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先日、梅原猛氏の「哲学者は誰にでも分かる語り口を心がけねばなるまい」という旨の言葉が耳に入りました。ならばなぜ、哲学は誰にもは分からない言葉で表されてしまうのでしょうか。
学問とは生かされてこそ。難解な言葉の山を登り切れた者だけがその教示を得る、という姿勢が得るメリットは果たしてその弊害よりも大きいのでしょうか。

この問いは西田哲学に出会い、いつしか哲学を自家薬籠中のものにすることだけを目標にしてきた自分への戒めでもあります。厳しい御意見をよろしくお願いいたします。

A 回答 (18件中11~18件)

哲学者が使う言葉の中には, 科学で用いられる言葉を誤って使われていることが多いようです。


(アラン・ソーカル, ジャン・ブリクモン著,「知の欺瞞」,岩波書店)http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000056 …

特に,ポストモダニズムと呼ばれる哲学は, 数学用語で満ちています。しかし,そのほとんどは濫用,誤用の類であるため読者を混乱させているようです。

梅原さんの指摘は,仏教の経典のように,分からないから有り難い,ご利益があるという一種の信仰をやめなさい,と言うことだと思います。

哲学を宗教にしないためにも, 梅原さんのような態度は, 哲学者としての必須のことかもしれません。

参考URL:http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/koikeryu …
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「哲学者は誰にでも分かる語り口を心がけねばなるまい」。


いい言葉ですね。


場違いな回答になるかもしれませんが、単純に
「哲学がゴハンのタネになっている人」
「哲学“通”でありたい人」
たちによる、権威づけのためとも考えられませんか?
これは、哲学にかぎったことではないと思います。

特殊な言葉や言い回しは、コミュニティを他と差別化させて、
閉じたシステムをつくるためによく使われますよね。

たとえば女子高生コトバ。
社会人や子どもたちが聞いても、まったく理解できません。
しかもマスコミが取りあげる頃には、当事者はその言葉を捨てて、
ほかの新しい言葉を使い始めています。
ヨソ者が理解してしまっては、意味がないからです。

同様のことは、いわゆる学術用語にもある程度は当てはまるかと。
学問がだれにでも理解されてしまっては、
「学者」「通人」というブランドの値打ちが下がるからではないでしょうか。
明治時代までの書き物が、話し言葉ではなく、おもに文語体で記されていたのも、
読み書きの能力が支配階級や知識人の“特権”だったからです。


難解な言葉で相手に説明するのは、
いわば山でスコップだけを与えて、知恵の宝石を探させるようなもの。
じつは、それほどむずかしいことではありません。
一方、やさしい言葉で正確に説明するには、
実際に自分で知恵の宝石を掘り当て、
それを磨き上げて他人に見せるだけの技術と知識が必要です。

ご紹介していただいた梅原猛氏の言葉は、
哲学に対する真摯な姿勢への励ましと、
権威を借りただけの生兵法への警告、
両方の意味を含んでいるのではないでしょうか。
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こんにちは。


私はこのカテが好きで時たま登場させていただきますが、実は全く哲学を知りません。
勉強したら面白いかとも思いますが、人の意見に左右され、それをあたかも自分の考えのように発言するようにはなりたくないとも思っているので、たぶん今後も哲学には足を踏み入れないと思います。そうじゃなくとも生きているだけで人は色々な事柄に影響を受けて成長していきますから。
でも私はこのカテでいつも自分の言葉で持論を話させてもらっています。
私は哲学とは考える事そのものであり、学ぶものではないと思っていますから、それで正しいと思っているのです。
逆にこのカテで私も質問をしたこともありますが、皆さんの自身の哲学をお聞きしたいのにも関わらず、著名な哲学者の言葉を引用するだけの人が多いのがすこしガッカリです。もちろん、そのような回答を望んでいる方に対しては有益な回答ですが。
ですから、少々難しい話になるとついていけないどころか、何を言っているのか分かりません。勿論これは自分の不勉強故の結果なので仕方ありませんが、いわば哲学の世界はパロディの世界に等しく、その元が分かる者同士で成立している学問なのか?と思います。(これも私の持論です)
自分の言葉を用いで他人に説く事のある私でさえ、きっと、「また訳の分からない面倒な事を言う屁理屈野郎め」などと思われていることでしょう。
誰にでも分かる言葉でないことが結果、哲学を敷居の高いものにしているとも思います。
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私は西田哲学どころか哲学をかじったともいえない若造です。


