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知性と知性とのぶつかり合いを経なければいけない。のではないか?

質問者からの補足コメント

  • №7つづき

    ★ しかし、これらはすべて観念論的嗜眠状態に抵抗すべきという考
    えの下で導かれるものであり、観念論的嗜眠状態をある哲学において
    生じる当然の状態と考え、とりわけ問題視しないならばこの限りでは
    ありません。
    ☆ どうもこの議論は 実存思想のアンガージュマン(コミットメン
    ト)が有るか無いかの問題に 行き着くように思われます。

    約束を履行するならそれは 現実的であるように 情況の中でその動
    きにコミットするなら 観念が先行するのではなく 取りあえずにで
    も 嗜眠状態を脱する。

    ★ これは現在の私の哲学に対する在り方であり、いつかきっと、い
    ちいち不確実な観念を信じなくてよい科学的事実を全体で掲げること
    が私の自分に対する理想です。
    ☆ それはそうでしょうね。つまり 世界事実と対応する世界認識が
    得られているならば 観念の想像世界にとどまっていることもなくな
    りますから。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/06/08 13:45
  • №20つづき

    けっきょく 或る一人の人間の主観に発して 思想ないし哲学が生まれ
    ます。

    ほかの人たちの別の主観体系を押しのけて 一定の主観内容が共同化さ
    れます。

    共同主観(コモンセンス)。これが その時代その社会にとって基本的
    な思潮を形成します。

    どこまでそれが真理であるかは 誰も分かりません。


    でも コモンセンスを信念として 思想として固まるのは 嗜眠状態に
    落ち入りがちです。

    そして 理念をかかげる信念の場合には――理念がまちがいではないだ
    けに―― その信念で固まってしまうような傾向があるように見られま
    す。

    細かいことかも分かりませんが これが あんがい目立ちます。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/06/09 16:54

A 回答 (27件中1~10件)

近代の物理学では、ポテンシャルエネルギーとキネティックエネルギーがあって、この二つをあわせたものが保存していると考えます。



キネティック、カイネティックのエネルギーは運動エネルギーで、質量と速度の自乗との積で表します。見えているそのままをとらえてそれを計算できるようにみえます。

ポテンシャルエネルギーはなにか保存されてあるエネルギーの総和を想定して、運動エネルギーの値を引いたものと考えるのでしょうか。

エネルギー保存則を言い出したのは、マイヤーさんやヘルムホルツさんで、ガリレイさんやニュートンさんよりあとのひとだと思います。すると、ガリレイさんやニュートンさんは、なにか一定するものを想定せずに、ただ物体の動きそのものを注意深く現象論として眺めていたでしょうか。


ダインは力の単位で、ニュートンとおなじ力の単位として

エルグはエネルギーの単位で、ジュールとおなじエネルギーの単位として使用しています。


アリストテレスさんがこの状況をみてどんなふうに思っているのか気になっています。
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この回答へのお礼

どうなんですか?



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2018/06/13 16:02

可能態と現実態はどちらがエネルゲイアですか。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

デュナミスと言えば ダイナミックですから すでに現実に動いている・
はたらいているというイメージで捉えやすいですよね。

ところが これは まだ潜在的な勢力を言うらしい。

質料が まだあらためてのかたちで 形相と一体となっていない状態ら
しい。




エネルギーは エン(= in )のあとに エルグがあります。これは英語
の《 work 》と同源らしい。つまり 文字どおり 《 動きに入っている
・はたらいている》ゆえ 現実態らしい。


