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多義的な言葉だと思いますが、日常会話ではどのような意味で使われることが多いと思われますか?

A 回答 (11件中1~10件)

日常的な現象を表面的に感じるのと異なり、


物事を本質的に把握して原理的に探求したり、
広く宇宙全体に及ぶ世界観を洞察したりする、
学究的な営為において、生き物→生物学、
化合物→化学、星→天文学といった特定の
対象に対する“分科”学が独立した残りの、
世界像や存在論といった幅広い対象の思索
だと言えます。
(かつて、科学の実験施設や観察器具が未熟
で考察が主な手段であった時代(中世以前)、
哲学が科学を兼ねていた)

転じて、現代では人々はお金や出世といった
“馬車馬の目の前のニンジン”により操られる
歯車となっており、固有の世界観や価値観を
要さない中で、“不必要に”意味を思索する
事を「哲学的」と言う場合がある。
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この回答へのお礼

「哲学的」という言葉は余りいい意味では使われないようですね。むかしは麻雀やってて、勝つための哲学論議を交わしたものですが。
ご回答いただきまことにありがとうございました。

お礼日時:2012/05/16 12:48

>「哲学的」は、日常会話ではどのような意味で使われるか


よほど特殊な場合でない限り、「あなたの言っていることの意味がわからない」or「あなたの価値観に同意できない」。
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この回答へのお礼

個人的に誉め言葉として使うことが多いのかと思いましたがそうでもないようですね。
お忙しいのにご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2012/05/16 12:24

NO.6 です。


>家族の団欒の場では哲学的という言葉は出てこないですね。

「哲学」という言葉を発した時点でその空間は日常を超えるわけですから、理論的にはありえないということです。もちろん、それをギャグにして場を盛り上げるという手はありますが、そういうことをおっしゃっておられるわけでもないのでしょう。


>生の頃なんかに、よく友達同士での雑談が、ふと人生哲学みたいな議論になったりすることがありますが、そうなるともはやそれは日常会話とは呼ばない、ということでしょうか。

デカンショ節は昨今はやらないと聞きました。一般学生のあいだではむしろAKB48と合コンする話題が優先するのでは。

哲学科の教師、学生の間では「哲学的」という語彙は日常会話になると思います。
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この回答へのお礼

なるほど日常を超えてしまうんですね。
たいへん貴重なお話をありがとうございました。

お礼日時:2012/05/16 12:26

訂正です。



哲学は「死の演習」をするでした。
http://www.geocities.jp/tamachan_03/sokrates03.h …なども参考に。

生きていくうえで何が味方であってくれたか、
それは戦うべき敵なのか、
戦うべきではなくても意味があるのではないか。
敵がいないことには何をどうしていいのか解れなかったり。

私見で哲学的、とは既知の体験や知識から異なった認識を得ること。
「よくよく知ってはいたが、気づいてなかったこと」
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この回答へのお礼

私の経験では哲学の話をしているときには「哲学的ですね」という言葉は出てこないように思います。何でもない取るに足りない話題にもかかわらず、何か本質的なものが見えたときなんかに、思わず「哲学的」という言葉が出てくるような気がします。
どうも貴重なお話をありがとうございました。

お礼日時:2012/05/16 12:36

哲学は別名「死の演繹(えんえき)」といいます。


なので日常的に「死の可能性」について語りませんね。

充実した人生や自分は良い人間だろうか?という問いが頭によぎっても
死は忌み嫌われ避けられてしまうのでしょうから。
※哲学の話は状況を弁えないと変人扱いされます!

