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最近幼い子供を殺害した少年の学校の校長が、事件後こう言ったとか。(正確には「人の命は地球よりも重い」でしたっけ?)

よく聞く言葉です。人命の大切さをたとえた言葉なんでしょう。
わたしは、この言葉にちょっと引っかかっているんです。

これ、もとは誰の言葉なんでしょうか。

そもそも、本当に「人一人の命は地球より重い」なんて思っている人っているのでしょうか。

もちろん人の生命の尊さは言うまでもありません。自分がこの世からいなくなったり、家族や愛する人の死がどれほど重大なことかもよく知っているつもりです。

それでも、「地球より重い」なんてホントに思いますか?
全人類の命、じゃなく、ただ一人の命ですよ?
じゃあ、どこかの誰かが死なないためなら、地球一個差し出してもいいの?なんて。

これが偽善的な言葉に聞こえてしまうわたしは、冗談でなくまじめに考えています。

A 回答 (23件中1~10件)

偽善かどうかではなく、自分的な受け止め方が問われているような気がしたので再度。



「あなたが死ねば地球は助かります。死にますか?」という状況には多分ならないでしょうが…。

私にとっては「私の存在あってこその地球」です。
私がいなくなって地球が存続しても、私としてはちっともうれしくありません。
そういう意味では、私の命は地球より重いと思います。

しかし…
「愛する人の住む地球を救うために命を捨てることが出来ますか?」と問われれば「出来るかもしれない」と感じます。
その意味では私の命は地球より軽い。

(自分の命に限定した場合)命の重さも、地球の重さも状況によって代わり得ると思います。

しかし、この言葉が使われるときは往々にして「アカの他人の命」を対象にしています。
そこが、【嘘くさい】んですね。

また、この言葉を言う人に【嘘くさい人】が多いことも偽善的に聞こえる原因ですね。
・教員(日教組関係者)
・左派政党の議員
・左翼思想を持つマスコミ関係者(朝日系、毎日系)
などが好んで使うようです。

考えてみると、ダッカ事件は「日本政府が共産ゲリラに敗北を宣言した」という大事件です。
左翼思想家が好んで使うようになったのも頷けます。
そして、(うまく隠そうとしても見え隠れしてしまう)左翼思想に裏付けられた【嘘くさい社会正義】とともに語られるから偽善的なのです。

もちろん、「我が子の命」や「自分の命」の重さを語る人からは【左翼的嘘くささ】は感じません。
人が【命の尊さ】を語るとき、哲学的な「一般的な命」ではなく、目の前の(我が子、自分、愛する人の)「この命」を語る方が心に響きますよね。

「自分の命の重さは状況によって変わり得る」、「愛する者の命お重さはは何モノにも勝る」しかし、「アカの他人の命の重さを量るはかりは何者も持ってはいないし、持ってはいけない」。
私はそう思います。
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この回答へのお礼

ダッカ事件のことは寡聞にして知りませんが、
一言一句おっしゃるとおりだと思います。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2003/07/19 22:10

 「人命は地球よりも重い」は、そのまま受け取るべき言葉ではないと思います。

一人の人間を助けるために地球を犠牲にしていいはずはありません。人命の大切さを極論的に表現したものでしょう。
 こういう種類の言葉を「お守り言葉」と言います。戦前では「非国民」、戦後「民主主義に反する」などがあります。この言葉を言っておけば、誰にも文句を言われないし、相手を屈服させることができるのです。校長は無難にその場をしのぐ為に「地球より重い」を使ったのでしょう。殺された子供に対する同情心はかなりあったと思いますが、安易にお守り言葉を使わないで、自分の言葉で話してほしかったですね。
 それから、偽善的に聞こえるのは当然です。ニーチェだったと思いますが、この世には、「自分は偽善者ではない」と語る嘘つきの偽善者と、「自分は偽善者だ」と語る正直な偽善者しか存在しないと言っています。(ニーチェが正しいとは限りませんが。)
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この回答へのお礼

「お守り言葉」ですか。なるほど。
それから、ニーチェに言わせればこの世の人はみな偽善者ということですか…面白い考え方ですね。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2003/07/22 20:20

