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テスト勉強をしていたのですが、
短歌の区切れがよくわかりません。
区切れの見分け方などを見てみたのですが、いまいち自信がないです。

短歌自体を探しましたが色々なサイトを見てみたのですが、
以下の短歌がよくわかりません。
何区切れか、教えてください。

・いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春ゆかんとす(正岡子規)
・列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし(寺山修司)
・観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生(栗木京子)
・みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ(島木赤彦)
・海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家(与謝野晶子)
・みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる(斉藤茂吉)
・春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕(北原白秋)
・白鳥は悲しからずや空の青うみのあをにも染まずただよふ(若山牧水)
・やはらかに柳あをめる
 北上の岸辺目に見ゆ
 泣けとごとくに(石川啄木)
・白き虚空とどまり白き原子雲そのまぼろしにつづく死の町(近藤芳美)
・つばくらめ空飛びわれは水泳ぐ一つ夕焼けの色に染まりて(馬場あき子)
・<生まれたらそこがふるさと>うつくしき語彙にくるしみ閉じゆく絵本(李正子)
・「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(俵万智)

多くてすみません。
宜しくお願いします。

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A 回答 (5件)

区切れでなく、句切れでした。


何句の後に意味の切れ目があるか、ですからね。
自力で考える習慣をつけて欲しいです。
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これらがもしすべて現代の話し言葉で書かれていたら、どこが区切れと分かりますか?もし分かるとすれば、古文の勉強(授業に真剣に取り組むだけでも違うと思います)が足りないということでしょう。


もし分からないとしたら、残念ながら国語のセンスがないとしかいいようがない気がします。日本人であってもそういう人はいて、運動神経のの善し悪しと同じようなことでしょうから、その人を責めることはできないと思います。(ちなみに私自身、国語に興味があっても、センスはいまいちと思っている者です。)
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 「『区』切れ」ではありません。


 「『句』切れ」です。

 短歌を音数で「五・七・五・七・七」の5つの部分に分けたそれそれの部分を「句」と呼びます。
 そして、五つのうちのどの「句」の後に意味の切れ目があるかが「『句』切れ」です。

 五つの部分を順に「初句」「二句」「三句」「四句」「結句」と呼びます。
 「二句」~「四句」は「第~句」と「第」を付けて呼ぶこともあり、それに合わせて、「第一句」「第五句」と呼ぶこともないわけではりありませんが、「句切れ」の場合は「第」は付けません。

 上に書いたように、意味の切れ目のある場所によって、「初句切れ」「二句切れ」「三句切れ」「四句切れ」「句切れなし」と呼びます。
 普通の文章に直してみたとき、句点「。」の付くところ、というのが有効な見分け方です。
 (短歌によっては初句と三句とか、二カ所で切れるものもまれにあります。)

 また、「結句切れ」というのはありません。結句の後にしか意味の切れ目がないと言うことは、全体が一続きになっているということですから、「句切れなし」です。

 誤字で減点されるといけませんので、直接の回答ではありませんが、「アドバイス」させていただきました。

 もしかして教科書は三省堂の「現代の国語2」をお使いでしょうか。
 「アドバイス」ついでに言わせていただくと、句切れについては授業で先生がご説明になりませんでしたか。

 このようなところで「丸投げ」(規約が改正〔改悪?〕されて、禁止ではなくなったようですが)の形でお尋ねになるより、まず授業をしっかり聞くことが大切ですし、欠席して聞けなかった等の事情があるなら、早めに担当の先生にご質問なさることが肝要かと存じます。
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句点{。

