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ニート・引きこもり・あるいはうつなど精神の傾向は ふつうの社会現象であるに過ぎない。


 まづつぎのような随筆を見かけました。その場合は表題としても《精神疾患は社会の病気》というものですが その《病気》の部分を社会思潮であり社会現象だとして読んでみてください。

 ◆ 大野裕:精神疾患は社会の病気 ~~~~~~~
 〔こころの健康学・日経2010・10・08夕刊7面〕
 ――立ち場によって男女比変化

 しばらく前 このコラムでうつ病になるのは女性が多いと書いた。うつ病と診断される女性の数は 男性の二倍であることが分かっている。アルコール依存などは男性が女性の二倍になっている。

 女性にうつ病が多いのは 月経や出産 更年期などの女性ホルモンの変化が影響するからだと考えられている。そうした体の仕組みの違いだけでなく 社会的な立場がそれ以上に強く影響している。

 ところが その立場が変わってくると 精神的変調の表われ方も違ってくる。世界保健機関( WHO )の国際比較研究を見ると 女性の社会進出が進めば うつ病やアルコール依存の男女比の差が小さくなってくる。うつ病では女性の割合が減り アルコール依存といった男性に多い精神疾患では女性の割合が増えてくるというのだ。

 この傾向は国際共通だが 女性が社会進出するようになると ストレスへの対処の仕方が違ってくるのではないかと考えられる。

 社会的な立場が弱いときには 内向的になって心の中で悩む傾向が強くなるが 社会のなかで自分の立場を主張できるようになると 行動を通して悩みを発散する傾向が強くなるのかも知れない。精神疾患は単に脳の病気や心の病気だけでなく 社会の病気なのだと思えてくる。
 (大野裕:慶応義塾大学保保健管理センター教授)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ さて 一般に上に立つガミガミ役に対して下に身をおくアース役。前者が一般に 意識の排泄をおこない 後者がこれを受けとめる。
 この関係を広く

  《アマテラス( A )公民主導‐スサノヲ( S )市民従属》連関
  
 と呼ぶことにします。これは そもそもふつうの主権在民=スサノヲイズムをさかさまにした連関関係ではないでしょうか。
 この《逆立 A - S 連関制》から成る社会のあり方によって――《アース役》であることを通じて―― 世間でわざわざまちがって《精神疾患》とさえ呼ぶような精神にかんする社会現象のすべてが起きている。のではないか?
 アース役である人たちから 主婦である女性 あるいは 子どもたちへといわゆるしわ寄せが行くのではないか?

 この見方について 見るところ感じるところ考えるところをお聞かせください。

 引用の随筆について解説をしていただける方は おしえてください。

 この質問は
 【Q:ニートや引きこもりは 未来社会への陰画だろうか】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6191141.html
 
 【Q:・・・うつなど精神疾患は 社会源病だ。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6236569.html

 を継いでいます。

A 回答 (24件中11~20件)

今までしてきた回答と前後する回答になりますが、プレッシャーを感じないKY組と、プレッシャーを感じるKY組というのがあって、後者のほうがつまり解決されるべき課題を持っているのではないかと思います。

そのためのブレンド語であるなら、それはどのようなものでしょうか。
Sの特徴は、素直、飾らない、素朴、口語的、男女差があまりないと思う、友好的など。
Aの特徴は、肩肘張っている、きっちりしている、文語的、論理的、格式的など。
まったくの私の主観で述べていますが、このような印象を受けます。
世間に通用するためには適度にA化しなければならないと思うのですが、ブレンド語の特徴と言えばずばり何でしょう。物怖じしないと同時に、忍耐があるとか、からっとしているけれど言う事は言っているとか、相反する要素を両方備えていてしかも調和が取れているといった印象を持ちます。

物怖じしないは、フラストレーションがたまらない。忍耐があるとやわらかい。からっとしているとストレスがたまらない。言うこと言っていると交通がスムーズ、など。
各自これらを生成?するかんじになるのでしょうか。
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この回答へのお礼

 ひかりの波さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 いやぁ ぜんぶおっしゃるところのようだと思います。
 ★ プレッシャーを感じない KY 組と、プレッシャーを感じる KY 組というのがあって、後者のほうがつまり解決されるべき課題を持っているのではないかと思います。
 ☆ この点は 気がつかなかったところです。前者のほうは 何らかのきっかけを得て 自分の課題や社会における問題といったことを意識し知るようになるというところでしょうか。

 ★ ブレンド語
 ☆ という言い方も分かりやすくてよいと思いました。

 そのほかについては 《肩肘張った》理論として わたしも考えたことがあります。ひけらかしが好きなようで かかげておきたいと思います。

    *

  § 《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関

 1. 人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。
 《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。
 《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。

 2. 強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。
 S者なるわたくしの身体の運動は 一般に社会における生活の中で 自己のA者なる精神によって 記憶され知解(了解・意識)されまた 記憶にもとづき 知解されたものごとを 人はこの身体の運動とともに 意志する。
 《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となると言えるようです。

 3. わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて 公民の領域を兼ね公民としての役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として公民の役割を担う者も 制度として 存在します。いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。

 これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。選挙権を行使したりします。
 ここで差し支えない限り 一般の市民を単にスサノヲと言ったり 従ってもっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。 

 4. 次に初めに帰って S者が身体の運動をその基礎とし A者が特には S者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。
 これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味では S者は 主観であり 人間語です。A 語は 学術語あるいは人格語です。

 5. 主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴なっていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。

 6. すでにここで客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。

 7. このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 一般的な性格を持ち 《共同の観念》をかたちづくると見ます。

 8. 主体的な生きたA語客観は 主観として殊に 《共同主観(common sense=常識)》であると考えます。
 より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。

 9. 主観が社会的に共同化されて 共同主観となるばあいには このようにS者がA者(A語・A概念)をとおして 生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が 協働性を含むことは 言うまでもありません。
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 共同観念は 思潮や風潮であるとかあるいは大きくナショナリズム(民族主義・国家主義などなど)だと見ます。
 共同主観(つまり A 語普遍性をうまくブレンドした S - A の連関としての主観)が さしあたって問い求めるところだと考えます。

お礼日時:2010/10/17 19:18

観念の運河の話になりますと、話は初めの方に戻って行くと思います。


自分で流れを作りながら進むという事であるなら、誰しもにもできそうに思います。それが、調和の取れたSとAのブレンド語なのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 つづいてですね。

 分かりました。社会を覆っているかも知れない大きな空気については カッコに入れておいて(不問に付して) あらたな考えを持ち行動を起こすということですね。

 ううーん。素朴な感じのうたがいなのですが 口笛を吹きながら作業をしたり 胸毛が出るくらいのファッションをしたりというとき それでよいかどうかを判断する常識は いまのところ観念の運河の側から来るように思ったりします。

