プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

以前、読んだ本の中に書かれていたことです。
(題名や著者名は忘れてしまっています)

「江戸時代の多くの農民(小作)は滅多に米を食べることは出来ずに稗や粟などの雑穀を食べていたとされている。しかしながら、日本全国で生産された米の総量から算出すると酒や味噌などで消費される米の分を差し引きしても、当時の総人口2000~3000万人が主食として食べるのに十分な量があったはずである。」

ということでした。確かに米は貨幣の代わりに売買・流通していても、貨幣なら保存できても米はいつまでも保存は出来ないでしょう。腐って捨てる位なら小作農民もそれなりに(月に数回程度は)食べて消費していてもおかしくないと思います。

江戸時代の米は最終的にはどのように消費されていたのでしょうか。

A 回答 (9件)

 下記サイト参考になりませんか?



参考URL:http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-58.htm
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この回答へのお礼

回答どうもありがとうございます。

提示していただいたサイト読みました。なかなか楽しめそうなサイトですね。
ところで、お米の件に関してはやはりはっきりしていないようですね。

小学生の頃からの学校の教科書では米は年貢として4公6民とか5公5民の割合でお上に納めていたと学んでいたので、当たり前と思っていたのですがいろいろ解明されていないことがあると知りあらためて驚きました。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/14 02:23

江戸時代というより 米=税と捕らえるのと


食文化は分けて考えないとまずいと思う。
一般的な意見として江戸時代にはたしてどんな食事をしていたかと言うとかなり曖昧なのと案外おいしい物を食べて居たのじゃないかと推察されていて、はっきり解ってない事が多いじゃないかな。
飢饉なんかがクローズアップされてひもじいと連想されている事や 各大名は米は備蓄していただろうし、
江戸時代にどのくらいの収量があったのかとかも大事な事でないかな、今だから品種改良されてかなりな収量があるけど江戸時代あたりだと かなり環境に左右された事は間違いないと思う。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

米が税金の代わりだったり、流通価値(米1石=小判1両)が高いのなら、農民は米ばっかり作っていてもよさそうなのに、実際は米以外の作物もしっかり作っていたようなので不思議です。

あたり前だろうと思っていたことがそうではないことに驚きます。

江戸時代の米の生産量のデータ等があればいいんですけどなかなかいいのが見つけられません。


どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/14 02:33

 徳川吉宗以降は、5公5民以上の税がとられ、また検見法から定免法に変わりました。

農民にとって米は通過の役割があったので、農民はあまり米を食べていません。

 本百姓の食事は、麦飯に野菜のおかずで、白米だけのご飯は、正月などめでたいときに食べるご馳走でした。水呑百姓になると、野菜を入れたぞうすいやキビ、アワの飯という食事でした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

現代社会なら、食べ物が余ったら残飯で焼却されるでしょうが、江戸時代なら食べ物は粗末にはされないと思いますが、どうなっているのでしょうね。

参考になる本やURLがあれば教えてもらいたいです。


どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/14 02:43

江戸時代ははっきり言ってそれほど昔じゃないけど かなり謎が多く食文化もわかっていないのが事実です。

ただ 現代のわれわれが思うほどひどくはないと思う。根拠として華美なものや贅沢は隠れて人々は楽しんでいた事からそれらの事の資料がそもそも存在しないのではないかと思う。確かにひどい時期や飢饉や
不作の時はあったでしょうが 遊郭とかの遊びについやすお足にしてもかなりな金額である。おしんみたいなのは極端な例に思えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>華美なものや贅沢は隠れて人々は楽しんでいた
城下町などの町人と農民では生活様式はかなり違っていたようですね。

>ひどい時期や飢饉や不作の時はあったでしょうが 
昭和初期の東北地方の米飢饉でもかなり悲惨だったそうですから、江戸時代の米飢饉はまさにとんでもない状態だったのでしょうね。土を団子状にして食べたり、赤子を食べたりしたそうですからね。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/15 10:35

 百姓はキビ、アワの飯、というのは、実はフィクションストーリーです。

そういうステロタイプは、戦後教育のプログラムが共産主義者によって作られたため、マルクス史観に則って「労働者は搾取されていて酷い生活をしていたに違いない」という思い込みを元に空想されて作られた代物です。
 まともな調査研究に基づいたものではありません。

