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先日、梅原猛氏の「哲学者は誰にでも分かる語り口を心がけねばなるまい」という旨の言葉が耳に入りました。ならばなぜ、哲学は誰にもは分からない言葉で表されてしまうのでしょうか。
学問とは生かされてこそ。難解な言葉の山を登り切れた者だけがその教示を得る、という姿勢が得るメリットは果たしてその弊害よりも大きいのでしょうか。

この問いは西田哲学に出会い、いつしか哲学を自家薬籠中のものにすることだけを目標にしてきた自分への戒めでもあります。厳しい御意見をよろしくお願いいたします。

A 回答 (18件中1~10件)

『この質問に対する回答は誰にでもわかるような哲学で言うことがこの場合は正答だと思わないかい。

』とソクラテスが言いそう。
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『この質問に対する回答は誰にでもわかるような哲学で言うことがこの場合正答はだと思うよ。

』とソクラテスは言うだろう。
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だらだらと具体例を列挙させていられないからです。

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西田幾多郎の哲学書は本当に難しい言葉と表現が多いと感じますが


西田幾多郎の哲学の教科書は違うようにおもいます
よまれたらどうでしょうか
「哲学概論」西田幾多郎著 岩波書店
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 なぜ哲学が難解か?
 難解な用語を振りまわすことが知性だと勘違いしている
 ことが大きな原因です。
 もうひとつ、西洋の科学に大幅に遅れを取っていた
 日本では西洋の思想を宗教哲学、美学、文学などの
 分野でもすべてごっそり何の脈絡もなく輸入しました。
 その後遺症が今に至るまで続いていることも原因の
 ひとつにあります。
 たとえばキェルケゴール。
 彼自身は「(有限な価値のみを幸福の源泉に置いているならば)人間は絶望せざるをえない」という仕組みを
 説き、その絶望から抜け出せる可能性を
 無限者である「神」と人間が一体であり →
 したがって、救済が予定されている ということを
 言明したに過ぎません。
 それがデンマーク語 → (おそらく)ドイツ語 
 → 英語 → 日本語 と伝言ゲームを経る間に
 意味不明の文章になってきたのです。
 
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追伸の参考程度まで


西田哲学は難解ですが、西田先生が真理を理解されていなかったというわけではありません。西田先生が示される真理が一般の人々の常識にあてはまらないという場合もありますね。常識という知識を一度白紙に戻して考えるということも必要ですね。例えば存在という概念は常識的には1個体を考えますが、「存在は一であり、同時に多である。」と先生にいわれれば難解な言葉と考え思考しますね。しかし、それが真実を表す真理だと考えると別の見方が出来るということですね。これは生徒の理解の程度の問題になりますね。例えば指は5本ありそれぞれ独立に動きますね。だから個体は5といえば、いや手として個体は1であるといいますね。つまり「存在は一であり、同時に多である。」という真理が正しいということですね。同じく、花にしても花は1と考えますが花びらは複数あり
独立している、でも花としては1という概念ですね。全ての存在がこの真理にあてはまるのならば人間も複数の存在が正しい認識ですね。目に見える固体は1であるが精神世界には他の複数の独立の存在がある。だから同時に複数の場所に存在できるという存在観が出てきますね。これは目に見えない世界を肯定することであり唯物論的な哲学では到底理解されないことですね。哲学はそのような領域抜きには理解できないところはありますね。理解は出来ないが先生の真理が正しいことを信じるといえば哲学が宗教になるのですね。つまり哲学も宗教も突き詰めると差はないのですね。だから仏教は宗教ですが仏教哲学として学問になっていますね。でも仏陀の得た真理を信じるという姿勢が
ないと仏教哲学はただただ難解な言葉遊びになりさがってしまうということですね。
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このご質問の答えになるかどうかは分かりませんが、


私が哲学に対して常日頃感じていることを
この場をお借りして述べてみたいと思います。
どうかお許し下さい。

哲学とは人間の存在に対して、つまり、人生に対して
の根本的な疑問を究明することが第一義的な目的だと
思うのですが、そこで、1つ、クリスチャンである小生
にはいつも考えることがあります。

それは、
1.人間は自分の意志で産まれてきた人はいない
ということです。誰一人としていないということです。
つまり、
2.「自分の為に産まれてきた」と言える人は一人も
いないと言うことです。これは間違いないでしょ?
つまり、ということは・・・
3.「私は自分の為だけに生きる」・・・という時、
それは明らかに間違っているということが分かります。

すなわち、人間は、自分以外の誰かの為に産まれてきたか
、さもなければ、単なる偶然に産まれてきたかのいずれか
でしかないのです!!! 2つに1つです。

これ以外にはないのです。絶対にありません。

だから、もし、人間が偶然に産まれてきたのなら、
最初から「存在目的」自体がないのですから、
本源的に「存在価値」があるはずがない。
故に、人間の尊厳性や産まれながらにもっている人権
とやらは、ナンセンスなのですね。
性善も性悪も無い。「価値」がないんだから・・・
善とか悪とか言う「価値観」自体があるはずもないです・・・

だから、「善の研究」なんて止めなさいというんですね。
分かるはずがない!! 元来存在価値が無いものに
本当の意味での善も悪も無いのです。
これを否定できますか?