#10、#14です、以下の理由で再度回答いたします。



1.
>つまり国家権力は「地球を壊す」(誰の発言でしょう?)ことをしてもかまわないのです 。 アラレちゃん
これはよくわかりません。もしよろしかったら補足をお願いします。
2.
もうひとつ「私だけ哲学が無い」ように思えましたので言い訳します


私回答ですが、SFまがいです(虚無感に苛まれるのです)

昔、映画「 猿の惑星2 」をみたことがありました。 当時は私も幼かったのですが衝撃をうけたことは憶えております
人類がサルに支配されることが地球の運命であるならば「 地球を壊して 」やる! というわけで< 人類の叡智を発動 >させるわけです。
特に当時は、世界で戦争時代が続いたために知恵のある者が「 歯車エリートや犯罪者まがいの人々 」に虐げられた時代でもあった気がします

現在の北朝鮮の「 若くまじめなエリート 」にとっては堕落した西側経済社会に同化されるくらいなら、自分が死ぬときは地球を壊してやると思う人もいるのかもしれません。 考えてみて下さい! 仮に< 核拡散推進 >がおこってあなた方万人が、自分も平等であるために核武装したら? < 地球より重い命を守るために >そうであるべきだとしたら?

等しく公平であるために、万人の核武装が実現する前に地球上のすべての人類は滅ぶでしょう。 しかも実際にそうなる可能性はあって自分が選択を迫られているとしたら? 今の私は、「 何も言えない、なにもできないし、具体的に選択などしたくない 」です。

おそらく地球より重いか否かに真理があったとして、私が死んでも私には「 わからない 」でしょう。 ただし今の私の結論は、自分の存在や人類種の存続に目的をみいだすことができない(つまり私か人類が滅んでも、それはそれで仕方が無い ― 私のせいではない)です

旧約聖書の世界では「 人類の滅亡を恐れる者は不信心者 」であると、私(いいかげんな仏教徒)は理解しております。 しかしながらそれは「 神仏の選択であって私の選択ではありえません 」と思っております
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この回答へのお礼

それぞれの正義と真実のために、地球を壊してそれをまっとうしようという考えの人もいるんですね。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2003/07/22 20:22

まだ開いているようなのでもう一言



>しかしそれはやはり自分の命です。どこかの見知らぬ誰かが死のうと、自分にとっては毛一本抜けるほどにも重要なことではありません。

それは単なる感覚であると思うのです。本当に関係ないかどうかというのは誰にも分からないですよね?個人の感覚として「それぞれの独立した命」というのはありますが、一人が死ぬことによる地球環境への影響が無いとは言えないですよね。

地球を通り抜ける程小さな素粒子でさえ何らかの影響を与えると考えられているのですから、人間が死ぬという現象はそれなりに大きな科学反応を伴うのではないかとも私個人は感じます。

人間が死ぬことが当人とその周囲だけの問題にとどまるのかどうかという問題は物理的な視点から考えると非常に興味深い問題だなということに今回気付かせていただきました。ありがとうございます。
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この回答へのお礼

そうですね。どこかの誰かの死が、めぐりめぐっていつも買っているスーパーの玉子の値上がりになるかもしれないし。

たとえばその人の生がもたらす日本の日常の均衡が、死によってちょっとずつ他の人の行動にずれを生じさせ、数百、数千人に及び、またその数百、数千の人の行動がさらに数百、数千の人々の行動にずれを生じさせますね。

だれかさんが生きていれば、本来遭遇しなかったはずの車一台のすれ違いやスーパーのレジの列の一人分がわたしの人生に与える影響、となれば、もしかしたらわたしの人生を変えているかもしれませんね。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2003/07/21 11:55

今会社におります。

ちょっと時間がありますので、
投稿させて頂きます。21名もの方々が投稿されてます
が、全部読ませていただく時間はないので、重複してい
たらごめんなさい・・・
けど、多分もっともご納得のいく答えだと確信しております。