 それだから ニートにしろ引きこもりにしろ KY にしろ 消極的な――陰画としてのような――かたちでしか あらたな行動に旅立ち得ないのかも知れないと思われるのです。

 でも あたらしい動きとしての
 ★ 調和の取れたSとAのブレンド語
 ☆ の生成にのぞみを持ちます。

お礼日時:2010/10/14 00:10

ぶらじゅろんぬさん。

こんばんわ。
ご返信ありがとうございます。
例によって読みきれていませんが、
反応しちまったところだけ一言回答です。
といいますか、確認です。

9番の「苦しい人たち」の中に、
お二階さんも含まれている(皆苦)、
というのは伝わっているでしょうか。

会社(準二階?)が、国(二階?)に
苦しいぢゃないか!一階さんとかいろいろ!
と訴えることができたとして、

ピラミッドの一番上(終着駅?)の人は、
どこに何をしゃべったらよいと思いますか。




すみません、言いっ放しですが、
たぶんまたしばらく休止中です。
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この回答へのお礼

 こんばんは ニュウトラルさん。ご回答をありがとうございます。

 はじめ何やらむつかしいなぁと思っておりましたが なるほど簡単なそれでいて一点突破としてかなり有効な方策を明らかにしておられましたか。
 (ということを いま――ひどっちさんとのやり取りを終えてあらためて読んだところで――気づきました)。

 つまり
 ○ 首相も内閣もお役人のみなさんも 会社の側からも地方自治体の人びとからも みんなが しっかりとはっきりと 苦しいですよねと言う。
 ☆ ここから出発せよと。みなが皆に訴えあったなら そこでそのあと互いに 苦しいですよねとねぎらい合える。
 そうすれば 《終着駅は いいですよ 手前どものところで少しは負担したく思います。手前どころは 人さまと比べれば まだ少し余裕があるようですから 少しだけでも負担させてください》という申し出が出て来るであろう。
 《僭越ですが わたしどもにおいても 少しは最終のごみ処理工場の役割を担わせてください。少しだけ余裕があります》。
 という申し出がつづくかも知れない。

 それでこそ 人間だ。


 という筋書きは やはりずうずうしいわたしだからこそ書けたのかも知れません。

お礼日時:2010/10/13 23:40

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiでございます。

(1)どうもその認識論が いまの《自己責任》論には応用されているのではないかと思ったというお話です。

 はい。定義が不明瞭ですので、言葉そのままの解釈がなされているかと思われます。

(2)福知山線の事故をめぐる《自己責任》論につきまして  
 論理自体はごもっともなのですが.......

 この問題につきましては、愚生は次のように考えております。つまり、(あ)の問題(イラクの人質問題がそれに相当するものかと思われます)からしましても、私人-私人同士での「自己責任論」は元来、適応範囲外の問題であるかと考えられます。また、そもそも、そのマンションの建築許可を出したのは、市当局であります。そして、市からの許可が下りたものにつきましては、一般市民は安全性当を信用すると思うのです。さらに申しますと、一般人が、マンション住民の「自己責任」といったことを述べるのはオカド違いであり、まずは、建築許可を出した市(行政)にその責任を問うのが筋かと考えております(この「自己責任論」を耳しましたときには、市の担当者と「自己責任」を叫ぶ人たちとは、お友達関係にあるのかと思ってしまいました)。
 もし、この「自己責任」を認めてしまいますと、とても厄介な問題に直面するかと思われます。例えば、愚生の空の上をK国際空港からの飛行機が飛んでおります。そして、K空港が出来上がった後に、愚生は今の住まいに越してきました。もし、その飛行機が落ちてきた場合、「墜ちてくることは想定の範囲内だろう。引っ越してきた者も責任がある。この理由から、過失相殺すべきである。」と言われますと、言葉に窮してしまいます。愚生は賃貸ですので特に問題はございませんが、家を建てられた方達はそれでは納得はしないと思われますし、また安易に過失相殺を認めるべきではないと思うのです。
 換言いたしますと、原則、私人-国家(為政者)との関係に限定されるべきかと考えております。ただ例外としまして、ある範囲内で厳密なルールが存在し、参加・不参加の”自由”が許され、かつ自己の判断のみで得られた結果の正否が、明確かつ容易に想像可能な世界(例えば、相場の世界等でございます)に対してのみ、「自己責任」が求められるべきかと考えております。

> ガミガミ役とアース役との織り成す社会力学の模様の中から スサノヲ語を大切にしたいと暗黙のうちに言って 枡の縁をこぼれ出た人たちあるいは枡の均(なら)し棒で均されて押し出されてしまった人たち これを公正な科学的アマテラス語は どう捉えるのか?
 A 語と S 語とを総合しまとめ切った人間の言葉によって考え出された人間〔と社会と自然〕の科学は どうすれば実現しましょうか。

 申し訳ございません。本論なのですが、この問題につきましては、明日にでもご返答できれば と思っております。

(3)neutral様からも、ご意見が出ておりましたので、勝手ながら、この場をお借りし、愚見を列記させていただきます。
> 「自己責任」という名目で責任放棄をしている

 まさしく愚見の意図するところでございます。

 そして、
> 「苦しい人たち」が、「(言葉を使いまくって)助けを求める」ことをしない、
というのが一番の問題のような気がするのですが、

 も、まさしく、問題かと思っております。ただ、「日本は自由主義経済の国であり、競争の原理で動いている。そこには、元来の年功序列のようなものは存在せず(本当は存在しているのですが)、夢と希望を持ち、前進しよう! そして勝ち組になろう!」との風潮はあったかと思われます。そんな中で、おそらく、お若い方達は飛び出してしまったのではないかと推察しております。そして、いったん、飛び出した以上は、後戻りできなく(言い訳もできなく)なってしまったものと解しております。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん こんばんは。みなさんから盛りだくさんです。ご回答をありがとうございます。

 人間と社会と自然の総合科学が俟たれます。世界的にと言っていいでしょうか。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もし、この「自己責任」を認めてしまいますと、とても厄介な問題に直面するかと思われます。例えば、愚生の空の上を K 国際空港からの飛行機が飛んでおります。そして、K 空港が出来上がった後に、愚生は今の住まいに越してきました。もし、その飛行機が落ちてきた場合、「墜ちてくることは想定の範囲内だろう。引っ越してきた者も責任がある。この理由から、過失相殺すべきである。」と言われますと、言葉に窮してしまいます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ お二階さんの責任回避だともいうことですが この《自己責任》論は どうもけっきょく《しわよせ》理論であるに過ぎないようですね。その論者本人にもけっきょく同じように不利な場合がありうるのだけれど その一時点においては 弱い者を叩き責任を負わせるというしわよせ策であるように思います。
 つまり 誰もが苦しく責めを負えない状態にある。しかしそのままを認めたなら 何もできず前へ進まない。ならば 取れるところから取ってしまえというような・きわめて単純な論理であるのかも知れません。