一般的に哲学は理念とか信条、思い込みの意味で使われています。
しかし哲学は物事を固定しようとする学問や規則とは一線を引いています。
なぜなら死を避け、疑いようのない生き方など未可能であるから。

理想の最期、残していく人への想い、願い。
究極は自由意志によって人生の損得勘定(感情)を合致させていくためのもの。
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日常的には、哲学的=厭な奴ッちゅうことじゃないでしょうか。

この回答への補足

日常的にここのカテゴリーを使っている人への皮肉みたいですね。

補足日時:2012/05/11 02:34
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この回答へのお礼

大変貴重なお話をありがとうございました。

お礼日時:2012/05/16 12:38

日常会話は、形而下の物事の情報交換がほとんどなので


「哲学的」という言葉はほとんど使われないと言っていいと思います。
「今日のおかず、何にする?」
「昨日はカレーだったから、今日はオムライスがいいね。」
というような会話の中では、”哲学的”という語彙は入る余地がありません。
昨夜のTVで観た映画の感想を聞かれた場合など
「そうね、なんだかむづかしい哲学的な内容だったわ」
という使い方がありますが、これって日常会話でしょうか。
この場合の「哲学的」とは、何らかの深い思想がそのドラマで主張されていたと感じられたときにその思想についていわれるのではないでしょうか。
他人の批判で
「あいつは、よく哲学的なことをいう」
という場合、多くは褒め言葉ではなく、ちょっと会話の筋を外して概念的な、相手がついていけないような、わかりにくい方向へ持っていく人間のことをいうことがあります。

よほど年齢の近い、親しい間柄でなければ、日本人は政治的な話も、哲学的な会話もしないのがふつうです。サロン文化が未発達な日本社会の特徴かもしれません。

「哲学的」と私が会話で使う場合の例として、科学の話題にしろ、社会や政治の話題にしろ、現実を見据えつつ、さらに上位の価値観を考えながら話題を進めていく姿勢のことを「その考え方って、哲学的だね」ということがあるかもしれません。

この回答への補足

確かに、家族の団欒の場では哲学的という言葉は出てこないですね。学生の頃なんかに、よく友達同士での雑談が、ふと人生哲学みたいな議論になったりすることがありますが、そうなるともはやそれは日常会話とは呼ばない、ということでしょうか。日常会話という言葉も多義的ですね。

補足日時:2012/05/11 02:30
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この回答へのお礼

たいへん貴重なお話をありがとうございました。

お礼日時:2012/05/16 12:39

いわゆる哲学的問いでしょう。

つまり
「私はどうしてここにいるのか?」
「どうしてこの仕事をしているのか?」
「なぜこの選択を選んだのか?」

つまり、理由が明確でない結果に対して哲学的に問うことが生じます。
何処に生まれて、gooで問うとはどういうことか?のように。

日常的に「哲学的」が多用されることはまずありません。
日本においては、当たり前で誰もが口を挟む余地がないことに
舌鋒をくわえることを「哲学的」というかもしれません。

「お客様は神様か?」など。
つまり、来訪した客に対して、どのような態度でも決まり切った応対をするべきか?や。
日本的に、人の為にサービスをして人の為を思って事業を起こし、それで経済を拡大化させること。

要するに
「求めに応ずるが故に何もかも相手方の要望に受け答え続けること事態」。(日本ではあたりまえに良いこととされていても)
それが「本当にいいことなのかよ?」と疑義を呈して議論すること。
日本ではそういう「当たり前なこと」につっこみを入れることが哲学でしょう。
グローバルになれば、自らに問うことも多くなりますから必然的に多くなりますよ哲学的な問いは。
井の中の蛙は、大海について考えなくていいですから・・・。

井の中に入ったらこっちにあわせろ!じゃすまなくなります。
もう哲学が必須になります・・・。
先延ばしにしても嫌でも日本もやられますので、
しっかり勉強しましょう。
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この回答へのお礼

そうですね、新興国に負けないよう若い人たちには是非がんばってもらいたいものです。
たいへん貴重なお話をありがとうございました。

お礼日時:2012/05/16 12:53

反論できない新しい考え方や物の見方を悔し紛れに表現するのに使われているように思います。

つまりほとんどの場合悪い意味を持っていると思います。次に来るのは無視だろうと思います。
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この回答へのお礼

昔は誉め言葉として多用していたのですが、最近は事情が変わったのですね。
たいへん貴重な情報をありがとうございました。

お礼日時:2012/05/16 12:56

1の追記として、それを持って対象の姿を思考させ真理を捉える

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