たとえばの話ですが、409光年離れた星から、地球上の人の様子まで見れるほどの超高性能な望遠鏡で関ヶ原を観測したら、あの西暦1600年関ヶ原の戦いを観戦(?)出来るのでしょうか?

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A 回答 (2件)

はい。


しかしその場所に行くまでには409年以上かかりますので、あなたが見ることは不可能です。
今その場所に宇宙人が居たら、偶然見ているかもしれません。
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理屈的には。

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Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮し...続きを読む

Q電波望遠鏡は昼間でも観測できるのでしょうか

電波望遠鏡というのは、光学望遠鏡と違って、昼間でも夜と同じように観測できるのでしょうか。
それとも、やはり観測は夜でないとだめなのでしょうか。

Aベストアンサー

岩手県の高校生です。

岩手県の奥州市に国立天文台の
大型電波望遠鏡があり、昨年の夏にそこで電波天文学について
かなり詳しく学習する機会があったのでそれをもとに回答します。

基本的に電波望遠鏡は昼でも観測できます。
実際に目視することは不可能ですが、昼間でも空には
宇宙が広がっていて天体も存在しているわけです。

実際の観測は赤経赤緯という天球上の座標で
天体の位置を把握し電波望遠鏡を向け観測します。

ですが、電波望遠鏡の観測対象はおもにメーザー天体で、
つまり「電波」を観測しているわけなのですが、昼間の観測だと
夜間に比べて大気中の水蒸気量(つまり湿度)が多いのです。
すると、大気中の水蒸気に邪魔されてしまって、
得られる電波の観測データに雑音が入ってしまいます。
すると観測データの精度が低くなるうえ、測定誤差が大きくなります。

そのため昼間よりは夜間に観測するほうが、制度がいいので
夜間の観測のほうが適しているわけです。
だからと言って昼間に全く観測できないわけではありません!
なぜならば、季節によって昼間にしか天球上にあらわれない天体があり
その天体を観測することもあるからです。

といっても、夜間の観測にも少なからず(いや、かなり)雑音が
入るので観測データの解析(積分)という作業が加わわります、
その分、観測の時間が長ければ長いほど精密な観測結果が得られます。

なかなか奥が深いのです…

ちなみに、僕たちのチームは3日間19時から次の日の午前3~4時までの観測を
したところやぎ座方向に新しいメーザー天体を発見することができました!
とてもうれしかったです!

なので天文学のなかでもなかなか興味深い分野だと思います

長文失礼しました

参考に見てください↓

参考URL:http://www.miz.nao.ac.jp/

岩手県の高校生です。

岩手県の奥州市に国立天文台の
大型電波望遠鏡があり、昨年の夏にそこで電波天文学について
かなり詳しく学習する機会があったのでそれをもとに回答します。

基本的に電波望遠鏡は昼でも観測できます。
実際に目視することは不可能ですが、昼間でも空には
宇宙が広がっていて天体も存在しているわけです。

実際の観測は赤経赤緯という天球上の座標で
天体の位置を把握し電波望遠鏡を向け観測します。

ですが、電波望遠鏡の観測対象はおもにメーザー天体で、
つまり「電波」を観測してい...続きを読む

Q関ヶ原の戦い 手柄一番多かったのは?

関ヶ原で攻めまくってすみません…反省してます

関ヶ原の戦いで最も勲功をあげたのって誰ですか?
やはり17の首級すべてに笹を立てて目印として「笹の才蔵」の異名がある可児長吉でしょうかね?

宮本武蔵も関ヶ原に参戦してたのはびっくりしました☆

Aベストアンサー

石田三成でしょう。
戦前の状況では彼我の戦力差など、どうみても豊臣方有利だったのに、小早川、朽木、脇坂、島津、吉川ら裏切者~傍観者を多数だしたのは石田三成の統率力のなさによるものです。さらに豊臣恩顧の黒田、福島、池田、加藤、蜂須賀らは三成憎しの一念から東軍についたわけですから、家康から見れば三成さまさまです。
かりに豊臣方総大将が三成でなく直江兼続や立花宗茂だったら東軍のボロ負けだし、そもそも三成さえいなければ加藤清正あたりが大阪方の大将になった可能性もあるので、そもそも関ヶ原の戦いが成立しません。
よって東軍勝利の最功労者は石田三成。
あと無能なのに西軍総大将をうけた毛利輝元や、秀頼の出陣を拒否した淀君あたりが第二の功労者ですかね。いずれにせよ西軍側の敗因の大もとを探るならこの辺になりそうです。