 ★ ・・・おそらく、お若い方達は飛び出してしまったのではないかと推察しております。そして、いったん、飛び出した以上は、後戻りできなく(言い訳もできなく)なってしまったものと解しております。
 ☆ 豊かな国の中にいて すでにさらにあらたな夢を追い求めてもよいと考えた。むしろ自分たちから飛び出した。このスサノヲイストらは 自分から飛び出したからには 弱音を吐くわけにはいかないと思っている。・・・というわけですね。

 直後(No.12)のやはりニュウトラルさんの問いにも できましたらお願いしてよろしいでしょうか。なにやらむつかしいようです。

お礼日時:2010/10/13 23:27

私の思うところでは、大多数がむしろ省略されており、マイノリティは実は結構発言力があるということです。

KYだから、ある意味図々しく出て行けることがあるかもしれません。故に、KYが、地下水の圧力で忽然と現れた泉のようなものだとすると、案外、KYは汲まれているのであって、むしろ省略された大多数の声はいったいなんであるかを探るのも大切かもしれません。社会的弱者の数が増えれば国力は弱まるわけですし、いまや多数の人が疲弊しているようですから、国全体としては↓になっているでしょう。
省略された声の本質は一体なんなんだと、結局締まり、互いの監視が強すぎるのかなとも思います。胸毛ぐらいは出しても良いんじゃないかと。クールビズでは・・・

昔、軽作業のアルバイトをしているときに、口笛吹きながら作業していたら叱られました。口笛吹きながらなんてだらしないと。私は思いました。それくらいいいじゃん。そう思いませんか?それくらいいじゃん、と。ということで、それくらいいじゃん節を広めると言うのは如何でしょうか。ささやかな寛容です。決めるところは決めたなら、あとはもっと余裕を持っていてもいいと思うんですよ。四六時中張り詰めていたら緊張が解けなくなってしまって、一週間と言う川の流れに溺れてしまいますよ。私はこういう些細な不寛容に弱いのです。精神世界はまだまだ封建制?でしょうか。

日本人はもっと砕けた方がいいですよ。
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この回答へのお礼

 ライトヱーヴさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。感じたままになるかも知れませんが。
 ★ KYが、地下水の圧力で忽然と現れた泉のようなものだとすると、案外、KYは汲まれているのであって、むしろ省略された大多数の声はいったいなんであるかを探るのも大切かもしれません。
 ☆ わたしの感じるところでは この《少数派 KY の声》と《大多数の声》とは 文字どおりには一致していないかも知れませんが 案外おなじであるのではないか。こう ふと思いました。
 もし KY の声が案外人びとによってまた上の層からも汲まれているとするなら 声なきマジョリティは多かれ少なかれうらやましいわけですが それでも結局は 同じ方向を向いているでしょうし ひとことで言えば 平等をともなった自由 というところにあるようには思います。

 もし
 ★ 結局 締まり、互いの監視が強すぎるのかなとも思います
 ☆ の情況において 少数派 KY の声を汲み上げると言っても そしてその声の願っていることが多数派の思いと同じであったとしても うまく実際にはたらかないような感じを与えている。あるいはまったく実際の施策はまだ始まっていないかだと思われます。
 わたしは――たしか吉本隆明の言葉だったと記憶しますが―― 《観念の運河》と言っています。人びとの集まるその場のあるいは広く社会一般の場の《空気》とそれの持つ力学的な重さや伝達のあり方 これを 《観念の運河》と言っています。社会の中で人と人が集まったなら その互いの関係として自然と穿たれて行くようになっていて その運河を航行するのがふつうだというふうに現実になっていく。それが きわめて常識なのだと思われているのではないでしょうか。
 しかもこの運河航行のならわしは すでに意識することもなく 人びとは その現実につき従っているかに思われます。つまり 空気になっている。

 たぶん たとえ知らない者どうしの二人が出会ったという場合を取ってみても そのとき互いのあいだにすでに――その互いに出会った頭の中には観念の人間関係が次第にかたちづくられて行き―― 一定の上下関係( A-S 連関)が むしろただちにインプットされるとさえ言っても 事実から遠いとは思われないかも知れない。この A-S 連関が記憶におさめられるなら あとは 運河の道筋は見えて来るのであり じつは・じつにそのひと筋はすでに全国ネットワークにつながり さらにさらに延びていくかに思われます。

 ですから 少数派の KY の声にしても 多数派の声なき声にしても 大概はけっきょく同じなのであり しかもそれにもかかわらず 時にその声が汲み上げられたとしても いま上に――推測において――触れた観念の運河のネットワークに運よく漕ぎつけることができなければ けっきょく通行手形が発行されずじまいに終わってしまう。ということではないだろうか。

 ★ それくらいいじゃん節を広めると言うのは如何でしょうか。ささやかな寛容です。
 ☆ 冷めた目で答えるならば 運河の道筋や航行規則にいちじるしく触れないかぎり 自由は与えられるでしょう。けれども 運河の醸し出している観念あるいは空気 これにさからうと思われるような――わたし bragelonne の考えのような――発言に対しては エラーを出してしまうかと思われます。

 ★ 精神世界はまだまだ封建制?でしょうか。
 ☆ ですからあたらしいファッションにも寛容でありむしろ貪欲に求めていると思うのですが 長い歴史のあいだに染みついた観念――しかも 人びとはこの観念は同じであると互いに暗黙のうちに《信じて》いるその観念――については 保守的であるようです。

 おそらくまづはその観念の運河の正体をよく知るようにすることから始めることがいいのではないでしょうか?

