしかその真偽を判定できないもの。

としました。
アウトラインはこれでよいでしょうか?
ちなみに文系教養科目の哲学ですのでそれほど専門的な内容を求めているわけではなさそうです。
よろしくお願いします。

「科学における説明と日常的にひとが行う説明の相違点を述べよ」という大学のレポート課題について質問しますが、これは客観的な一般命題と、主観的な価値命題による差、ということでよいのでしょうか?

最初にレポートを提出した時は、
科学における説明は数学の定理のように客観的な説明であって説明者によりその内容が異なることは無く、対する日常的な説明は説明する人の背景知識や経験に依存するため説明の内容が異なることがある、と書きました。
結果は不合格で、科学における説明は経験にもとづくこ...続きを読む

Aベストアンサー

「科学における説明」には正しいとされる根拠が必要です。
それゆえに証明をする形になると思います。
「日常的にひとが行う説明」には証明的説明もありますが手順的な説明もあります。
手順的な説明には根拠は必要ありません。

例えばオムレツの作り方は「日常的にひとが行う説明」つまり手順の説明(根拠は不要)は出来ますが
根拠を挙げての「科学における説明」は出来ないでしょう。
出来るとすれば何故この手順でこうしたらオムレツが出来るかのメカニズム的な説明になると思います。それは決して作り方ではありません。

また「どうしていつもブルーベリーを食べているの?」と聞かれたら
「目に良いから」と説明するのは
根拠を言っていますが科学的ではないので「日常的にひとが行う説明」でしょう。
「ブルーベリーに含まれるアントシアニンが目にいいから」と説明しても科学的なメカニズムを説明してないので「日常的にひとが行う説明」ではないでしょうか?
「目の網膜にあるロドプシンは光が当たる事によって脳に送られる伝達物質となり見えている映像を認識する事になります。
しかしこのロドプシンは光が当たると分解されロドプシンとしての働きが出来なくなります。
ブルーベリーに含まれるアントシアニンはこのロドプシンの再合成を助けるため目に良いとされています。」
と説明すれば科学的な説明になりますよね?(でも質問の答えとしてはズレているかも…)

素人なので「相違点はズバリこれ!」と指摘は出来ませんが何か参考になれば幸いです。

「科学における説明」には正しいとされる根拠が必要です。
それゆえに証明をする形になると思います。
「日常的にひとが行う説明」には証明的説明もありますが手順的な説明もあります。
手順的な説明には根拠は必要ありません。

例えばオムレツの作り方は「日常的にひとが行う説明」つまり手順の説明(根拠は不要)は出来ますが
根拠を挙げての「科学における説明」は出来ないでしょう。
出来るとすれば何故この手順でこうしたらオムレツが出来るかのメカニズム的な説明になると思います。それは決して作り...続きを読む

Q肉体が亡びても魂は永遠なら、永遠の世界に魂が溢れてしまいます。輪廻転生

肉体が亡びても魂は永遠なら、永遠の世界に魂が溢れてしまいます。輪廻転生で説くなら世界人口の増加に伴い新しい魂が生まれているのでしょうか?個人が誕生したときその魂はそこから始まった真新しいものなのか、輪廻転生により繰り返す生への歩みなのか悩んでしまいます。学のない私ですが、『それでも僕はいきてゆく』という野田啓介さんの本を読み哲学の魅力を感じています。

Aベストアンサー

>肉体が亡びても魂は永遠なら、永遠の世界に魂が溢れてしまいます。

○ そうですね。放置すると永遠の世界に魂が溢れてしまうのですね。そこで、そうならないように転生輪廻のシステムが構築されたのですね。このシステム作ったのがお釈迦様なんですよ。日本人の殆どの人は数十万回以上の転生を経験していますね。
でもまだまだ迷っているでしょ。システムを知らない人は洗濯機を回すようにぐるぐるやられるのです。洗濯機の転生と呼んでますね。このシステムに気づいた人はちょっと別格で扱われるようになりますね。洗濯機から出て、生まれたい時を自分で選べるようになるということですね。これを解脱といいますね。
こんなのがあの世の常識ですね。

>輪廻転生で説くなら世界人口の増加に伴い新しい魂が生まれているのでしょうか?