)をつけてみましょう。
・いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春ゆかんとす(正岡子規) 区切れなし
・列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし(寺山修司) 区切れなし
・観覧車回れよ回れ。想ひ出は君には一日我には一生(栗木京子) 二句切れ
・みづうみの氷は解けてなほ寒し。三日月の影波にうつろふ(島木赤彦) 三句切れ
・海恋し。潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家(与謝野晶子) 初句切れ
・みちのくの母のいのちを一目見ん。一目みんとぞただにいそげる(斉藤茂吉) 三句切れ
・春の鳥な鳴きそ鳴きそ。あかあかと外の面の草に日の入る夕(北原白秋) 二句切れ
・白鳥は悲しからずや。空の青うみのあをにも染まずただよふ(若山牧水) 二句切れ
・やはらかに柳あをめる
 北上の岸辺目に見ゆ。
 泣けとごとくに(石川啄木) 四句切れ
・白き虚空とどまり白き原子雲。そのまぼろしにつづく死の町(近藤芳美) 三句切れ
・つばくらめ空飛びわれは水泳ぐ。一つ夕焼けの色に染まりて(馬場あき子) 三句切れ
・<生まれたらそこがふるさと>。うつくしき語彙にくるしみ閉じゆく絵本(李正子) 二句切れ
・「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(俵万智) 句切れなし

 

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A5%E5%88%87% …
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・いちはつの花咲きいでて 我目には今年ばかりの春ゆかんとす(正岡子規)


・列車にて遠く見ている向日葵は 少年のふる帽子のごとし(寺山修司)
・観覧車回れよ回れ 想ひ出は君には一日我には一生(栗木京子)
・みづうみの氷は解けてなほ寒し 三日月の影波にうつろふ(島木赤彦)
・海恋し 潮の遠鳴りかぞへては 少女となりし父母の家(与謝野晶子)
・みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる(斉藤茂吉)区切れなし
・春の鳥な鳴きそ鳴きそ あかあかと外の面の草に日の入る夕(北原白秋)
・白鳥は悲しからずや 空の青うみのあをにも染まずただよふ(若山牧水)
・やはらかに柳あをめる
 北上の岸辺目に見ゆ
   泣けとごとくに(石川啄木)
・白き虚空とどまり白き原子雲  そのまぼろしにつづく死の町(近藤芳美)
・つばくらめ空飛びわれは水泳ぐ  一つ夕焼けの色に染まりて(馬場あき子)
・<生まれたらそこがふるさと>  うつくしき語彙にくるしみ閉じゆく絵本(李正子)
・「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(俵万智)区切れなし
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Qテスト直前なのに、短歌の区切れがわかりません………。

短歌の句切れ、どのように見分けたらよいのかがわかりません。
感動の助詞(けりなど)がなかったら『句切れなし』なのでしょうか?

以下の句の句切れ、自分で考えても理解できず、家族や友人に聞いてもわからないと言う返事しか返ってこなく、
ネットで調べてもよくわからないので困っています。
どうぞよろしくお願いします。

・防人に 行くはたが背と 問ふ人を 見るがともしさ 物思もせず(防人歌)
・多摩川に さらす手作り さらさらに なにそこの児の ここだかなしき(東歌)
・君待つと 吾が恋ひをれば 我がやどの すだれ動かし 秋の風吹く(額田王)
・近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ(柿本人麻呂)
・うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思えば(大伴家持)

すべて万葉集で、とても一般的な句なのだそうですが、よくわかりません。どうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

「句切れ」とは、和歌や俳句において、意味の上でいったん切れるところです。
以下のような場合があります。

1、切れ字のあるところ。
「切れ字」は、「や」「かな」「けり」など。俳句の項目で調べると分かります。でも、松尾芭蕉は「全て切れ字」とも言っていて、本質的には奥の深いもので、一概に「これが切れ字」とは言えません
↑「けり」は「詠嘆の助動詞」です(「助詞」ではない)。

2、係り結びの結んであるところ。
係助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」は連体形で結び、「こそ」は已然形で結ぶ。

3、終止形や命令形で言い切っているところ。

4、体言止めで言い切っているところ。
ただし、体言で句が終わっていても、そこへ「を」「に」などの助詞を補ってあとの句へ意味がつながるような場合は、ここを句切れとは考えません。