 考えてみると これは憶測の議論になっています。観念の運河なんて見えませんから。でもかなり昔から考えて来ていますので わたしの中ではすでに現実です。さて 一般的な有効性を持つでしょうか。

お礼日時:2010/10/13 23:08

ぶらじゅろんぬさん。

おはようございます。
暑いです、朝から26度です。
ご返信ありがとうございます。
例によって読みきれていませんが、
つい反応しちまったところだけ、一言回答です。

ライトウェーブ様は、「二階(三階か?)皆苦」
さらに「言葉の省略」とおっしゃっていますね、
ひどっち様は、二階さんが「お二階さん」が
「自己責任」という名目で責任放棄をしている、
(で合ってるだろうか)とおっしゃっていますね、

以心伝心とか阿吽の呼吸が通用しなくなったのに
「見ざる言わざる聞かざる」が残ってるんでしょうか。

わたしとしては、「苦しい人たち」が、
「(言葉を使いまくって)助けを求める」ことをしない、
というのが一番の問題のような気がするのですが、

わざわざ助けを求める必要のなかった
(空気を読んで済ませた)ころの空気の残骸ですか。
助けを求めてはいけない(人に迷惑かけてはいけない)、
のような「ならわし」の残骸ですか。


挨拶代わりに「苦しいぢゃないか!」とでも
言い合いましょうか・・・。
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この回答へのお礼

 いやぁ こんところ みなさんの思惟についていくだけでハーフマラソンを走ったような感じですね。(実際に走ったことはありません)。

 にゅうとらるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 直前のひどっちさんへのお応えを書いたところです。筆の力が及ばないと言いますか まだ勉強不足と言いますか 考えが足踏みしています。

 ★ 挨拶代わりに「苦しいぢゃないか!」とでも / 言い合いましょうか・・・。
 ☆ たしかに。いっそのこと アース役の訴えによるごみ発生情報をでも 会社でも家でも世界においても 報道し合うというのも 手かも。台風のように予報も出すことが出来るようになるかも知れません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 わたしとしては、「苦しい人たち」が、
 「(言葉を使いまくって)助けを求める」ことをしない、
 というのが一番の問題のような気がするのですが、
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはですね。きちんとした情況において(何か特殊な条件がはたらいているのではない普通の情況において) きちんと訴えた・あるいは助けを求めた という事例が一件でもあれば そしてその場合 けっきょくゆえもなく却下されたというのであれば もう人びとは悲観して声を挙げなくなるとは思われます。
 《ゆえもなく》というのは たとえば会社の存続にかかわるという理由(もう人員を整理しなければやっていけない)も入ると思われます。社会ないし国の支援という場に きちんと受け継がれれば 問題ないでしょうし 受け継がれないならば 会社を非難するというのでなく《ゆえもなく訴えを却下》だと思われます。
 自給自足ではなく 分業しつつ協業しあうという成り立ちの社会のもとでは 労働の義務は就職についての社会的な保障と一体であると思われます。そういう連帯責任(?)だと感じます。

 ということは
 ★ 「苦しい人たち」が、「(言葉を使いまくって)助けを求める」ことを
 ☆ してもまったく問題ないとは思います。


 声を挙げない・助けを求めないのは どうしてか。

 その昔 優秀なアマテラスさんたちに お二階をこしらえてそこに住んでもらってその能力を十二分に発揮してくださいと 国ゆづりしたスサノヲさんらの思想上の子孫だとでも思っているのでしょうか。
 ゆづったからには 自分のほうから返せとは言えないと思っているこれまた純粋な人たちであるかも知れません。

お礼日時:2010/10/13 11:14

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiでございます。

 この度は、愚生のわがままをお聞きいただきまして、厚くお礼申し上げます。

> その天皇ごっこをしない人たちも それを見て見ぬふりをしているのか そんなことはもうどうでもよいと思っているのか いづれにしても 何も言わなくなったのでしょうか。

形式化された「自己責任論」?
 
 以下に、NHK「クローズアップ現代」で放映された内容(概略)をご紹介させていただきます。
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10439961956.html 

 北九州市で、39歳の男性が孤独死(餓死)した という内容でございます。
 NPO北九州支援機構の代表・奥田知志さんの意見を掲げさせていただいておりますが、基本的に愚生も意見を等しく致します。
 
<「自己責任論」というのは、個々人に責任があるということを一見言っているように見えるのですが、実際のところは、社会の側や、周りの人たちが助けないための論理だと思うのです。それはあなたの問題だと言い切ることによって、社会の側は手を貸さない。「あなた自身が頑張るしかないのだ」と言って、「社会の側は助けないための理屈」、それが「自己責任論」だと思います。>

 レイオフされたのも自己責任、もちろん、過労死 and 自己責任(107,000)、貧困(ワーキングプア)and 自己責任(475,000)もまた.....
 ()内はGoogleのヒット件数を示しております。

 元来は、「自分で蒔いた種は、自分で刈り取らねばならないという大人の慣し」という意味の言葉かと思われますし、その内容でしたら、愚生も問題はないものと思われます。ですが、ここまで来ますと、”自己責任論”は、A様による上から目線の”公認イデオロギー”に思えてなりなせん。

 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

この回答への補足

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 自己責任論
 ☆ というのが 実際のところで論点になっているようなのですね。
 ▲ (ヰキぺ:責任)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%AC%E4%BB%BB
 ☆ は 最後のほうで《自己責任》の事項をあつかっています。何だかはっきりしない感じですね。
 けっきょく《おれの場合は 責任のありかははっきりしているが おまえたちの場合は 自己責任であることが明確だ。それを無視して 責任をほかになすりつけてはいけない》と言っているだけのようにも受け取れます。つまり勝手な議論であるように見えます。
 たとえば一つの事例として JR 福知山線の脱線事故をめぐって
 ▲ 列車が衝突したマンションの住民に対して自己責任論を唱える人物もいる。マンションは線路のカーブから近接した場所にあり、最悪の事態も想定できたであろうから、損害の一部は住民が自己責任として負担すべきという。・・・
 ☆ あぁ ここまで論理というものを延ばすのかと思いました。
 そのような風潮の中で ご指摘の件は 次のような事例にかんするものだと思います。

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 識者や経営者ばかりではなく、ホームレスや失業者、ワーキングプアといった「負け組」の中にも、自らの貧困の原因として自己責任を強調する者が多い。
 これについて NPO 活動家の湯浅誠は自己責任論が弱者の間で過剰に内面化されることによって、自らの力ではどうにもならなくなるまで頑張りすぎる危険性を指摘している。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうして 次の分析ですね。
 ★ ですが、ここまで来ますと、”自己責任論”は、A 様による上から目線の”公認イデオロギー”に〔なっているように〕思えてなりません。

 ☆ これは――論理というものは容易に貫徹されていきますから―― 解きほぐすのに厄介な問題になっているように考えます。自由であれば責任が生じるというその論理を通しているという点で 《自己責任論》者の側は 解きほぐす問題などないと考えているかも分かりません。

 これはどうも認識とはどういうことかという主題にかかわっていて そのような出発点にさかのぼって解きほぐす必要があるように思いました。
 それはちょうどいま 次の質問でやり取りをしていたのですが 明らかに認識の仕方としてふたつの別種のかたちがあるのだと知ったからです。長いですがまづはお聞きください。

