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No.7
- 回答日時:
もし一つの完璧な哲学というものがあったとして、経験事象に対応してなかったり、自己の現実の意思行為に繋がらないのは、その人が信じている哲学が不完全だからだと思います。
もし一つの完璧な哲学というものが存在せず、相対的な事実(=解釈)しかなければそもそも哲学というものが学問としては不完全で、どこまで行っても答えがなく、そこから導き出される観念は一つの絶対的な事実でありえないため、ある一つの哲学を完全に信仰してしまっている者のその観念論的嗜眠状態を他の哲学によって解消する試みは、その哲学による観念論的嗜眠状態の始まりを意味すると思います。したがって、この場合の観念論的嗜眠状態から解放される唯一の方法は哲学自体を放棄することであり、他者の哲学を反芻して自分自身の中で自分の哲学と対立させることではないと思います。そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。
★ したがって、この場合の観念論的嗜眠状態から解放される唯一の
方法は哲学自体を放棄することであり、他者の哲学を反芻して自分自
身の中で自分の哲学と対立させることではないと思います。
☆ そうですか。ここまでに到りましたか。
哲学というのは そもそも観念論であると。
★ もし一つの完璧な哲学というものがあったとして、
☆ この前提つまり想定は どうなんでしょう? 完璧な哲学があり
得るか? について 哲学が相いあらそわなければならなくなります。
その哲学のひとつが:
★ 経験事象に対応してなかったり、自己の現実の意思行為に繋がら
ないのは、その人が信じている哲学が不完全だからだと思います。
☆ ということを 同じ仲間の哲学が証明しなければならないという
ことになります。
でも その思惟が《経験事象に対応してなかったり、自己の現実の意
思行為に繋がらない》場合を明らかにするのは 有益であるかも知れ
ません。
つまりは 観念論的嗜眠状態というものを 具体的に明らかにするこ
とが出来るというものです。
★ もし一つの完璧な哲学というものが存在せず、相対的な事実(=解
釈)しかなければそもそも哲学というものが学問としては不完全で、ど
こまで行っても答えがなく、
☆ ううーん。でも その《相対的な事実(=解釈)》としてでも先
ほどの哲学のいとなみは 《或る哲学が 経験事象に対応するかどう
か》や《自己の現実の意志行為につながるかどうか》について 明ら
かにすることは出来る。
《不完全》な中にも 現実対応か否かについて《答え》は出せます。
★ そこから導き出される観念は一つの絶対的な事実でありえない
☆ としても 有益であるようです。
★ ある一つの哲学を完全に信仰してしまっている者のその観念論的
嗜眠状態を他の哲学によって解消する試みは、その哲学による観念論
的嗜眠状態の始まりを意味すると思います。
☆ ということは おもに経験事象を経験合理性で判別してあつかう
哲学を《信じる(つまり 無条件に心に受け容れる)》の対象とする
ことが 間違いである――となるのでしょうか。
思考と信仰とを分けなければいけない。――この教訓へとみちびかれ
たようなんですが。
No.4
- 回答日時:
ぶつかり合いをしすぎて、誰も会話してくれなくなった。
寂しい。
何て、価値は合ったよかった世かった♪
No.3
- 回答日時:
少ししか哲学という学問を学んだことはないけど、物事を哲学するのは得意です。
哲学の言い回しとか間違ってたら汲み取ってやってください。観念論的嗜眠状態とはイデアを追求するのをやめられなかったりして不確かなエピステーメーの領域に近づく努力ができないことですか?それとも、脱皮できない蛇は滅びるということですか?後者と考えて言います。そもそも、自分の考えが間違っていることに気づくということは、その前段階として、自分が信じていることが正しくないかもしれないということを知っている状態、無知の知がなければなりません。それは他者との相互作用によって恣意的に生じるものではなく、自己の中で確立されたメタ知識と考えるのが普通です。観念論を科学的事実に置き換えて考えると、2人の科学者の意見が違うということはその2人はそれぞれ自分の意見の中に事実を認識できていないということになり、この場合、そもそも少なくとも単一のものに事実の可能性を見ていることは誤りになります。もし、この2人の科学者が優秀であれば、他者とではなく、自分自信の中で知性と知性(意見と意見)のぶつかり合いを実験してどちらが事実かを見極めるでしょう。多くを経験し他者の意見に事実の可能性を見ることはそのために役立つと思います。自分の意見ですが、哲学は学問ではなくその人の考え方、即ち価値観になるので、哲学的用語に惑わされずに事実だけに目を向けることが最も“哲学”的であり、不確実な観念を信仰せず、一つの知識とするべきだと私は思います。また、それが可能であれば嗜眠状態には陥らないでしょう。ご回答をありがとうございます。
★ 哲学の言い回しとか間違ってたら汲み取ってやってください。
☆ わたしも専攻したわけではありませんが 率直に応答してまいりま
す。
★ 観念論的嗜眠状態とはイデアを追求するのをやめられなかったりし
て不確かなエピステーメーの領域に近づく努力ができないことですか?