5、倒置法のあるところ。

6、呼び掛け法のあるところ。

韻文の場合、芸術的に感心できませんが、一応、「解釈(分かりやすい現代語に訳す)」をしてみると、句切れも分かるかと思います。

*防人に・・・
あの九州の警備兵として徴兵されていくのは誰の旦那さんかしらね、と訊く人を、見ることのうらやましさと言ったらないよ。なんの悩み事もなくて(あの防人は私の夫なのだよ、私には危険な国境に夫を送り出すという悩みがあるのだ)。
→「ともしさ」が体言止めで、意味的に倒置法なので四句切れです。

*多摩川に・・・
多摩川に晒して作る布を見ていた。その「さらす」という音でふと思い出したが、さらにさらにどうしてあの子がこんなに恋しいのだろうか。
→「多摩川にさらす手作り」までは、「さらさらに」を導くための「序詞(じょことば)」で、和歌の解釈としては内容的な意味はなく、「手作り」は体言止めで、二句切れです。

*君待つと・・・
恋人のあなたの訪れを待って私があなたを恋い慕っていると、私の家の簾を動かして、あなたの代わりに秋の風が訪れ、あなたはまだ来ないのだった。
→順当な流れのうちに結句まで言い切っている歌で、句切れなし。ちなみに、古今集以降だと、「秋風」を「飽き」との掛詞(かけことば)と考えて、恋人の訪れがないのを、恋人とが自分に「飽き」たからだ、と、別れや失恋を暗示するのですが、万葉集だとそこまで読むのは深読みと考えられるでしょう。単に季節がほんとに秋だっただけ。女心の寂しさは詠み込まれているけど。

*近江の海・・・
琵琶湖に夕方立つさざ波に群れ遊んでいる千鳥たちよ、お前が鳴くと、私はひどくしみじみと悲しくなって、昔のことが偲ばれてならないよ。
→「夕波千鳥」を呼び掛け法と考えても、単なる体言止めと考えても、いずれにせよ二句切れ。

*うらうらに・・・
うららかに照っている春の陽射しに雲雀が空高く舞い上がり、私の心はいっそう悲しいなあ。一人ぼっちで物思いに耽っているので。
→「心悲しも」の「も」は、上代特有の助詞で、詠嘆を表すので、ここで切れて四句切れ。春の憂愁(メランコリー)を詠い、万葉集としてはかなり進んだ、中古的美意識をもって詠んだ歌。雲雀の楽しそうなさえずりと、自分の憂鬱な物思いとの対比。

万葉集の和歌には、二句や四句の偶数で句切れのある歌が多いのです。
五七/五七/七
と「五七」のリズムが強調されるので、「五七調」と呼ばれます。
(古今集以降の和歌は、初句や三句の奇数句で句切れのある歌が多く、五/七五/七七と「七五」のリズムが強調されて、「七五調」と呼ばれます)
五七調の和歌は、五音という軽い上半身を、七音という重い下半身でしっかりと支えるので、歌体が安定し、堂々とした力強い響きをもたらします。
七五調の和歌は、反対に、七音という重い上半身が、五音という軽い下半身の上に乗っかる格好になるので、歌体はふらつき、なよなよとした流麗な流れの良い歌になります。

「句切れ」とは、和歌や俳句において、意味の上でいったん切れるところです。
以下のような場合があります。

1、切れ字のあるところ。
「切れ字」は、「や」「かな」「けり」など。俳句の項目で調べると分かります。でも、松尾芭蕉は「全て切れ字」とも言っていて、本質的には奥の深いもので、一概に「これが切れ字」とは言えません
↑「けり」は「詠嘆の助動詞」です(「助詞」ではない)。

2、係り結びの結んであるところ。
係助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」は連体形で結び、「こそ」は已然形で結ぶ...続きを読む

Qくれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の

正岡子規の短歌、
・くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やわらかに 春雨の降る
について教えてください。