 【Q:純粋理性批判(Q10)】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6235961.html
 ○ (そのNo.10お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~
  ☆( bragelonne )~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ( a ) 自分の――おそらく人間としての――思いを殺して 何らかの認識を持ったというそのときの現象認識のことか。これは どういう事例がありうるか。
  ( a )はどうでしょう? いまわたしには思いつきません。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 :これは――カントにおいて――《現象》と私( =質問者= hakobulu さん)は思います。
 「思いを殺して」という主観的選択が自覚としてあり、それに基いて対象を認識しているからです。

 『憎いと思っているから、こちらに向かって駆けてくる相手が危害を加えようとしている、と認識してしまう。とびきりの美人が駆けてきたのなら、たとえ手を振り上げていたとしても、そのようには認識しないはずだ』
 と(常にそう捉える必要はありませんが)【そう考える余地のある認識の仕方によって認識された対象=現象】と相手(ないし対象)を位置づけることが可能になります。

 そして、おそらくここが重要だと思うのですが、この場合、その認識の正否を問う必要はありません。
現象・仮象は、あくまで原理としての概念ではないかと今のところ捉えています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この議論を持ち出すのは簡単なことをわざと複雑にしているきらいがありますが 要は自然科学のように誰が実験をしても同じ結果が出るというその内容をもって《現象》として認識するのだと言っていると思います。
 つまりは自然科学のことがらに限らず 人間と社会のことについても 《ひとの思いを殺して》認識するべきであり その認識にのっとって議論すべしと言っているようです。基礎として・人びとのあいだの共通の判断材料としてということのようです。

補足日時:2010/10/13 09:56
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この回答へのお礼

 すなわち いまカントがどうだこうだは別としてもいいわけですが いづれにしましても どうもその認識論が いまの《自己責任》論には応用されているのではないかと思ったというお話です。
 これは デカルト以来のコギトを持ってくることなのかも知れませんし いわゆる科学万能の思潮にのっとる風潮であるかも知れません。

 しかも厄介ですね。論理がとおっています。ひとの個人的な思いがどうであるかにかかわらず 現象や現実を人びとに共通の内容として認識し そこに人びとの社会的な行為があるとすれば 次のように認識すべきだ。すなわち 行為というものは それぞれひとの自由な意志によって為されるものであり その自由な行為をめぐる責任のあり方としては とうぜん 自己責任である。――こういう認識論であり責任論ですね。

 福知山線の事故をめぐる《自己責任》論に対しては ちなみに ヰキぺは次のように論じています。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (あ) しかし、これは、国家が私人を救済すべきかという意味で使われてきた自己責任論とは本質的に異なる。
 (い) この論者は、私人間での不法行為に基づく損害賠償債務について「被害者が事故の発生するリスクを認識できた可能性がある以上、事故発生につき被害者に過失(結果回避義務違反)がなくても、損害の一部ないし全部を被害者が負担すべき(法的には、被害者に過失がなければ過失相殺はされない)」と主張しているのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (い)の《私人間での不法行為に基づく損害賠償》の関係に限れば 《いわゆる客観論理とその応用》が効くようになるかも知れないという議論のようです。(あ)は 人間としての社会的な共生――分業=協業として成り立つ共同自治のもとにおける共生――については 科学的要素に基づく現象認識とその論理的な展開が どこまで効くか これは 人間に訊いて見なくては分からない。と言っているでしょうか。
 (共同自治は 現在では 国家という枠組みがありますから その国家という具体的な場での判断になるようです。国家を超えて・つまり言いかえると 国家の未来における別の形態への移行を展望しつつ 今としても あたらしい共同自治のあり方を考え実際に政策に盛り込むことも考えられる。つねにそうして来ている)。

 では どうすべきか。どう考えるのがよいか。

 生命のとうとさ。
 存在ないし《わたし》の掛け替えのなさ。
 その人びとのきづな。
 科学的事実にもとづきその論理内容に整合性をもとめるアマテラス学術語かつ人格語と 《ひと》の存在そのものを受け容れるという無条件の大前提において人間の非論理ないし反論理の感情や事情をも含んだ大海のごとき心の動態として生きようとするスサノヲ人間語

 生命のとうとさを アマテラス語は どうあつかうのでしょう?

 ガミガミ役とアース役との織り成す社会力学の模様の中から スサノヲ語を大切にしたいと暗黙のうちに言って 枡の縁をこぼれ出た人たちあるいは枡の均(なら)し棒で均されて押し出されてしまった人たち――おそらく 非自発的に社会におけるその立ち場を奪い取られた場合だと思われる―― これを公正な科学的アマテラス語は どう捉えるのか?
 
 A 語と S 語とを総合しまとめ切った人間の言葉によって考え出された人間〔と社会と自然〕の科学は どうすれば実現しましょうか。

お礼日時:2010/10/13 10:36

ぶらじゅろんぬさん。

こんばんわ。
ご返信ありがとうございます。

読みきれていないまま、
反応できるところだけ少しだけ。

>時代を大きく躁と鬱とに分けるという発想
:いえ、分けられないのに、とりあえず分けるのは嫌いです。
いつだって、どこでだって、混ざっていて当たり前で、
どのような混ざり具合がよかろう、と考えているだけです。

>「鬱」こそ人間の優しさ・内面的豊かさの証であり
>言葉にして自己表現し得ていないとすれば
:いえ、優しさではなく、
自己を中心にできないゆえの「恐怖」、
ゆえの「逃げ」だと思っています。
(分けるのは好きではないのですが、
この辺は区別した方がよいと思います、
【我執】【自己偏愛】【傲慢あるいは己惚】、【自己中心】)


>まだわれわれは考えて来なかったでしょうか。
:すみません、聞いたそばから忘れていますね、
たとえば、この辺とかですね。
「>▲ (パウロ:コリント人への第二の手紙  11:30)
  もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。 」
健忘症でしょうか・・・というのは冗談で、反省しますマジで。


しかし、この問題は、
たとえば、風邪を引いて内科に行くとか、
たとえば、骨折をして外科に行くとか、
そうやって、切ったり貼ったり飲んだりして、
なんとかなるようなものではないのに、
「何とかしてください」と言いっ放し姿勢にはムカつくんです、
ということを、強調した格好になりました。
わたしひとりにできることは、とても少ないのですが。
地震に出くわせばわたしは埋まりますし、
台風に出くわせばわたしは飛んでいきますし。


しかし、わたしは、これからも、
個人にできることは何だろ、という方向で、
目を皿のようにして、重箱の隅を突付くように、
あれこれと探し続けるのぢゃないかと思います。


他にも探すところがあって、
いろいろ見つかるのぢゃないかと、思ってはいるのですが。
正直、みなさまの発見したものを
じゃんじゃん披露してもらうことを、
あつかましくも、受動的に、期待しても、いるのですが。


