天使と悪魔選手権

”全人類が滅んでも善は行われるべきだ。”という言葉は誰の言葉でどのような文献・文脈の中で語られたものでしょうか。
それがどのような文脈の中で語られたとしてもこの言葉は、我々が日ごろ生活の信条としていること(人を思いやることが大切などなど)を全面的に否定する可能性を秘めた言葉であることは間違いないように思います。

地球環境の保全のための二酸化炭素排出規制技術にまい進しているエンジニアとて、その行為が否定される側面があると言っているわけですよね。人の気持ちがわかるひとになりましょうというスローガンなども。

それが善に照らしてどうなのかという点検を受ける必要があり、どのような行為でも否定される可能性があるということですね。

どのように考えるのでしょうか。

A 回答 (14件中1~10件)

>運が関与しない人生はありえない



 たとえば、 嫌い、もしくは「仮に」絶対悪ともいうべき人間と同じクラスになったとして、それが自分のために必ずしもマイナスになるわけでもない、対処の仕方によっては逆に自分および社会にとってもプラスになるとも考えられるわけです。そういう意味では、運が関与する人生などどう考えてもありえない 結局、自分自身の「こうでなければならない」などといった都合 を考えなければ 運 という概念は生じません。したがって、やはり傲慢であるからこそ の考え方でしょう。


>これはまさに哲学の言葉です。

 そうですか、自分は哲学のみによって ではなく、実際の経験と、それから生じた感情、気づき等によって導き出した(出た)考えだったのですが。先人たちも 哲学 だけで考え出したのではないでしょう。

>”対立はいけない、和を大切にしなければいけない、みんなハキハキ、イキイキ、元気でいなければならない”の大合唱です。

 確かに 平和や肉体生命の維持存続、人類に限らず会社組織等の維持存続の名の元に 和を大切に 自然を大切に 人の気持ちを考えましょう の大合唱ですね。これはやはりリクツが先走っているからでしょう。
 で、それはなぜかといえば、具体的な歴史的背景があるからです。

>私は人はわがままを言ってもいいと思います。

 いえ、単なるわがままだったら、それを抑えて自分の気づきの糧としたほうがよいですね、 そのわがままが、間違った認識、主張に基づくものであるケースもあるので。

 人は自己主張しないでいれば自然と気づきやインスピレーションがやってきます。自分のために、認識力を高めるために 黙って理解する のが先です。そのためにも、対立し、理論でもって黙らせるのはよいことです。

 対立嫌い には理由があります
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この回答へのお礼

本当に長い間お付き合い頂き有難うございました。
ここでお開きとしたいと思います。

始めに”こうありたい”と言う望みがあるから、その基準に応じて運・不運という概念が生じるのである。だから始めに「こうであらねばならない」というような傲慢な希望が無かったら思いがけず生じる出来事ひとつひとつに対して事後にプラスになるように振舞うことによって運・不運が消えるという考え方が出てくることはわかります。”生まれたくなかったかもしれないけれどもどうせ生まれちゃったんだから、あとは楽しく生きようと”という台詞でしょうか。しかし、それはひとが”よく生きる”ということになるかどうか検討する必要があるように思います。いろんな考え方があるわけですが、今の日本では”みんなで楽しく生きる”ことが良いことだとする考え方が楽しく生きられない人(何でも疑ってしまう人)を圧倒する構図が見えます。その逆はほぼ無いと言えそう。いずれにせよ、程度ものだと思いますが日本はみんな一緒主義が強すぎます。ここまで徹底しているのは全世界的に見てもかなりレアなケースではないでしょうか。

「歴史的背景」は我々に何をしろ、と言っているのでしょうか。当初質問に戻りますが、全人類が滅んでも(人類の歴史が灰じんに帰しても)、善が行われるべきだと主張しているのです。

お礼日時:2009/07/08 00:07

>「運」についての見解が回答者さまと異なっていることが分かりました。



 そうですか、私が書いた文章を真に理解することができればそれは単なる 見解の違い ではなく、認識力の違いだ と解ると思うのですが...