Q赤道儀式反射望遠鏡での観測姿勢

こんにちは、いつもお世話になります。
初心的なことかもしれないのですが調べても分かりません。アドバイスをお願いします。

先日、赤道儀式反射望遠鏡を手に入れてなんとか組み立てを終えました。
まだ実際にこの天体望遠鏡で星などの観測はしてはいませんが、日中の明るい時間帯にファインダーの光軸調整の練習や、外の景色の導入練習を行って楽しんでいます。

赤道儀式反射望遠鏡に触れてみて気がついたのですが、自分が見たい複数の対象物の方向や高さに照準を合わせることはできても、それぞれに接眼レンズを覗く姿勢がしゃがんだり、背伸びをしたりの連続で結構忙しいものだということです。

そして、ときどきこの姿勢では長時間の星を追尾しながらの観測は疲れることが予想できてしまうこともあります。
私なりの解決策方法は、鏡筒を固定しているバンドを緩めて楽な姿勢で星を観測できる位置にまで接眼レンズを回転させます。

あまりこの方法は効率的なものではありませんが、反射式天体望遠鏡を扱っているみなさんも私と同じような観測の仕方をしているのでしょうか?。それとも私が間違っているのでしょうか?

分かりにくい文章で申し訳ありませんが、お分かりになる方がいらっしゃいましたら教えてください。
宜しくお願い致します。

こんにちは、いつもお世話になります。
初心的なことかもしれないのですが調べても分かりません。アドバイスをお願いします。

先日、赤道儀式反射望遠鏡を手に入れてなんとか組み立てを終えました。
まだ実際にこの天体望遠鏡で星などの観測はしてはいませんが、日中の明るい時間帯にファインダーの光軸調整の練習や、外の景色の導入練習を行って楽しんでいます。

赤道儀式反射望遠鏡に触れてみて気がついたのですが、自分が見たい複数の対象物の方向や高さに照準を合わせることはできても、それぞれに接眼レン...続きを読む

Aベストアンサー

鏡筒を回転させるのが常識ですね

鏡筒回転装置、あるいは簡略化した鏡筒回転バンド、があるくらいですから

Q関ヶ原の戦い

今学校の宿題で関ヶ原の戦いについて調べているんですがどのサイトも中学生の私には難しく理解できません…なので詳しい方教えてください!!!!!
関ヶ原の戦いの事ですが特に細川夫妻について調べたいと思っているので細川ガラシャの小さい頃の事とかも教えてくださると、とても助かります!!!!!よろしくおねがいします!!!!!m(_ _*)m゛

Aベストアンサー

簡単に言うと、東軍(徳川勢)と西軍(豊臣勢)が戦って、東軍が勝ちました、という事です。

細川忠興は、東軍で勝ちました。
その頃、細川ガラシャは大阪で自害していました

細川ガラシャは、本能寺で織田信長を討った明智光秀の三女で、越前、今の新潟県で生まれました、本名は明智 珠(あけち たま)

15歳の時に細川忠興と結婚しました
24歳になった頃、洗礼をうけてクリスチャンになりました、洗礼名がガラシャ

細川ガラシャと呼ばれるようになるのは、明治時代になってからで、当時ガラシャさんと呼ばれていたわけではありません

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%A3#.E5.BF.A0.E8.88.88.E3.81.AB.E5.AB.81.E3.81.90

Q地球から120億光年離れた星は120億光年前の姿

地球から120億光年離れた星は、地球にその星の状態が届くまで120億光年かかった、ということになって現在の状態でなく120億光年前の状態である、ということになりますか?

Aベストアンサー

 120億年前に恒星から出た光が120億年かかって地球に到達したわけですから、120億年前の恒星の状態が届いたわけで、120億年前の恒星の姿が見えているという事になります。

 逆に言えば、現在の恒星から見ると、地球がある場所から届いた光は120億年前の光ですから、120億年前の地球の姿が見えているわけで、もちろん、120億年前は地球はおろか、太陽も銀河系も無かったわけですから、恒星からは何も見えていない事になります。

 120億年前の宇宙の姿と言うと、現在に比べて宇宙空間の温度が高温だったはずで、放射線密度も高く、空間密度も大きかったはずですが、真空と大差が無いわけで、望遠鏡では見えないわけです。