今日はこれぐらいしか話せません。
ご返信文は、もう一度、のんびり読み直します。


ビール6本飲んだあとで書きました。
とりあえず声が出たいので、めちゃくちゃなまま出しました。
今後も、できるだけ、点検を続けます、のんびり、ですが。
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この回答へのお礼

 ニュウトラルさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 わたしひとりにできることは、とても少ないのですが。
 地震に出くわせばわたしは埋まりますし、
 台風に出くわせばわたしは飛んでいきますし。


 しかし、わたしは、これからも、
 個人にできることは何だろ、という方向で、
 目を皿のようにして、重箱の隅を突付くように、
 あれこれと探し続けるのぢゃないかと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 並々ならぬお心づもりをうかがったように思います。

 ちなみに《満員電車》理論や《津波》理論は 《地震》理論でも《台風》理論でもよかったですね。うわさとして一たん評価が決まると その観念が むろん間違っていてもということですが その一定の場において根づいてしまうほどですから 個人はよわい。ところがあるようです。

 でも《個人》に立脚するということですね。
 【Q:《ひとり》は 西欧近代の《個人》を表わすか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5737780.html
 という質問も挙げています。ただこれは 長続きしませんでした。

   あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長ながし夜を
     ひとりかも寝む       (柿本人麻呂)

 という見方によっては くだらんと言えばくだらんうたですが でもこの場合にも《個人》ないし《ひとり》が 案外 《わたし》の主体性やあるいは中軸性――【自己中心】――やあるいはなかんづく《自由》ということを 内に秘めて 作者〔ら〕によって見つめられているかも知れない。
 ☆☆(その質問のNo.1お礼欄) ~~~~~~~~~~
 ・・・言霊(わたしは 事霊と採っていますが)のさきはふ国・言挙げせぬ国というならわしにあっては 人麻呂や親鸞において その世界観はひとことで言ってひょっとすると 

   《ひとり》

 であったかも知れないぢゃないですか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ といった主題です。孤独において《わび》しさが《さび(錆び)》ついてしまってもなおその《独り》をつらぬき通し 独りないし自己つまり《わたし》の中軸性を見究めてしまったかも知れません。

 そんなことを引き出されました。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 鬱こそ人間の優しさ・・・・
 :いえ、優しさではなく、
 自己を中心にできないゆえの「恐怖」、
 ゆえの「逃げ」だと思っています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 了解しました。むろん上の《自己中心》という主題のもとに入ります。

 ★ ~~~~~~~~~~~~
 >時代を大きく躁と鬱とに分けるという発想
 :いえ、分けられないのに、とりあえず分けるのは嫌いです。
 いつだって、どこでだって、混ざっていて当たり前で、
 どのような混ざり具合がよかろう、と考えているだけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶんそういうことだろうとわたしも思います。五木寛之が発信源だとすると 或る程度空気のごとくに通っていくことがあるのでしょうか。

 こんなところです。

お礼日時:2010/10/12 23:08

なかなかメニューが豊富で・・・



確かに、自己を中心にできなくなっているのが問題であると、私も思う節があります。
また、KYは文化の支流でもあり、KYがなくなれば多様性もなくなる気もします。

自分自身の主体性を尊重すれば、他人との交通もメリハリがついて、行き来がスムーズになるのではないでしょうか。

話は戻りますが、私の場合だと、言葉を省略する習慣がついているように思います。bragelonneさんの発言を見ていると、どっから言葉がこんな湧いてくるのかと思いました。
そして、そういえば自分は省略しているなと。意図的に交通を整理して、言葉を使っているなと。悪いことではないですが、タイミングの取りづらい会話手法をしているのかなと思いました。
スムースに話しているつもりですが、話すことがなくなった気になるのは、省略しすぎかなとも思いました。省略された部分に、会話の豊かさと言うものがあるのかもしれません。

この省略手法と、空気で片付ける習慣は、少し接点があるのかもしれないと思いました。そして、省略されてしまったマインドや行為はどうなるのだろうと、ふと思いました。
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この回答へのお礼

 こんばんは ライトヱーヴさん。ご回答をありがとうございます。

 ★ この省略手法と、空気で片付ける習慣は、少し接点があるのかもしれないと思いました。そして、省略されてしまったマインドや行為はどうなるのだろうと、ふと思いました。
 ☆ ここが おもしろいですね。ここに行き着いたところがおもしろいですね。

 ★ そういえば自分は省略しているなと。意図的に交通を整理して、言葉を使っているなと。
 ☆ これはさほど感じませんでした。というのも いろんな人がいて その回答ぶりを見て来ているからかも知れません。ひとこと回答というかたちも ちゃんとありますし。参考サイトを掲げて そこから問い求めを おまえ(つまり質問者のわたくし)がみちびきたまえという形式のものもありますし。
 
 わたしがもし省略もせずいくらかの角度から見た事柄を書いているとしたら それは そのような環境で育ったからだと思います。特に父親が なんでそうなるのかと 何かにつけいやと言うほど 訊いてきたものですから けっこうくわしく答えるくせがついているとは思います。

 さて はじめに掲げた主題です。
 ( a ) 空気で片づける習慣
 ( b ) そのとき 省略されてしまったマインドや行為があるかも知れぬこと。
 
 ☆ ( a )の習慣があれば とうぜん( b )のように一般に少数意見の思いや意志表明や行為が日の目を見なかったという結果が伴なわれているでしょうね。
 あるいは その場の空気でことが運ばれるなら そのように運ぼうとしているその場のボスの側の人びとにしたところで その自分たちの意志について はっきりとは自覚していないかも知れません。それは さらに上位のボスないし団体の意向によって決まっているだけかも知れないからです。
 《家元制度》というのは そういうもののようですよね。もともと総元締めの家元からネズミ算式に ピラミッドが下に向かって増えるかたちで築かれて行ったものだと思うからです。ボスの意向を浸透させるためにこそ そういう組織を作ったのですから。
 上からの空気が下層に向かって 浸透して行く。そのとき その下層の人びとの意向というのは しばしば省略されてしまうものと思われます。

 つまりは KY というときの空気とは 民主制としての《 S - A 連関なるひとりの主体》どうしの自由で対等な――白紙のような――空気とは違って 誰かの・また歴史的にかもし出されて来ている何らかの別種の空気が その場や広く情況を支配している。というものだと考えられます。
 だいぶ譲歩して言うとすると 日本の社会において日本人どうしとして交通している段階と範囲では この《空気で片づける習慣》でよかったかも知れない。しかしながら 外国との交通の上で それでは差しさわりがあるというだけではなく 日本人どうしの社会の中でとしても けっきょく一人ひとりの意志のあり方が かなり窮屈なものになってしまっている。ので けっきょくどう考えても 困る事態になっているかと思います。
 もしべらぼう話をしてよいとすると KY という事態が現われることは そういう窮屈な《意志の閉塞》情況に困った上層の人たちの内の先見の明のある人間が そう願った結果であるかも知れない。すなわち 空気で片づける習慣に誰か反対をしてくれと 願った結果であるかも知れません。