 あなたの言うように、生産された米は最終的には百姓の口にも入ってきていたのは間違いありませんが、No.2 でも述べられているように、具体的な食べ方などの記録はほとんど残っていないのでよく分からないというのが現状です。
 ただ、精米したいわゆる「白米」はあまり庶民の口に入ってなかったのは間違いなく、日露戦争の頃に兵士が陸軍で支給される白米を喜んで食べたという記録からこれは言えます。その結果、胚芽部分にはあったビタミンBが摂取できず、脚気が蔓延して20個師団分くらいの戦力が失われるのですが、これは余談。

 精米という作業自体がかなりの重労働であることは事実ですから、この点と、そもそも精米すると嵩が減ってもったいない、ということから白米はめったに食べられるものではなかったとは、推定できます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

言われてみれば知らず知らずのうちに指摘された通りのマルクス主義的史観の歴史教育を子供の頃から受けてきたのかもしれません。

>具体的な食べ方などの記録はほとんど残っていないのでよく分からないというのが現状です。

歴史家の方々は、このようなことは興味がないのでしょうか。


どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/15 10:43

キビ飯、アワ飯、麦飯とは、それぞれが100%という意味ではなく、


米にその他の雑穀を混ぜた雑穀まぜ飯(又は粥)という意味で、
(偉い)侍が農民は計画性が無いからと節約を義務づけたものでは?

http://www.n-museum.jp/kikakuten/h11-fa/kurashi. …

>腐って捨てる位なら
米は種なのでそうそう腐りません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

個人レベルでの節約は美徳ですし大事なことですが、国家レベルでの節約の徹底は、経済の縮小化ということになりますので、かえって国家が豊かにならないという逆説的な結果になってしまうことがあります。
全く、政治や経済などの治世は難しいものです。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/15 10:48

http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/history100.htm
http://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/kok …
http://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/kok …
http://lian.webup.co.jp/edosemi/1/shoku/index.htm
http://lian.webup.co.jp/edosemi/1/foods/index.htm
http://bakumatu.727.net/iroha/mamekome.htm
http://www.tabiken.com/history/doc/M/M246L100.HTM

かなりベタベタと張付けてしまいましたが単に江戸時代といっても300年も有るので時代によって状況は変わるとは思いますが・・・

 結論から言うとやはり一般農民の口には殆ど入らなかったと思います。

 まともな収穫で人口の半分、もし石高の25%がそのほかの産物による税だとすれば人口の30%の人数しか米を食べれないことになります。江戸時代農民は人口の80%だったと言われてますので農民のうち1割強の人しか米を食べれないことになります。(庄屋様の分しか無い)

 実際戦前までの日本では小作人と呼ばれる人が農民の9割を占めこの人たちは云わば農奴なので牛馬以下の待遇とてもまともな食事が出来たとは思えません(もちろん良心的な庄屋様や名主様は居たでしょうが)

 腐って捨てる位なら小作農民もそれなりに(月に数回程度は)食べて消費していてもおかしくないと思います。

>もちろん幾分かの配給はあったでしょうが月に数回食べる程度なら毎日少しづつ雑穀と混ぜて食べたのではないでしょうか?腐った捨てるほどはとてもとても

 此処で大事なのは農村と都市(江戸大阪)等ではまったく別の国と考えなければいけないことです。大都市ではまるっきり事情が変わり幕府などは古くなった貯蔵米を幾たびか市民に安く吐き出したりしています。江戸患い(脚気)が流行するぐらい庶民の間でも白米が食べられて居たわけですから。

米価高騰は藩財政を好転させる好機として,江戸・大坂への廻米を推進した。>とご紹介のページにも有るように江戸中期以降には多くの藩が借金返済の為自国農民の命など考えず米を他国に送っています。

 この辺のことは白土三平著カムイ伝にリアルに書かれています。漫画ですがかなり事実に則した内容だと私は思います。


 今まで書いたことは 通常の石高が有った時の話で天候等によって不作の時も多く享保の大飢饉(1732年)等では人口の1割の人が餓死する訳ですから大飢饉でなくとも当時天候によって直ぐに食糧難に陥った事は容易に想像できます。他の食べ物も有るのに餓死者が出る中で米が当時の人口を養うのに十分な量が有ったとはとても思えません。裕福な時代裕福な国に生れた人の思い込みに思えます。

 フランス貴族が昔パンが無ければ御菓子を食べれば良いのにと言ったのと変わらないかな?