特に「二尺伸びたる」はどの名詞を修飾しているのでしょうか。候補は、薔薇と芽だけれど、二尺って60センチです。だとすれば、それが修飾しているのは、芽(茎や蔓の意がある)でしょう。でも、茎が紅色って考えにくいです。

ではと思って、「くれないのバラの芽(蕾)」だと考えると、「二尺伸びたる」のがどこを修飾するかわからなくなってしまいます。

それならと思って、「くれないの」を枕詞だと考えてみるけれど、枕詞の「くれないの」は普通、「色」や「あさ」にかかるのだから、ちょっと無理があります。

正岡子規って、写実主義の歌人だったから、たぶん答えがあると思うのです。文法的に、どうしたら整合性がつくのか、教えてください。

Aベストアンサー

早蕨の質問がお終いになっていましたので、こちらに回答します。

毎年冬を越すため、ハイブリッドのバラから、去年伸びた茎を毎年スッパリと剪定します。春になるとまたそこから芽が伸びてきます。白いバラの茎は柔らかい緑色ですが、赤いバラの茎は紅色といえないこともありません。細い茎がどっしりとした根元からシューッと伸びてきます。葉は深い緑色ですから、紅色は映えます。

60センチ伸びたというから、ずいぶん大きな花のつぼみがついていたことでしょう。そのつぼみに、まるで早く咲けというように、春雨が降りかかっています。風もなく、シトシトと霧のような春雨です。

そうして、バラの花はまた今年も咲こうとしているのです。

作者がバラに見たものは希望だったか、自然の摂理だったか。散り際の美しい桜に比べると、バラの美しさは開きかけに尽きます。その、開きかけよりさらに前、つぼみの景色を歌にした作者は、柔らかな茎を伸ばして、成長してゆくものの命を暖かく包み込む、春雨を詠んでいるように感じます。

彼がつぼみで、春雨は母だったかもしれません。

Q石川啄木の短歌について・・・

石川啄木の短歌「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」と「しらしらと水かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな」の意味を教えてください。お願いします

Aベストアンサー

【不来方のお城の草に寝ころびて
        空に吸はれし十五の心】

15歳のころ、不来方城の草原に寝転で空を見ていて
私の心は吸い込まれそうだった。


盛岡城は別名不来方(こずかた)城といいます。
啄木は盛岡で中学校(盛岡尋常中学校)時代をすごしました。
学校を抜け出し不来方城の草原で寝転んで
空を見ていたころを懐かしんでいる歌ですね。
啄木は与謝野晶子の歌集「みだれ髪」に影響を受け、
16歳に中学校をやめて、この後上京します。


しらしらと水かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな

釧路の海の水面は月の明かりでしらしらと輝いています。
夜の冬の釧路の海には千鳥はいない静寂があります。

啄木は明治40年(1907)生活の行き詰まりから北海道に渡ります。
北海道の函館、札幌、小樽、釧路と漂白生活をすごしました。
76日間の釧路時代に歌った歌でしょう。

注:私は【千鳥なく】を千鳥は夜はいない(なく)と解釈します。
夜は千鳥はいないと思います。

参考URL:http://member.nifty.ne.jp/namur/takuboku/takuboku.htm,http://www.city.kushiro.hokkaido.jp/kankou/b/b03-003.html

【不来方のお城の草に寝ころびて
        空に吸はれし十五の心】

15歳のころ、不来方城の草原に寝転で空を見ていて
私の心は吸い込まれそうだった。


盛岡城は別名不来方(こずかた)城といいます。
啄木は盛岡で中学校(盛岡尋常中学校)時代をすごしました。
学校を抜け出し不来方城の草原で寝転んで
空を見ていたころを懐かしんでいる歌ですね。
啄木は与謝野晶子の歌集「みだれ髪」に影響を受け、
16歳に中学校をやめて、この後上京します。