哲学のカテゴリーなので、哲学的に考えますと、
貴殿のご質問は「価値論」の話しになると思いますが、
まず、1番大事なことは、あるものの価値を論ずるのに、
その「モノ」が作られた目的が無い場合、
その「モノ」の価値は本源的には無いと判断します。
(本源的と敢えて言ったのは、途中で誰かが、その無価値
なモノを価値があると認めれば、それはそれで、価値が
あると解釈できなくもないからですが、そのような
例外は今回は考えないこととします。
なぜなら、生物の発生起源という本源的な価値を論じ
たいからです。)

そもそも、価値を認めるかどうかは、その「モノ」自体
が決められることではないのです。
その紐が1mあるかないかは、紐自体が決めることでは
ありませんね。計ろうとするモノの尺度・基準・ものさし
は、そのモノ自体の内部にあってはなりません。
それでは、自分本位でどうにでもなってしまいます。
だから、日本の国にも、法律があり、人間関係の社会的
有り方を規定しているわけです。
尺度・基準は、評価・判断しようとするモノ・行為の、
外部になければならないのです。

ですから、人間がもし偶然にこの宇宙に発生した産物
なら、本源的に「存在価値」は無いのです!!
なぜなら、作られた目的=創造目的がないからです。
自分がいくら千回万回「俺は価値がある~っ!!!」と
叫んだところで、それは単なる自慰行為でしかないのです。
自己満足でしかありません。哲学的に論理的、実証的に
真の価値が、その人間にあるわけではないのです。
ですから、偶然に進化した突然変異のなれの果てが
人間だというのなら、そんな存在に尊厳性があるはずも
ないし、地球より重いわけがないのです。

しかし、もし、人間が神様によって創造された存在なら、
つまり、創造目的があるのなら、人間は、神様にとって
「存在価値」があるのです!!
「自分の為に生まれてきた!」と言える人は
有史以来一人もいません。
なのに、自分の為に生きる、なんていうのは、
本来ナンセンスなのです。それは二の次なのです。

じゃ、誰の為に生まれてきたのか?
単なる偶然なら、誰の為でもないですね。
しかし、神様が人間を創造されたのなら、人間は、
神様の為にまず生まれてきたといわざるを得ないのです。

そして、大事なことは神様は、全知全能でも、お一人では
愛することはできないということです。
「喜び」を感じることは、「愛する対象」がなければ
神様でも不可能だということなのです。
だから、神様は人間を創造されたのです。
それ以外に考えられますか?全知全能だという神様が
愛を必要とされない方なら、一人で楽しめば良いでしょ?
なのに、人間を創造されたとするなら、その理由は
「愛」しかないのです。
人間を愛する子供として創造し、そのために、先駆けて、
森羅万象をお作りに成ったのです。勿論地球もです。

貴殿は、偶然に、いちごやりんごや、ミカンや
パイナップルや桃やバナナやぶどうやナシ等等・・・の
種が人間の味覚に合うように、たまたま、この地球に
根付いたと、思っていらっしゃいますでしょうか?

全ては人間のためなのです。
美しい花やその香りを楽しむ動物が人間以外にいますか?
なのに、なぜあんなにも美しいのでしょうか?

ですから、人間は神様の愛する子女なのです。
貴殿には御子さんはいらっしゃいますか?
もし、何人かいらっしゃる御子さんの一人でも、
病気で死にそうになったら、全財産を投げ打ってでも、
治療費を捻出して、その子を救いたいと思うのは
親の心情でしょう・・・
神様も、それと同じ心情をもっていらっしゃいます。

むしろ、神様がそのような「心情の神様」なので、
神様に似せて創造された人間も又心情的存在なのです。

だから、地球より重い存在なのです。子供だからです!
神様にとって、「地球より重い」のです。
隣の他人にとって、beat118さんの命が地球より重い
のではなくて、神様にとって、beat118さんの命が
地球より重いのです。そして、あなたのご両親も、
きっとそう思っていらっしゃるのです。
愛とはそれほど尊いものなのです。
「愛」が尊いので、愛する対象として創造された人間も
また尊い存在なのです・・・。尊厳性があるのです。
神様と神様の愛がなければ、尊厳性も善も悪もなにも
ない世界になってしまうのです。分かりますよね。

それでは、今日はこの辺で・・・

この回答への補足

welobekobeさん、貴重なお時間をさいて一生懸命に回答していただき、心から感謝いたします。

補足日時:2003/07/20 13:52
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>それでも、「地球より重い」なんてホントに思いますか?


