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世のドラマやら、アニメやら、なにか2枚目3枚目という区分が激しく、主人公は決まって2枚目で端正なのだ、そして、3枚目のコミカルな脇役がいて、というような構図を構えている気がします。こういうステレオタイプ的なものにずっと親しんでいると、人間観にゆがみを生じないでしょうか?

例えば、水戸黄門の八兵偉と、助角の配役を取り替えたって言い訳です。そうすると、不ぞろいの助角になってより味わいも出、脇役コミカルな八が端正な容貌であるために、ますます実感が湧いてきます?とにかく、面白いというか実感がある。
アニメで、やたらめったら主人公を端正で清らかな心を持つ?存在でなくて、ちょっとくせのある存在をピックアップするという、大きな心がほしい。

つまりは、ステレオタイプは、知らず知らず、人間の差別思想を助長し育成していると思われるのです。どうでしょうか?もっとおおらかで、実感のあるドラマアニメを作ったらいいのではないでしょうか?それでは商売にならないというほど、視聴者はステレオタイプを無批判的に好むものなのでしょうか?

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A 回答 (7件)

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「水戸黄門」を持ち出して、悪影響とか、ゆがみとか、単に、『水戸黄門』が嫌いなだけではありませんか。若い人なら、無批判の年寄りじみたワンパターンにイラダチを感じ、変化を好むというのは不思議はないとは思います。『水戸黄門』は、NHKの一部の地方の紹介の番組と同じように、お年寄り向けの番組だと思います。

>水戸黄門の八兵偉と、助角の配役を取り替えたって言い訳です。そうすると、不ぞろいの助角になってより味わいも出、脇役コミカルな八が端正な容貌であるために、ますます実感が湧いてきます?とにかく、面白いというか実感がある。

ご質問内容は、演劇の世界では実験場としてはあっても、大衆ウケするテレビ番組ではありえないというか、単なるバカバカしさしか感じません。ただし、水戸黄門の長いシリーズに、里見浩太朗さんは、角さん(映画)、助さんと両方を演じ、最後に水戸黄門で役者として演じています。また、八兵衛の高橋元太郎さんは、シリーズの中では、白髭をつけて偽黄門役をした覚えがありますし、高橋さんは、スリーファンキーズのグループで、歌手でアイドルだったことを覚えています。そのキャラクターをかき混ぜたくなるのは、それぞれのキャラクターが、時代劇の割には、あまりはっきりした個性を持たないというか、刺激の低い内容からだと思います。

そういう私は、今でも『水戸黄門』は観ていますが、『水戸黄門』の30分枠のころや映画を観ていた年代です。『水戸黄門』は男性ウケのする内容に、とても観る気が起こらない時代もありました。

ステレオタイプということから、差別思想を助長し育成するという意見は、極端すぎます。例えば、ヤクザ映画をみて、それに感化されたり、暴走族の映画の主人公にあこがれる人はいても、『水戸黄門』あたりで影響を受けるほど、強烈なイメージはないように思います。また、感化を受けるほど、多くの視聴者は若くはないと思います。それで影響を受けたりするのは、精神的な異常があるはずだと思います。例えば、自分自身を水戸黄門と同一視して、他人を目下に観るということをしたら、性格異常があるようです。

私は、一般論として、主人公のステレオタイプのキャラクターを信じ込んで、そう反応してしまうというのは、今どきは、そういう時代かもしれません。朝青龍が悪で、白鵬が善というのは、現実には違うとは思いますが、そういうキャラクターを植えつけてしまうことで、視聴者は落ち着いてしまいます。

某タレントが、女性を複数回、こぶしで殴って暴言をはいても、反省と称して何ヶ月かテレビに登場しなかった後、涙を流して謝罪でもすれば、みそぎをしたことで、許されてしまうわけです。伝説的な人気のある松田優作さんなども、彼が頻繁に起こした暴力事件は、とても許されるようなものではなかったし、いまだにファンがいるというのは映像の中だけで評価しているのだと思います。民主党の某氏のように、メディアに許されなければ、「自殺」をするしかないという選択もありうるわけです。メディアによって許されれば、それで社会的にも許されてしまうし、許されなければ、社会的抹殺するまで非難をし続けてしまうわけです。ある程度の成熟した大人なら、現実と虚構の間には、越えがたい壁があって普通なのですが、そうでもないのかもしれません。