 でもわたしたちは まだまだ 社会としてその社会の中でこの人間的交通のあり方をどうしようか・どのようにすればよいかが 分かっていないのでしょうか? 目指す方向は民主主義だということは 分かっているのだと思うのですが。

 さあ どうなりましょうか。わたくしもまったく主導性の点では 分かりません。実務経験に乏しいという意味です。さあ どうなりましょうか。

お礼日時:2010/10/12 22:33

ぶらじゅろんぬさん。

こんにちわ。
ご返信ありがとうございます。
読みきれていないかもしれませんが、
よってズレているかもしれませんが、
もう少ししゃべってみます。


いつだったか(10年ぐらい前だと思います)五木寛之が、
「これから日本は総鬱の時代に入るだろう」と言っていました。


http://okwave.jp/qa/q6236569.html
こちらでの回答2番は、
社会に原因を探しすぎて(社会のせいにしすぎて)個人を見ず、
また個人が行動を起こさないという(主にわたしに向けての)
個人へのアラートだったかもしれません。失礼しました。

また、個人の「病的な状態」が社会に「起因」しているとはいえ、
社会が「原因」とまでは言えないような気がしたのでした。
いずれにしても「自己責任」というのは言いすぎでしたね。


以前も話したような気がするのですが、
まず、「経済的飽和」による労働意欲の減退、
人々の結束感の弱まり、迷子感(?)の強まり、
なども「2次的な原因」だと思っています。


あとは、核家族化により、家庭が極めて閉鎖的になり、
Sさん同士の交通も減り、Sさんの発言力が低下していないか?
また「小さなA→S関係」が外から見えなさ過ぎはしないか?
そんなことも「2次的原因」ではないか、とも思いました。
(このあたりと、関係があるような気がします。↓)
>どうも《しわよせ》の終着駅があるかも知れない。

しかし、うんと小さな子どものころは「ゴミ箱」の「役割」に
「徹しなくてはならなかった」としても、
「ごみ捨てさん」以外の人間と交通しながら10年も経てば、
そんな「役割」は(完全にとは言いませんが)、
適度に捨ててしまえばよく、それはできるはずなのですが、
また「役割」から離れて、あるいは別の「役割」を持って
「人間をする」ことができるはずなのですが、
(これも以前にも話した気がしますが)
「役割」でありすぎる人が増えているような気がします。
固まりすぎている(?)。手段になりすぎている(?)。
もしかしたら、ある「役割」をしていないと
他者と交通することができないと習ったのかもしれません。
(ひどっち様の言葉では「自信の無さ(不安)」「幼児化(?)」)

関係ないかもしれませんが、こんなの見つけてきました。

「きみ自身の人格における、
 またほかのすべての人格における人間性を
 常に同時に目的として使い、
 決して単に手段として使わないように行為せよ」(基礎づけ)


上下関係も支配服従関係も(それが必要であっても)、
晴れのち雨のようにときどき入れ替わってもよく、
そもそも上下関係や支配服従関係などが
あまり混入しない「関係」が成立するはずで、
わたしはそのような「交通」を切実に求めているような気がします。


>大きい声でともかく論理を通した話をすればよいというアメリカニズムのどちらかと言うと悪い一面と そして日本人の間に見られる事なかれ主義とが合わさって 最悪のサラダが出来上がったのでしょうか。そこまでは行かないでしょうか。
:え~と、これはどこに書かれているのでしょうか。
(探してみたのですが見つけられませんでした。)
わたしも「悪いところ取り」をしているように思います。
田圃のような泥沼の上に、基礎工事もしないで
とりあえず鉄筋コンクリートの家を建てちゃった、
という感じでしょうか。
そのことが分かっているにもかかわらず、
ビクつきながら何とかごまかしてごまかして、
その家は建ち続けている、という状態でしょうか。

もともと土台的なものが弱すぎたにもかかわらず、
「それは普遍的ぢゃ」という勘違いに執着したまま、
動けずにいて、そうして、
嘘と欺瞞で固まってしまわなければならない人、
狡猾な日和見さん、権力にとりあえず安住さん、
習慣的に弱者を足蹴にしてのし上がり続けてしまう人、
(↑まるで一貫性がないですが)
このようになってしまうのではないかと思ったのでした。


以下、半分愚痴になりますが、
わたしは「躾」を受けた記憶がありません。
ただ「飴と鞭」に反応して動いていました。
長い間、それが普通なのだと思っていました。
「飴と鞭」は、半分以上が「ゴミ」でした。
長い間、生きるためにと、わざわざ「ゴミ」を集めました。
そうして、自分の中に「ゴミ」を捨てるようになりました。
ときどき「ゴミ」の燃焼不良(?)で一酸化炭素が出る、
そんなビョーキになりました。
そもそも「飴も鞭」もわざわざ拾わなくてよかったのに、
相当な阿呆だったのでしょう。わたしは。

未だ、ぬかるみの上に、ゆらゆらと立っています。
基礎工事中です。

読んでくださりありがとうございました。
例によって次にいつ現れるか分かりません。

この回答への補足

 ニュウトラルさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 いくつかの主題があります。
 ★ 五木寛之が、「これから日本は総鬱の時代に入るだろう」と言っていました。
 ▲ (五木 寛之・香山 リカ :『鬱の力 』) ~~~~~~~~
 http://www.amazon.co.jp/%E9%AC%B1%E3%81%AE%E5%8A …
 § 内容説明 (本の帯?)