そしてfreud-winnicott様がどのような方か殆どわかりませんが、、、。

『難解な言葉の山を登りきれた者だけが教示を得る』
というところが気になってしまいました。

難解な山の上が気持ち良いのは当たり前のことだと思うのです。
「教示を得る」というのも一般感覚からみると宗教的に聞こえます、多分、、。
宗教における悟り的恍惚。に近いモノ。あるいは数学的快感。に近い。いや、宗教や数学が間違ってるとかじゃなくて、、((;´д`)難しいな、、。)

哲学も他の学問も、いつでもソコに落ちる可能性があるとおもいました。
もちろん、学問にとって、気持ちが良いと感じることは「大きなヒント」かもしれないですし、正しいと確信があったからこそ気持ちイイんでしょうけど。

ちょっと的外れで低次元なことを書いてしまったかもしれません。
だとしたらすいませんでした。

あと、分りにくかったらすいません。
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上田閑照の『西田幾多郎とは誰か』など読んで、西田幾多郎に興味は感じつつも、未だ一次文献は読んでいないものです。



まず、西田幾多郎の文章は、小林秀雄をして「奇怪にしてグロテスク」とまで言わしめた文章である、とされています。
西田はいたずらに難解な文章を書いたのか。

『善の研究』、これは刊行は1911年ですが、おそらく日本の論文の中で、はじめて口語文で書かれたものだとされています。1900年代始めには、小学校の教科書などで口語文が採用されるなど、さまざまな分野において、徐々に言文一致体は普及していったのですが、論文などは未だ文語体で書かれていました。
西田の文章は、二葉亭四迷が言文一致体で書かれた小説を試みたように、自分の思想を盛る器として、口語文による論文を模索したその産物なのです。口語文そのものが、未だ発展段階にあった当時のことですから、それがどれほど困難なことであったか。今日の口語文を読み慣れた人間からみれば、いたずらに難解に思える西田の文章も、西田の苦闘のあとにほかならないのです。
そうしたことを考えると、質問者さんが引用されている
>「哲学者は誰にでも分かる語り口を心がけねばなるまい」
というのも、西田自身の問題意識としてあったのではないか、と思います。

ただ、その上で、自分が西田に未だ手をつけかねているのは、おそらくいま読んでもわからないだろうなぁ、と思っているからにほかなりません。

哲学を学ぶということは、哲学史を学ぶことでもあるのです。
上田閑照の本からの孫引きになりますが、西田自身、このように言っています。
「しかし偉大の思想の淵源となった人の書を読むといっても、例えばプラトンさえ読めばそれでよいという如き考には同意することはできない。ただ一つの思想を知るということは、思想というものを知らないというに同じい。特にそういう思想がどういう歴史的地盤において生じ、如何なる意義を有するかを知り置く必要があると思う」(『西田幾多郎とは誰か』岩波現代文庫)

哲学史を学ぶというのは、結局はどういうことかというと、言葉の勉強なんです。

たとえば、#2の方が、「悟性」という言葉を例にあげていらっしゃいますが、確かに悟性という言葉は、普段、私たちが使う言葉ではありません。
けれども、思想の文脈で「悟性」と出てきたら、あ、これはカントのことを言っているのだな、とすぐにわかります。
言葉の勉強をしていれば、カント自身が定義づけた「質や量やものごとの因果関係が理解できる人間の思考の形式」ということなんだ、と、逆に理解しやすいわけです。
また「悟性」といったとき、カントが対比させた感性、理性という言葉との対立関係もあきらかになってくる。こうしたカントの思想が、西洋近代哲学のどのような流れの中ででてきたのか、歴史の中で言葉の意味を理解していると、テキスト全体の理解が助けられるわけです。

『善の研究』の中で重要なタームとされる純粋経験という言葉にしても、あるいは主観と客観という概念にしても、ともに西洋哲学の歴史の中から生まれた概念です。
ですから、やはり通史を読んでおくと、ずいぶん理解の助けになるのではないか、と思います。

加えて『善の研究』が書かれたのは、彼の禅の体験が大きな動機となっていることから、禅に対する理解がまず前提となっていくのではないか。
個人的にはそう思っています。

再度上田閑照の本を引きます。
「そもそも禅と哲学との間には、それぞれの核心において、二途を歩むことを不可能にするほどのギャップがあります。……西田自身に即して見れば、禅と哲学の二途を歩むというのではなく、むしろ禅と哲学の間の根本的なギャップに身を投じたということだったと思います。何故か。……西田は東洋と西洋の両方に住んでいました。……したがって、西田が東洋と西洋とに住んでいるということは、両方への分裂の危険と苦悩を引き受けながら、その分裂に引き裂かれる裂け目を場所としていたわけです。そして東洋と西洋とがそれぞれの独自性を生かしつつ一つの世界であり得る統合的な世界原理と、そのような世界で生きる新しいあり方とを探求するのが、西田の課題となっていきます」(p.141-142)