しらしらと水かがやき千鳥なく釧路...続きを読む

Q正岡子規「くれないの二尺のびたるばらの芽の~」の情景はいつ頃を指していますか。

 正岡子規「くれないの二尺のびたるばらの芽の針やわらかに春雨の降る」の情景はいつ頃を指していますか。
 季語で見ると春雨で春、しかしバラの季語は夏でまだ芽であるため、春雨は梅雨を表し6月中頃ではと思いますがどうでしょうか。

Aベストアンサー

これは、まさに「芽」でしょう。
木々の芽吹くときです。病床にある子規がバラの新芽の生命力の強さに憧れた歌だと思います。
まさに「春雨」早ければ2月、あるいは3月の歌だと思うのが妥当です。
「くれないの」というのは、バラの花ではなく、芽吹くときの先が赤くなることを指しています。或いは、子規自身が吐血したのかもしれません。
いろいろと想像力をたくましくすることが、詩歌の鑑賞には必要でしょう。

Q短歌(句切れ)

 短歌に関する質問です。次の短歌の句切れは、どこになりますか?
(1)屋上の柵にむらがり来るかもめまなこ鋭く互ひに憩ふ
(2)草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり
(3)みすずかる信濃のわが家いや古りてかの大時計今も動くか
(4)その子らに捕へられむと母が魂蛍となりて夜を来たるらし
(5)アカシアの並木にポプラに
   秋の風
   吹くがかなしと日記に残れり
(6)夏の風山より来たり三百の牧の若馬耳ふかれけり
 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

自分も知りたいので注目していましたが、レスが付かないので呼び水として・・・。
解説する能力はないので答でなく、自分の考えだけです。
(1)3句切れ
(2)1句切れ
(3)5句切れ
(4)3句切れ
(5)3句切れ
(6)2句切れ

・「句末に体言がある」というのは句切れの有力な目安になる、と考えています。
・「屋上の」は字余りでないと考えます。

・毎日曜日NHK教育、7:30AM(?)で司会者が応募作品をよむとき、句切れの箇所でほんのちょっと間をとっていませんか。参考になるかもしれません。

回答ではなくて済みません。締め切る際に正解を教えてくれると有り難いです。

Q若山牧水 白鳥は・・の訳について

白鳥は「哀しからずや」の「哀しからずや」はどう訳せば良いのでしょうか。
できれば、入試問題的な解答をいただきたいのですが。

Aベストアンサー

 
  牧水の元の歌はひらがなだたような気もするのですが、漢字で「哀」を使っていたなら、それは「悲」の場合の「かなしからずや」とはニュアンスが違います。そもそも、同じ「かなし」が、何故、「哀し・悲し・愛し(かなし)」に漢字で書き分けるかと言うと、元の言葉に複数の意味・ニュアンスがあって、それを表現するための工夫で、自覚的に文章を書いている人は、それぞれに意味やニュアンスを区別して使っているはずです。
 
  「悲哀」は、「かなしみ」ですが、「悲痛+哀切」というような感じで、決して、「かなしい+かなしい」の二重重ねではないはずです。(悲哀、悲痛、哀切で、人によって把握が違うかも知れませんが、明らかにニュアンスが違っています。みな、同じ「かなしい」ことだと言えば、乱暴でしょう)。
 
  しらとりはかなしからずや → 白い鳥は、悲痛ではないのだろうか
  しらとりはかなしからずや → 白い鳥は、哀切ではないのだろうか
 
  これは、意味やニュアンスが違っています。「悲痛」というと、しらとりを見て、心が、どういう理由か「痛む」という感じで、かなり感情で辛いものがあります。「哀切」というと、心に痛みがあるかも知れませんが、それを詩的に受け止めるというか、ある程度客観化し、距離を置いた感じがわたしにはします。(悲痛は、「私が悲痛」で、哀切は、「何かが哀切」です。大ざっぱですが)。
 