>私の見解はどこまでいっても人間は運に翻弄される存在であろうということです。

 そうですか、いままでの体験を思い返しても、運に翻弄されたと 実感 したことはなかったのですが、そうではないと 考える 人間もいるということですね。まあ、頭で考えると 見解 として「運」という概念が生じるのかもしれないですね。

>世界が容認し難いほどにペシミスティックであり、絶望的であり、虚無的であるということになるとしてもです。

 無智である上に、気取って構えている が故に、行動が伴わず、結果として厭世的な気分に浸るならそれもまた人生でしょう。

>一方で哲学というどうしようもない泥沼に陥って抜けられなくなった人もまた居るようです。なにもかもが疑いの対象になるということ、すなわちなにもかもが否定されてしまう可能性の内にあることに気づいて先に進めなくなった人たちです(結構才能も必要らしいですが)。

 才能と言うよりも、真の無智と傲慢さ が必要なのだと思います。

>そのような哲学に陥った人に向かって「そんなところに居ないで早く帰ってこい」とか救助隊を派遣するというようなことはやる必要はないでしょう。

 自分が直面した問題については、 自分と、自分が導き出した理念を守るためにも 態度だけは示さねばなりません。黙って、引きこもっているならほっとけばよいと思いますが、わがままを主張し始め、無智という悪を振りまき始めるなら、黙っているわけにもいきません。

>しかし、そのことによって発生するトラブルを全部自分で引き受けるとしたら傾聴に値するものだと思います。

 全部 つまり100%自分で引き受けたのが イエス ですね。
自分が引き受けるパーセンテージを100に限りなく近くしていくのが人間の生きる意味であると言えるでしょう。

 しかし、もし100%全てを 一人で 引き受けるなら、イエスのように弾劾され、磔にされ、また同じ歴史を繰り返すでしょう。
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この回答へのお礼

有難うございます。そろそろお開きかなと思いますが。
やはりどう検討し直してみても運が関与しない人生はありえないですね。

1つミスリードしてしまったことがあり、”しまった”と思っています。哲学においては思考と行動の乖離は無意味であり、悪であるとさえされております。一瞬たりとも乖離することは悪であり、そのため我々の行為は常に悪である、すなわち悪を成さずしては何事をも成しえないとさえいっております。(カント哲学らしいです。勉強中) 考えてばかりで行動しない人を哲学は好まないようです。

>自分が直面した問題については、 自分と、自分が導き出した理念を守るためにも 態度だけは示さねばなりません。黙って、引きこもっているならほっとけばよいと思いますが、わがままを主張し始め、無智という悪を振りまき始めるなら、黙っているわけにもいきません。

これはまさに哲学の言葉です。黙ってはいけないのです。対話・対立が”正確”に表明される環境の醸成こそ哲学が目指す方向のはずです。正しく対立し、正しく傷つくことです。世の中を見回して下さい。”対立はいけない、和を大切にしなければいけない、みんなハキハキ、イキイキ、元気でいなければならない”の大合唱です。

私は人はわがままを言ってもいいと思います。言われていやなら”それはわがままだと思うから容認できない”と自分の感性を使ってきっちり反論すればいいのです。そのとき大事なことは社会がそれを許さないからとか、君のためを思ってなどと言ってはいけない。ウソが混じるし焦点がぼやけてくるからです。
モンスターペアレントの要求にも学校の先生が毅然と”その件についてはお受けできません”と断ればよいと思います。この世の中(教育委員会)、対立ぎらいだから社会がそれを止めているのです。

お礼日時:2009/07/05 00:56

失礼しました。

質問者様は非常に深い意味で質問されてるのですね。
ネットは文字だけのコミュニケーションですし、人間は何か不愉快なことがあると厳しい意見になりがちですので、(もしかしたら、質問者様は何かでストレスがたまっているのではないか?などと考えてしまい)ちょっとピントはずれの回答をしてしまいました。申し訳ございません。

