人生最悪の忘れ物

理論と理論で言い争い見てしもうたんで、ちょっと気に成りまして、どうでしょやろ。

A 回答 (13件中1~10件)

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理論は外の問題の解決に使う道具と違うんどすかやないやろか
(中略)
どうでしょやろ
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京都弁ないしなにわ言葉に近いけれど、少し違和感がありますよね。
おなじ関西弁でも、たとえば(なにわ言葉ではない)大阪弁なら
>>>===
理論てゅーのは、外の問題の解決に使う道具とちゃうんか?(あるいは、「違わへん?」)
(中略)
どないやろ。(あるいは、「どない思う」、「どうでっか」)
<<<===
といった感じになるでしょうか?

理論は、おっしゃるように(外の)世界を理解する(納得する)ための道具で、上述のように「違和感を感じる」程度でとどめないで、「なぜ?」と考え始めたとたんに使われ始めるものでしょう。すなわち、関西弁かな、関西といっても京都弁かな、それとも大阪弁かな、といった程度の納得にも(知らず知らずのうちに)使っていることでしょうし、通常は自身の内部で(多くは無意識の内に)処理されるものです。

また、「ある理論」は「一つの可能性」としての道筋であって、「なぜ?」に対して複数の道筋(複数の可能性)、「複数の理論」を排除しえないものでしょう。

自身が自身の心を含めた全体を、「どのように理論的に切り出して」(あるいは、「どういった視点に立脚して」)考えているのかを表明するとき、相互に、「そういった考え方もあるよね」となれば、「複数の理論」(複数の可能性)が並列するでしょうが、「真なるものは、ひとつ」として、複数の並列性を否定する考え(理論)を持っている場合に「理論武装」になるでしょう。

しかし、「複数の理論(可能性)」を受け入れようとしているにもかかわらず、心が(情的に)拒絶する(すなわち、自身を納得させることができない)場合には、自身の心が病むのを防ぐため、(無意識のうちに、暫定的に)理論武装が行われてしまうこともあるでしょう。この場合には、時間がたつと、受け入れ可能になることもあるでしょう。

したがって、一概に「理論武装」だと受け止められるような状況であっても、相手の状況は(少なくとも)二つ以上の可能性があるという「複数の理論」で考えるべきだと思います。
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この回答へのお礼

k_jinenさんありがとうございます。


関西弁或は大阪弁もですが、年齢による違い、そして上の人、同等の人、下の人によっての使い分けが有るでしょうから一つの言葉でも沢山有ると思います。理論ちゅーのは、外の問題の解決に使う道具とちゃうんか?「ちゃうんか?」は少し偉そうな表現ですね。「ちゃうん」の表現の方が柔らかく、ざっくばらんな、感じですね、どちらかと言うと男言葉ですね、女性も使いますが。「違わへん?」の方が一番柔らかい表現だと思います。男女とも同じ様に使いますね、どちらかと言えば女言葉でしょうか。。

「どうでしょやろ どないやろ どない思う どうでっか」は全て使います。  「どうでっか」が私自身はよく使うと思います、同等の人に或は目上でも気を使わなくていい人に使います。  目上或は気を使う人には「どうですか」と使います、標準語ですかね。おじさんには「おっさん」「おっちゃん」をよく使いますが、「おっさん」と呼ぶと大体の人は不愉快に思います。「おっちゃん」は親しみを感じます。

k_jinenさんは聡明な方ですね、文章を判りやすいですね、色々と勉強に成りました。

お礼日時:2009/10/26 04:01

理論は自分に対しても使えるものだと思います。

そして、それで自分を救えるとまでは云いませんが、戦ってもがくことはできるとは思います。

人が理屈を求めるときというのは、ゼロかマイナスからのスタートだと考えています。ゼロは好奇心や探究心に基づくもの、マイナスは日常を覆う不幸に起因します。そして、俺たち(俺だけかもしれませんが)が日常必要とする「理屈」の大部分は、このマイナススタートの理屈ではないかと思います。