全人類の命、じゃなく、ただ一人の命ですよ?
>これが偽善的な言葉に聞こえてしまうわたしは、冗談でなくまじめに考えています。

「地球より重い」って言葉を聞くと、私は、「この偽善者め!」というより「この高慢チキなノータリンめ!」と思ってしまいます。

たぶん私は、たとえ全人類の命だって地球より重いわけはない、という自然の摂理を疑ったことがないからでしょう。

地球が滅びれば、人類は間違いなく滅びるでしょう。しかし逆は真ならず。むしろ人類が滅びれば、かえって地球は元気を取り戻す筈です。

なぜ人間て、いとも簡単に人類を特別崇高な存在として差別化しちゃうんでしょうか? 甚だしいカン違いですよね。

だから、比喩的にせよ地球と人間の命を対比させる考え方は、客観的かつ冷静に判断して、著しく適性を欠いていると思いませんか?

少なくとも20世紀以降、地球にとって人間は、百害あって一利なしの存在です。その存在自体が地球に災いをもたらします。そういう意味で、地球は、畑のミミズの命の方がずっと重いと感じているでしょうね。
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この回答へのお礼

地球(自然)にとっては、人類(の命)なんて取るに足らないものだということは同感です。地球よりも重い命なんて、思い上がりですね。その観点でいけば地球のほうが人間の命より当然大きい。

話はそれますが、

わたしは、人間が地球に害を与えているとは思いません。そもそも地球(自然)に、利や害などという概念はないので。
たとえ人間が山に空き缶を捨てようと、海に膨大な化学物質を流そうと、大気層にガスを出そうと、それが地球にとって害だとは考えません。昆虫が糞をしたり土の塊を壊したりするのと同じレベルの自然の摂理(あるがまま)だと思います。地球が砂漠化しようと、死の星になろうと、不都合なのは生物であって、地球にとっては、そうあるがままのことだと思います。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2003/07/19 22:04

こんにちは。



●もとは誰の言葉・・ダッカ日航機ハイジャック事件(77年)では、拘置中の連続企業爆破グループらの釈放を求めてきた。このとき、日本政府は脅しに屈して「人の命は地球より重い」として仲間のテロリストを超法規的措置で釈放させるとき、当時の福田赳夫首相が言い訳として使ったもの。

●そう思っている人がいるのか・・思っている人もいれば
思っていない人もいれば、比較などして考えることすら無駄と思っている人などなど、言わずもがな、人それぞれ千差万別だと思います。

予は、正解のない“理想論・表現”だととらまえてもらえるならば、殆ど反論などは出ることもない妥当解になるような気がしますが如何でしょうか。

あえて 白か黒か、右か左かと、最終結論を引き出してしまおうとすればするほど、際限なくどこまでも、延々と続くお話だとも言えるのではないでしょうか。

●引っかかっている・・問題意識をもっておられる証でも
あり、とても素晴らしいことだと思います。

シンプル・イズ・ベストのオブラ-トに包んでグイッ!と
一飲みで腹に飲み込めば、スッキリするかも知れません。
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この回答へのお礼

際限なくどこまでも、と言えばそうですね。「いろいろなことを言う人がいるな」と、片付けてしまってもいいのです。
しかし、ウソや偽善がマスメディアに乗っかるとそれが巨大な力になり、多くの人の考えや行動に影響を及ぼしますね。

だからどうした、って言われればそれまでですけどネ。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2003/07/19 21:48

う~ん。

。。
「人一人の命は地球より重い」っていうのは
比喩的な表現なのですから、それくらい「生命」
というのは、尊いものだと言う事じゃないですか?
ただ1人の命、されど1人の命。生命というのは
小さいけど、大きい。難しいです。
なんていうか。。。そんな都合よくないですょ。きっと。
私は「命なんて、人によって価値が違うもの」
だと思っています。
そんな深く考えなくていいと思うのですが。
みんなそんな深く考えずに生きているんですから。
毎日が楽しいって人にとったら命は大切なものですね。
でも、自殺をしたいと思ったりしている人にとったら
命なんて、そんなもんです。