 120億年前の恒星に惑星があったとしても、宇宙が明るく見えるほど銀河や恒星の密度が高かったはずで、温度が高過ぎて生命が住めるような環境では無かったでしょうね。

Q1600年に関ヶ原の戦いに勝ち、1603年に江戸幕府が成立していますが

1600年に関ヶ原の戦いに勝ち、1603年に江戸幕府が成立していますが、この空白の3年間家康は何をしていたのでしょうか。

Aベストアンサー

>この空白の3年間家康は何をしていたのでしょうか。

関ヶ原の戦いで、既に日本の統治者になりました。
この後、既に戦後処理など「日本統治」を行なっています。
つまり、既に徳川政権が誕生している訳ですね。
1603年は、ただの征夷大将軍に任命・就任した年に過ぎません。

鎌倉幕府・室町幕府も同様で、頼朝・尊氏が征夷大将軍に任命・就任した年が幕府誕生となっていますが、彼らも既に日本統治を行なっています。
ですから、今では「幕府成立=征夷大将軍任命」としない説が有力です。

Q宇宙の果てまでの距離が137億光年でなく470億光年

遠い星の光が地球に到達する間も、空間は膨張しているとすれば
そうだからこそレッドシフトが観測され、果ては137億光年からもっと
とおいことになります。
それが470億光年だそうですが、計算の方法を言葉で
教えてください、簡単に。
よく、果ては137億光年だといわれますが、間違いですね
470億光年です。

Aベストアンサー

最初にビッグバンで生まれた空間にはエネルギー以外物質と呼ばれるものは何もありませんでした。空間の広がる過程の中で温度が下がったことによりクオークが生まれ、さらに温度が下がったのでクオーク同士が結合し原子核が誕生し、分子へと成長したのだとされています。

したがってこの宇宙の誕生は、何も無い空間が出来たのが先で、その膨張の過程で物質が誕生し星たちが生まれてきたのであり、我々は物質の存在をもってその物質がある空間を推し量っているに過ぎません。なぜなら何も無い空間だけを観測する手段など無いからです。昨今、何も無いわけではなくダークエネルギーやダークマターが存在しているらしいといわれていますので、これを観測できる手段が見つかればもっと空間を理解することが出来るかもしれませんね。

Q関ヶ原の戦いで

関ヶ原の戦いで加藤清正や福島正則みたいに石田三成が嫌いで東軍についた人もいますが他に東軍に味方した人は豊臣家を裏切った人達ですか? 徳川家康が勝った結果、豊臣秀頼は知行や領地が減らされたし…

Aベストアンサー

大阪の陣は
ともかく、
・関ヶ原の段階では、東軍に味方した人は豊臣家を裏切った人達
ではない

石田三成大坂退去後の
豊臣政権から、上杉討伐を命じられて徳川家康を総大将に、諸将が集ったのが
東軍。

東軍出撃後に、石田三成が、毛利家を総大将にかついで、
徳川討伐を叫んで、組織したのが、西軍。

つまり、豊臣政権内の内紛であり、
公文書では、豊臣秀頼は西軍の大将ではない。

この結果豊臣家乗っ取りを図った悪党石田は処刑、
悪巧みに加担した毛利家は、御家断絶のところ、忠臣吉川の嘆願で
減封ということになっている。

・豊臣秀頼は知行や領地が減らされたし…

これは、豊臣家のために功績を上げた東軍諸将に
家康の斡旋で、秀頼が所領を分け与えたということに、されている。

関ヶ原の段階では、
家康以下東軍諸将は、秀頼のために戦い、大坂城をとりもどした忠臣
なのである。ほとんどの東軍諸将、家康さえ表面上は豊臣秀頼のために
戦ったのである。

※大坂の陣までの十年間に、なし崩し的に
豊臣家と徳川家の立場が逆転し、
大坂の陣では、大名が一人も豊臣家のもとに参戦しないという情けないことに
なるが・・・

大阪の陣は
ともかく、
・関ヶ原の段階では、東軍に味方した人は豊臣家を裏切った人達
ではない

石田三成大坂退去後の
豊臣政権から、上杉討伐を命じられて徳川家康を総大将に、諸将が集ったのが
東軍。

東軍出撃後に、石田三成が、毛利家を総大将にかついで、
徳川討伐を叫んで、組織したのが、西軍。

つまり、豊臣政権内の内紛であり、
公文書では、豊臣秀頼は西軍の大将ではない。

この結果豊臣家乗っ取りを図った悪党石田は処刑、
悪巧みに加担した毛利家は、御家断絶のところ、忠臣吉川の嘆願で
減封とい...続きを読む

Q1光年って何年のことですか? 130億光年=130億年でいいですか?

1光年って何年のことですか? 130億光年=130億年でいいですか?

Aベストアンサー

光が1年間に進む距離を言います。
30万キロが光が1秒間に進む距離ですから

30万キロx60秒x60分x24時間x365日

これを計算してください。


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