エンテレケイアっていうのも あったですか。

テレオロジー(目的論)のテロス( telos = 目的)と言っているから
完成態ですか。ややこしいこと 考えたもんだなぁ。

お礼日時:2018/06/13 14:31

嗜眠状態=脱皮できない蛇


だから
観念論≠脱皮できない蛇
になって
この場合の観念論=イデア(観念)
とするよりも
観念論=現実から離れた
と考える方が意味的には同じかなって思ったんですけど..
イデアは通俗的には 理想 らしいんだけど、正しくは観念のことで、イデアが理想のこととかんがえると今回の 観念論的 の部分と意味的に同じになるんですが、今回の観念を正式な方のイデア(観念)とまでは言えないかなって感じがして。
もっと簡単に言うと、観念の脱皮できない蛇 というよりも、理想の脱皮できない蛇 が正しいかなって思ったんです。だから、観念論的 の部分をどう言い換えたらもっと直接的な意味になるかなって。確かに、観念は自分の考えのこと であるのは間違いないけど、それは嗜眠状態の部分に 自分の考えを脱皮できない という意味が含まれているから、重複になるというか、それでは今まで議論を交わしてきたこととなんか違うなって感じがしました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そうですね。初めの考えを確認してみます。

むしろ 最初に問題にしたかったのは 哲学・思想としての:
・ 嗜眠状態

です。うつつの中にありつつ なお眠っている・夢見ているという状態で
あり 現実に起きていることがらにきちんと対処し得ていない。

その状態が:
・ 観念論から来ている

という場合を言います。

この観念論は 別様に説明するなら:
・ 思弁哲学 あるいは 思弁的な思考

でしょう。実践や経験にうったえることなく純粋な(?)思惟をとおして
世界を認識するというものです。



★ 嗜眠状態=脱皮できない蛇
☆ 今頃になってですが これは
▲ ニーチェ:脱皮できない蛇は滅びる。意見を脱皮してゆくことを妨げ
られた精神も同じことである。
☆ から来ているでしょうか?

とすると:
・ 現実の動きについてきちんと・しっかりと認識し得ず 対応すべきと
ころでも 対応し得ていない状態

として 意味が互いに重なると見得るでしょうか。――これで おおむね
よいと思うのですけれど。




★ 観念論≠脱皮できない蛇
☆ だとしても:
・ 観念論的嗜眠状態 = 脱皮できない蛇

になるとは思います。

★ 観念論=現実から離れた / と考える
☆ 《現実を認識しようとしつつ 経験に頼ることなく 純粋な思惟をと
おして把握するので 現実との対応があやふやになった》というような意
味になると思います。


★ イデアは通俗的には 理想 らしいんだけど、正しくは観念のことで、
イデアが理想のこととかんがえると今回の 観念論的 の部分と意味的に同
じになるんですが、今回の観念を正式な方のイデア(観念)とまでは言えな
いかなって感じがして。
☆ プラトンの正式のイデアが じつは・実際問題として 思弁的な観念
であることに終わる。のではないかと思います。



★ もっと簡単に言うと、・・・重複になるというか
☆ つまり:
★ 嗜眠状態=脱皮できない蛇
☆ と規定されていますが これは その規定において比喩が入っていま
すね。つまりは 生理的な嗜眠状態〔および 蛇の生きるさま〕を 人間
の精神的な状態のタトへであると読み替えています。

その読み替えに当たるのが 《観念論的》になると考えるのですが どう
でしょう。

お礼日時:2018/06/11 22:09

調べてみたんですが、哲学的用語の観念論とは唯物論の反対の意味で、この場合の観念論とは現実からかけ離れたという意味の俗語らしいです。


代わりになんて言えばいいのでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ この場合の観念論とは現実からかけ離れたという意味の俗語らしい
です。
☆ 俗語と言いますか 元の・それこそイデアなる観念から派生したも
のだと思います。


