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生まれた時から不治の病におかされていて、苦しみぬいて数ヶ月とか、数年で死んでしまう子供のいれば、
一方では、本人がそれ程努力していないのに、とんとん拍子に人生の幸運をつかむ人がいます。

芸能人の「藤田まこと」氏は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0% …
自分は、運の強さだけで、芸能界を生き残ってきたと言っています。

自分の回りを見ても、確かに、真面目に生きているのに、一人で数人分の不幸を背負っている人と、逆のタイプの人を知っています。

なぜ、人には、強運の人、運の悪い人が存在するのでしょうか?
その意味は、何なのでしょうか?
哲学では解決できず、宗教的な問題なのでしょうか?

意見を聞かせてください。

A 回答 (37件中1~10件)

運は、所詮は運です。


運の悪い人は、それこそどんな努力をしても無駄。
しかし運の良い人は、それこそ努力をしなくても幸運が舞い込む。
ただしどの様な幸運や悪運の人にも、いくつかは絶対に平等なことがある。

例えば、その一つは地球の上に住む限り、必ずお天道様が上ってくる。
例えば、人は何れ、必ず死ぬ。(まあ未来の科学が発展して不死不老が発明されれば別ですが)
というように必ず平等がある。

そうした平等の中で唯一、人間が自分の意思で勝ち取ることが出来るものがあります。
それが『自由』です。

『自由』とは『独立した個人の自立した精神』であり、『自主独立・自由意志』を指します。
この『自由』に伴う『自己決定権』こそが、誰もが自分で勝ち取らなければならない。
『自分の価値は自分で決める』という『自己決定権』こそが、人間が唯一自分の力で勝ち得る物です。
そしてこの『自己決定権』を最大価値とするのが『自由主義』や『個人主義』です。

> なぜ、人には、強運の人、運の悪い人が存在するのでしょうか?

『自由主義』に於いて、幸運(強運)や不幸(運の悪い)は、決して個人の責任じゃないし、当然にその結果による不平等は不公正であると考えます。
『個人主義』だと運、不運まで自己責任にしてしまう場合があるのですが、『自由主義』(リベラル)の思想は、運、不運は人間が社会を形成して、あくまでも、本当の本人の努力による差だけに成る様に、可能な限りは是正しなければならないと考えます。

例えば日本の江戸時代の士農工商の身分制度は、武士に生まれたら武士、商人に生まれたら商人になることがほぼ決まってしまう。

例えば今でも日本は政治家の多くが二世、三世ですが、彼らは本当に努力して政治家になったのか?
小泉進次郎さんは人気がありますが、彼の父親が人気の高い元総理の小泉純一郎さんでなかったら、果たしてあそこまでの人気を最初からもてたか?(ちなみに私は小泉進次郎さんに期待してますよ)

『自由主義』は、そうした初めからある資質、個人の才能や親の財産を含めて、それは特権であり、個人の努力によらないと考える。

そういう格差が積み重なれば、何れはお互いが「生物として別の存在」になるでしょう。
だから人間が『自由』である為に、多少の格差は是正させてもらう。

例えば累進課税による富裕層の税率が、中間層や貧困層のそれよりも高いのは、そういう格差是正の為ですし、アファーマティブ・アクションは、民族や人種など生まれながらにして社会から差別され、格差を強制された状況を是正する為の政策です。

もちろん、神様じゃない人間には、誰も彼もが救えるはずも無いが、しかし、『自由主義』に基づき、『無知のヴェール』と呼ばれる「自分は何者か知らない状態」を考慮することで、公正、公平な正義に近づけるというのが『自由主義』の目指す社会なわけです。

確かに、運、不運の是正は出来ませんが、その結果において生じた不公正を是正することは出来ます。

> その意味は、何なのでしょうか?

意味など有りません、所詮は運。
個人の力ではどうにも成らない、全くその人に責任は無いと考えます。

ただし『自己決定権』を行使した行動の結果は、その全てを運のせいにはできません。
『自己決定権』に最大の価値を置く以上、その人が他人に洗脳されたのでなく、真に自分の意思で決めたなら、その結果、運に拠らない部分の責任は負わなければならない。

例えば映画のスタントマンが事故にあっても、事故の結果の負傷は本人が負う。
ただし、その結果として社会復帰が不可能となれば、新たな職業斡旋や生活の支援を社会がする。
運による部分と、自己決定権の結果とは分けて考える必要があります。

> 哲学では解決できず、宗教的な問題なのでしょうか?