☆ ええ。つまり 経験事象と対応していなかったり あるいは 自己
の現実の意志行為につながらなかったりする場合です。
★ それとも、脱皮できない蛇は滅びるということですか?
☆ 《脱皮できない》原因が 《イデアの世界に入り浸りだから》とい
う場合が考えられます。
★ 後者と考えて言います。そもそも、自分の考えが間違っていること
に気づくということは、
☆ 観念論は イデアないし理念を追っていますから 必ずしも・それ
として 間違いだと決めつけることも出来ないのではありますが。
★ その前段階として、自分が信じていることが正しくないかもしれな
いということを知っている状態、無知の知がなければなりません。
☆ 《信じる(無条件にわが心に受け容れる)》という点では きよら
かなおそれを持つとよいでしょうし 《無知の知》という点では 前項
の《おそれ》にかかわって ものごとが相対性としてあることについて
心得ているとよいのでしょう。
★ それは他者との相互作用によって恣意的に生じるものではなく、自
己の中で確立されたメタ知識と考えるのが普通です。
☆ ちょっとお言葉を返しますと 《メタ知識》の上位に 先ほどのき
よらかなおそれがあり ヒラメキがあり あるいは 良心(⇒やましさ
や恥ぢを知る)がはたらくとも捉えています。
★ ・・・2人の科学者の意見が違うということは・・・
☆ そうですね。事実認識は つねに人間の相対的な主観によるのでは
あります。おそらくその認識の相違は 互いに部分観であるということ
ではないか。
したがって:
★ 自分自信の中で〔も 互いのあいだでも〕知性と知性(意見と意見)
のぶつかり合いを実験してどちらが事実かを見極めるでしょう。
★ 哲学は学問ではなくその人の考え方、即ち価値観になるので、・・・
☆ おそらく 価値自由な事実認識としての科学的普遍性と 主観が良
し悪しを差し挟む倫理観・価値観としての普遍性とを含むものと考えま
す。
No.2
- 回答日時:
観念論的嗜眠状態から抜け出すためには どうすればよいか?
↑
包丁のように、言葉も感覚も使っているうちに鈍くなってくる。
最初は新鮮な経験も、玩具に遊び飽きた子供と同じで、
日常の中で繰り返されることにより当たり前になり、
また、言葉は使い古されて、経験や現実を指示せずに、
辞書に載っているような死んだ意味を直接連想させるようになる。
鈍麻した日常的感性の刷新をもたらすべきで、
議論などよりも殺し合いの方が効果的である。
ご回答をありがとうございます。
☆☆ 観念論的嗜眠状態から抜け出すためには どうすればよいか?
↑
★ 包丁のように、言葉も感覚も使っているうちに鈍くなってくる。
☆ そうでしょうか。それは ただの一面だけを言っていませんか?