《概念》とは ものごとの意味内容を表わすことばだと思います。

概念として言葉が持たれるとき それは 世界のものごとと 一対一の
対応をするということになっています。

概念が さらにそこから 言葉として想像の世界に持って行かれ そこ
でいろんなかたちに 再編成され得ます。

人+馬 ⇒ ケンタウロス
馬+翼 ⇒ ペガサス

再編成された概念は 必ずしも経験事象と 対応しているとは限りませ
ん。

これを 《観念》と言うのだと思います。俗語だとして捨てるわけには
行かないと思います。





★ 哲学的用語の観念論とは唯物論の反対の意味
☆ 唯心論のことですね。次のように考えます。

《家》は 形相と質料とから成る。

形相: 設計図のごときかたち
質料: 材料

ここで 形相と質料とを――思考ないし想像のうえで――別々に分ける。

形相: 観念(それを想像する心)
質料: 物

ここで 両者を――想像上――完全に分けると さらに観念が純粋化す
る〔らしい〕。

質料なき形相: 第一形相 ⇒ 精神(世界精神) ⇒ 唯心論
形相なき質料: 第一質料 ⇒ 物質       ⇒ 唯物論

どちらも イデア上の観念である。ゆえに その中身が――心と物とで
別だと言っても―― どちらも言わば純粋精神である。

(なので 共産主義社会は エデンの園の再来を言っていると噂される)。

つまり 煮詰めた議論では 両者は 同じ思想(観念)である。


世界は 世界精神の自己展開だと言うのと 物質の自己運動として成る
と言うのと ほとんど違いはない。

《物質》というのは 純粋精神なのだから。

――だと思うんですが。

お礼日時:2018/06/10 00:16

φ(°°)、ではまた明日。



お休みなさい
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この回答へのお礼

お休みなさい。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2018/06/09 22:50

理念を掲げる信念は、ほとんどの場合、理念が間違いでないだけに信念で固まってしまう。

ほとんど実現不可能な理念 (=理想)を信念とするするから嗜眠状態に陥るんでしょうね。それは信念とするものが間違っていたということでしょう。確かによくあることではありますね。しかし、理念が間違っていなくてもそもそも実現が難しいものであればそのこと自体に誤りはあります。確かにこれは難しい問題で自分だけでなく周りもその思想の中に巻き込んでしまうため、その信念が間違っていることに気づくには他の知性による敗北か、あとコモンセンスの変化もあるでしょう。これは理想を信念とすることの限界を知るということです。もし例えば、政党などが約束の時期までに成果を上げられなかった場合にまだその政策を続けた場合などは嗜眠状態であると言えるかもしれませんね。この場合は圧倒的多数派によって嗜眠状態から解放される可能性はあります。しかし、実現が難しいことを試みるのは一般的にはそれだけ価値のあることではあるし、決して短期間にはなし得ないことは少なくないのも事実です。挑戦することは正しいことだけど、不可能な場合にそこから目覚めるのが容易ではない人がいる。依存症みたいなもんです。
質問文からはなかなかその意味を汲み取ることができませんでした。思ったより難しい問題かもしれませんね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 理念を掲げる信念は、ほとんどの場合、理念が間違いでないだけに
信念で固まってしまう。ほとんど実現不可能な理念 (=理想)を信念とす
るから嗜眠状態に陥るんでしょうね。
☆ そこらへんの心理的あるいは思惟をめぐるプロセスについては さ
らに専門家は 探究して欲しいですね。


★ それは信念とするものが間違っていたということでしょう。確かに
よくあることではありますね。
☆ 微妙ですね。つまりたとえば 信念として持つその仕方が 独り善
がりであって 理念〔の間違いなさ〕とそれを推し進める態度とが へ
だたりを持ってしまったんでしょうかね。


★ しかし、理念が間違っていなくてもそもそも実現が難しいものであ
ればそのこと自体に誤りはあります。
☆ まぁ 実践論としては そうなりますね。理念を確認するぶんには
常識(共同主観)の範囲に入っているように思われます。


★ 確かにこれは難しい問題で自分だけでなく周りもその思想の中に巻
き込んでしまうため、その信念が間違っていることに気づくには他の知
性による敗北か、あとコモンセンスの変化もあるでしょう。
☆ というふうにして 他律的になるんですよね 嗜眠状態は。


★ これは理想を信念とすることの限界を知るということです。
☆ それが 実践論としても・じつは理論追究としても 心得ねばなら
ないことだとわたしも思います。

★ もし例えば、政党などが約束の時期までに成果を上げられなかった
場合にまだその政策を続けた場合などは嗜眠状態であると言えるかもし
れませんね。
☆ 野党がしばしばそう見えます。与党の場合は 過半数の議席がなけ
れば 難航し苦労するでしょうね。


★ この場合は圧倒的多数派によって嗜眠状態から解放される可能性は
あります。
☆ 国民民主党は――必ずしも支持するわけでありませんが―― 《対
決から解決へ》を志向するなら 目覚めたように見えます。