 蛇足ですが現在地球全人口を養うとするとアメリカ人の摂取カロリーでは地球が3.5個必要になるそうですその他の消費燃料も換算するとアメリカ人並の生活水準を全人類がする為には地球が5.5個必要なそうです。其のしわ寄せが何処に行っているのか先進国に住む私たちは考えるべきではないでしょうか?歴史は繰り返されています って言うか続いてる?!

 話が少しずれてしまいましたね。すいませんでした。

参考URL:http://contest2002.thinkquest.jp/tqj2002/50538/r …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

詳しく説明していただき感謝いたします。参照のサイトはじっくり確認させていただきます。

私も白土三平著カムイ伝は第1部、第2部とも購入して何度も読んでいますので、イメージ的にもよく分かります。ただ、前の回答者の方が「マルクス史観的」と指摘されていましたように、この有名な漫画も指摘されている箇所は多々あると思われますので、歴史というものの表現がいかに難しいのかがつくづく痛感させられます。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/15 11:00

こんにちは、ultramannexusさん。

仮説社「歴史の見方考え方」板倉聖宣著の中に書いてありました。板倉きよのぶさんは、自然科学者で理科教育で授業書をたくさん書いています。歴史の先生ではありませんが、理科の先生、数学の先生が歴史を研究すると、このようになるという本です。おもしろいですよ。ぜひ、お友達や、ご家族に教えてあげてください。

参考URL:http://www.kasetu.co.jp/shop/index.html
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この回答へのお礼

回答もありがとうございます。

教えていただいた本が、私が昔本屋で立ち読みして読んだ本だったのかはっきりしませんが、興味がありますので今度はしっかり購入しようと思っています。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/15 10:53

もし粟や稗を常食にしていたのならそれらを育てる広大な農地が必要です。

それだけの農地があるならまず稲を作ることを考えたはずです。つまり江戸時代の農民は米を常食にしていたと小生は考えています。(気候等の理由で稲が作れない所は別ですが)
しかし農民は米は高価で売れるためできるだけ売るようにし、麦を多く食べていたようです。
年貢については五公五民とか四公六民といわれますが、小生が生まれた村は八公ニ民という”悲惨な”村でした。しかしこの数字は収量に対するものでなく、高に対する割合です。
高は江戸初期に検地で決まりますが、その後は総検地でもない限り変わりません。一方生産量は時代とともに増加します。武士は実際の生産量を正確に把握しており、適宜年貢を課します。その結果八公ニ民というとんでもない数値が出てくるわけです。当村の実際の生産量は正確には不明ですが、村高の5~6倍あったと推定しています。その結果実際の年貢率は生産量の15%程度でした。
こういったことを推定する数値として私は村高を村人口で割った「一人あたりの村高」を使用しています。その根拠ですが、まず年貢はいくつかの村で調べてみたところあまり差はなく一人あたり5斗程度。食糧は1石。これに最小限の雑費を加えた2石が最低必要な生活費と考えたからです。農民が生きていた以上これだけ生産量は絶対にあったと思っています。
「一人あたりの村高」を近隣の村で調べたところ、だいたい A:5斗前後の村、B:1石前後、C:2~3石 がありました。そしておもしろいことに貧乏村ほど年貢率が高い傾向にあり、A(当村)は80%、Bは50%、Cは25%程度なのです。しかし実際の生産量に対してはどの村もせいぜい20%止まりだったと考えています。
江戸時代はホンネとタテマエに大きな差がありました。現在に残る記録は武士が残したものが多く農民の状況を正確に記していません。年貢については不思議なことが多いですから貴兄も調べてみてください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

具体的な事例や数値でのご指摘感謝いたします。
私も、素人なりに調査しようかなと思います。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/15 11:04

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