>肯定してしまうとどんな恐ろしいことを容認したことになるのかということは見なければならないと思っています。
>善と社会的に推奨されている行為とで両者は独立であると言っているわけです。
そういう意味でおっしゃっているのなら、大賛成です。
そもそも、いわゆる「道徳」というのは国によってもTPOによっても変わるものですから、「善」というのも難しいですよね。
私としましては「善」という言葉は人によって違ったりしますので、例えば「自然」というような言葉をできるだけ使うようにしております。
人間は集団で生きるタイプの動物ですから、人間の自然の本能に従うようにすると、結局は社会的にも善いとされる行動になりやすいように思われます(とはいえ、質問者様のおっしゃる通り、「社会的」「反社会的」のどちらともイコールではないと思います)。質問者様のおっしゃる「個人の感性」というのも、人間の本来もっている自然の働きとつながっているのではないかと思います。
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その言葉の由来は知りません。

すみません。

ところで、かなり昔の話(オゾン層破壊などが騒がれてたとき)で、環境問題に関する仕事をしている人に話しを聞いたことがあります。
「環境破壊はいろいろなものがある。しかし、他の環境破壊はせいぜい人類が滅びる程度の影響ですむものが多いのだが、オゾン層が破壊されると(海の中はともかく)地上の生き物すべてに壊滅的な打撃を与える。だから、オゾン層破壊だけは止めなければいけないのだ」そうです。
まあ、そういう考え方の方もいるということです。

ただ、質問者様の問題意識は、そういう話によって
>どのような行為でも否定される可能性があるということですね
の方でしょうか。
これは難問で、確かにその可能性はある、とも思わないではありません。
CO2増加で地球温暖化が発生するからといって「じゃあ、石油を使うのはやめましょう」という話にはなりませんね。原子力発電所でも、その維持運用に石油は使われてますし。
ただ、これは万国共通の認識かどうかははなはだ疑問です。それに従わなければいけないという法則があるわけではありません。

本当に難問なのは、この言葉に質問者様が反発を覚えていらっしゃるご様子だというところだと思います。正しい解答が何か、ということより、質問者様の怒り(?)の由来がどこにあるのかの方が解決すべき問題のような気がします。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
”その言葉の由来は知りません。すみません。”
その言葉とは、冒頭の”全人類が滅んでも善は行われるべきだ”ということですね。
”反発を覚えていらっしゃるご様子だというところだと思います”ということですが、私自身は日本人の平均よりもかなり肯定側に位置すると思っています。しかし、肯定してしまうとどんな恐ろしいことを容認したことになるのかということは見なければならないと思っています。

この”善”の中身ですが、我々は何も考えずに社会に容認された様々な行為(エコカー減税とか、カーボンニュートラルとか何とか)の推進ということとは無関係に、個人の感性に基づいたものだろうと思っています。社会に容認された(あるいは推奨される)行為は簡単に言うと、子孫の繁栄と種の存続というようなことにつながることですが、”善”によってそのことが否定される可能性があると見ています。すなわち一般的に反社会的行為を容認せざるを得ない道筋ができてしまいます。
善が行われるためには化石燃料をジャンジャン燃やしてCO2をさらに大量に出す必要があるとなったら、それが地球の温暖化を招き、人類の滅亡につながろうとも実行しなければならないということになります。
しかし、当然ですが善=反社会行為と言っているわけではありません。善と社会的に推奨されている行為とで両者は独立であると言っているわけです。だから善を推進する方向が場合によっては反社会的である可能性が否定できないという図式です。

お礼日時:2009/07/01 00:50

>”人類が滅亡しても全てが残る”ということですが「人類の滅亡」どころか、自分の「死」とともに世界が終わると見なすことはできないでしょうか。

だから当然、滅亡した後には何も残らないと見なす考え方ですね。

 確かにそう思いますが、では人類が滅亡したら自分も必ず死ぬのですか?人類が滅亡しても、自分にその気がなければ世界はもちろん続くと考えられます。また、例え肉体の死を経験し、それまで知っていた世界が死んだとしても、新たな世界が生まれる と思います。
 もし、肉体の死=精神の死 であると主張するなら、そう主張すればよいだけの話です。

>”どういったいきさつがあったとしても、自分が見て、聞いた事象でなければ 認識が歪むと思います.”
なるほど。しかし、哲学という学問は「死」を見つめるということを除いては語ることができません。