★ しかし、実現が難しいことを試みるのは一般的にはそれだけ価値の
あることではあるし、(中略しました)
質問文からはなかなかその意味を汲み取ることができませんでした。思
ったより難しい問題かもしれませんね。
☆ どうもここらへんの認識に落ち着くのかも分かりません。ですね。

お礼日時:2018/06/09 19:35

1946 (いくしろ)


そのぐらいのお年でしたか。
失礼おば、しました。

何となく想像はしてましたが。

φ(°°)サテサテ。

どこが疲れるのか。
私も疲れたので、ここの説明は、省きます。

自分で考えてください。

今回の質問とはあまり関係ないので。
自分でいっといてなんですが、
こういうのは自分自身で考えるから、成長がある。

中身があっても噛み砕く
知恵がなければ見えません。
悪しからず。


本題に戻りますね。

えーと、
3つ前の回答への
貴方の返答。

《もしも私が
誰かに欺かれているなら それは 私が
存在しているからである。


その通りです。
又、我思うゆえに我あり。

これも同じように、自己の認識を、確定させる行為。
確証の為の理論と
なるでしょうね。

しかし、要はこれが最初の固定観念だと認める
事はできませんか?

人間は認知したものも、
レベルの違うものがある。

段階 (私は「階てい」 と読んでいます)(字がありますが変換できない)

まずは自分がいるという固定観念を、決めつける、その後に
居るなら~ を、
論理として考えている。

それは自分がそこにいるという段階の問いを越えている。

つまりは、戻すことも可能。


もしいなければの if
これを出せます。

まぁ、あらゆるものに
結論をつけたさいに
固定概念は生まれる。

基盤がある
順番的に《王道》がある。


この基盤としているのは固定観念なのだから、

これを疑うべし。

どの順番でどのような固定観念が形成されているのか。

それを自分で考えるんですよ。
先ずは。


そうすれば、少なくとも堂々巡りは減らせれる。


基盤基礎として何を、他の人と同じ、他の人と違う状態の
基盤として自分の理論を組み立てているのか。


貴方は、割合などのめんで
まだ、順番を間違っていますよ。


まぁ、そういえば何が、貴方の話しかたで、
人が離れてしまうことなのか。
ひとつ思い出しました。

過ちを認めているそぶりがない。

貴方は、討論をしているというが、
互いどちらおもの
共有認識に誤りがあった場合
その非を認め、
訂正をいれてから、
次のカイテイへと話を進めるべき。

その際あなたが認めない状態では、意見交換が成立しないと、
他の人は、去っていっている

そう言う面もあると思いますよ。

どうでしょうか?




これぞ阿修羅 破魔流
錬パ反証壁!!

いったい、何 読み (黄泉) なんだか
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 
中身があっても噛み砕く
知恵がなければ見えません。
悪しからず。
☆ 説明する知恵がないのでは?