  白き鳥よ、あなたは何と哀切なことか、空はこんなに青く、海はあんなに青いのに、空からも海からも離れ、ひとり孤独に漂っていることか。

  (そのように、わたしの心も、哀切のなか、漂泊の思いに満たされる……)。
 
  これは、わたしの解釈ですが。
 

 
  牧水の元の歌はひらがなだたような気もするのですが、漢字で「哀」を使っていたなら、それは「悲」の場合の「かなしからずや」とはニュアンスが違います。そもそも、同じ「かなし」が、何故、「哀し・悲し・愛し(かなし)」に漢字で書き分けるかと言うと、元の言葉に複数の意味・ニュアンスがあって、それを表現するための工夫で、自覚的に文章を書いている人は、それぞれに意味やニュアンスを区別して使っているはずです。
 
  「悲哀」は、「かなしみ」ですが、「悲痛+哀切」というような感じで...続きを読む

Q斎藤茂吉 至急お願いします

回覧ありがとうございます。

私は中2なんですが、明日国語の発表があります。

斎藤茂吉の「母の歌」です。

この短歌は教科書にのっています。


みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる

死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり



というものなんですが、この現代語訳を知りたいんです。

あと、この短歌のテーマも考えてほしいです。

お願いします。

Aベストアンサー

No.1さんの回答に賛成です。この三日間なにやってたんですか。

「たはむれに母を背負いて そのあまり軽きに泣きて 三歩歩まず」は石川啄木です。

Q品詞・表現技法についての質問です。

中学2年生です。明日提出予定の宿題ですので、かなり急いでおります。
その宿題とは、「1つの短歌に注目して、作品についてのまとめを行なう」と
いうものなのですが...いまいち表現技法などがわかりません。
その短歌とは、俵万智さんの「思い出の 一つのようで そのままに しておく麦わら 帽子のへこみ」
なのですが...「へこみ」で終わる場合、それは表現技法の*体言止め*といえますか?

今、自分なりに分かったのは

・句切れなし
・口語がなめらかに流れるように結句まで続く
・「へこみ」を使用することによって、楽しさだけではなく切なさや悲しさも表現している

という3つのみです。
その他、この短歌に使われている表現技法やリズムの工夫などがありましたら
教えていただきたいです。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

もう宿題を出しちゃったかもしれませんが・・・。
体言止めであってますよ。
夏の思い出を記憶にとどめておくため、あえて「へこみ」を直さないとの歌かと。
「へこみ」は楽しい思い出かもしれませんし、切ない思い出に通じるかもしれませんね。
私は記憶にとどめておきたいような思い出なので、楽しかったに一票入れます。

Q正岡子規の短歌の解釈

正岡子規の短歌に「瓶にさす藤の花ぶさみじかければ たたみの上にとどかざりけり」というものがあります。
 この短歌の意味とみなさんの独自の解釈を教えてください。 詳しく教えていただけると幸いです。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
>「瓶にさす藤の花ぶさみじかければ たたみの上にとどかざりけり」

俳句というのは、元々、これだけで文学作品としては自立せず、状況説明などが必要になります。詠まれた状況が分かると、はじめて意味が納得できる作品では、自立しないのです。しかし、短歌は、和歌もそうですが、詠まれた状況を外しても、自立した作品となります。

ただし、うたが詠まれた状況が分かっていれば、なお、うたの鑑賞は深くなるとも言えます。

まず、このうたは、正岡子規が病弱で、晩年、病床に伏して多くの作品を造ったことは有名ですが、この作品が果たして、病床にあるときの作品かどうか、わたしは知りません。しかし、短歌は、字数が多いため、色々な内容を詠むことができます。この作品の場合、「たたみの上にとどかざりけり」と、短句あるいは下の句で詠っています。

一体、瓶にさした藤の花ぶさが、たたみの上に届くとか届かないとか、普通、そういうことを気にするだろうか、という疑問が素朴に出てきます。つまり、枯れかかって来た場合などは別ですが、たたみなどに花が触れないように活けるのが、普通です。