ですから、人間が単なる偶然に産まれてきた
と信じている人に、真剣に哲学をする意味があるのかな~
と思ってしまうんですよね。哲学をする資格が無いとか
権利が無いなんて決っして言ってませんよ。
「意味」があるのかな~とただ言っているんですよね。

しかし、もし、神様に何らかの願いがあって、
すなわち創造目的があって人間が創造されたのなら、
人間には、立派な存在目的があり、存在価値がある
わけです。すくなくとも、神様の願いに生きるとき、
その人は善であり、100%存在価値を発揮している
と言えます。神様がそれをお認めになるでしょうから・・・
創造目的=存在目的=存在価値=善です。

ですから、神様が原因的存在で、人間は結果的存在です。
結果的存在である人間をいくら調べても、人間が
なぜ存在しているかは分かるはずがないですね。
原因的存在に意識を向けないとね・・・

だから、哲学では人類は救われないと思います。
哲学では、結果的存在である人間だけを探求するからです。

哲学論争が高じて、戦争になったなんて話は聞きませんが、
宗教戦争は歴史上常にあります。
宗教は人間の生き方そのものであり、
それだけ、真剣であり人間の価値を決定する重要な
価値観だからではないでしょうか?

だから、私は哲学は学問の域を超えられないと思うのです。

ところで、神様がいないということを証明することが出来ますか?
出来ませんよね。
だから、神を否定する唯物論者は、神様がいないと
専ら信じているわけです。彼らも実は信仰者なのです。
ですから、共産主義は宗教だと言うのですね。
つまり、人間は、誰しも何かを信じて生きているのです。
皆、誰もが意識しようがしまいが「信仰者」なのです。

しかし、創造主なる神様が、もし、人間をご自身の子供
として創造されたとするのなら、つまり、愛する対象
を必要とされて、お作りなられたとするのなら、
その人間が親なる神様を信じるとか信じないとか
言っていることに対して、果たして神様は心地よいでしょうか・・・?

要するに、神様は我々が信じるか信じないかではなく
いらっしゃるかいらっしゃらないかのどちらかなのです。
2つに1つです。それ以外に無い。絶対に無い。
信じる信じないの前に、いるかいないかです。
これは、我々にとって深刻な選択なのです・・・。

だから、私たちは今こそ、自分の人生に責任を持つ
べき必要があるのではないでしょうか?

自由意志を幸か不幸か与えられている以上、
誰しも皆「責任」が伴うのです。

すなわち、神様を信じないで自分の幸福のみを
追求する人生を行くのか?または、
神様を信じて神様の人間創造の願いに生きようとする人生を
行くのか?です。2つに1つです。
それ以外にはありません。絶対にありません。
しかし、神様はきっと干渉なされないでしょう。
人間に責任というものをお与えになられたのならね・・・

どうですか?
哲学ではここまで結論を導き出すことはできないでしょう?
全て、論理的に話したつもりです。
宗教的なお話でも、ここまで論理的に話せるのですね。
だから、哲学はいずれ宗教に昇華されなければならない
と私は思っています。

それでは、今日この辺で失礼します。

乱筆・乱文お許し下さい。
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確かに多くの哲学本や哲学系掲示板に投稿される文章は難解な語彙・言い回しが多いです。


恐らく哲学の偉い先生たちや哲学系掲示板の投稿者は、
自分は難しい文章が書けるんだとか、
一般人にはわかんない難しいことまで知っているんだ、
頭の悪いヤツにはとうてい理解できないでしょ!?
とかって威張ったり自慢したり見せびらかしたりするための「権威付けの文章」を書いて悦に入ってるんじゃないか、という印象を受けてしまいます。

伝えたいことが同じなら、わざわざ難解な言い回しをする必要はないし、
「いかに噛み砕けるか」ってのも“才能”でしょう。
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参考程度に



真理はいつも簡単なものの中にあります。その簡単な真理を100万の言葉で修飾しようともその簡単さを一言で言い表せないのならその修飾語はなんの意味をも持ちません。言い換えるならば真理に到達した哲学者であれば簡単な言葉で言えるでしょうし、そうでなければ修飾語の山にさまよえる者でしかありえません。たとえばピカソの絵を哲学的にあらわそうとすると山のような修飾語が必要だけれども、科学的に10個のカメラを被写体の周りに置き同時に写した絵を合成したものというならば誰にでもピカソのすごさが理解できそうですね。そのように真の哲学者は平易な言葉で語るものです。だから「難解な言葉の山を登り切れた者だけがその教示を得る」そういうことはありません。難解な言葉の山を上ってもそこにはさらに難解な言葉の山が連なっているだけです。そのように思います。
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言葉一般の性質として、ある集団の中では、言葉は集団のコンセンサスを前提として、省略されたり、創出されたり、変質したりして専門化してゆきます。


女子高生の言葉をオヂサン達が理解できないことと、哲学者の専門用語を一般人が理解できないことに、質的な差はありません。
つまり平易な言葉で語れないのは哲学だからという問題ではありません。

しかし、哲学は、哲学なんだから、女子高生の言葉と同じであってはならない。
梅原氏の言葉は、そういう、誇り高い戒言であると思えます。
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