★ ~~~~
《もしも私が
誰かに欺かれているなら それは 私が
存在しているからである。


その通りです。
又、我思うゆえに我あり。
~~~~
☆ 次の質問への回答№5が わたしの書いたものです。参考までに。

【Q:デカルトの「我思う故に我あり」は間違ってないと肯定出来る方
はいますか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9157259.html



★ これも同じように、自己の認識を、確定させる行為。
確証の為の理論と
なるでしょうね。
☆ なんで確定させ確証する必要があるの? 認識を持ったなら そ
のままでよいはず。

★ しかし、要はこれが最初の固定観念だと認める
事はできませんか?
☆ 固定観念というのが 分かりません。飲み込めません。そんなも
の要りますか?

★ 
まずは自分がいるという固定観念を、決めつける、その後に
居るなら~ を、
論理として考えている。
☆ 認識は すでにそのままで相対性の世界にあります。ただ それ
だけ。




この基盤としているのは固定観念なのだから、

これを疑うべし。
☆ あぁ 固定観念は うたがうためにあるという意味ですか。

初めから なければ それに越したことはない。





まぁ、そういえば何が、貴方の話しかたで、

過ちを認めているそぶりがない。
☆ あやまちがなければ どうやってみとめるの?


共有認識に誤りがあった場合
☆ その具体的な箇所を指摘し どうあやまっているかを説明
しなさい。


ただ 言いっ放しでは ただの子どものお遊戯。




能書きをやたら書かないと 推論が出来ないの?

お礼日時:2018/06/09 19:50

理念や信念を曲げると、それはもはや理念や信念ではないでしょう。

もし曲げる(気づく)ことができたのであれば、それは一般常識から明らかに外れていたり、自分自身でも間違いであると気づいている、間違いであるかもしれないと疑っている場合ではないでしょうか。そうでなくても理念や信念を曲げる場合は、それは一人の人間から湧き起こる別の一つの理念や信念ではなく、単なる譲歩にすぎないでしょう。それはむしろ人の愚かさの方に分類できるかもしれません。根拠のない優しさ、思考停止、あるいはあなたの言うような他の知性による敗北です。組織や社会に限ってはそれが間違いであると言い切れないところがありますが、自分と関わる他者の数が少なければ少ないほど自分の信念を曲げる必要性が少なくなります。だからこそ、少数での決断は危険なこともありますが、その分他者が正しいとも言い切れないわけです。これは人数が多くなっても変わらないわけで、意見が真っ二つに分かれるような場合は、根本的に、一対一の討論の場合と何が違うとも言い切れない、即ち、その中の誰かが声を上げるのは決まっています。一方で、少数意見だった場合は社会(多数派)から非難されるわけです。しかし、この場合も明らかに間違っているとは言えないでしょう。本当の意味で間違いを正すと初めて言えるとき、それは、絶対的に正しいものに置き換えられることであって、相対的なものに置き換えられるのは間違いであるかもしれないものから間違いであるかもしれないものへの置換です。圧倒的少数の場合は話が別です。例えば独裁者であれば、自分自身が間違っているかもしれないと気づいているかもしれないし、この場合は嗜眠状態から抜け出せるかもしれないが、そうでない場合は単なる 社会不適合者 のような例外的なものに該当するため、これについては哲学(真実の探求)によって答えを得ることは難しいでしょう。カントは皆が正しいと思うことをすべきだと言っているように、圧倒的多数ではそちらが正しいとしてしまっても問題ないというか、哲学の限界だと思うのですが、それ以外では何が正しいものとも言い切れない。相対的な決定によって現実の方にシフトすべきというのは、この場合、それが現実でいいのかということが圧倒的多数派でない限りわからないため、少し危険な気がするのです。現実というものを、若干の間違いを含んでいても問題ないものと定義するならば話は別です。嗜眠から目覚めるのであれば間違いであってもよい。敵を倒すためなら悪魔とでも手を結ぶ。嗜眠から抜け出せるかどうかという命題の上位に、それが真実であるかどうかということがある気がします。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 理念や信念を曲げると、それはもはや理念や信念ではないでしょう。
☆ 理念は 自由や愛あるいは生命や人格の尊厳といったように決まっ
ています。

信念は 曲がったものでも それを守るというその人の変則的な信条が
あり得るかも分かりません。

★ もし曲げる(気づく)ことができたのであれば、それは一般常識から
明らかに外れていたり、自分自身でも間違いであると気づいている、
☆ そうだと思います。そしてその判定は 知識や科学的思考によるよ
りも ヒラメキやあるいはやましさや恥ぢを直観させる良心のハタラキ
によるとも考えられます。


★ そうでなくても理念や信念を曲げる場合は、それは一人の人間から