なんか、お話がずれちゃって気もしますが(すみません)
へっぽこ14歳の意見です。
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この回答へのお礼

若い方からの意見をいただいてうれしく思います。

わたしは年齢とともに、世の中の、特にマスコミなどで目にする言葉の偽善というか、ウソというか、そういうものに敏感になってきているつもりです。

よく耳にするカッコいい言葉。マスコミの、社会批判。自分の考えが正しいと信じて疑わず声高に批判・説教する人たち、…

「なんか、ウソくさいなー」という場面がいっぱいです。で、今回はこのような質問をしてみました。

>命なんて、人によって価値が違うもの
その言葉にも納得できます。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2003/07/19 10:02

人一人の命は地球どころか全宇宙よりも貴重であり、尊いものだと私は思っています。

同時に、宇宙は人間そのものであり同じ命だとも思っています。つまり、故意に人命を奪う行為は宇宙を破壊する行為と同じだと思っています。

私は、人間一人一人はそれぞれに内的宇宙(精神世界)を構成しているとも考えています。内的宇宙はその世界において無限に広がっています。それは、個人という限定された物質の中に存在しながらも、現実に存在する宇宙全体をも凌駕してしまう空間または広がりをもっています。
内的宇宙の可能性は誰にも計ることはできないですよね。だから、人の命は間違いなく地球よりも貴重で尊いと私は思います。計れるものと計れないものという違いも、そう思う一因です。

私は欲深き偽善者ではありますが、人の命についてはそのように本気で思っています。凶悪殺人犯などの死刑については肯定の立場をとっている点が矛盾しているかもしれないと一瞬思ったんですが、自分を殺しに来た人間に「あなたの命は貴重だから。」と自分の命を差し出すのは愚かな行為だと思うのでやはり肯定でいいかなと・・。自分自身の命が自分にとって一番大事であるという点は変えようがないですが、自分を殺しにやってこない限り同等の貴重な命であります。

「人一人の命は地球より重い」というのは一つの生命観なので、私自身は共感していますが、beat118さんのように思われる方もいて当然です。
「母の愛は海より深い」という言葉から福田元首相が発想したのではないかなと私は感じているのですが、「海の深さって?どこの?」と思う人だっているわけですしね。
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この回答へのお礼

みなさんの回答を読んで、だんだん考えが整理できてきました。

人それぞれ、自分の中には宇宙(mktoolllさんのおっしゃる「内的宇宙」)に匹敵する世界があります。人一人存在しなくなれば、一つの宇宙が消滅してしまいます。

だから「人の命は地球どころか宇宙に匹敵する」とも言えるのです。

しかしそれはやはり自分の命です。どこかの見知らぬ誰かが死のうと、自分にとっては毛一本抜けるほどにも重要なことではありません。

でも、その人やその人の関係者にとっては大変なことです。

つまり「人の命は、その人や家族にとっては、地球一個に匹敵するほど重大なことだ」ということで、それを踏まえれば、「他人の命も軽んじるべきではない」というのが真実だと思います。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2003/07/19 09:48

私も他人の命が地球より重いなんて思いません。


beat118さんがおっしゃるように、
>「オレにとって、オレの命は、地球(宇宙)全部に匹敵するほどのものである」
これが一番わかりやすいですね。

ここで、「相手の立場に立って考える」なんて、学校でありがちな
教育方針を持ち出しますと、「オレにとって」は実は
「アイツにとって」でもある、とか理解してみると、誰にとっても
「地球より重い」って結論が自然になってしまううんですね。
あながち偽善だけでもなさそうな気が。

ところが実は、「人一人の命は地球より重いが、オレの命よりは軽い」
が本当のところですよね。だけど、そんな個人的なことを言うと
かっこが悪いから「人一人の命は地球より重い(以下略)」ってことだと
思えば、まぁそんなところかな、という気がします。
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この回答へのお礼

>「オレにとって」は実は 「アイツにとって」でもある、とか理解してみると、誰にとっても 「地球より重い」って結論が自然になってしまううんですね。

これですね。納得しました。よくわかります。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2003/07/19 09:33

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