○ ある程度魂修行が進むと、つまり霊格があがるとあなたが二人、三人に分かれるのですね。分光とかみたまわけ、と呼んでますね。分かれたあなたたちがまた転生して個性化していくのですね。つまり、鼠算式に増えているのです。
進化した魂は地球も飽きてくるでしょうから他の星にということもあるのですね。
中国やインド、アフリカで人口が増えているのは、ちょっと違って宇宙からの魂の移民を受け入れているからなんですね。だからあの人達は少し変わっているのですね。
こんなのがあちらの世界の常識ですね。
あの世の常識を知るものもいますから、気軽に質問してくださいね。

>肉体が亡びても魂は永遠なら、永遠の世界に魂が溢れてしまいます。

○ そうですね。放置すると永遠の世界に魂が溢れてしまうのですね。そこで、そうならないように転生輪廻のシステムが構築されたのですね。このシステム作ったのがお釈迦様なんですよ。日本人の殆どの人は数十万回以上の転生を経験していますね。
でもまだまだ迷っているでしょ。システムを知らない人は洗濯機を回すようにぐるぐるやられるのです。洗濯機の転生と呼んでますね。このシステムに気づいた人はちょっと別格で扱われるようになりま...続きを読む

Qニヒリズムにそもそも意味があるのか?

 次の議論をめぐって問います。

 ▼ (ヰキぺ:ニヒリズム) ~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%92%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

 § まえがき
 
 ( a ) ニヒリズムあるいは虚無主義(きょむしゅぎ、英: Nihilism / 独: Nihilismus)とは、

   この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である。

 ( b ) ニヒリストは概して以下の論点を強く主張している。

   上位の支配者、創造主の存在を示す理にかなう証拠はない、「真なる道徳」というものは存在しない、世俗的な倫理は実現不可能。よって我々の存在には結局真理はなく、好まれる行動など存在しない。


 § 1 概要

 ( c ) ニヒリズムという語は、・・・今まで最高の価値と人々がみなし、目的としていたものが無価値となった歴史的事態のことを言うときが多い。

 ( d ) 心理学者を自認するニーチェによれば、ニヒリズムにおいて私たちが取りうる態度は大きく分けて2つある。

   1.何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズム)。

   2.すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)。

 ( e ) ニーチェは積極的ニヒリズムを肯定し、永劫回帰の思想の下、自らを創造的に展開していく、鷲の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることをすすめた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 Q‐1 《永劫回帰》などは あり得ないと思うのですが 納得できる説明がありますか? 同時に《超人》についても同じ問いを 問います。

 Q‐2 ( d-2 )で《仮象》と言っていますが 経験事象としての世の中が移ろいゆかざるを得ない無常の世界であることは分かっています。いまさら《イツワリ・無価値》というのは どこかおかしい。《空観》というのは ごくふつうの世界観なのであって この世界が《仮象》であることは 分かっています。
 ゆえに 《自ら積極的に「仮象」を生み出し》という考えは 根本的におかしいのではないか? それともどういう意味がありますか? すなわち《いま起きている現実における仮象と向き合って 一生懸命に生きる》のであって いちいちわざわざあたらしく仮象を《生み出す》こともない。と考えるからです。

 Q‐3 《何も信じられない》( d-1 )という自己表現は 意味がないのではないか? 
 なぜなら 経験事象については あくまで《考え認識する》のであって 思考に非ずとしての《信じる》という表現を用いるのは 自己矛盾であると考えられるから。
 つまりは すでに見たように 世の中は 《仮象》だと見ているのだから。

 Q‐4 《 d-2.すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方》 これは そのような《ニヒル》にむしろ価値を見い出すと言っているのであるから 価値の無という意味での虚無志向ではないはずだ。積極的・能動的だというにしろ ニヒリズムという用語は あやまっているのではないか?
 世の中は《無価値》だとは けっきょくのところ 言っていない。ことになるにもかかわらずです。


 Q‐5 《人間の存在には意義、目的、理解できるような真理・・・がない》( a )というのは これも表現としておかしい。つまり 意味がないのではないか? 
 この世の中には 科学的な事実認識を採り入れた主観真実はあるが 絶対的な真理などは人間には分からないのだから この命題は 分かりきっていることである。それをいちいち《主張して 哲学的な立ち場》だとするのは 阿呆らしくないか?


 

 次の議論をめぐって問います。

 ▼ (ヰキぺ:ニヒリズム) ~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%92%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

 § まえがき
 
 ( a ) ニヒリズムあるいは虚無主義(きょむしゅぎ、英: Nihilism / 独: Nihilismus)とは、

   この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である。

 ( b ) ニヒリストは概して以下の論点を強く主張している...続きを読む

Aベストアンサー

 お久しぶりです。正月休みは山にこもってのスキー三昧で(酒屋ない,テレビ写らない,インターネット来ていない,帰りのバスもない(^^;))、やっと下界に戻って来ました。

