
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
>よくわからない物を「絶対に正しい」と信じてそのために生きていくにはかなりの勇気が要りそうですね。
はい、確かに。
わからないものを信じるというと、おかしな話にも思えます。
言い換えると、何を信じているのか、わからないみたいです。
これは、わからないものを盲目的に信じるのではなくて、
わからないものを理解しようとすると考えると、いかがでしょうか?
私は、仏教とは自然法則を説いているのかと思うことがあります。
もし自然法則のようなものだとすると、人の信じる信じないに関係なく、
それはそこにあるということになります。その意味で言うと、
信じるということは、あまり重要でないのかもしれません。
私が思うには、よくわからない中から少しずつ「そうか」と
思えるようなことを見出しながら、自分のために生きていくのが、
本当の形ではないでしょうか?
そして、そのような人を菩薩と呼ぶのではないかと解釈しています。
でも、よくお寺に質問されましたね。
それには勇気いりませんでしたか?
この回答への補足
度々ありがとうございます。
なるほど、少しだけわかったような気がしました。
>私が思うには、よくわからない中から少しずつ「そうか」と
>思えるようなことを見出しながら、自分のために生きていくのが、
>本当の形ではないでしょうか?
>そして、そのような人を菩薩と呼ぶのではないかと解釈しています。
このスタイルを正しいと確信することが仏教を選ぶ決め手のひとつなのですね。
実は私は16年前から一神教徒として生きています。
そして、いまだに信仰に絶対的な確信がもてないことに最近非常に苦しんでいます。
そこで、仏教に興味を持ち色々読んで見ましたが、どうも一神教徒にはわかりにくくて困ってしまいました。
そこでやはり実践されている方に直接聞くのがいいだろう、と思ったのです。
私達の所にも興味本位の人、真理を求めている人などさまざまな人が突然訪れます。
そして、私達にとってはどんな理由であれ興味を持って来てくれた事が非常に嬉しい事です。
お寺の方々も同じだと思っていたのと、自分の未来がかかっていて真剣なのと、二つの理由でそれほど大きな勇気は要りませんでした。
むしろ、「仏教の事を学んでいいのだろうか」という一神教徒としての迷いを断ち切るほうが勇気が要りました。
何件か電話して、曹洞宗の尼寺で日本一の権威のところが近所にあることを知り、そこで何度か話をさせてもらいました。
とにかく言葉ではないので参禅会に参加してください。ということですが、まだ迷っています。
曹洞宗というのは仏教のなかでどういった位置づけにあるのでしょうか?
仏教といっても宗派によってあまりにも違いが大きくて、そこもまた非常にわかりにくいところです。
尼さんに「仏教は多神教ですか?」とお尋ねしたところ「多神教とはなんですか?」とお返事され、私が説明すると「宗派によってはそうですね」との事でした。
その方はまだ4年目の修行僧でいらっしゃるのでその答えがすべて仏教的に正しいかどうかはわかりません。
ただ、お寺というのはなかなか一般人が「先生」のような方とお話する機会がないようですね。
特にその尼寺の長である青山老師というかたは非常に高名な忙しい方であるようで、とても個人的にお会いするのは無理のようです。
どんな宗教でもそのすべてを短時間で体得するのは不可能です。
ですが、「この宗教はこれこれを信じて、こういうことを実践するものですよ」という大筋の説明を受けてそれを納得した上でなければひとつの宗教のために人生の大半を費やす気にはなれないでしょう。
仏教にはその大筋をわかりやすく説明する窓口がないのでしょうか?
それともそういうはっきりした大筋自体存在しないのでしょうか?
ただ、最初に書いたようにその生き方そのものが仏教であり、それを確信しているのが仏教徒なのかな、という気はしてきました。
しかし、仏教はつかみどころありませんね。
尼寺でいただいた偉いお坊さんの「わかりやすい」本を読んでいますが、まったく支離滅裂です。
でも、せっかくの機会ですから、できるだけ心を開いて一神教の常識と照らし合わせる事をしないで、書いてあることをそのまま受け止めるように努力しています。
長文になってしまいました。
お読みいただいてありがとうございます。
No.7
- 回答日時:
>仏教にはその大筋をわかりやすく説明する窓口がないのでしょうか?
>それともそういうはっきりした大筋自体存在しないのでしょうか?