虚構やテレビの世界だけならともかく、実際の人間関係や事物に、極端な「ゼロサム」や「割り切り」をして信じ込んでしまうとしたら、境界例を持っていると考えます。また、虚構の世界のステレオタイプを、何かの理由で壊そうと考えることも、同様に問題があるのではないでしょうか。昔、Mr.マリックを、テレビ界から追いやった時に、そのバッシングの番組内容を、あまり快く感じませんでした。また、霊能者と言われた宜保愛子さんの時のバッシングも、著名な作家などが言いたい放題で追いやりました。なぜ、エンターテイメントとして楽しめなかったのだろうか、と思うのです。しかし、現在、ゴールデンタイムに、霊だの前世だの言っている、江原啓之さんのスピリチュアルとかいうのは、単なる虚構であればよいのですが、それが現実だと誤解してしまうように仕向けるのは、メディアとして、あまり良い方向性ではありません。

虚構は虚構の中で留めていればよいのですが、今は、虚構の世界と現実との狭間が弱まっているのではないかと思います。

この回答への補足

お答えの中にある「大衆」というのがキーですね。「大衆」だから、実験的なばかばかしい笑いがない、ともいえます。

補足日時:2009/03/14 18:32
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この回答へのお礼

やはり、典型的に2枚目はこうだ、3枚目はこうだ、悪役はこうだっていうあまりにも決まりきったパターンではないですか。それが潜在意識に取り込まれるには、あまりにばかばかしい?ということでしょうかね。

後段にお書きになっているように、潜在意識的に正常人にも影響しているように思うのです。メディアのすりよりというか、低脳助長化はとどまるところを知らないのではないでしょうか。

お礼日時:2009/03/14 18:32

現代と昔では、娯楽の目的が違うのが原因です。

現代の人は、脳に刺激を与えて、テンションが高くなる娯楽を好みます。昔の人は水戸黄門のような、単純な物語を好みました。なぜかというと娯楽の目的が、心を癒す事だからです。心を癒すためには、脳の思考を休める事が必要です。脳がストレスの原因ですから、脳を休ませるためには、物語は単純で、同じ演目を何回も繰り返し観る事です。繰り返しは変化がないので、気持ちが安心になり癒されます。家庭を守る女性も繰り返しが好きです。これに対して、男性は夢を追い掛けるので変化が好きです。しかし脳を刺激するのでストレスになります。現代のドラマや演劇は、リアルな緊張感のある、迫真の演技や複雑なストリーは、脳を刺激するのでストレスになります。これに対して日本の伝統芸能の能や歌舞伎、舞などは、演技がスローで誇張されてて、間が多いので、脳の思考が休み、心が癒されます。これが文楽のように人形になると、益々心が癒されます。人形は見るだけで癒されます。これに対して現代人の娯楽はおかしいです。麻薬中毒みたいに自己表現だといって、脳に刺激を与えてストレスになっています。
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この回答へのお礼

昔の人というか、今の人が観ている娯楽ですよね。心を癒すことはすなわちテンションを上げることだと私は思います。逆にステレオタイプはストレスがたまります。無駄な作業だからです。お書きになっている現代人的刺激こそ、健全な娯楽の世界ではないのでしょうか。

お礼日時:2009/03/14 18:35

ナルトとか鬼太郎とか星野鉄郎(銀河鉄道999)とか銭ゲバとか、例外は探せば幾つでも見つかりますけどね。



それはともかく、物語論では使い古されていますが、ユング心理学風にいえば、集合的無意識のせいです。ユングは分裂病者の幻覚や妄想が、正常者の夢や空想,神話・伝説・昔話などときわめて類似性の高いイメージや主題を持つことに気づきました。彼はこのような類似が時代や文化の差を超えて普遍性をもつのは、人類共通の普遍的無意識が存在するからと考え、そのようなイメージを「元型」と呼びました。