 哲学と 死 というのは別に密接に関係があるものでもなく、死を考えなければそれは哲学ではないと言う論理はどのように生まれるのでしょうか?存在そのものについて考えるのが哲学ではないですか、それに死が含まれるかどうかはまだ、別の問題です。

 ここは哲学のページですが、それが何か?別に私は哲学をしているわけでも、哲学を肯定しているわけでもありません。悟性を働かせる、観想をおこなうレベルにはまだ達していませんか。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E8%A …

>”哲学的によい”と”社会的によい”、ということは95%一致して5%ぐらい異なるかも知れません。5%の違いをこの日本社会はけして許容しません。ドラ猫が興奮して毛が逆立つように忌み嫌うでしょう。哲学はそういう可能性があるものだと思っています。(%値は、例えばの話です。)

 伝聞何割かで出した結論で話されても返答に困りますね。しかもそのパーセンテージを勝手に決められたら答えようがないですね。

>”どちらか一方に偏っても”と言われますが、同一軸上に置いた場合、引っ張り合いが生じるということから偏りを排除する意見が出るわけですが、もともと次元が異っており同一軸上にはないと思います。だから偏りの対象ですらないと思います。

 次元が異なっているわけがありませんね、道理 で考えれば解るはずです。社会がなければ哲学をする土台も人も存在することが出来ません。また、観想を始めとする思索活動がなければ世界は存在できません。

>学校のクラス分けは運以外の何があるでしょうか。

 学校のクラス分けをした時点では、運も何もまだ発生していません。

 そのクラス分けをしたことで、良かった とか 悪かった とか評価判断する人間がいることで初めて運という概念が生じます。で、それは結論を言ってしまえば 運 とはまったく関係のないことです。

 たとえば、ある人に対して良い人 と思ったり嫌な人 と思ったところで、それは人間の嗜好、あるいは もっと言えば 『人間のできの良し悪し』の問題です。

>だから哲学はちっとも人間を豊かにしないし、没落し、不幸を呼び込みます。そうしろと先哲は言っているとのことです。(←また伝聞。でもちょっとした哲学解説書にはどこにでも載っていると思いますが。)

 そう、哲学は行動できない人が好む、役立たずであるどころか本人にとっても不幸を呼び込む、学問とも呼べないような学問です。

 とにかく、ある人間が考えてばかりいて、実行したり行動できないのは、そいつが 傲慢で、気取って構えていて、しょーもない人間でたいしたこともないのに、どこかで「自分は特別だ」と確信している(本人にその自覚はない)のが原因でしょう、あるいは恐れが多いのも 性格の 「偏り」 があるといっても別に何ら問題はありません。

 偏り と言う言葉が 適切ではない とかヘリクツを言う人がいるかもしれませんが。
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この回答へのお礼

いつも有難うございます。

「運」についての見解が回答者さまと異なっていることが分かりました。私の見解はどこまでいっても人間は運に翻弄される存在であろうということです。こう言ってしまうと、世界が容認し難いほどにペシミスティックであり、絶望的であり、虚無的であるということになるとしてもです。

> そう、哲学は行動できない人が好む、役立たずであるどころか本人にとっても不幸を呼び込む、学問とも呼べないような学問です。

これは回答者様の感性において発言された言葉として尊重したいと思います。一方で哲学というどうしようもない泥沼に陥って抜けられなくなった人もまた居るようです。なにもかもが疑いの対象になるということ、すなわちなにもかもが否定されてしまう可能性の内にあることに気づいて先に進めなくなった人たちです(結構才能も必要らしいですが)。

そのような哲学に陥った人に向かって「そんなところに居ないで早く帰ってこい」とか救助隊を派遣するというようなことはやる必要はないでしょう。考えたい人に「考えるな」というのは有る意味暴力的です。逆の意味におけて不健康ですね。そういう意味で不登校・引きこもりの人がある一定数いるというのはその社会がある程度健全だからだと思います。この世界がNHKの朝ドラのようだったら私は耐えられないだろうと思います。

”とにかく、ある人間が考えてばかりいて、実行したり行動できないのは、そいつが...”
しかし、そのことによって発生するトラブルを全部自分で引き受けるとしたら傾聴に値するものだと思います。

お礼日時:2009/07/01 01:23

 それでは今現在人類は何によって存在させれられ、存在することが出来ているのですか.