およそ人は、幸せなことや何不自由ないことについて「理屈」をつけようとはしません。少し前に流行った「リア充」なるものがもし実在するなら、彼ら自身は「リア充」なんて言葉を作ってまでそれについて理屈を捏ねたりしないでしょう。理屈を捏ねるのは「リア充」になり損なった人間でしょう、多分。「差別」に晒された人は「差別」について、「才能」に思うところのある人は「才能」について理屈を捻りだし、どうにか呑み込んでやろうともがきます。内面が「理」を求めるわけです。そうやって、どんどん理屈っぽくなっていくんでしょう(苦笑)。

不幸の片鱗を感じ取るのは他人の言葉の中にであったり、自分の割り切れない感情の中にであったりします。そして、そうしたあまりにありふれた不幸の中には、本質的に「どうにもならないこと」が多く含まれていることもあるんではないかと。つまり、それら「人生の不具合」を正すことは、ほとんどできない。努力や運がうまく作用することもあるけれど、そんなものはごく限られたケースにすぎないでしょう。

だから、理論武装している人はたいてい屈託を抱えていると思います。それは理屈の向こうに「不幸」を見付けてしまったことの証左でもあります。それは、その人間の処世術であり、不幸を御する作法でもあるわけです。理論武装などというとネガティブなイメージばかりが先行しがちですが、俺は「理屈」で飼殺すべき不幸はあると思うわけです。

なので、「それは本当に不幸なのか?」と考えることはときに有効だと思います。意図して他者を貶めることで自分を守るような理論武装は嫌悪されますが、不幸を相対化しうまく付き合うための理論武装は処世術としてありではないかと思います。
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この回答へのお礼

>不幸を相対化しうまく付き合うための理論武装は処世術としてありではないかと思います。

そんなもんでしょうか・・・。

色々なご意見があっていいと思います、sakusyaさんありがとうございました。

お礼日時:2009/10/26 16:03

 No.6です。



 ★ (No.6お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >すくわれたゆえに理論武装もするということっちゃうやろか。

 救いの当体は無理論の理論ですが、理論出来ない救いの当体を理論で来ますか。。  空っぽですが、救いは!
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 読み取りにくいのですが まさか
 ○ 《救いの当体》ということばに 《すくう者》と《すくわれる者》との両者を一体として捉えている。
 ☆ のではないでしょうね?
 ★ 無理論の理論
 ☆ というのは 《なぞ》のことでしょうね。表象し得ないし したがって言い表わし得ない。しかもただし人間は これを仮りのことばで表わそうとしてきたし いまも表わしている。神なら神と。そして 救い主とも言いますからね。

 ★ 理論出来ない救いの当体を理論で来ますか。。 
 ☆ これは 上に述べたようにじんるいは代理表現をとおしてもものを考えることをして来ましたので その系譜において捉えるならば 考えられると思います。

 1. 人間の言葉に表わし得ないものを――想定するからには――神なら神という言葉で仮りに表わす。

 2. しかもこの神を救い主とも――その想定者である人間は――見るのですから この《なぞ》についてひとは観想します。瞑想します。
 3. これを無理にでもさらに言葉に表わしたものは 神秘思想として受けとめているようです。《異言》とも言いますね。

 4. 観想もすでにテオーリアという言葉ですが このテオーリアから神秘思想をとおしてさらにそこから経験合理性で認識しうる内容として表現したものが テオリーであり理論であるようです。
 5. (ここは こころのすくいについてですから 経験科学の理論一般については触れません。複数理論を扱いません)。

 6. ★ 《理論出来ない救いの当体を理論で来ますか。。》――☆ これのひとつの候補が 三位一体説です。

 7. 神を三つの位格から成る一体なる存在だと説明するものです。
 8. 神をひかりにたとえて 光源を父 発耀を子 この光の明るさやあたたかさを《父と子との両者から発する聖霊》とそれぞれ捉えます。
 9. 子がキリストとしてイエスなる人間に宿ったと言います。去って行ったあと 子は父とともに聖霊を送ると言いました。