 [再考:神は死んだか?]の#1さんほどではないですが、ニーチェの言説にはやはり、歴史的文脈は無視できないと思います。

 中世ヨーロッパの思想および神学においてギリシャ哲学は、無視しえないまた、無意識の土台になっていたという事実は賛成してもらえると思うのですが、その一つがイデア論です。

 極端に言えば、超歴史的で超地理的な普遍的真理なり真実を最初から想定していた、という事になると思います。この伝統の中には純粋理性を唱えたカントもいます。そして人間は、イデアそのものは見られないが、その歪んだ像「仮象」を見る事はできると・・・。

 これは結局、全面的な素朴実在論で、実際には観念論と紙一重だと思えます。思考したり感じたりするものは全て、現実にどこかに存在するのだと。それは別世界かも知れないが。

 どこかで書きましたがニーチェは、典型的な西欧的理念型モデルのタイプです(注:西欧的理念型モデルはウェーバーの理論にはありません)。しかし個人的な理由から、それを超克しようとしました。精神は中世的なままで。

 (神が定めたような)絶対的な真実や真理は、確かにあなたの言うように、知りえるか知りえないかさえわからない事です。ニーチェはそこで、そんなものは無い!、と判断したのだと思います。それはイデア論の否定です。これはニーチェの判断です(神は死んだ)。

 その結果を、ニーチェは中世そのものの言葉で語り出します。

> 2.すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)。

 上記の趣旨は、(仮象という言葉を使っていますが)雑多な現象の集積である現実世界を体系づけるという意味において、私は創造主であると読めないでしょうか?。これは超人と言うにふさわしいものだと思いますが、そのような行動が可能な根拠は、神が死んだからです。カントも似たような事を言いましたが、先験的理性形式は、神が与えたものでした。この差は大きいと思います。

 上記のような言説は、論理的分析では矛盾していたり無意味かも知れませんが、歴史的文脈を考慮すると「とても気持ちが良くわかる」一文にならないですか?。ニーチェは中世の言葉しか使えなかったんですよ、きっと・・・。

 一方ウェーバーは、明らかに中世的貴族主義的残照を受け継いだ人で、二人とも当時ヨーロッパ最後進国であったドイツに前後して現れた人達です。ウェーバーの言説にも、歴史的文脈を無視して言葉だけ取り出すと、現在では危険思想につながるものは多々あります。学問価値自由論などは、その典型です。

 二人とも当時ヨーロッパ最後進国であったドイツにおいて、「近代人の理想を一つを中世の言葉で」語ろうと努力したのではないのかな?、と自分は思っています。ニーチェは、ウェーバーの言う「認識の木の実を食べてしまった」一人であった、と自分は思います。


 全く対照的な二人ですが、そこに時代を感じます。

 お久しぶりです。正月休みは山にこもってのスキー三昧で(酒屋ない,テレビ写らない,インターネット来ていない,帰りのバスもない(^^;))、やっと下界に戻って来ました。

 [再考:神は死んだか?]の#1さんほどではないですが、ニーチェの言説にはやはり、歴史的文脈は無視できないと思います。

 中世ヨーロッパの思想および神学においてギリシャ哲学は、無視しえないまた、無意識の土台になっていたという事実は賛成してもらえると思うのですが、その一つがイデア論です。

 極端に言えば、超歴史的で...続きを読む

Qニーチェのニヒリズム(虚無主義:「ツゥラトゥストラは語りて」)において

はじめまして。
こちらのカテの方々に質問が御座います。
有名な言葉ですが、ニーチェは全ての囚われから解放できる唯一の方法が「意思」である、と説きます。
しかし、面白いのは更に話を進め、その意思さえもどうにも出来ないのが「過去(時間)」である、と説きます。

と、ここまでは論理的なのですが、ここらかが破綻し始めます(しているような気がします)。

何とニーチェは、このどうにもならない「現実(矛盾)」を克服する為に、何とその過去を「肯定」してしまうのです。
読んでいてびっくりしました;
個人的には、「それ以外に方法がないし(今のところ)、現実(運命)を受け入れるしかない」、とニーチェは言いたいのだと思いますが、どうも何かひっかかるものを私は感じました。

このあと、これを基にしていわゆる皆さん御存知の「超人思想」「永劫回帰」が出てくるんですが、私はこの時点でニーチェの言っている事は矛盾していて、破綻しているように思えるのです。
ひょっとして、ニーチェが発狂したのは、彼の思想が不完全(矛盾・破綻)しているからではないかと。
あるいは、この世界そのものが既に破綻していて、矛盾しているのかもしれませんが…。
しかし、現在を肯定的に捉える事はもちろん必要ですが、実は「否定する事」も必要なのでは?
あくまでニーチェの書物は、他人の解釈によって完成するので、これは私の勝手な解釈かもしれませんが…。

