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なぜ宗教は信仰する人々の考え方、人生に、大きな影響を与えるのでしょうか。
 
 こんにちは。
 今期、大学で「自然科学概論」の講義を受けて、多くの科学者たち(例えば、コロンブスやガリレイ)の研究がキリスト教的世界観、自然観によって妨げられることがあったということに気づきました。
また、非常に重要で可能性に満ちた研究を聖書に反するものだとみなし、彼らを罰した(最悪の場合、殺そうとした)キリスト教徒に対して、驚きを覚えました。

(1)なぜ当時、科学者たちの研究に反対したキリスト教徒はここまで聖書の教えに沿っていたのでしょうか。
私の視点からだと、「異常」にも見えます(私が信仰心を持たないゆえに浅はかな発言であったら、ごめんなさい)。現在だったら「聖書の教えとは違うから、その研究をとりやめろ!さもなければ、罰を与える!」なんてことには滅多になりませんよね。

 また、コロンブスについてのビデオ観賞の際、魔女狩りなどの場面を見ました。
キリスト教は、他人を許したり、愛したり、ととても美しいイメージがあったのですが、教えを背くものを「異端者」と呼び、罰する姿は、残酷だと感じました。

(2)当時、キリスト教徒が他人を「罰する」「殺す」まで実行するような信仰心は一体どこから来たのでしょうか。

そして、最後に
(3)どうして宗教は人間の考え方、生き方に大きな影響を与えるのでしょうか。

(4)地球上にあるものをキリスト教的世界観・自然観からみなすときに伴う心理や理由について学ぶことが出来るような参考文献があったら教えてください。

コロンブスやガリレオの生涯に関する講義、そして自身で読んだ文献から、彼らがキリスト教の教えや聖書が原因でどんな困難に出逢ったかを知ることは出来ました。
その後、なぜキリスト教の教えや考え方が彼らに、人々に、そんなにも大きな影響を与えるのは、何故なのか、と興味を持ったのですが、このことについて研究している文献を中々探し当てることができません。どなたかおすすめの文献があったら教えてください。

以上です。
宗教について分からないことが多く、漠然としているので、感情論を伴ったり、自身の独断と偏見が介在していたら、申し訳ありません。
どなたか、お時間ありましたら、回答のほうよろしくお願いします。

A 回答 (3件)

>(1)なぜ当時、科学者たちの研究に反対したキリスト教徒はここまで聖書の教えに沿っていたのでしょうか。



━まだ科学が誕生していないのですから仕方なかったのだと思います。つまり,中世ヨーロッパでは,聖書は神の言葉とされ,ゆえに聖書に書かれたことは真理として受け入れられていました。そのことを疑う必要は微塵もなかったのです。今から見ればおかしいかもしれませんが,聖書を疑う理由がなかったのです。キリスト教的世界観がたった一つの真理だったのですから。

>現在だったら「聖書の教えとは違うから、その研究をとりやめろ!さもなければ、罰を与える!」なんてことには滅多になりませんよね。

━それは,科学が確立した現代だからこそ「滅多にならない」わけです。科学誕生前は聖書こそ真理なのですから,それこそ「真理に反する妙なことを言ってはいけない」となるのもそんなに不自然なことではありません。

━科学的真理と宗教的真理とが分離するのは,ガリレオらによる科学革命によって科学が誕生して以降のことである事に注意する必要があります。

>教えを背くものを「異端者」と呼び、罰する姿は、残酷だと感じました。

━たしかに。しかし,宗教とくに一神教はどれも唯一絶対の存在を信仰するものですから,おのずと排他的になり,その結果ときに残酷な結果をまねくものです。狂信,これは宗教一般の持つ暗黒の側面です。魔女狩りや異端審問などはまだしも個人的なものですが,これが他の宗教との問題に発展すると,宗教戦争を惹起することは歴史に明らかです。オウム真理教が引き起こした数々の残酷な事件も,彼ら的には真理の実現として行われたものでした。

>2)当時、キリスト教徒が他人を「罰する」「殺す」まで実行するような信仰心は一体どこから来たのでしょうか。

━ごめんなさい。この問いに応えられるだけの力がありません。ただ,他人を罰したり殺したりするのは何もキリスト教に限ったことではなく,狂信の世界においては,すべての宗教がその側面を持っているのは確かです。また狂信という視点で見れば,何も宗教に限ったことではなく,あらゆるイデオロギーにはその側面があります。たとえばヒトラー,スターリン,毛沢東・・・。