つまり もし概念をきちんと定めて共有して使っている過程で《言
葉も感覚も使っているうちに鈍くなってくる》とした場合 そうだ
としても その反面で 《鈍くなった使用情況》に接して とうぜ
んその概念の再定義や新概念の創造に向けて――哲学の徒は――
すすみます。
すでに過去においても そうして来たのですから。
★ 最初は新鮮な経験も、玩具に遊び飽きた子供と同じで、
日常の中で繰り返されることにより当たり前になり、
また、言葉は使い古されて、経験や現実を指示せずに、
辞書に載っているような死んだ意味を直接連想させるようになる。
☆ という一面が 明らかに現象するということですね。
★ 鈍麻した日常的感性の刷新をもたらすべきで、
議論などよりも殺し合いの方が効果的である。
☆ 何を言っているのか。
![](http://oshiete.xgoo.jp/images/v2/common/profile/M/noimageicon_setting_07.png?e8efa67)
No.1
- 回答日時:
哲学は 屁理屈を屁理屈の箱に入れ 屁理屈のリボンを結んだもの・・
最後まで突き詰めるまでは 全て屁理屈・・
最後に残るものは 神に なるのに その段階に まで達しない・・・
なので 神から 考えれば 一番の近道・・
ご回答をありがとうございます。
もちろん一般論ですが 人びとが いま:
☆☆ 観念論的嗜眠状態
☆ に落ち入っていること・そしてそこから抜け出す必要があること。
――この点については 賛成であると受け取ってよろしいでしょうか。
★ 哲学は 屁理屈を屁理屈の箱に入れ 屁理屈のリボンを結んだもの・・
最後まで突き詰めるまでは 全て屁理屈・・
☆ ちょっと言い過ぎなようにも思われます。
結論を求めて推理する過程においても その推論は 筋道立てた《理屈》
を用います。出来るだけ《屁理屈》は避けると思います。
★ 最後に残るものは 神に なるのに その段階に まで達しない・・・
なので 神から 考えれば 一番の近道・・
☆ これも 微妙ですよね。
昔は むしろ一定の〔信仰から派生した〕宗教のオシヘにもとづく神学
の土壌のもとに 経験科学であろうとする哲学としての神論が むしろ
最初に来ました。
どうもこの神論という課題をめぐって 哲学者は カントおよびヘーゲ
ルあたりでその問い求めをストップしたようです。
神学は 信仰の問題として・つまり主観内面における理念などの問題と
して・ということは しばしば護教論に成り勝ちなのですが そういう
かたちでなお続けられているとしてもです。
そうした現状にあって じつは・じつに神の定義すらも いまだにまま
ならぬ状態にあると言わねばならないかも知れません。
そういった情況にあって 微妙ですね。観念論的嗜眠状態から抜け出す
ために どうすればよいか。
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№7つづき
★ しかし、これらはすべて観念論的嗜眠状態に抵抗すべきという考
えの下で導かれるものであり、観念論的嗜眠状態をある哲学において
生じる当然の状態と考え、とりわけ問題視しないならばこの限りでは
ありません。
☆ どうもこの議論は 実存思想のアンガージュマン(コミットメン
ト)が有るか無いかの問題に 行き着くように思われます。
約束を履行するならそれは 現実的であるように 情況の中でその動
きにコミットするなら 観念が先行するのではなく 取りあえずにで
も 嗜眠状態を脱する。
★ これは現在の私の哲学に対する在り方であり、いつかきっと、い
ちいち不確実な観念を信じなくてよい科学的事実を全体で掲げること
が私の自分に対する理想です。
☆ それはそうでしょうね。つまり 世界事実と対応する世界認識が
得られているならば 観念の想像世界にとどまっていることもなくな
りますから。
№20つづき
けっきょく 或る一人の人間の主観に発して 思想ないし哲学が生まれ
ます。
ほかの人たちの別の主観体系を押しのけて 一定の主観内容が共同化さ
れます。
共同主観(コモンセンス)。これが その時代その社会にとって基本的
な思潮を形成します。
どこまでそれが真理であるかは 誰も分かりません。
でも コモンセンスを信念として 思想として固まるのは 嗜眠状態に
落ち入りがちです。
そして 理念をかかげる信念の場合には――理念がまちがいではないだ
けに―― その信念で固まってしまうような傾向があるように見られま
す。
細かいことかも分かりませんが これが あんがい目立ちます。