 人類が滅んでも、すべてが残ります.もともとそこにあった全てになんの影響があるのでしょうか.

>私自身が今、疑問に感じていることのその発端は書物によるものであり、私のオリジナルではありませんが、その著者が考えている疑問がまた私をも捉えたという事実は確固としたものです。

 例えばある人が自分の 嘘の体験を他者に話し、聞いた人がそれに共感して何らかの感情を持ったとして、それは嘘の話に基づいた、嘘の感情、共感と言うことになり、真実とはかけ離れたものになります.

 どういったいきさつがあったとしても、自分が見て、聞いた事象でなければ 認識が歪むと思います.

 自分が ビクともしません と言ったのは、伝聞何割かで物事を考えたり判断したりすれば、それは何処まで言っても自分のものとはならず、逆に自分の実体験から出た結論であれば、他者の意見思惑に動じることはないから 伝聞7割 で考えたりしても意味ありませんよ と言うことです.

 >人間関係は相当「運」が作用するのではないでしょうか。

 これは自分の体験から実感したのですか、それとも伝聞何割かの情報を元に出した 結論ですか?

 結論を言ってしまえば、今の時代の人間は、法律やモラルや道徳、常識という手かせ足かせがあるが故に、思考と行動 のバランスが取れていない、だから物事がわからない のです.

 どちらか一方に偏っても 道理 は解らないでしょう.
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この回答へのお礼

お付き合い頂き、有難うございます。おかげさまで大変充実しております。
”人類が滅亡しても全てが残る”ということですが「人類の滅亡」どころか、自分の「死」とともに世界が終わると見なすことはできないでしょうか。だから当然、滅亡した後には何も残らないと見なす考え方ですね。

”どういったいきさつがあったとしても、自分が見て、聞いた事象でなければ 認識が歪むと思います.”
なるほど。しかし、哲学という学問は「死」を見つめるということを除いては語ることができません。死んでみたこともなく、死人から話を聞いたことがなくてもです。ここは哲学のページですね。

”哲学的によい”と”社会的によい”、ということは95%一致して5%ぐらい異なるかも知れません。5%の違いをこの日本社会はけして許容しません。ドラ猫が興奮して毛が逆立つように忌み嫌うでしょう。哲学はそういう可能性があるものだと思っています。(%値は、例えばの話です。)
”どちらか一方に偏っても”と言われますが、同一軸上に置いた場合、引っ張り合いが生じるということから偏りを排除する意見が出るわけですが、もともと次元が異っており同一軸上にはないと思います。だから偏りの対象ですらないと思います。

>人間関係は相当「運」が作用するのではないでしょうか。
 これは自分の体験から実感したのですか、それとも伝聞何割かの情報を元に出した 結論ですか?
哲学解説本に書いてあることから触発されて自分で思いついたものということです。人間関係と言うのは努力もあるでしょう。しかし、運が全く含まれないことはないということは容易に納得(体感といえるほどに)できると思います。学校のクラス分けは運以外の何があるでしょうか。生涯の友とめぐり合いすばらしい人間関係を持ったとしても運が混入します。自分を貶めた憎いライバルも何かのめぐり合わせも運です。哲学は数多くの学問の中で最も近似を嫌う学問だと思います。1%でも運が混入したら哲学的にはアウトであり、真理に近づくことはできないでしょう。そういう意味での運です。

だから哲学はちっとも人間を豊かにしないし、没落し、不幸を呼び込みます。そうしろと先哲は言っているとのことです。(←また伝聞。でもちょっとした哲学解説書にはどこにでも載っていると思いますが。)
 

お礼日時:2009/06/26 17:15

>全人類が滅んでしまうわけですので、その次に善を行う主体はもはやこの世には居りません。



 いえ、居ります.

>我々が持っている常識
>でも多くの人は、CO2の排出規制について疑問を差し挟む余地はないと考えているでしょう。

 自分が直面している問題でなく、実感もしていない、いわば二次情報とも言うべきもので以って考えたりするのは欺瞞です.