西田が引き受けようとしたこの課題は、十分に今日的意義を持つものではないか。
自分自身そう感じつつ、いつか西田自身の書物を読める日がくるのを心待ちにしています。
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私は大学で倫理学、心理学、哲学を学びました。


ですが、倫理学、心理学は主席でしたが哲学は単位を取得しませんでした。
『哲学は講義で学ぶものではない』これが私の哲学だったからです。
以降日々人生哲学を学ぶ紫蘭です。相変わらず自身の人生はまだまだCランク以下ですがね…

物事の本質を知ると実世界に存在しているそれは実はその模倣であり、事実でないことのほうが多いんです。
例えば『円』…『二次元上にある一点から等距離の点の集合』ですが
実際に描かれた円には絶対に誤差があるわけです。
それを『円』と周りが呼ぶが、実世界上の円は円では無いわけです。これが#1の(1)似て非なる物ですね。

『円』でいいじゃん!メンドクサイなぁと言うレベルが『平易でない!』と言う異論を問うレベルかと思います。
『二次元上にある一点から等距離の点の集合』
これは解りにくい言葉ではありますが『誰にでも分かる語り口を心がけねばなるまい』には反していないでしょう。
二次元…平面であり、例えばある点を決めてそこから5cmを計って点をたくさん打てば円になりますね。
但し、『点』は『位置のみあり面積なきもの』ですから上のような図を書いた途端、目に見える形になり嘘になるんです。

『点』…『位置のみあり面積なきもの』
『円』…『二次元上にある一点から等距離の点の集合』
本質を厳密に言えば右のようになり『平易で言えるわけが無い』コレがどうしても当たり前になるでしょう。
ですが、これを『点』『円』とすると、多くの人間は本質に触れていない可視的なそれをイメージする以上
平易な言葉を用いてはいけないでしょう。
より簡素化しいい加減にそれが当たり前であるように捉えるのが日常であり哲学とは逆を行きますので平易にはどうしてもなりません。

そして『哲学者は誰にでも分かる語り口を心がけねばなるまい』これは
よく解らない言葉で説明しても学問としては意味が無いということです。
『位置のみあり面積なきもの』『二次元上にある一点から等距離の点の集合』
さすがに幼稚園児には理解できなくとも、ある程度のレベルに達した人ならば理解できますよね?
それが、『難解な言葉の山を登り切れた者だけがその教示を得る』と言う言葉で語られたと言う事です。
但し、混沌とした中に真実がありますから、言葉で表してしまうとどうしてもズレが生じ嘘になります。
おそらくこれが『西田哲学』等と表すのでしょう。

『哲学とは?』をもう少し突き詰めた方が良いかと思います。
実に正しい事を言っていてもそれは『一つの哲学』…その『西田哲学』にしがみついていては『哲学』から反れていきます。
『西田哲学の模倣』これでは哲学ではなく単に一つの解釈との精神的融合にしか過ぎないのではないでしょうか?
これを誰にでもわかる言葉にするならば
『格好良い人の真似をしているうちは、絶対に格好良くならない』と言う事です。
格好良い一個人を真似る行為が愚考であるのは『物まね』ですしこの場合に特化した例を挙げると
『林家こぶ平が格好付けるとみんなに叩かれる』でしかない。
さまざまな人間の哲学に触れ、哲学の本質を是非自ら作り上げてください。
『格好良い人』を色々な側面から触れ、自らに正しく取り込めば『格好良い人』になれますよね?
『○○を目指すべく、○○的な事を列挙し、ただそれを取り込むのでは○○にならない』と言う事かと思います。
『○○を目指すべく、○○的な事を列挙し、必要であるものと不要なものを選り分けて、必要であるものを取り込めば○○に近づける。』
私はそう思います。
ですから、哲学の答えは己の中に完成すると私は考えます。
他に答えを求めたり、『お勧めはありませんか』と言うレベルでは
おそらく『列挙し、ただそれを取り込む』と言う愚考をするでしょう。それが不愉快。
『○○はどういう解釈をすればいいですか?』も同様に不愉快。
ですから、下民には難しく理解できない言葉となって現れる。
でもそこに異論を唱えたのが『西田哲学』では?と思います。
当然己のみでは偏りますから他の哲学を正しく取り込むべく有意義な時間を過ごせました。ありがとうございました。
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日本の場合、翻訳の問題があります。


西洋哲学は、明治になってから急にやってきました。
とりあえず当時の学者が翻訳をする必要があったわけですが、
そのとき漢語を使ってやたらと専門用語を作り出しました。