>3)どうして宗教は人間の考え方、生き方に大きな影響を与えるのでしょうか。

━うーん,上手く言えませんが,超自然的な存在への確信(信仰)が,自分のなかにある根源的な不安を払拭してくれるからではないでしょうか。だから逆に信仰を揺らがせるような異端が出現すると自らの防衛のためにも排除しなければいけないと,こうなるのではないかと。

>(4)地球上にあるものをキリスト教的世界観・自然観からみなすときに伴う心理や理由について学ぶことが出来るような参考文献があったら教えてください。

━ブルーバックスで恐縮ですが,渡部正雄の「科学者とキリスト教」などはいかがでしょう。これによると,ガリレオは実は敬虔なキリスト教徒でした。そして,ガリレオは宇宙と聖書とを同一視し,宇宙の真理を解き明かすことは神の御業(創造)を解き明かすことだった。という視点で書かれたものでして,科学と宗教とを対立したものと捉えるのではなく,科学の母体となった宗教という視点で宗教についても深く考察されていますので,きっと参考になると思います。
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こんにちは。


私はアカデミックな教育を受けておりませんし、研究者でもなく、
素人が一般向けの本を何冊か読んで思ったことです。

何が罪になるかは、その時代の法律や常識、社会規範などによって変化します。今の「普通」を大昔の時代にそのまま当てはめることは出来ません。科学は後から出てきたものですし、政教分離なんていうのも最近のことです。昔のキリスト教文化圏では、キリスト教が社会や文明の基盤でした。
また、既存の社会を揺るがすような新しいものが迫害されたり抵抗を受けるのは世の常です。キリスト教も初期に迫害を受けた時代があります。

それと、中世~大航海時代辺りはキリスト教と世俗の権力の結びつきが強い時代ですから、そこだけ見るととんでもない宗教のように見えるのではないでしょうか。
また、南米には宣教師も行きましたが、むしろ宗教は口実で、香辛料貿易をしたいとか銀を輸出したいとか領地を得たいとかいう、貴族や商人の思惑がありました。この人達は世俗の人、俗世間の人間です。

「なぜ宗教は信仰する人々の考え方、人生に、大きな影響を与えるのか」とのことですが、宗教は人々の間で生まれ、発展し、社会と関わりあって変化してきたものです。人間なしに宗教は成立しません。
また、人間の中には組織化された「宗教」とは別の「宗教心」というのがあるのだと思います。誕生を喜んだり、幸福や豊穣を祈ったり、死を悼んだり、死者を想ったり、神聖なものを畏怖したりという。原始人の骨と共に植物が発掘されています。死んだ仲間を埋葬する時に花を供えたらしいです。


>(4)地球上にあるものをキリスト教的世界観・自然観からみなすときに伴う心理や理由について学ぶことが出来るような参考文献があったら教えてください。

宗教学、文化人類学などで探すといいと思います。一神教と多神教とかも。
あるいは美術分野で「ルネッサンス」について読んでみるとか。
また、「ニューエイジ」もキリスト教文化圏から出てきたものです。

キリスト教だけではないのですが、宗教と生活や生き方について。

『イスラームの日常世界』(岩波新書、片倉もとこ)
『イスラーム世界の女性たち』(文春新書): 白須 英子
『ナバホへの旅 たましいの風景』(朝日文庫、河合隼雄)

「常識」は民族の数だけある・・・・西洋文明もその1つ。
『レヴィ=ストロース講義』(平凡社ライブラリー)

南米については最近、『物語 ラテンアメリカの歴史』(中公新書)というのを読みました。
自分はまだ読みかけなのですが『鉄・病原菌・銃』(ジャレド・ダイアモンド著)というベストセラーもあります。

心理については、
フィクションの小説なので客観的歴史というわけではないんですが、たとえば、
『カラマーゾフの兄弟』(光文社古典新訳文庫、新潮文庫など。フョードル・ドストエスフキー)
『ピエドラ川のほとりでわたしは泣いた』(角川文庫、パウロ・コエーリョ)

カラマーゾフは19世紀のロシア正教、「大審問官」の章が有名。
ピエドラ川は20世紀のスペイン・カトリックおよび新しい信仰。コエーリョはブラジル人で、若い頃カトリックの教育に嫌気が指して一度捨てたのですが、後年、違う形で信仰を持つようになったそうです。

ちなみに私はクリスチャンではありません。なので、マザーテレサの言葉を読んでいると理解不能なときがありますし、「19世紀あたりのキリスト教徒って神との戦いで大変だな」と思う部分はあります。
哲学はあんまり分からないんですけど、ニーチェとか。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2821689.html