>これらは私のオリジナルの考えというより、伝聞7割というところです。

 ここまで私が書いた思想は100%私のオリジナル、つまり自分が直面してきた人間関係から導き出された理念であり、よって他者からなんと言われようとビクともしません.
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
”いえ、居ります”とのことですが、全人類が滅んだ後にだれが居るのでしょうか。

私自身が今、疑問に感じていることのその発端は書物によるものであり、私のオリジナルではありませんが、その著者が考えている疑問がまた私をも捉えたという事実は確固としたものです。

またまた伝聞7割ですが。「欺瞞」という言葉に触発されて。
”我々は生まれたいと願わないのに生まれさせられ、死にたくないのに死ななければならない。世界は何と無残なものか。なのに学校の先生は生きる希望だとか、みんなの未来は希望に満ちているだとか軽々しく言う、それこそが本当の欺瞞だ。”というような主張が展開されていきます。私は全面的に賛成しているのではなく、本当にそうなのか考えてみたいと思っているのです。”人生には意味がある”、逆に”人生は無意味だ”というとき、誰でも易々と前者のように生きる希望を口にし、後者を口にするのは憚られる(相当考え込まないと出ない)というのは何となくは分かります。

”ビクともしません。”とのことですが、私は回答者さんを揺さぶっているわけではありません。ただ単に私の疑問を提示しているに過ぎません。対話しているのです。
”人間関係によって導きだされた理念”とのことですが、人間関係は相当「運」が作用するのではないでしょうか。とするとそこから真理が抽出されるということはありうるのでしょうか。不幸な人間関係だったら人間を真理に向かわせると思いますが、幸福な人間関係は真理から目をそらすのではないでしょうか。不幸な人間関係は人間関係を遮断させ、その分、何かを考えるという意味において真理に近づくと思います。

お礼日時:2009/06/24 17:07

 人間の存在や、会社組織などを「維持存続」させるのが第一目的になってしまうと、本末転倒です。



 いくら存続させたところで、肝心の真善美が損なわれては、意味がないですね。

 たとえば、不正をはたらく会社組織があったとします。「維持存続させるのが第一目的だ」と主張して、そこの社長や従業員が開き直ったり、不正を隠すことは許されません。
 不正を働くぐらいだったら、その会社はつぶれたほうが良いのです。

 人間の存在も同じことです。

 「全人類が滅んでも善は行われるべき」という言葉は、そういう意味で正しいのです。
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この回答へのお礼

回答、有難うございました。

ご指摘の点は要約すると、
「反社会的行為・不正・不法行為を行った企業(人)は淘汰されるべきだ」ということですね。つまり「その企業(人)が滅んでも正義がなされるべきだ」という主張かと思います。私はこの点にはもともとの主張との間に違和感を覚えます。「全人類が滅んでも善は行われるべき」だったら、善が行われそしてその結果、全人類が滅んでしまうわけですので、その次に善を行う主体はもはやこの世には居りません。それでもよいという主張です。回答に書かれている内容はその企業(人)が滅んでもその後、何か(善・悪・その他)を成す主体がゴマンと居ることなります。

カント哲学はいわゆる反社会的行為について興味がなく、社会的に正しいという言われている行為に対して悪への道を見出すということのようです。ですから有難いことに、全人類を滅ぼしてもよいほどの善はそう簡単には存在しないと思われます。もしそのような善があれば、全人類が滅んでも(そんなことが無かったらなおのこと)実行されるべきだという主張になると思います。そのとき、我々が持っている常識(地球環境問題のためのCO2排出規制とか、少子高齢化対策とか)と決定的に対立する局面が全くないとは言えないわけですね。でも多くの人は、CO2の排出規制について疑問を差し挟む余地はないと考えているでしょう。
以上です。これらは私のオリジナルの考えというより、伝聞7割というところです。

お礼日時:2009/06/13 18:58

「正義はなされよ、世界が滅ぶとも」


『永遠平和のために/啓蒙とは何か』カント、中山元訳 光文社古典新訳文庫のp234に、「正義はなされよ」と言う見出しで、この格言について、書かれていますね。
ここの註には、他のご回答者様のご指摘通り、ドイツ皇帝フェルディナンド一世の言葉として説明があります。

