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生産物地代と貨幣地代
西洋では中世後期には税が現納から銭納になっていったようですけど、
日本ではどうして年貢が現物のままだったのでしょうか?
日本でも貨幣経済は発達していったし、農民は商品作物を作ってたみたいですけど。

A 回答 (3件)

貫高制では、米1貫は金一貫でした。



これを検地尺を一尺とし、枡を京枡に統一。
石高で表示させたのが太閤検地です。

江戸時代に入ると小判が作られます。
慶長小判では金の含有量が85%以上と言う質の高さでした。

当時の武士は大きく分けると、
知行取り。(領地を拝領した者。)蔵米取り。(米○石を貰う者。)
に別れますが、切米は年3回に分けて支給されます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E7%B1%B3

当時の知行とは石高を意味し、金山銀山は天下人の物でしたから、
大名以下、米価が命であったのです。

幕府の貯蓄は5代将軍、徳川綱吉の時代に最大になります。
これは初期の米価が安定していた事によります。

新田開発と農業技術の進歩で米価はどんどん落ちて行きます。

8代将軍吉宗は、年貢を四公六から五公五民にします。
また、定免法で取れ高に関わらず一定の年貢を納めさせます。

田沼時代に入ると「重商主義」となります。

天保年間には人口は農村から都市部へ移動していました。
人返し令で農村の人口を確保しようとします。

貨幣経済の時代に重農主義政策はうまく機能しませんでした。

田沼時代には幕府の制度自体が傾き始めていたのだと思います。
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当時の年貢の徴収は村請とよばれ、村ごとに年貢が割り当てられていました。


貨幣経済が本格的に浸透したのは明治時代です。
江戸時代に全国津々浦々に貨幣経済が浸透して、どこの国の山奥でも簡単に米と貨幣を交換できるというわけには行きません。

米商いが激しく行われたのは江戸と大坂で、米は藩や大身旗本がまとめて彼らにおろしていました。
村ごとに銭を用意するのは無理があります。
商品作物についても、おもに都市部周辺で生産されていたもので、全国のほとんどの農家がというわけにはいきません。

あと、もし強引に全ての米を貨幣経済にのせようとしたら、著しい貨幣不足を起こしたでしょう。
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秀吉からの石高制度がうまくいったのと、徳川幕府の貿易統制がうまくいったため。



後北条家の段階では銭納です。

銭が安定して供給できないのに、経済規模が拡大した。
この状況をうまくまとめたのが石高制度。

なんせ、農業生産が主力の時に農業生産物である米を通貨の基準にしたのですから。これなら簡単にインフレもデフレもない経済運営ができます。

では西欧での銭納が進んだのはどんな時代?といえば、イングランドで羊毛をつくり、フランドルで毛織物にするという貿易体制が成立した段階です。国家規模を超えた商業、つまり貿易が活発になった段階です。
徳川幕府は、完全に貿易統制を行ったので、既存の石高制度での通貨基準を変更する必要がなかったということになります。
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