 「鬱の気分」が日本を覆っている。
 「鬱」イコール悪と思われているが、本当にそうだろうか?
 「鬱」こそ人間の優しさ・内面的豊かさの証であり、治療が必要な「うつ病」とは分けて考えるべきではあるまいか。

 同じ問題意識を抱いた作家と精神科医が、うつ病の急増、減らない自殺、共同体の崩壊など、日本人が直面する心の問題を徹底的に語りあう。
 戦後六十年の「躁の時代」を経て、これから迎える一億総ウツ時代に、「鬱」を「明日へのエネルギー」に変える、新しい生き方の提案。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 本の帯に書かれたキャッチフレーズだとすれば 五木らが書いたものかどうか分からないのですが これについて考えました。

 1. 時代を大きく躁と鬱とに分けるという発想は わたしがうつを社会的な現象であるに過ぎないと断定するのと どっこいどっこいでしょうか。わたしの推測には少し科学的な事由が付いて来たかも知れません。

 2. ▲《「鬱」こそ人間の優しさ・内面的豊かさの証であり、治療が必要な「うつ病」とは分けて考えるべきではあるまいか》――☆ わたしの場合 これらを分けません。《寅さんのアース役はつらいよ版》という事由いっぽんで推します。なかで休息が必要なまでの程度になった場合もあると見るのみです。

 3. ▲ 《「鬱」こそ人間の優しさ・内面的豊かさの証であり》――☆ わたしがわたしであるというときの《わたし》を守るというのが――つまりは言いかえると 周りから期待されるだけの《像つまりその観念に合わせただけの人間(=単独分立した A )》という存在にはならないというのが―― S さんの《内面的豊かさ》だと考えます。
 そのことを 言葉にして自己表現し得ていないとすれば それは《優しさ》かどうなのか。たぶん《おとなしさ》ではあるでしょう。つまり波風を立てないでおこうという控え目な性格です。つまり良くも悪くも よわさです。

 強ければ どんな時でも何ごとについても 自己表現してすすむことが出来るか?

 これが出来ない場合があるというのが 
 ★ 「自己責任」 
 ☆ のみで問題を片づけることができないその事情を明かしているのではないか。

 (あ) 満員電車で扉の近くにいる人は 駅に止まっての乗り降りのとき どうしても人びとの流れに逆らうことは出来ない場合がある。あたかもそのように《寅さんのアース役としての電波受信》において その電波(意識の排泄なる放射線)の押し寄せる流れに抗しきれない場合がある。

 (い) うわさ――果ては 根拠のない誹謗中傷――を流された場合 これにひとりの人間が抗しきれる範囲には限界がある。その大波をかぶってしまい 自分では自己責任だと思ってがんばっても なかなかその波の力を跳ね返すことはむつかしく あるいはその後遺症をもこうむりかねない場合がある。

 ☆ この《満員電車》理論あるいは《津波》理論は まだわれわれは考えて来なかったでしょうか。

 そのほかに 次のような理論があるようです。

 (う)★《社会に原因を探しすぎて(社会のせいにしすぎて)個人を見ず》の《木より森の所為》理論

 (え)☆☆《どうも〈しわよせ〉の終着駅があるかも知れない》――家庭環境などが特殊であったときの《終着駅》理論。

 (お) 家庭環境から広がって大きく《情況》理論
  これは ★《「2次的な原因」》論のことであると思われる。

 (お‐1) 経済の低成長ないし停滞という情況:★《「経済的飽和」による労働意欲の減退》

 (お‐2) 顔見知り共同体の衰退あるいは 人間的交通の希薄化という情況:★《人々の結束感の弱まり、迷子感(?)の強まり》
   ★ 《核家族化により、家庭が極めて閉鎖的になり、 / Sさん同士の交通も減り、Sさんの発言力が低下していないか?》:これは 経済の停滞情況の中にあっても 経済の形式論理やその合理主義が優位に立つとき感じる S さん一人ひとりの無力感とつながっている。

補足日時:2010/10/12 17:26
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この回答へのお礼

 ★《また「小さな A → S 関係」が外から見えなさ過ぎはしないか?》:これはおもに悪しき天皇――たとえばむかし国の正式な史書としての日本書紀において《大悪天皇》と呼ばれた雄略ワカタケルがいた――を捉えてそのまねごとをする場合の《天皇ごっこ》と言える。《おしなべて我れこそおる》プチ天皇に成り切るという意味。

 (お‐3) ともかく《自信がない》理論。自信がないゆえに ガミガミ役にもアース役にもなりうる。――★◆(ひどっち様の言葉では「自信の無さ(不安)」「幼児化(?)」)理論
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《「役割」でありすぎる人が増えているような気がします。
  固まりすぎている(?)。手段になりすぎている(?)。
 もしかしたら、ある「役割」をしていないと
 他者と交通することができないと習ったのかもしれません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 事なかれ主義・冒険し無さ主義・前例主義・ red-tapism ・お役所仕事・


 **** coffee break  ****

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「きみ自身の人格における、
 またほかのすべての人格における人間性を
 常に同時に目的として使い、
 決して単に手段として使わないように行為せよ」(基礎づけ)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たしか カントですね。互いに《わたしがわたしでありつづける》こと その動態が この上なき《わたし》の存在である。特にはその動態を 自己表現として重ねて推し行きつづける意志が おそらく中軸であると思われる。
 そのときカントも さらにこの人間の意志をも凌ぐいと高きところにいます〔かも知れない〕なぞの存在に対する畏れを持ち損ねることはなかったと思われます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 そもそも上下関係や支配服従関係などが
 あまり混入しない「関係」が成立するはずで、
 わたしはそのような「交通」を切実に求めているような気がします。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ただしわたしは やはりゆづります。道を一歩もしくは半歩相手にゆづります。そのほうが 交通関係は なめらかにすすむように思います。《弱腰外交》です。
  ***** coffee break ******

 ○ 《最悪のサラダ》→【Q:ニートや引きこもりは 未来社会への陰画だろうか】No.10お礼欄

 (お‐4) 自信のある無しを超えて 或る意味で積極的に行為に出るのだけれど そのときには消極的な選択をついしてしまう:《悪いとこ取り》理論。
 ★《田圃のような泥沼の上に、基礎工事もしないで / とりあえず鉄筋コンクリートの家を建てちゃった、 / という感じでしょうか》
 ☆ この場合に 運よく(?)成功してしまうと 厄介である。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もともと土台的なものが弱すぎたにもかかわらず、
 「それは普遍的ぢゃ」という勘違いに執着したまま、
 動けずにいて、そうして、
 嘘と欺瞞で固まってしまわなければならない人、
 狡猾な日和見さん、権力にとりあえず安住さん、
 習慣的に弱者を足蹴にしてのし上がり続けてしまう人、
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 次は (え)の終着駅理論と(お‐4)の悪いとこ取り理論 そして 良い要素として coffee-break のカント理論のサラダ(?)でしょうか。
 ★ ~~~~~~~~~~~
  ・・・
 「飴と鞭」は、半分以上が「ゴミ」でした。
 長い間、生きるためにと、わざわざ「ゴミ」を集めました。
 そうして、自分の中に「ゴミ」を捨てるようになりました。
 ときどき「ゴミ」の燃焼不良(?)で一酸化炭素が出る、
 そんなビョーキになりました。
 そもそも「飴も鞭」もわざわざ拾わなくてよかったのに、
 ~~~~~~~~~~~~~~
 

 ふうーう。コーヒーのあとにはビール。

お礼日時:2010/10/12 18:12

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