完全に解決するのは無理ですが、『自由主義』であれば、その格差是正の努力をします。
『自由主義』とは『自由』を守る為に、『自由』を破壊しかねない要素を取り除く努力をする。

もちろん行き過ぎて逆に『自由』を奪ったら意味が無いので、「民主主義」の力を借りて調整する。
ただし「民主主義」は『自由主義』者以外が運用すると、容易に「社会主義」「全体主義」に変る。

だから現代のまともな『民主主義』は、必ず『自由主義』を採るんです。

ただし『自由主義』は先にも述べたように、『自分の価値は自分で決める』為、『自分が決めた』ことに対する『自己責任』はちゃんと負う。

俳優の藤田まことさんが述べているのは、ちゃんと彼が『自分の価値は自分で決める』を実行されてきたからだと思います。だからこそ、自分は運が良いと判るのであり、だからこそ最後まで自分自身の生き方に責任を負うことができたんだと思います。

運、不運は所詮は運であり、どうしようもないのです。
しかし、どの様な場合にでも、最後は『自己決定権』=『自由』が残されているという事です。
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私は原因があって結果があると思ってます。


ですからこの世に偶然はなくすべて必然だと思ってます。
例えば甘いものが好きで歯磨きが苦手だったら虫歯になりやすいと思います。
ではすべての人がそうなるかと言うとそうではありません。
それは親の遺伝的なものであったり、他の事が影響しているかも知れません。
ずっと元を辿っていくと人に起こる出来事は色んな複雑な事象が絡み合って原因を作っているのだと思います。
その原因が何であるかは深すぎて人にはわからないと思いますが、必ず原因があると思ってます。
原因はわかりませんが運のいい人と運の悪い人の差はその人が持っている動物としての人間の本能、先祖からの遺伝的なもの、あるいは経験により身についたその人の傾向だと思います。
もぐらは地中で餌を取り、鳥は空中で餌を追い、植物にもひまわりがありすみれもある。
それぞれが違ってそれぞれの生き方をしています。
得るもの与えられるものもそれぞれ違います。
人間は皆同じと思いがちですが似通ってはいますが人間も本当はそれぞれ違っているんじゃないかと思います。
人間は不公平と言うよりそれぞれが違っていて、その不公平を受け容れることができたら、その時には宝くじが当たったり、色んな幸運が巡ってくるくるんじゃないかと言う気がします。
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これどうぞ(^<^)



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はじめまして。

ハンドル:old-Zealと申します。

たまたま別のことを検索してて、このページを拝見しました。
随分前に書かれた質問のようですが、まだ貴方様の質問に対して、
お答え出来るようでしたら、私からの見解を少し述べさせていただきたいと
思いますが、いかがでしょうか。
まだ閲覧されておられましたら幸いです。
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この世に起こる現象はすべて「自然現象の雨が降る」事と同じで、悟りに近いことですが善も悪もなくそれをとらえる人間の考え方ひとつというこもできるかもしれません。


しかし、私の半世紀少しのつたない人生経験から運の良し悪しは間違いなく存在すると断言できます。
身近な例でいえば宝くじを一生買い続けたが一度も当らなかった人もいれば、1年に3度高額の宝くじが当った人を私は知っています。偶然の産物ととらえるか原因と結果の存在を考えるかは個人の自由です。
運についてもっと知りたい方は斎藤一人さんのホームページを見てみるのもひとつかと思います。
補足ですが、斎藤さんは宗教家ではなく実業家で納税額の日本記録保持者です。

参考URL:http://saitouhitori.jp/index.html
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 強運なのも、運が悪いのも、紙一重だと思いますが、いかがでしょう。



 人生に失敗ばかり繰り返していても、なかなか死なないで生き延びている人もいれば、ほとんど失敗などした事がないほど恵まれている人が、自殺する例もあります。

 自分が幸運か、不幸かは個人の解釈の問題で、自分は幸運に恵まれて人生を送っていると答えた人の人生談を良く聞いてみると、失敗がなかったわけではなくて、人並みに失敗を経験していて、失敗から学ぶのが多かったという意味で幸運に恵まれていたと話しているだけだったというのが、現実に最も近いのではないかと思います。

 逆に、才能に溢れている人なのに成功出来ずに終わる人もいますが、良く調べてみると、政治団体や犯罪組織から弾圧を受けていたのを当人が知らなかっただけだったという例もあります。同じく、知らない間に法制度が歪められていて、失敗する人間が作り出されるように変わっている例もあります。