ただ、一般の民衆は、哲学的に深く突っ込んで考えてはいないんじゃないかな。家がカトリックだからそのままカトリックとか、イスラム教の国に生まれたからそのままムスリムとか。日本だって田舎で実家が日蓮宗だったら、そのまま日蓮宗だったりするでしょう。中には自主的に改宗する人もいますけど。サッカーのフィリップ・トルシエ氏はゆえあってイスラム教徒になりましました。

色々宗派があって、考え方が少しずつ異なります。欧州ではキリスト教離れの傾向があるし、米国では宗教離れしている人がいる一方、進化論を否定する原理主義者がいたりします。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5983713.html
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質問者さんの親や、とても親しい人が亡くなったとします。

もしその遺体が生ゴミと一緒にされたら、どう思いますか?許せないと思いますよね。しかし、全く純粋な科学原理主義に基づけば、遺体は単なる物体に過ぎず、生ゴミと同じであるといえます。死者を弔うのは宗教的感情であって科学的行動ではありませんよね。

私たちは「地球は太陽の周りを回っている」と信じています。なぜそれを信じるのでしょうか。天体の観測を続け、高等数学を用いて計算して確かに地球は太陽の周りを回っているのだと科学的に考証している人なんて1%もいません。「学校でそう習ったから」と皆ないうでしょう。では、なぜ教師のいうことや教科書にあることを信じるのでしょう。それは、非常にインテリな人たちが考えたことだから間違いないだろうと信じているに過ぎません。
古今東西を問わず、近代の学校システムが構築されるまでは僧侶(聖職者)というのはインテリでした。科学者であり、医師であり、天文学者であり、数学者であり、哲学者でした。200年前に庶民でも読み書きができる人が多かった日本は極めてまれで、文字が読めるというのが僧侶の専売特許だった地域も珍しくありません。
つまり、当時の庶民にとっては、僧侶がいうことは、「あの偉い先生がいうことなのだから間違っていないだろう」ということなのです。現代でも、科学の主流に反することをいうと異端のレッテルを貼られてエセ科学、トンデモ科学と非難されますね。

整体で、カイロプラクティックというのがあります。アメリカ発祥の治療法なのですが、この治療法を作った人が医師免許を持った人ではなかったせいでアメリカでも長い間「インチキ治療」と叩かれました。現代の日本の医学界で、うっかりカイロプラクティックを認めるようなことを口走るとたちまち「トンデモ医師」と呼ばれます。それが腰痛を扱う整形外科医だったりするともう狂人扱いです。ある整形外科医が「カイロプラクティックを頭から否定するのではなく、検証することが必要だ」とかなり慎重なものの言い方をしたにも関わらず、この医師は同じ整形外科医から非難の十字砲火を浴びました。彼らの「信仰」に反するものだったからです。
カイロプラクティックは科学的根拠に乏しく、証明されていないというのが否定派の意見で、それは事実です。しかし、では医師の治療法がいうほど科学的根拠があって証明されているかとうと全然違います。近年医学界ではEBMという言葉がよく聞かれます。なんと、「根拠に基づいた治療法」という意味です。
腰痛の整形外科的治療である椎間板ヘルニア手術も「飛び出た椎間板を外科手術で取ってみたら症状が良くなった」という経験の積み重ねにしか過ぎません。手術をしても治らない患者や、実はヘルニアを持っているのに腰痛になっていない人はどうなっているのかと聞いても答えは「分かりません」です。
整形外科でよく使われる牽引治療も、科学的根拠なんて全然ないんですよ。もちろん証明も乏しいです。

もし500年後の未来人がやってきて、彼らの間では科学的知見に基づいて、死者は生ゴミとして処分されている、なぜならそれが最もエコで科学的であると知ったらどう思うでしょうか?「世も末だ」と思うのではないでしょうか。人々は、その時代の「常識」に基づいて判断しています。

最後にこれは個人的意見であると前置きしておきますが、そのビデオというのはかなり思想的にバイアスがかかったものですね。真の科学的態度というのは事象に対して多角的視点を持って根拠に基づいて総合的に判断するものではないでしょうか。貴殿がそのビデオを見たときにそういった科学的判断がなされていたか、そしてそのビデオはそういった判断に基づくものであったのか、それをよく考えてみてください。科学というのが生半可な哲学ではないというのを痛感すると思いますがどうでしょうか。
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