ここから、花房がたたみに触れるか触れないかということを、わざわざ短句で詠むということは、作者の視点が、床のたたみ近くにあるからではないかということが出てきます。そうでない場合は、別の詠み方が可能だからです。

正岡子規が病床に伏して作品を造ったか造らなかったか、この作品は病床に伏していたとき造った作品なのか、元気なときの作品なのか、それは分からないとしても、作品自身のなかに詠み込まれている言葉から、病床か、または何にしろ、たたみ近くに横たわって詠んだうたではないかという推測が当然出てきます。あるいは、たたみに横たわる場合の視点を想像して詠ったという解釈が出てきます。

「瓶にさす藤の花ぶさ」となっています。自然に咲いている藤の花ではなく、瓶に活けられたものなのです。これも重要で、わざわざそう詠うということは、「瓶の花」でなければならない理由があるのです。たまたま、瓶の藤の花を見たということでもよいのですが、この「たまたま見た」は、歌においては、「必然理由」になります。

先にも述べましたが、「瓶にさす花」が、床のたたみに、その花が届かないのは、ごく当たり前のことです。そういう風に花をさす、というか活けるからです。

すると、これはあたりまえの何でもない情景を詠っているということになります。しかし、「詠っている」ということに意味があるのです。わざわざこれをうたにしたというのは、何故かという疑問です。

ここで、「視点」が、たたみの上に横たわっているか、その状態を想定しての視点だと先に述べたことが関係してきます。藤の花ぶさが、たたみに届かない、という状況は、横たわっている状況が、そのままで、変えることができない、という事態を平行的に詠んでいるのではないかと解釈できるのです。

「瓶に活けられた藤の花ぶさが、畳に届かない。届かないのは当たり前で、そのように活けてあるのである。横たわる私も、この床から出ることができない。できないのは当然で、わたしは多分、病で、このまま死んで行くはずなのだから。世のなかの定めはどうしようもないものがある。人の運命も、どうしようもない。しかし、そう思いつつも、藤の花が、手元にあれば、ただ見るだけでなく、触れてめでることもできる。それもできないのが運命である。わたしのいのちが短いのも、これも運命だろう。しかし、花は花、短いことも短いこと……自然なことではないか」

ここまで解釈すると、正岡子規が、病床で作品を造り、病床から抜け出すことなく病死したという知識が入っていますが、作者は、「客観的」に「花ぶさの短いこと」「自分のいのちも短いこと」などを、何気ない情景を描写するように詠っていることになります。

自分自身のありようを、「客観視」し、色々な思いや、心の苦悩なども、もしかしてあるかも知れないのを、そういうことを一読感じさせず、何気ない情景を詠んだように作品を造っているところに味わいがあるということになります。(何気ない情景を詠んだうたではない、というのは、最初に、なぜ、たたみに届かないことを、それほど重要視するかということを述べましたが、ここから、出てきます)。
 
(また、たたみ近くの視点は、「寝ている状態」「病床にある状態」「死んで横たわっている状態」など色々ありえるのですが、正岡子規が、病床に伏してうたを詠んだなどという知識を前提にしないでも、「寝ている状態」を想定して、こういううたを詠んだということから、この「寝ている状態」は、多分、病床で、しかも、長くないいのちではないか、というのが、うたの言葉を玩味すると出てくるのです)。
 

 
>「瓶にさす藤の花ぶさみじかければ たたみの上にとどかざりけり」

俳句というのは、元々、これだけで文学作品としては自立せず、状況説明などが必要になります。詠まれた状況が分かると、はじめて意味が納得できる作品では、自立しないのです。しかし、短歌は、和歌もそうですが、詠まれた状況を外しても、自立した作品となります。

ただし、うたが詠まれた状況が分かっていれば、なお、うたの鑑賞は深くなるとも言えます。

まず、このうたは、正岡子規が病弱で、晩年、病床に伏して多くの作品を...続きを読む

Q短歌(句切れ)