皆さんのお考をお聞かせ下さい。
(あと、おすすめの解釈本がありましたら、ご紹介の程よろしくお願いします。※サイトでも構いません)

はじめまして。
こちらのカテの方々に質問が御座います。
有名な言葉ですが、ニーチェは全ての囚われから解放できる唯一の方法が「意思」である、と説きます。
しかし、面白いのは更に話を進め、その意思さえもどうにも出来ないのが「過去(時間)」である、と説きます。

と、ここまでは論理的なのですが、ここらかが破綻し始めます(しているような気がします)。

何とニーチェは、このどうにもならない「現実(矛盾)」を克服する為に、何とその過去を「肯定」してしまうのです。
読んでいてびっくり...続きを読む

Aベストアンサー

ツァラトゥストラは――その《序説》の第二節で―― 森の中で出会った老隠者に 

    人間たちのところへ行くな。森にとどまるがいい。・・・なぜ
   君はわたしのようになろうとしないのか――熊たちのなかの一匹
   の熊 鳥たちのなかの一羽の鳥に?

と問いかけられたとき はっきりと拒みます。この《鳥たちの中の一羽の鳥であろうとする超俗の人(老隠者)》にかんする議論のみををめぐって 述べてみます。

けれども 論ずるなかれ 社会性を重んじるならば その拒絶は 当然です。そうしてこの老隠者と別れ 独りになったとき ツァラトゥストラは次のように 自分の心にむかって言ったということです。

    ――いったい これはありうべきことだろうか。この老いた超
     俗の人が森にいて まだあのことをなにも聞いていないと 
     は。神は死んだ ということを。
           (『ツァラトゥストラ』序・2 手塚富雄訳)

つまり 《神は死んだ》 この命題のみを取り上げます。

ことは かんたんです。もし 人間の経験合理性にもとづく思考や想像を 神が 超えているのだとすれば その《神が 死んだ》も《生きている》も無意味です。われわれの頭で分かるわけがないのですから。

人間が 《神は 愛だ。 / 正義だ / 悪魔こそが 神だ等々》と規定した途端に その内容は 神のものではなくなります。そのような主観を描いていますと表明しただけのことです。

もし その神が われわれ人間の想像力の産物であるとすれば なるほど 確かに その神は《生きたり 死んだりする》ことがあっても おかしくはない。という議論です。心は 大切ですが いかんせん 無常の風にさらされています。

そこのところを ニーチェは――書物の中でのことですが―― わざわざ《神は死んだ》という命題の表明として 言わなければならなかった。だとすれば よほど 少なくとも当時の・かれの暮らす社会では キリスト教の神が 観念の共同のもとに 人びとの振る舞いを規制し 猛威を振るっていたのかと思われます。それに抵抗し超克しようとしたのではないかと。

人びとの想像の産物として 頭の中の観念の神が くせとなり 慣習となり それの慣性化がひどかったのでしょう。あたかも檻のように感じられたのかも知れません。けれども 抵抗の仕方が ふつうではなかった。かれは その点で 感受性が強すぎたのかも知れません。

言いかえると ニーチェは 《考える》を超えた《信じる》という人間の持ちうる生活態度を 知らなかったと言えるかも知れません。思念のかたちにおいて 《意思》の城塞をこしらえてのようには 抵抗する必要がないということを。(日本人は こんな場合 慣習に従う振りをすることで 切り抜けるようです)。

ちなみに 日本でも ニーチェ派の中に いや 考えるのではない純粋思念だなどと言いたそうにする人も 多くいますが だったら《信じる》とはっきり言えばいいでしょうし 《思いこみ》ではないことを確認しておくとよいでしょうのにと思います。

つまり ニーチェがツァラトゥストラをして拒絶せしめた《超俗の人=老隠者》の系統に 自分は 片足を突っ込みながら しかも  ニーチェ擁護にまわる人びとが見られるようです。

別のお話しになりましたが こんなふうに考えます。

ツァラトゥストラは――その《序説》の第二節で―― 森の中で出会った老隠者に 

    人間たちのところへ行くな。森にとどまるがいい。・・・なぜ
   君はわたしのようになろうとしないのか――熊たちのなかの一匹
   の熊 鳥たちのなかの一羽の鳥に?

と問いかけられたとき はっきりと拒みます。この《鳥たちの中の一羽の鳥であろうとする超俗の人(老隠者)》にかんする議論のみををめぐって 述べてみます。

けれども 論ずるなかれ 社会性を重んじるならば その拒絶は 当然です。そうし...続きを読む


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