 強運も運の悪さも統計上の誤差の範囲でしか起こらないのが普通で、それを超えて起こっている場合は、その人の周囲に人生に干渉している人物か、組織が存在すると考えた方が良いでしょう。

 歴史上の人物を学校で教えられる時に、その人を育てた人、助けた人、役立った人など、周囲にいた人の功績も考えなければならないのですが、当人だけの功績として教えられる例が多いです。現実は、そうではないのを知って置くべきでしょう。
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私は強運も不運も存在しないと考えます。


ただ、人間が後で強運だ不運だと後付をするだけです。

不幸な人生は幸せを諦められるので幸せともいえます。また、不幸に耐性を持てるので幸せとも言えます。
幸せな人生は幸せを追い求めてしまって『もっともっと地獄』ともいえます。また、幸せな人生は突然の不幸に極端に弱い人間を作るので不幸な人生とも言えます。

ある女王は斬首刑の前夜に恐怖や苦しみで髪の毛が真っ白になりました。私達一般人は明日斬首されるとしても髪の毛が真っ白にはならないはずです。

意味、それは分からないと思います。

ただ、この世では全ては分からないはずです。カプラン臨床精神医学に臨死体験が載っていました。WIKIの臨死体験の項とほぼ同じ内容だったので死後には全ての意味が分かるのではないでしょうか。逆に生きている間は分からない事だらけなのが事実かと思います。
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此の前の方が素晴らしい指摘を提供して下さっていますね。



こういう御教授を賜れる展開は「幸運」に属しませんか?
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>哲学カテは、「何となく」を、クリアーな言葉にするのが一つの役目だと思いませんか?


「心とは何か?」「存在とは何か?」との広い、抽象的な問題に、具体的な言葉で説明をする。具体的な言葉になるまで考える。それが、哲学だと思うんです。

それ本当かなー。だったら、「心とは何か?」「存在とは何か?」って問いに哲学は今まで答えることが出来たの? あんた、根本的な所で哲学を誤解しているんじゃないかな~~~なんて何となく思うんだけど。あんただって、「それが、哲学だ」と何となく思ってんだけじゃないの。

あたしなんか、クリアーなことに哲学好きな連中が口を挿み出すと、こいつら何とか人を煙に巻く方法はないかと屁理屈を述べ立てることに恍惚を見出している連中じゃないかと何となく思っているんだが、どうなんだろうか。多分本人には自覚がないんだと何となく思ってんだけど。

そもそも哲学って言葉に入ってる「学」の字であんた惑わされている可能性はないの?哲学と屁理屈とどこが違うの? 哲学が学問だとして、それで人類がこれは凄いと皆が文句なしに納得出来るような物を手に入れたたった一つでも良いから、そんなものを教えてくんないかなあ。一つだけじゃないと言うなら、その幾つかを重要な順で列挙してくれないかなあ。他の学問じゃそんなもん幾らでもあるんだが。もしそれを教えてくれたら、あたしもそれで哲学の参考にするから。

あんた「具体的な言葉で説明をする」なんて何となく言ってるけど、顕密はどうなの。なんで顕教があって密教があんの。そんなことも何となく哲学なんかな。

さあ、あんたがどんな屁理屈、じゃなかった哲学を言って来るか楽しみだ。
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確かに人から見て運のいい人、悪い人がいるのは感じますね。


何故そうなのかは私にわかるよしもありませんが、ただ運のいい人というのは余り深く考え過ぎない楽天的な人が多いような気がします。
余り考えないとは悪い意味で言ってるのではなく、そもそも考えるというのはわからないから、心配だから、迷っているから考えるんで、楽天的な人は考える必要がないということです。
多分楽天的な人は人生とは何ぞやと言う答えを識っているのかも知れません。
それか怖さ知らずの新人と一緒でまだそういう経験に遭遇してないだけかも知れません。
いずれにしても考え過ぎ、こだわり過ぎはろくなことはありません。
開き直ってなんでもいらっしゃいという気になれば運も巡ってくるのかもね。
でも口では簡単に言えてもなかなかそうはいきません。
ただ時計の振り子と一緒で右に振れれば必ず左に戻ってくるんだと思います。
長~いスパンで見ればおそらく皆平等じゃないかなと思います。
花にもいろんな種類があり、艶やかなもの、清楚な感じのするもの、棘のあるもの、一晩限りで散っていくもの、どれが運が良いとか悪いとかでなく、自分なりの花を咲かせることが一番幸せな事じゃないでしょうか。
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