湧き起こる別の一つの理念や信念ではなく、単なる譲歩にすぎないでし
ょう。
☆ 理念・理想概念は 変化しないはずです。信念を曲げるというのは
配偶者や子どもらによる一家が生きて行くための譲歩でしょう。さもな
ければ ヘソの曲がった行き方が 三度の食事より好きなのでしょう。


★ それはむしろ人の愚かさの方に分類できるかもしれません。根拠の
ない優しさ、思考停止、あるいはあなたの言うような他の知性による敗
北です。
☆ あるいは へそ曲がりですね。モノは自己運動において ふと横に
それる。(クリナメン)。

★ 組織や社会に限ってはそれが間違いであると言い切れないところが
ありますが、
☆ あちら立てればこちら立たずといった社会における分業=協業の関
係が 横たわっています。 


★ 〔☆ ご議論を端折りましたが〕 相対的な決定によって現実の方
にシフトすべきというのは、この場合、それが現実でいいのかというこ
とが圧倒的多数派でない限りわからないため、少し危険な気がするので
す。

★ 現実というものを、若干の間違いを含んでいても問題ないものと定
義するならば話は別です。嗜眠から目覚めるのであれば間違いであって
もよい。敵を倒すためなら悪魔とでも手を結ぶ。嗜眠から抜け出せるか
どうかという命題の上位に、それが真実であるかどうかということがあ
る気がします。

☆ おそらくおっしゃるとおりでしょう。あなたも:
★ 哲学の限界
☆ に触れておられます。

つづく

お礼日時:2018/06/09 16:48

あなたはペルソなの存在を知っていますか?



その存在を認めれば、自分のなかに自分と同じでない考えの自分がいる可能性も理解できますよ。

あなたは自分自身を完全に制御し、支配できていると思っているのですか?
できない部分は、存在するのです

なので、思い付きもある。


貴方は、まだ言葉の
垣根を取り払えない。

論題よりも、概念は小さな、
一つ一つの意味!
これを結論付けなければ論争はできなき。確かにそう。

しかし自己 認識
討論状態ではそうではない。

もっと夢見るようにも、
中庸、うたた寝
かのごとく、
己がインスピレーションと
対話できるのです。


狭い見識を追うのは
いい加減 (いい湯加減、温さです)
捨てるといいね。

温くていい発想を追うときの思考と、
一定の秩序下で、建前と見栄をもつても
TPOに合わせた
対話を心がけないといけない場合もある

でないと疲れてしまう。

貴方の話し方は、多くの人を疲れさせる。

まだまだ、優しく生きましょう!m(._.)m


まぁ、私は少し崩して、あなたにたいして友達感覚、心尽くして" 話しているわけですよ。


民主主義のなんて、別に哲学はその前からありましたよ

対話に小さな主義持ち込むのは、観念固定。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

前回と同じく 能書きは要りません。

★ 貴方の話し方は、多くの人を疲れさせる。
☆ ならば どこがいけないかを具体的に指摘して その理由説明を成す
ことが いちばんです。

いやなら 去って行くでしょう。自由ですから

だけれども そのことを話題にする参加者もいますので もしよかったら
その具体的な事情は どういうふうですか? と訊く質問も挙げています。

お礼日時:2018/06/09 16:23

それもアマアマです。



先ずは伝わる会話を心得ましょう。

伝わらなければ形式など意味が無かったとされる。

対話の真は、
相手との共有!
シンパシズム。又は、孤独の満たし。

先ずは、相手を知る必要の方が、色濃く存在するのです。

方法としてはね。

対話の目的は、伝えること

また礼式に拘れば、分かりやすいわけではないですよ。

貴方の書き方はわかりづらいと指摘を受けたことがあったはずですね。
それを直さなくていいと質忌まんがあなたにはある、訳ですが、
まぁ、私にもあるのでお会い子を


伝わるまで会話すればいいだけなのに、
無駄な礼式は、垣根と溝を深くする。

読む人の事を考えるなら、

譲るのが寛容。優しさです。

干支なんでした毛。

そういえばおいくつなんですか?

私、オンとし、37歳となりました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~
それもアマアマです。

先ずは伝わる会話を心得ましょう。

伝わらなければ形式など意味が無かったとされる。

☆☆(№17お礼欄) ~~~~
ですから その箇所を一つづつ取り上げて 批判をおこなう。

これが 民主主義であり 哲学の対話です。
~~~~~

あとの能書きは 要りません。
な・か・み!


★ ~~~~
伝わるまで会話すればいいだけなのに、
無駄な礼式は、垣根と溝を深くする。
~~~~~


こちらは 1946年うまれ。

お礼日時:2018/06/09 16:18

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