 10. この神は 人間を自分にかたどってつくったと言われます。
 11. ひとにおいてあたかも父は 精神の秩序としての《記憶》行為であり 子は記憶から想起しつつものごとを考えまとめる《知解》能力であり 聖霊は 記憶と知解にもとづき取捨選択するときの判断をになう《意志》行為であるとそれぞれ見られるという説明つまり理論です。

 12. 社会においてひとの身体=精神の秩序である《記憶行為》は 司法に当たり 《知解行為》は 立法であり 《意志行為》は行政であると類型的に捉えられます。
 13. 三権分立ということは 務めを分担しつつ総合的に一体であるということでしょう。

 14. とは言っても
 ★ 空っぽですが、救いは!
 ☆ なぜなら すべては言い表わし得ないものを人間が勝手に想定しこれを無理にでも仮りに人間の言葉で表わしたに過ぎないからです。

 ただし こころは こころで反応するでしょうね。
 所詮はすべて主観の問題になります。《主観の問題》というときには すでにつねに相手の主観の存在は前提されています。間主観性とか共同主観とか言って その主観関係の問題であると見られています。
 つまり 《わたし》の主観から発して社会において行動していってよいとなるはずです。
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この回答へのお礼

>○ 《救いの当体》ということばに 《すくう者》と《すくわれる者》との両者を一体として捉えている。
>☆ のではないでしょうね?

■紅葉の季節に成ってきましたが、楽しみですね。

>★ 無理論の理論
>☆ というのは 《なぞ》のことでしょうね。表象し得ないし したがって言い表わし得ない。しかもただし人間は これを仮りのことばで表わそうとしてきたし いまも表わしている。神なら神と。そして 救い主とも言いますからね。

■日本酒がおいしい季節になってきました、いっぱい呑みにいきましょうか。

1+2+3=58

と思うのですが。   ふざけている訳ではありません。




色々なご意見があっていいと思います。bragelonneさんありがとうございました。

お礼日時:2009/10/26 15:52

>SOLAR_RAYちゃんNo.8で怒りないな。



◇コテコテの関西弁と、やや過剰気味の自己演出に不快を感じたのは確かです、さすがに聡いですね。趣のある京都弁ならまだしも、関西弁、特に文章にした関西弁は印象があまりよくないですね、しかし今後は標準語を使うと言うことで、それは結構なことです。

>理論武装をして自分の心を救えますか・・

◇自分の心を救うか救えないかと言うレベルであれば、それは救えないと言えます。しかし、守るもしくは守るために戦うと言うのであれば、自己の悟りだけでは無理だと言えます。
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この回答へのお礼

>◇コテコテの関西弁と、やや過剰気味の自己演出に不快を感じたのは確かです、さすがに聡いですね。趣のある京都弁ならまだしも、関西弁、特に文章にした関西弁は印象があまりよくないですね

そうかもしれないですね、遊び心の度が過ぎると。
遠い昔、京都女の子と付きあった事がありますが、遠い昔でも関西他府県との言葉と違いはなっかですね。 そんな事したらいかんえ。この言葉だけが印象に残ってます。

本題ですね
>◇自分の心を救うか救えないかと言うレベルであれば、それは救えないと言えます。しかし、守るもしくは守るために戦うと言うのであれば、自己の悟りだけでは無理だと言えます。

なるほど。判りました。

みゃあちゃっとこのサイトから、さよならするだぎゃーが、こんどは名古屋人として帰ってきたいと思おるぎゃあ 帰って来のうていかんきゃあ  そんな事言わねぇでちょうだゃあ。

もう直ぐこのサイトから、さよならしますが、こんどは名古屋人として帰ってきたいと思います 帰って来なくていいですか  そんな事言わないでください。  

嫁とお袋が愛知です。  またどこかで。^^。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/25 16:09

 お釈迦様を気取るも結構ですが、人に意見を述べたり、主義主張をするなら 過去の誰であってもならない というのは道理でしょう、お解りでしょうか?



