
『戦国時代の物の価値について』
ども
趣味で物書きしてる者ですが、
戦国時代ものの、庶民生活に重きを置いたものを書きたなぁと思ったのですが、
自分なりにいろいろ調べてみたのですが、
その時代の、物の価値、又は、物の貨幣的価値というものがいまいちよく分かりません。
何々(作物・物品・家畜など)=値段(何文・何貫など)、や、
何々(作物・物品・家畜など)=米(何合・何斗・何升など)、や、
穀物(米・小麦・大麦・粟・稗・蕎麦・大豆・小豆など)の
一斗・一升あたりの値段(何文・何貫など)等のことが
分かる方がいらっしゃったら是非教えて下さい。
お願いします!
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
No.2です。
誤字がありました。永楽線じゃどこかの地下鉄になっちゃいますね^^; 永楽銭の間違いです。訂正します。ついでに、労賃の記録がみつかったので書いておきます。「貨幣の地域史」(鈴木公雄編)によれば、京都の大徳寺などの番匠(大工等)への支払い賃金は
1496年 100文
1521年 110文
1548年 115文
1566年 80文+飯米1升2合
1587年 米1斗余り
1592年 111文
1600年 銀8分
だそうです。また、「神奈川県史」には16世紀後半の小田原北条氏があるときに支払った賃金として人夫1日20文、職人(鍛冶など)1日50文という記録があるようです。京都の大工の111文に比べ安いのは、地域差なのか職人の身分的なものかまたは強制力のためなのかはちょっとわかりません。
モノの値段では少し古いのですが、1487年の京都で人情沙汰をおこして逐電したものの家財を競売のかけたという記録がありました。それによると麻6連で50文、唐杵20文、臼30文、鍬2つで70文、桶2つで10文、かい筵6枚で18文、蚊帳250文、障子2枚で1000文、小釜250文、茶碗20文などとなっています。中古品なので新品だともっと高かったのでしょうね。目立つのは障子で、今に比べ、いかに紙が貴重品だったかがわかります。また京都なので、地方ではまた違った値段であったと思われます。
ただ、米1石の価格が1200年から1600年の間、どの時代どの地域でも高い時で1500文、安い時で500文というのは確かなようです。というのは、物価の変動が豊作・凶作では大きいものの、需要と供給の変動は少なく、安定(変革のない?)社会であったのでしょうか?
もはやどこからどうすればこのような知識を知ることができるのかにまで
興味をそそられるほどです。
まことにありがとうございます。
丁度戦国時代の頃は、地球規模で小氷河期だったらしいので
この頃に凶作・不作があいついだようですね。
やはり、そのせいで物の価値という物がかなり不安定だったみたいですが、
教えていただいた事柄を一つのこの時代の価格の軸として、謹んで使わせていただきます。
本当にありがとうございました!
No.2
- 回答日時:
鎌倉以降、都市部での貨幣経済は確認されています。
室町期はそれが進み相当いきわたっていたと言われています。流通した貨幣は宋銭や明銭です。織田信長が旗印に永楽銭を使用していたのは有名です。ただ、古い銭や欠けた銭も多く交換比率は地域によってまちまちであり、一概にいくらというのは難しいようです。ある本では米の価格から推定して、戦国期の1文は350円くらいと書いてあるのもありますが、そんなに単純ではないようです。例えば、甲斐の国に住む僧侶の書き残しによれば、1512年には甲州桝1升の米が80文、塩が40文と記録されています。甲州桝は他地域の桝の3倍あったということですので、他地域では量は1升単位だと3分の1ですが、価格も3分の1かといえばそうともいえません。塩は甲斐では取れませんので、越後や駿河ではもっと安かったでしょう。敵に塩を送るで有名な謙信の話ですが、あれはタダであげたのではなく、適正な価格で売ってやれと言ったのです。また、この記録では米は1513年は40文、1516年は100文となっており、米の価格が豊作、凶作(原因は天候ばかりではなく人為的な場合もあったでしょう)で乱高下していることがわかります。
1559年の相模の北条氏康の台所方が城に買い上げる魚の価格を記した文書では、鰯2匹が1文、あわび1つ3文、かつお1匹12文、鯛は6・7寸のものが10文、1尺で15文、1尺5寸で30文だったようです。あわびは安すぎでうらやましいですが^^;、大名の買値ですから庶民はもうすこし高かったかもしれません。
また、秀吉が関東に攻め込んだ1590年の記録では、秀吉軍が村々に乱暴狼藉を働かないようにという高札を書いて貰うのに秀吉が要求した金額がわかっています。大きな村が永楽線3200枚、中くらいの村がその3分の2、小さな村が3分の1だそうです。せこいぞ秀吉って感じがします。
まあ、全国的な流通が確立していなかったので、地域差と商品の量の変動によってモノの価格は非常にまちまちだったというのが実際であったと考えられます。参考になれば^^。
No.1
- 回答日時:
戦国時代は詳しくないのですが、そのころの庶民生活では貨幣というもの自体ほとんど流通していなかったはずです。
年貢は米で納めていたし、都市間を移動するような庶民はほとんどいなかったでしょう。
農民の生活は基本的に農村で、貨幣を必要としない交換だけで済みますし、
街に住んでいる庶民はほとんどが職人で、仕えている主人にまかなわれていたはずです。
国レベルの大きな取引になら貨幣も使われたでしょうが、
庶民生活のレベルで流通するのは江戸時代からです。
基本となる物々交換のレートは、豊作不作や生産物の割合に応じて変わるわけですから、
平均的な値が知れたとしても、その土地の状況を無視しては現実的とは云えません。
物語を書くのなら、その土地がどこか、特産はなにか、多く得られるもの、希少なものなどを考え、
それらを交換する風景などを描くほうが生活感がでると思います。
確かにこの時代の貨幣は貴重すぎて一般庶民はそうそう使えなかったかもですね。
そのあたり少し目から鱗で助かりました。
ただ、物の価値観として、「米<粟・大豆・大麦・小麦<蕎麦(米の半分以下)」とか
までは分かるのですが、
これら穀物と野菜などをどれ位の量で交換したかなどの歴史的資料がないとどうにも不安で・・・・
また何か見つけたら是非教えて下さい。
ご回答ありがとうございました!
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