そんな窓口がありましたら、私も興味があります。
ただ仏教には経典が様々ありますから、拠り所とする経典の違いが特に、
宗派の違いとして現れるのではないかとは思います。
それを説明してくれる窓口が、どこかにあれば便利ですが。
仏教を広く総合的に研究している専門家のような方なら、
そのような疑問に答えてくれるのかもしれません。
曹洞宗の位置付けは申し訳ありませんが、私はよくわかりません。
>ただ、最初に書いたようにその生き方そのものが仏教であり、それを確信しているのが仏教徒なのかな、という気はしてきました。
そうかもしれません。
私も一応、信仰する一人と思っていますが、私の場合を言うと、
今の時点で納得できる解釈をしているということになります。
でも同時平行で、本当はこうかもしれないと思うこともあります。
多くのことは知りませんし、知る範囲でもほとんどは理解できません。
その中で、何か一つに確信を持つということは難しいです。
数ある宗教、宗派、解釈から、どれを選ぶかという話では、
縁というか、偶然が大きく影響するのではないかと思います。
生まれた時代や、場所や、人の縁ですね。
今は、時代的には、縁遠い時代かもしれませんが、
「身近に仏教があった」といったことは大きいと思います。
日本人なら仏教との縁は深いと思います。
そのような深い思いからの質問とは、知りませんでした。
申し訳ないことですが、私の話は想像が多いですから、
間違っていたら困るような大した話はしていないと思いますが、
本当に参考に留めてくださるといいと思います。
何度も長文のご回答ありがとうございました。
すべてがすっきり解決する事はないと思いますが、これからも勉強を続けて行きたいと思います。
ありがとうございました。
No.6
- 回答日時:
主に神経質・強迫観念症の治療で高い治癒率を誇った鈴木知準博士の "ノイローゼ全治の道を語る (誠心書房 出版)" から書き出します。
これは日曜講義と云って、鈴木博士が患者に対して口頭で講義をしている時の内容を文章にしたものです。(以下引用)
初めは、例えば、対人恐怖の不安がありますね。それを耐えていこうとする。しかし徐除に心が修練されると耐える必要がなくなる。その不安はそれだけのものになるのです。その時、ただちに、自分の欲望に向かって前進する態度が展開する。これは内発的な自然の展開なのです。意志の力ではない。切り開かなくてはいけないという態度は、さらにこんがらかす恐れがあると私は思うのです。現在になり切った時、忍受する必要などもちろんない。それが即心即仏、あるいは森田の言葉なら「そのまま」、禅の言葉ならそこを無と言う、親鸞は自然法爾という、キリストだったら神のおぼし召しのままに生きる態度です。
鈴木大拙博士がこういうことを書いています。「否定をそのままにして」否定をそのままというのは不安、対人恐怖の不安を、強迫神経症の不安を心臓の不安を表現せずにやるということです。「否定をそのままにして、直ちにそれを肯定化するということは論理からは不可能だ。知識からは出てこない。この論理が一大転換をしなければならない。しかしてこの転換が事実の経験として体得せられた時に、大安心なるものが獲得せられる」
~またその有であって無である、こういう態度を、西田幾多郎教授は哲学的に絶対矛盾的自己同一という言葉を使って説明しています。そのことは皆よく知っているところですね。われわれは自分の心を自由にすることができない。 (引用終)
この他にも沢山の宗教人の言葉が出てきます。哲学と結びつけることもできましょうが、むしろこのように精神医学に近いとも思われます。昔は薬などもなく、今でいう神経症の人に対する治療などもなく、よって宗教がその代わりをした、という側面もあるのではないでしょうか。教祖自らが悩んだ末に悟りを開き、それを教えとした。そしてこれは、一般の人の生きる態度にも関ってくるものでありましょう。
又、近年主に境界性パーソナリティ障害の治療で実績を上げているDBT(弁証法的行動療法)にも、禅の影響が強く見られるようです。
No.4
- 回答日時:
>一体仏教は哲学なのでしょうか、宗教なのでしょうか?
>近所のお寺に電話したら「忙しいし、そんな暇ないわ!
>本山にでも行け!」って叱り付けられました・・・。
こんばんは.
私的結論から言えば,
「哲学の実践が宗教です」
日本の仏教は,インドから中国へわたり,
一時期『宗教』と言うより『経典の哲学的研鑽~研究』が盛んになります.
仏説を信仰対象と言うより哲学(仏教では教学と言う)的傾向が強まります.
それは『本来の釈迦仏教』から『中国仏教』へと変化し,
さまざまな教義・宗派が発生します.
華厳経・阿含経・方等経・般若経・法華経・涅槃経などです.
その様な文化的背景の中で仏教は日本に渡ってきました.
釈迦在世の釈迦自身によるいわゆる初期仏教の時代には文字が無く,
その為に仏教が中国へ伝播する際には,
中国に既にできていた『漢字』を用いて,
釈迦の言葉を漢字に変換して記録した事から,
いわゆる「お経」ができました.
現在,仏教発生の本家であるインドには,
私見ですが,仏教伝来時のルート上に,
日本にあるような古刹としての宗派仏教が存在しない事も,
この説が正しいと信ずるに足る根拠です.
もし釈迦が説いたのだとすると,
インドには当然,宗教伝播の道筋に古刹としての
各宗派を名乗る寺院が存在しているはずですが,
現実には釈迦の基本説教と推察される初期仏教が,
北伝仏教や南伝仏教などの伝播順路においては,
現地の生活に溶け込んだ宗教として存在するだけです.
つまり,日本に現存する法華経などは,
釈迦の滅後に中国で学問的に発生した教義であり,
直接釈迦が説いた,いわゆる仏説では無い事になります.