 私も、「哲学」に関係する書籍は一冊も読んだ事がありません。

 <<天上天下唯我独尊>>
 この言葉の意味を解りやすく説明してください。

この回答への補足

><<天上天下唯我独尊>>

自己を越えた自己です。  私達が普段言っている自己、自我ではありません。

補足日時:2009/10/25 03:45
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この回答へのお礼

ON5読み考えました、判りません。

>お釈迦様を気取るも結構ですが、人に意見を述べたり、主義主張をするなら 過去の誰であってもならない というのは道理でしょう、お解りでしょうか?


釈迦ならこの言葉ですよ<<天上天下唯我独尊>>という事です。私に言葉に代えれば「考えに措きかえる前の自己」救いの当体です((仏教は自覚を得る宗教哲学ですから(自己を越えた自己の自覚です))

1、人は自己の智・分別・理屈・で自己を救えない 2、自己の智・分別・理屈を越えて自己の自覚   

こんなとこでしょうか。

お礼日時:2009/10/25 03:44

子、親、爺の、爺のほうでしたか、同体はひとつでもアタマが三つ、三つでひとつですね、それが限界でしょう。

私はひとつで二つないし三つです、逆ですね。

 しかし、同じものを使うのだったら、先にどれか言ってもらわないと。

>公案もどき

◇では、ないんですよね

>を、どう通過するか。

◇通過するも理解するも自由です。
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この回答へのお礼

>私はひとつで二つないし三つです
三三三つ、御主やるな。

>子、親、爺の、爺のほうでしたか、同体はひとつでもアタマが三つ、三つでひとつですね、それが限界でしょう。

性格ににいいますと4人です、孫、嫁はん、私、おじい(親父)

おもに私、次は嫁 おじい。

孫は私の孫です、親父は曾爺さんですね。

お礼日時:2009/10/25 03:12

>理論武装をして自分の心を救えますか?


ご自身の心を救う必要を感じておられるのですね。
なぜでしょうか?救わねばならない理由はご自身の(心の)破綻を避けたいということではないのでしょうか。
破綻というのはA理論の崩壊、あるいはうまく成功への結論が導けない現象でしょう。
A理論を完成させるために、あるいは望みの持てないA理論に替わるB理論を探し出し、それを完成させるために様々な周辺の情報や理論そのものの整備、再構築などをして着々貴方が望んでいる結論へたどり着くための研究考察思索検索などを総称してある意味理論武装するといえるのかもしれません。もっとも「武装」というのは他からの攻撃に備えるということですから、貴方の内なる他の声、内部的な反省のつぶやきに対処するための思索、理論の補強などが含まれるkとがあるかもしれません。
要は「>理論は外の問題の解決に使う道具」
とはいえないということです。
ご参考まで。
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この回答へのお礼

人生の過程で生き詰まりを感じた時、理論で解決出来るも人も多いと思いますが、自力で解決できない問題が人により生じる事が有ると思います。自力で解決できない問題が誰の身に起こるのかは誰にも判らないですが。  そうして日本で3万人が自ら命を絶ってます。大変痛ましいことですが。  やはり私などは根本的には理屈で自己を救う事は出来ないのではと。 ですから私達は理屈で自己を救えないと自覚したなら3万人が自ら命を絶たなくてもすむかも知れまれないのではと思ったりもしますが。

3万の人の中には精神的な病気という側面の方も居るでしょから医者でないものが軽々には言えてないですが。


色々なご意見が有っていいと思います、大変参考になりました、ありがとうございます。

お礼日時:2009/10/25 01:35

 こんにちは。



 ★ 理論は外の問題の解決に使う道具と違うんどすかやないやろか。
 ☆ おおよそそういうことでしょうね。
 言いかえると すくわれたゆえに理論武装もするということっちゃうやろか。必要に応じてと添えるべきかも知れません。
 
