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工藤平助が著した『赤蝦夷風説考』の献上を受け、田沼意次はロシア交易と蝦夷地開発を検討しました。


田沼は商業資本を中心に、そこの活動からの税金で財政再建をしようとしたと思いますが...


田沼が考えたロシア交易もやはり、商業活動を活発化させることに利益を見出したからでしょうか?
それならば、ロシア交易から納入される税って何でしょうか?



よろしくお願いします

A 回答 (2件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>田沼が考えたロシア交易もやはり、商業活動を活発化させることに利益を見出したからでしょうか?
それならば、ロシア交易から納入される税って何でしょうか?

まず、お答えから先に述べますと、
田沼の目指したのは、幕府独自の取引ではなく、松前藩への課税を増やしました。
一説には、それまで松前藩への課税は10%前後と言われていましたが、『赤蝦夷風説考』の建白書を受けて、40%近くにまで課税を引き上げたと言われています。
対象となったのは、蟹、鮭、昆布、わかめ、アイヌの伝統工芸品の移出に税の負担を多くしました。

(1)江戸時代は「鎖国」(これについては、後述します)時代でしたが、「四口(よつのくち)」と呼ばれる海外との交易を認めていました。
*中国から琉球へ、そして、薩摩藩を通じて幕府への路。
*中国から朝鮮へ、そして、対馬を通じて幕府への路。
*中国やオランダから長崎へ、そして、幕府への路。
*蝦夷地(アイヌ)から松前藩を通じて幕府への路。
が、開かれていました。

(2)どのような国の支配者たちも、自らの権力の「維持」「強化」を目指すものであり、海外との交渉で諸問題が発生するよりも、「閉ざされた社会」の方が「管理」をしやすい。

(3)当時の諸外国と言えども、中国や朝鮮でも同様に「閉ざされた社会」であり、例えば、明にしても、朝貢以外を排除し、中国人の海外渡航を禁止している。

(4)幕府としては、「開国」することにより、日本の諸藩が貿易による「財力」や「兵力」の拡大を強く恐れた。

(5)ただし、こうなると、諸外国の「情勢」が何も見えなくなって、いわゆる、「独裁国家」になるため、幕府権力だけでは日本を「独裁的」に統治する力は、まだ「完全」とは言えず、とは言っても、幕府権力という独裁的立場を確立するために、「布教活動をしない」という約束のもとで、長崎の出島のみでのオランダとの交易を許可した。
そこには、日本の諸藩を介入させず、幕府だけが「富」と「情報」を独占するためであった。
しかし、幕府の力が、まだまだ弱いことを印象付けたのは、寛永14年(1637)10月25日より発生した「島原の乱」では、幕府軍は苦戦をし、オランダに依頼をして、海上から原城への砲撃をさせています。

(6)「鎖国」をする・・・と、言うことは、とりもなおさず、国家の中だけで「自給自足」をすることになるわけですが、秀吉の頃からは、日本国内でも「灌漑」「治水」事業が発達して「新田開発」なども盛んになった、また、「農業技術」や「農機具の発明」などで徳川幕府としては、「国内生産」「国内消費」だけでも統治できる・・・と、考え「鎖国」に踏み切った。

(7)やがて、幕府権力も充実してくると、海外との戦いでも、必ずしも「最新の兵器」だけで勝てるわけもなく、「兵力数」や「食料の補給路」で、さらには、戦国時代としう戦いにおいての「戦略」や「戦闘技術」では、幕府は諸外国に対抗できる・・・と、考えた。
これには、秀吉が朝鮮出兵で「補給路」を絶たれて敗北した経験が、そうした考えとなった。
従って、徳川幕府としては、「鎖国」をすると同時に「海外進出」には一切目を向けていない。
寛永12年(1672)6月25日、幕府評定所の話し合いで酒井忠勝は、
「我々は、他の人の奉仕を受けることができるかぎり、日本の船を国外に渡航させる必要はない」
との諮問を提出している。

(8)幕府は、一気に「鎖国」をしたわけではなく、徐々に発令していった。
*慶長17年(1612)、キリスト教禁止令を出す。
*寛永10年(1633)、奉書船(渡航が許可された船)以外の海外渡航を禁止。
*寛永12年(1635)、日本人の海外渡航と帰国を禁止。
*寛永14年(1637)、島原の乱。
*寛永16年(1639)、ポルトガル船の来航を禁止。
*寛永18年(1641)、オランダ商館を平戸から長崎の出島へ移転。

「鎖国」という言葉について:

(1)ドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルが江戸旅行をして、帰国後に書いた「日本史」(1712刊)の中にある、
「日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、また、此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理」
と、いう一文を、蘭学者である志筑忠雄(しづきただお)が享和元年(1801)「鎖国論」において初めて使用した「造語」である。

(2)しかし、嘉永2年(1849)に成立した「徳川実記」では、寛永12年(1635)の措置を「海禁」と書かれている。

(3)近年、「鎖国」という言葉は、研究者の間でも使われなくなってきており、学校の教科書などでも、山川出版「新日本史」では、本文中には一切「鎖国」という文字は出てきていない。

(4)著者の東大教授藤田覚氏によると、
「幕府は、最初から鎖国を意図したわけではない。その状態が、たまたま200年ほど続いたから『なんとなく鎖国』だった」
と、考えた方が自然ではないか・・・とコメントしている。

あなたのお答になっていたでしょうか。
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基本的に鎖国政策を維持しているので、税収を当てにすることは田沼自身が禁を犯すことは考えられません。

司馬遼太郎氏「ロシアについて 北方の原形」(文春文庫)」に以下の記述があります。日本側では婦人の帯地、僧侶の袈裟になる蝦夷錦が欲しかったのですが、ロシアが売りたかった毛皮の需要はありませんでした。ただし、シベリアで必要であった食糧(米と酒)を千島アイヌを介して交換していたようです。
>ときに田沼意次の執政時代の晩期で、田沼とその側近のあいだでは、なにか語り継がれるような大きな仕事をしたという気分があった。意次という人物は、政治家としてもっとも大切な後世意識をもった男だったことがわかる。
 あるとき、意次の用人が平助を訪ねてきて、

 用心いふ。わが主人(意次)は富にも禄にも官位にも不足なし。この上の願いには、田沼老中の時、仕置きしてる事とて、ながき代に人の為に成事をしおきたき願なり。何わざをしたらよからんか。(平助の長女只野真葛の「むかしばなし」)

 といった。平助は返答としてこの著を書いた。意次に読ませるためだったという。
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