物語によく出てくる元型には、英雄、老賢者、トリックスターなどがあります。
英雄は主役ですが、読者や視聴者は自分と英雄を同一視し、ときとして自分が非常に大きな力・権力を持ち、偉大な存在であると錯覚することがあります。そうであれば、二枚目であらまほしきことです。

老賢者は理性的な智慧の原理を表し、主人公である英雄を教え導きます。

トリックスターは物語を引っかき回す役目を持ちます。脇役であれば、意地悪で抜け目がなく、いたずら好きの性格を持ちます。たとえばねずみ男。

面白いことに、トリックスターが英雄を兼ねることも少なくありません。例えば西遊記の孫悟空。何しろサルですから、二枚目も何もないでしょう。

まとめ。
こういうステレオタイプ的なものは、人間がそもそも持っているイメージなので、人間観にゆがみが生じるもなにもない。
一方でまた、イメージの組み合わせはある程度自由なので、英雄兼トリックスターの場合には必ずしも二枚目とはならない例がたくさんある。その意味でも人間観にゆがみが生じる心配はないであろう。
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この回答へのお礼

私があまりメディアに詳しくないので、例外をあまり見出せないでいました。そういうのは救われる気がしますね。
そういうところで元型がでてきてしまうということは、あまり、元型も役立たないのではないか?と感じてしまいます。

英雄兼トリックスターの例を知っていればこういう質問はしないですんだかもしれません。

お礼日時:2009/03/14 18:09

確か、西部劇の始まりは、アメリカの開拓を正当化する意図があったんでしたね。


一般的ではないにせよ、全く影響が無いとは言い切れない気がします。結構人の印象っていい加減な部分があるので。

ところで、良い子はマネしないでねというテロップを見て、良い子は最初からマネなんてしないよと思った経験はありませんか。
ちゃんとしてる人なら大丈夫だと思います。
「所詮ただの作り話」ですから。
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この回答へのお礼

よい子はまねするなという言い方は、実は、わるい子に向かっていっているんでしょうね。わるい子でもそれを呼ぶときはよい子。披露宴の秀才使いですかね。
やはり、あまりに典型的パターンは現実認識にゆがみを生じさせるのではないでしょうか。

お礼日時:2009/03/14 18:05

製作側の意見もあると思いますが、そう言うのがあってもいいと思います。


昔の時代劇は今より面白かった。

子ずれ狼とか木枯し文次郎とか影の軍団とか今の時代劇にはないものがあったね。

でも年寄りには、ワンパターンな時代劇の方が好まれるかも。
見ている処が違うんですよね、何か。
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この回答へのお礼

なにか、かげりがあるとか、人間が一刀両断できるわけではない、というロマンチックな構成は、子供心も揺さぶるものがありますね。何で年よりはだめなんでしょうね。

お礼日時:2009/03/14 18:03

劇自身が現実にはあり得ないものを指向していますから、現実と変わらないのだったらむしろ新聞の三面記事の方がよほど面白いのではないでしょうか。

確かにあまりに形式化されると内容が空虚になり非常につまらないものになります。しかしつまらないということは安心して観ていられることも意味します。
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この回答へのお礼

その三面記事の面白さを。あえてドラマ仕立てにしてもいいのではないでしょうか?つまらないより、面白いほうがよくないだろうか?

お礼日時:2009/03/14 18:02

>視聴者はステレオタイプを無批判的に好むものなのでしょうか?



「渡る世間は鬼ばかり」というドラマが流行るように
「あんな人は現実にありえね」というような人が
「これでもか、これでもか」とあこぎの限りをつくすのを
みて喜ぶ人が多いともいえます。

なんでも極端にやったほうが分かりやすい。
虚構の世界では特に安心して見ていられるから。
というのはあると思います。
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この回答へのお礼

極端芝居は、それはそれで迫力と明快さがありますからね。その世界ではそれでいいのでしょうかね。

お礼日時:2009/03/14 18:01

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