 別の見方から考えると分かりやすいでしょう。
 その起源はもはや別としても既得権益をいま持っている人の中からは とうぜんそれを守るために理論武装をする人も現われるというのが 一般です。
 ところがこの既成の秩序を守るための理論武装というのは しばしば 弱い者を弱い者のままにしておくためにその理論や政策を考えるという一面もあります。ならば 必要に応じて すでにそのこころがすくわれた人の中からも 人間と社会にかんする一般理論を考える人が出てくるのも むべなるかな。ではないでしょうか?
 この一般理論が 強い者の側からは対抗的・挑戦的・敵対的だと受けとめられるようです。
 ちょっと気になりまして。
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この回答へのお礼

bragelonneさんありがとうございます。

>★ 理論は外の問題の解決に使う道具と違うんどすかやないやろか。
 >☆ おおよそそういうことでしょうね。

私の意見と同じという事ですね。

>すくわれたゆえに理論武装もするということっちゃうやろか。

救いの当体は無理論の理論ですが、理論出来ない救いの当体を理論で来ますか。。  空っぽですが、救いは!

お礼日時:2009/10/25 02:56

 別の言い方をすれば、自己主張、自己弁護、自己を正しいとすればするほど、その場へ留まります。



 心優しく(≒繊細)、自分の責任とすればするほど、理想を求めて、より自由な地へ旅立ちます。

 しかし、極東の、その中でも東の最果てから何処かへ行くとすれば、人間を止める、卒業しなければならなくなりますね。

 これ以上は、人間として理想を求めようがなく、そういった感情により、「理論」を武器に攻めるのではなく、オレオレ詐欺から身を守るのです。

 まず、自分を信じることです。神ではなく。これが信仰です。

この回答への補足

>あっ、いけない、思い出した孫の世話たのまれてた、失礼。

これはふざけて書いたのではありません。考えに措きかえない自己、自己を越えた自己です。しいて言えば信仰の当体です。

別に、「あ~用事思い出したごねんさいなら」、でもいいのですが。

補足日時:2009/10/25 02:04
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この回答へのお礼

No.8、9見させてもらいました。
SOLAR_RAYちゃんNo.8で怒りないな。

ここからは、関西弁止めます、日頃はもっと軽いノリの関西弁を使ったますから、ややよそ行きの関西弁は疲れました。

SOLAR_RAYさんだけでなく哲学の人の言葉使いは、わかり難いですね、哲学を遣った人同士は直ぐ理解で来るのでしょうが。

後で、書き込みます。馬鹿ですから理解に時間が掛かります。よろしく。

お礼日時:2009/10/25 01:56

>>理論武装をして自分の心を救えますか・・。



救えないでしょうね。「心を救う」という意味が人によって違いますが、心が安定する、平穏になる、落ち着くという意味での救いであれば理論武装で論争することは「心が乱れる」だけですからね。
一方、心は体と同じように鎧が着れますから、鎧をまとえば何を言われても跳ね返すことは出来ますね。心には扉があり、それを閉じれば耳と同じように馬耳東風を決め込むことが出来るということなのですが、こんなのが「心の武装」なんでしょうね。信仰者はこんな武装はしてますね。とはいえ信じて切り込む際には百万人といえども我ゆかんでしょうから、その熱意でやられるだけですね。宗教なんかはそれが本道で広まって理論武装などは後付の話なんでしょうね。
つまり、本題に戻って理論武装では本人の心は救えないといいたいだけですね。まず信じないとね。
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この回答へのお礼

>救えないでしょうね。「心を救う」という意味が人によって違いますが、心が安定する、平穏になる、落ち着くという意味での救いであれば理論武装で論争することは「心が乱れる」だけですからね。

そうでっしゃろな(そのとおりだと思いますね)

日本の有名な宗教家が出た時代、飢饉よる飢餓死それの伴う疫病が頻繁にあったようでっさかい、人肉食いも有ったようで。現代人の想像を超えた時代、宗教家の苦悩は凄かったとさっします。

御回答文mmky さん独特の言い方ですが、何となく判るようね気がしますな。


おおきに。  

お礼日時:2009/10/24 23:07

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