余談になりますが,
「哲学とは物事の究極を思考によって追及する学問」と,
認識しているがこの事について少し考察すると,
学問と意識していなくてもその追求の程度によって,
整理されぬまま,さまざまな深さや広がりを持つ知識を
大きな個人差として持っているのが人間であると認識しています.
つまり一般的には学問としての『哲学』を持たない,
幼児は幼児の,小学生は小学生の無意識の体系化されない哲学があり,
中学生・高校生・成人と,その年齢や知識相応の追及の差によって,
それぞれがそれぞれの混沌とした認識を含めた考えとして,
それぞれ特徴をもって停滞や,経験を基に進歩してゆくと認識しています.
その個人が持つ無意識の哲学を基に,
考察を経た結果を信じ人は行動規範にしているのです.
その際に信仰対象物があるのが『宗教』となり,
はたまた日常生活での『生活規範』にまで広がりを持つのです.
仏教全体を簡易に把握するには
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99で
基本的な事が客観的に理解できるので充分ではないでしょうか.
現在の寺院では自分に都合の好いように解釈し説明しています.
一気に書き上げました.時間が無いため読み直す暇がありません.
重複・誤記・表現などを記述文章で感じられた場合,
読者の機知でご判断されてご笑納ください.
この冗長で稚拙な私の認識披露が,
ご質問者さまの疑問解消の一助になれば幸いです.
参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。
長文、丁寧なご回答ありがとうございます。
とても参考になりました。
ウィキペディアにつきましては信憑性が低いので宗教に関する事など、重大なことがらについてはあまり参考にしないようにしています。
ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
私も同じような疑問を持っています。
両方ではないでしょうか?
と言う私は、宗教と哲学の違いをよくわかっていませんが・・・。
神については、他の宗教の神とはちょっと違う印象ですが、
同じような概念で十分解釈できると思います。
多神教と解釈してもいいかもしれません。
実際、そのような解釈で描いた絵や像があるのは、皆よく知っています。
また、仏が不思議な力を発揮する様子の描写がありますが、
その力は中国で「神力」などという言葉に訳されたりしています。
とにかくいろいろに解釈できるところが、仏教のわかりにくさであって、
しかしまた同時に、理解を促す原動力にもなっていると思えます。
一見、矛盾しているようですが。
言葉や理屈では、はっきり理解できるようになっていないのです。
けれど、たまに、少し理解できたように思える瞬間があります。
そこに仏教の、人々を引きつける力があるのではないでしょうか。
私も少し触れたことがありますが、
この経は、わけがわからなくて当然なのだという意味のことが、
繰り返し書いてありました。
この回答への補足
ありがとうございます。
普通の人間にはわからないのが仏教ということでしょうか。
よくわからない物を「絶対に正しい」と信じてそのために生きていくにはかなりの勇気が要りそうですね。
自らお坊さんになろうと決心される方は、仏教のどういうところに確信をもたれるのでしょうか。
他の宗教ではなくて仏教を真理と信じて生きていく決めては何なのでしょうか。
No.2
- 回答日時:
あなたの考えている仏教によっても違います。
仏教の開祖である釈迦は、人の悩みを取り除く偉大なカウンセラーであったとも言われています。
彼の死後数百年たって起こった大乗仏教はインド哲学と結びついたものであり新たな解釈がされています。
更に中国に渡って儒教の義・孝・忠・礼などの道徳的な思想が加味されます。
日本に渡って宗派仏教となり独自の解釈が加わります。
江戸時代仏教は幕府の保護を受けて、主体は葬式の執行に成り下がり、明治以降も引き続いています。
つまりあなたのいう仏教が現在の日本における葬式仏教のことであれば哲学でないのは勿論、宗教としても疑問のあるところです。
この回答への補足
日本でも真剣に仏教を実践していらっしゃる方はいるかと思います。
しかし、仏教というのはどんどん変化してきたようですが、基本となる教本や神のような存在はないのでしょうか?
他の一神教と比較して考えているといつまでたっても仏教がどういうものか理解できない気がしてきました。
宗教とは普遍であるはずだ。と思っているのでどうも仏教が哲学なのではないかと思えてきたのです。
しかし、世界にこれだけたくさんの人が帰依している物ですから、それに見あった何かがあるのでしょうね・・・。
ご回答ありがとうございます。
No.1
- 回答日時:
なにか、わからないか、わかりません(^o^)
宗教に決まっています(^-^)/
もちろん、その教えから人生に有益な哲学を
見出すのは、自由ですが_(‥ )
ランボルギーニ・カウンタックを見れば、
誰でも自動車だとわかりますよね。
まさか、原付自転車だという人は、
いないでしょう。それと、おなじですよ(@^^)/~~~
zzzzzzzzzzzzzzzz
この回答への補足
わかっている人にとってはわかりやすいのでしょうか・・・。
最近、哲学と宗教の境目がわからなくなってきてしまって困っていますが、哲学と宗教の定義における違いはなんでしょうか。
仏教には神のようなものは存在するのでしょうか?
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