 短歌に関する質問です。句切れについて、次のような説明があると思います。
 初句、三句切れ:七五調→優美でなだらかなリズム感
     古今、新古今和歌集に多い。
 二句、四句切れ:五七調→力強く、荘重なリズム感
     万葉集に多い。
そこで(1)なぜ、初句三句切れは七五調といい、二句四句切れが五七調というのですか?
(2)なぜ、七五調は優美でなだらかなリズム感、五七調は荘重なリズム感と説明されるのですか?
 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

五七調の句切れは、次のようになります。
 二句切れ 五 七。五 七 七
 四句切れ 五 七 五 七。七
つまり、いずれも「五 七」で文が切れることから、五七調と呼びます。
一方、七五調の句切れは、次のようになります。
 初句切れ 五。七 五 七 七
 三句切れ 五 七 五。七 七
「七 五」で切れるから七五調です。
なお、一首の中で二句と四句の二か所で切れる歌はありますが、初句と三句で切れる歌は非常に少ないようです(見たことがありません)。また、二句と三句といった、破格の組み合わせの二か所で切れる歌も見たことがありません(絶対にないとは言い切れませんが。)。
 
以下、旺文社古語辞典巻末付録の「国語・国文法用語解説」にあった記述ですが、(1)・(2)のご質問に対する回答としてよくまとまっていると思うので、そのまま引用します。【 】は私がつけたもので、特に強調したいところ(ご質問に直接かかわるところ)を囲んでいます。

五七調
>わが国の詩歌は、五音・七音を音数律の基本単位として、その反復・配列によって構成されることが多い。【五七調は、上五音、下七音の結合から成る調子で、上軽く、下重く、そのために安定感があって、典雅・荘重なリズムを形成する。】古く万葉集の長歌に多く見られたが、古今集を経て新古今集時代になると、七五調が盛んとなり、五七調は衰えた。【長歌の場合は五音・七音の反復でそのまま五七調であるが、短歌では二句切れや四句切れになる場合を五七調とよぶ。】なお、五七調は和歌以外の詩歌にも用いられ、特に明治以降は詩のスタイルとして用いられている。
七五調
>(略。上記五七調の第一文に同じ)【七五調は、上七音、下五音の結合から成る調子で、上重く、下軽く、そのために不安定な感じがある反面、軽妙流暢なリズムを形成する。】和歌においては、古今集から多くなり、新古今集において最も多く用いられた。【短歌における七五調とは、三句切れになる場合をいう。】なお、七五調は和歌以外の種々の歌謡、散文の道行文などにも用いられ、明治以降は詩のスタイルとして広く盛んに用いられている。

以前、出版社にいたころに読んだどこかの指導書の解説には、”「句切れ」に関してもいろいろな考え方があって、深く考えていくと泥沼にはまる恐れがあるので、単に、意味が切れ、句点が置けるところが句切れである、という指摘にとどめるのがよい”とあったと記憶しています。
私事に渡り恐縮ですが、爾来、もともと韻文(及び古典全般)が苦手ということもあって、各種教材や模試で、突っ込んだ問題は出してきませんでした。
もし、短歌に関して一家言あるのならともかく、そうでなければ、あまり深入りしない方がいいと思います。

五七調の句切れは、次のようになります。
 二句切れ 五 七。五 七 七
 四句切れ 五 七 五 七。七
つまり、いずれも「五 七」で文が切れることから、五七調と呼びます。
一方、七五調の句切れは、次のようになります。
 初句切れ 五。七 五 七 七
 三句切れ 五 七 五。七 七
「七 五」で切れるから七五調です。
なお、一首の中で二句と四句の二か所で切れる歌はありますが、初句と三句で切れる歌は非常に少ないようです(見たことがありません)。また、二句と三句といった、破格の...続きを読む


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