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「気に入らない」ようなことを「気に食わない」といいますが、「食わない」(食わぬ)となったのは、どういう経緯なのでしょうか?古文に強い方なら、きっとお分かりかと思いましてお尋ねいたします。

A 回答 (4件)

 


あくまで想定ですが、「気に食わない」というのは、明らかに、「気に食う」の否定形です。現代語では、「気に食う」とは言いません。「気に入る」と言います。

類似表現として、「気に障る」「気に留める」というのが考えられます。まず、これらの意味は、どうしてこういう意味かを、考えます。

「気に障る」というのは、「障る」という自動詞に、「気に」が付いているものです。「障る」とは「差し障りがある・差し支えがある」という意味で、自動詞で、困るような状況です。「気に」とは「気において」だと考えると、「気において、困るような状況」が、「気に障る」ことです。

「気に留める」は、元々は、「気に留まる」だったと思います。この場合、「留まる」は自動詞で、「後に残る・生き残る」というような意味があります。「気において、後に残る」というのは、「気のなかに」、何かが残ってしまうということで、それは、結局、「気に留まる」ことで、また「気に留める」という風に他動詞に転じるのだと思います。

「気に食ふ」は、「食ふ」という古語は、自動詞として、「うっかり信じる、騙される」という意味があります。「気に食ふ」は、従って、「気において、うっかり信じる、騙される」のような意味になります。「気において、うっかり信じる」とは、「ついその気になる」という自動詞だとも言えます。

「ついその気になることがない」は、「気に食わない」という意味になるのではないでしょうか。

これは、「気に+自動詞」という構造で、「気」を使った熟語の形の動詞の意味を、「気」を軸に考えると、こういう風に考えられるということです。実際にそうだったのかどうか、現代語の新語でも、何故、そういう表現か分からないものもあり、確かにそうだとは分かりません。
 
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確かなことがわかりませんので推量になりますが、「気に入る」という言葉の尊敬語である「(お)気に召す」という表現の存在が遠因ではないかと思います。

時代が下ってこの「召す」という言葉に「食べる」というニュアンスが強くなってきたことがこの語を生み出した背景にあるのではないか、という風に私は思っています。

「気に入る」というのはご承知のとおり「心にかなう、満足する」というような意味です。一方その尊敬語である「(お)気に召す」の「召す」という言葉は、もともと“呼び寄せる”とか“呼び寄せて可愛がる”、“身体に取りこむ”という意味の言葉です。
つまり(気に入って)近くに置く、呼ぶ、というニュアンスを持つ尊敬語が「召す」ですから、この語は「気に入る」という言葉の尊敬語としてもともと大変適役だったと思えます。

ただ後代になってくると、「召す」という言葉の意味の重心が変化して、「食べる」とか「身につける」というニュアンスが強まってきます。「気に入って身体に取りこむ」という語感が発展して、「食べる」「着る」といった、より具体的な行動の意味が強化されてきたわけです。
これは推測ですが、そうなってくると当然、「(お)気に召す」という言葉の意味も段々「気に・食べる」というニュアンスで受けとめられるようになってきたのではないでしょうか。お気に召す、という表現を「気に入る」という意味で使いながらも、話者の頭の中に「食べる」という意味がちらちらし始めるわけです。

こういった意味のゆらぎの状態は話者に心理的な負担をもたらします。その解消のためには、「食う」という言葉を取りこんだ新しい語が生まれ、意味の固定化が図られる必要があったのではないでしょうか。
つまり、「気に召す」という言葉にちらつく「食う」の影を「気に食わない」という新しい表現が引き受けることで心理的な抵抗が解決され、同時に双方の言葉の安定化が自然と図られたのではなかろうか、という気がします。

文献でそれぞれの言葉の初出を調べることができれば、多少具体的なことがわかるのでしょうけれど、「気に入る」「お気に召す」「気に食わない」それぞれ、江戸時代の浄瑠璃や歌舞伎などに用例がある、という程度しか残念ながら私にはわかりません。
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【入る】の字義は、内にいれるとありますから、



【入る(いる)】を【口に入る】としますと、【食う】という同義語ですね。

否定する言葉は【入らず(いらず)】は当然、【食わず】となります。

【気に入らない】は【気に食わない】となったのではないでしょうか。
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飽く迄も推測ですが.


氣とは氣分や心持の事でありませう.ですから此れに實體は無いのですが當人からすれば感情とは己の理智とは別物の實體を持つ何者かであります.尤も生理學的に言ふならば自律神經の働きにより體内に變化が起きてゐる事は間違ひ無いので何れにしても此の別物の實體が存在すると感ぜられる事は誰しも經驗する事であります.
扨そこで然うした實體である氣といふものに食ふの食はぬのといふ譯でありますが此れは職人などの仕事を思ひ浮かべれば自づと答へが導かれようかと考へるのですが.
つまり食ふとは職人などの拵へ物が相手に良く咬み合はさるだのしつくりと相手に馴染み弛みや揺るぎを感じさせぬといふ意味なのでは無いでせうか.此れは今日でも素材の食ひつきが良いなどと業種によつては遣はれてゐる言ひ廻しであらうかと思ひますが如何がでせうか.
結論すると氣といふものに相手の言動などが馴染まぬ事を氣に食はぬと言ふ譯であり此れならば案外と半ば無意識に此の言ひ廻しを用ゐる今の我々の實感にも近いと思ふのですが.
はてさて質問者の氣に食ふものか食はぬものかは御慰みではありますが.
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