さて、このご質問は、一般的に、カントの形式主義に対する、つまり、シラーでしたか、個人の感情より義務を強調する行き過ぎ、形式主義に対する批判として、多くの議論を呼んだ問題ですね。

ところが、ご質問者様としては、これらの文脈を外して、この格言の解釈について検討してみたいと言う意図なのでしょうか。

残念ながら、これは実は、大変難しいことなのです。例えば仮にカントに関する文脈を排除しても、冒頭の格言を理解するためには、私たち自身の経験とか記憶とか、そうした文脈にそって、この格言を理解するしか方法がないのです。すこし、小難しいことを書いてしまいますと、例えば「正義・善」と言った言葉は、確かに「正義」と言う概念を指示していますが、それと同時に、「正義」と言う概念以外のものを否定することによって成り立っています。つまり、言葉は他の言葉との関係全体の中で意味を確かなものとするわけです。

具体的に話してみます。
A ”全人類が滅んでも善は行われるべきだ。”
B (人を思いやることが大切などなど)
このご質問者様の、A→Bへの移行の間には、ご質問者様の主観的経験・記憶が媒介して、A→Bの推論・類推・思考と言ったものが行われた結果です。ところで、私が冒頭の文章「正義はなされよ、世界が滅ぶとも」と言う言葉を、カントの文脈をできる限り排除して、推論・類推・思考を試みれば、ご質問者様のように、Bを全面否定しているという結論ではなく、「正義」に対して、最大級の修飾語を充てて、「正義」を賛美している、それ以上でもそれ以下でもない事だろう・・・

>それが善に照らしてどうなのかという点検を受ける必要があり、どのような行為でも否定される可能性があるということですね。

それでは、結論です。

「正義はなされよ、世界が滅ぶとも」
この言葉が否定していることは、>どのような行為でも、ではなく、主観的・経験的な思考に基づく行為である、と。むろん、すべての行為が、主観的・経験的な思考に基づくわけではないとの仮定の上での話しですが。
「正義」と言う、客観的・普遍的事実だけを賛美しよう、なぜなら、主観的・経験的な思考は、常に誤りの可能性もあり、同時に、他者の主観的・経験的な思考と対立することもある、私の主観的「正義・善」が、他者の主観的「正義・善」と、同時に成り立ってしまっては、それを調整するためには、外部の第三者が必要になる、しかし、外部の第三者もこれまた主観的であるならば、さらにそのまた外部の・・・堂々巡り。

このような、堂々巡りに陥らないためにも、「正義」は最大限の賛美を与えるに値する、と。

蛇足ですが、
現在では、この、客観的・普遍的正義を探すために、真昼に懐中電灯を使って探しているようですが。なかなか見つけられないようです。そこで、欠陥品の正義を弄くり回して、何とか格好をつけているようですが、探すまでもなく、ほころびがそこかしこで、丸見えですね。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。だいぶ時間が経過して申し訳ありません。

この問題は本当はご指摘の通りカント哲学の文脈と関係しています。カント哲学というからには「三批判」のいずれかでも触れた経験がないとナンセンスでしょうから、敢えて”カント”という言葉は避けておりました。私はカントについて理解も知識も素養もありません。ですので”カント”を言う資格がないと思っていました。ただ、カント哲学の初級的な解説書を見て自分自身思うところがあり、質問しています。

ご指摘の点で私の理解と異なる点がありました。それは個人の主観・経験的な思考と社会常識とか社会的正義の両者を比較した場合、どちらがどうだと言えるものではないけれども、現代は圧倒的に後者(社会)が上位であるとのコンセンサスに基づいていると了解できると思います。しかし哲学的にはどちらも同程度に正しい、あるいは同程度に悪であると言えるのではないか。とすると、先のコンセンサスやその増長は行き過ぎであり、それが是正される可能性を否定してはならないのではないかとの結論に至るように思います。私の考えが間違っているかな?と思案しながら書いています。

お礼日時:2009/06/13 21:18

No.4です。

たびたびすみません。

 リンクがうまく貼れなかったので。

http://en.wikipedia.org/wiki/Fiat_iustitia,_et_p …
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