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こんばんは。

日本には即身仏になるべく入定した方々がおり、
そのうちの何体かの即身仏は現存していて、お寺などで祀られているようです。

これらの入定した方々は何を持って死んだと認定されたのでしょうか。

即身仏になろうとしたのは56億7000万年後に
弥勒が現れるときにその聖業に参加するためだったと聞いたことがあります。

ということは、入定した人々は不老不死になったと考えられ、死んだとは考えられていないということでしょうか。

A 回答 (4件)

死んだ方の所持品検査ですね。


多分、ご自分の信仰した宗教の経典ですよ。

私の地元の即身仏がそうだったようですから。
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この回答へのお礼

変な質問だったと反省しています。
それにもかかわらず、返事を下さり、ありがとうございます。

宗教の経典を検査することで、即身仏の死が認定されたのですか。

>私の地元の即身仏がそうだったようですから。

山形あたりに即身仏は多いと聞いています。
そのあたりでしょうか?

お礼日時:2009/03/09 17:42

 ご質問は即身仏になられた方の、いわゆる死亡判定の基準ということでしょうか?


 もしそうであるなら私が聞いた話では、手に持った小さな鈴を定期的に鳴らしている間はまだ命があるということで、その鈴の音が途絶えて久しくなれば成仏されたと判断されたと聞いたことがあります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
なんか変な文章で質問かいてしまってすいません(汗)。

>ご質問は即身仏になられた方の、いわゆる死亡判定の基準ということでしょうか?

そういうことです。

>その鈴の音が途絶えて久しくなれば成仏されたと判断されたと聞いたことがあります。

そうでしたね。

一般的に成仏とは「死ぬこと」を意味しています。
辞書を調べてもそう書いてあります。

しかし、仏教用語ではまたちがう意味のようです。
(仏教に詳しくないのでよくわからないのですが)

即身仏となったのち、掘り出されたものが寺院などで祀られています。

これは医学的には遺体ですが、宗教的には信仰の対象?仏?
のはずですので、
そこら辺を昔の人々はどう考えていたのかなあ、と。

また、掘り出して仏として祀ったのち、
即身仏が腐ったり、崩壊するということも湿度の高い日本では当然あったものと思われます。

現代人は即身仏は「もの」であると考えていますから、
「腐った」「崩壊した」ととらえますが

それを信仰の対象として見た場合、
果たして「腐った」「崩壊した」と考えたのだろうか、
即身仏が腐ったり、崩壊した状態はどのように表現したのか、と
疑問に思ったのです。

いや、これは完全に私の質問の仕方が悪かったです。
ごめんなさい。

お礼日時:2009/03/09 17:37

>これらの入定した方々は何を持って死んだと認定されたのでしょうか。



#2の回答が、一般的ですね。
「読経の声」「鈴の音」が聞こえなくなった時点で、この世での生活が完了(死亡)。
入定した僧に対して、昼夜読経を行ないます。
数年後(ミイラ化した頃)掘り出して、供養を行い、即身仏として祭ります。
日本には未だ「多くの即身仏」が地中に埋まっているようです。
各地に「ここ(地下・埋もれた洞窟)に偉い坊さんが修行している」という場所が、多くあります。

>入定した人々は不老不死になったと考えられ、死んだとは考えられていないということでしょうか。

その通りです。
仏教では、魂は肉体が滅びても生きています。
ですから、即身仏には「毎日食事」を運びますよね。
高野山でも、毎朝「空海にに食事を運び」ます。
(家庭の仏壇でも、ご飯・水・お供えなどを毎日運びます)

この回答への補足

>「読経の声」「鈴の音」が聞こえなくなった時点で、この世での生活が完了(死亡)。



これは「死」であると認識されていたのでしょうか。
不老不死になったと考えられていたのなら、
死はありえない?
何か別の言葉で表現されていたのでしょうか?

補足日時:2009/03/09 17:51
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この回答へのお礼

変な質問であるにもかかわらず、回答くださりありがとうございます。

>仏教では、魂は肉体が滅びても生きています。
>ですから、即身仏には「毎日食事」を運びますよね。
>高野山でも、毎朝「空海にに食事を運び」ます。

ということは、即身仏となられて信仰の対象となられた方々も
(即身仏になるというのは間違った解釈であるといったことはさておき)
たとえ、即身仏となったその身が滅んでも、(腐ったり、崩壊したりしても)
生きつづけている、
つまり、不老不死である、と考えてよいのでしょうか。

お礼日時:2009/03/09 17:50

 即身仏は入定信仰の一形態ではありますが、入定と即身仏は同一ではありません。



 また即身成仏思想からと即身仏を混同する人もいますが、これも全く異なるものです。即身成仏は密教における成仏論、つまりこの現世で肉体を餅ながら真理と合一し、体得できるというような理論や修行の体系であって、いわゆる即身仏とは関係ありません。

 入定信仰は肉体的な死を永遠なる瞑想(禅定)に入った姿と見なす考えです。
 弘法大師は入定したという信仰はありますが、弘法大師はミイラには加工されていません。これも即身成仏思想や入定信仰と、即身仏とを混同したことによる誤解でしょう。空海の遺体は荼毘されています。
 入定信仰では遺体を保存することは重要ではありません。また遺体の埋葬を入定したとして行う場合もあります。ここには日本古来の山岳信仰に基づき「死」を忌むところから、死んではいないと考えて埋葬したともされます。

 日本では奈良・平安期などから見られ、そこには自己犠牲ともいえる修行に基づいて行う修行者もいました。
 またその遺体の一部、歯や骨、肉片を聖遺物のように祀る場合もあります。
 しかし現在東北に多く見られる即身仏はあくまでも、入定信仰・即身成仏思想、さらには日本古来からある山岳信仰などの影響を受けて、江戸時代後期に遺体を人口加工したミイラで、入定信仰の形態からすれば新しいものです。
 ミイラそのものを見える形で堂内に祀るというのは、それまでの入定信仰の流れからすれば、極めて異質なものです。
 質問者さんのいわれるように、湿度が高い日本では自然状態でミイラにするのは難しいため、死後、あるいは病没後に煙でいぶすなどの燻製加工して作られました。
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この回答へのお礼

変な質問であったと反省しています。
どうやら、自分の頭の中の整理がきちんとできていなかったようです。
それにもかかわらず、回答いただきまして感謝しています。
ありがとうございます。

>入定信仰は肉体的な死を永遠なる瞑想(禅定)に入った姿と見なす考えです。

医学的には入定して生命活動が終わったときを、死とするのでしょうが
仏教的には入定して生命活動が終わることを「死」であるととらえるのでしょうか。

即身仏というのが謝った解釈であるということは
承知しているのですが、
その謝った解釈をしていた宗派の人々にとっては
即身仏は仏像と同じく信仰の対象であったと思います。

信仰の対象であるので、即身仏は永遠の命を得た、
したがって死んでいない、と解釈していたのだろうか、
と思ったわけです。

仏教的に正しい、正しくないといった議論はさておきまして。

とすると、その祀っていた即身仏が腐ったり崩れたりした場合、
もしかして、その謝った宗派の人々はその時点で「死」と言う言葉を使ったのだろうか。

そうでなければ、即身仏の崩壊をどういった言葉で表現していたのか、
と思ったのです。

ひとまず質問をしめまして、自分の頭の中を整理し、
また改めて質問をたてさせていただきます。

みなさん、ご迷惑をおかけしてすいませんでした。

お礼日時:2009/03/10 12:02

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