当時の学者は苦労をされたのだとは思いますが、
その弊害はまだ続いています。
たとえば私の経験でも、以前「悟性」という言葉に引っかかって
いろいろ調べたのですが、なかなか理解できませんでした。
ところが、英語でいうと、
"understanding"
これを見て一発でわかりました。

もうちょっとわかりやすい言葉に置き換えればいいのでしょうが、
学者の間ではなかなか変えられないでしょう。

ヨーロッパでは哲学の用語は、日本よりはわかりやすいのだと思います。
ある本で見たエピソードですが、
日本人が酔っぱらったときに、
ドイツの下宿のおばさんに「理性的であれ」と言われた。
「下宿のおばさんまでカントのように『理性』なんて言葉を使う。
さすがドイツは哲学の国だ」
と感心したところ、実はそうではなくて、
「理性Vernunftというのは『分別をつけなさい』というような意味の、普通の言葉。
カントの言葉をおばちゃんが使ったのではなくて、
おばちゃんが使っている言葉をカントが使ったのだ」
のだそうです。
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哲学で使われる言葉は、それぞれ具体例を挙げれば


多くの人たちが日常で経験していることや、
部分的には漠然と感じていることです。

 しかし、それが難しい言葉になってしまうのは、
1)日常の言葉にほぼ近い言葉はあるが、完全に
 一致する言葉がない。

 例えば、クッキーしか知らない西洋の人に
日本のおせんべいをどう表現すればいいでしょうか?
ジャパニーズ・クッキーと言えはほぼ伝わると思い
ますが、正確ではない。
 もし哲学者の会話に中に、おせんべいという
言葉が出てくると、西洋の人にとっては、
聞いたことのない、難解な単語となるでしょう。


2)現象としては多くの人が知っているにもかかわらず、
 認識されていなかったことを表現することが
 あるため。

 現代では、物が下に落ちるのは重力呼ばれる
引力が働いているからだと多くの人が認識して
いますが、15、16世紀あたりまでは
物が落ちるという現象をみんな知っていながら
重力という認識がありませんでした。
 これは記録に残る限り、古代ギリシャから
続いていたもので、物が落ちるのは、それぞれの
性質によるもので、重力と言った、物とは別に
存在する理由があるとは考えられていなかった
のです。
 物理学者アイザック・ニュートンは、リンゴが
木から落ちるのを見て、重力を★発見したと
言われていますが、多分現代の認識で考えると
落下というどこでも見られる現象を、わざわざ
発見と表現するを理解できないと思います。
これは、落下という現象を多くの人が見て
いたにもかかわらず、そこに重力という力が
あるということに気づいていなかたためで、
ニュートンはそれに気づき、初めて名前を
つけたため、重力の発見者と考えられて
いるのです。
 重力という考え方、今では一般化している
と思いますが、如何に大胆な考えであったかを
示す事実としては、同時代の哲学者、ルネ・デカルト
でさえ、ニュートンの重力とい考え方に否定的で
あったことが挙げられます。
 重力、遠心力という言葉は、ニュートンが
初めて使った言葉であり、当時としては
新しい概念であり、一般の人には理解しがたい
哲学用語、哲学の言葉だったのです。
 しかし、哲学の言葉が一般の人には
絶対理解できないような特殊なものでは
ないことは、この重力、遠心力という言葉
の普及で理解できるでしょう。
 また当時も、もしニュートンに丁寧に
説明を受けた人がいれば理解できたはずです。

 とまー、以上のような理由だと思います。

 つまり平易な言葉説明できないわけでは
ないが、それでは説明がくどくなるので、
以上のような理由で生じた専門用語が
いちいち前置きなしで使われることが、哲学書が
難解とされる理由です。

>学問とは生かされてこそ。難解な言葉の山を登り切れた者だけがその教示を得る、という姿勢が得るメリットは果たしてその弊害よりも大きいのでしょうか。

 専門家により議論がつくされ、考えがまとまった
ところで、一般に広げていくのが啓蒙活動
です。
 特に勉強した人だけが分かっていれば
いいというものではありません。

「難解な言葉の山を登り切れた者だけがその教示を得る」
というような考えはいろいろなところにありますが、
そのような考えのままでは必ず問題になります。
 高校までで、微分や積分といった17世紀あたりまで
の数学を学びますが、数学者や経済学者になるわけでも
ない人までが、なぜこんなことをやるのか多くの人が
疑問に思っているでしょう。
 しかし、これはかつて数学が一部の人だけ分かって
いればいいと考えられていた時代に、それを理解できない
政治家によって多くの数学書が焼かれたり、キリスト
教徒から悪魔の呪文と言われ、数学者が迫害を
受けたというような歴史から人類が学んだ
教訓です。
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