人気マンガがだれでも無料♪電子コミック読み放題!!

似た質問がありますが、少し違う視点から質問しますので皆様、盆休みの間によろしくお願いします。

よく『こころ』はエゴイズムを描いた小説とされますが、何度読んでみてもどうもしっくり来ないのです。
先生のせいでKが自殺することになったのは確かです。けれど、先生はエゴをふりまくタイプではないし、もちろん自覚的なエゴイストではありません。
うまく表現できませんが、先生は何だか流されてそうなってしまった人といった印象を受けるので、普通イメージするような「エゴ」「エゴイズム」ということではくくれないような気がするのですが。
作者がエゴイズムを描いたとすると、どう解釈すればいいのでしょうか。また、他の解釈があれば教えて下さい。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (4件)

『こころ』は人間の心に潜むエゴイズムを描いた小説である、と、自分の持っている文学事典にも載っていました。



この場合の“エゴイズム”は、
辞書にある“自己の利益を最優先させる態度”と取ればよいと思います。

先生は、Kの恋愛感情を知りながら、Kに自分の気持ちを告げることなく、先回りして、お嬢さんとの仲をまとめてしまった。
この行為が“エゴイズム”なんです。

いまの見方からすると、こういうことってあるよね、という感じではあるのですが。

この恋愛パターンは、中期三部作と言われる『それから』『門』にも出てきます。
『それから』では主人公代助は友人の妻である三千代に恋愛感情を持つ。
『門』での宗助は、友人の妻であった御米を妻にしている。

『こころ』でKが自殺しなかったらどうなっただろう、という仮定を、『門』の中に見ることもできます。
漱石は、宗助と御米の姦通に対して、宗助夫婦から富を奪い、健康を奪い、三人の子を奪うという、という残酷な刑罰を課しています。
漱石にとって、こうしたエゴイズムの発露は、許せないものだったんです。

当時でさえ、こうした漱石の倫理観には、反発する人もあったようで、谷崎潤一郎などは、若い頃“世の中というのは、もっとふしだらな、ルーズなものではなかったか”みたいなことを言っていたようです。

漱石は人間の心の奥深くに巣くうエゴイズムを暴こうとしました。それを白日の下に晒していけば、人々は反省し、自然で自由な世界へいくことができる。それが、後期の“則天去私”の心境とされています。
晩年の『明暗』を読むと、もっとその漱石流のエゴイズムがわかるかもしれません。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

どうもご回答ありがとうございました。
幅広い視点のお答えでとても参考になりました。残念ながら『門』はまだ未読ですけどもご回答を参考に是非読んでみたいと思います。

>漱石は人間の心の奥深くに巣くうエゴイズムを暴こうとしました。それを白日の下に晒していけば、人々は反省し、自然で自由な世界へいくことができる。それが、後期の“則天去私”の心境とされています

教えて頂いたこのポイントを自分のこころにとどめておこうと思います。

お礼日時:2003/08/17 16:36

#2です。


#3さんのご回答、非常に教えられる点が多かったです。

特に
>いずれにせよ、Kに対して先生は尊敬と敵視の両方の感情を持っていたこと、先生のお嬢さんへの思いはKを媒介として増幅されたこと、そしてその両方に先生は無自覚であったことは重要な点だと思います。

というご指摘は、目を開かれる思いでした。

ただ、
>このことは大変皮肉なことで、この小説は古い因習の迷妄から抜け出ていわゆる「近代的自我」を確立したはずの知識人が、気がついてみればその自我は実は社会的な所産であったということを身をもって知った、というはなしに読めるわけです。言わば、「こころ」の中を覗いてみても実は何もなかったのだ、というシニカルなテーマであるとも読めるでしょう。

これは、あまりに現代的な、更に言えば、構造主義をふまえての見方ではないでしょうか。

漱石の意識のうちにそのような思想があったのか。それは、自分は疑問だと思います。
むしろ、漱石の深い人間の洞察力が、時代を超えて、さまざまな読み方を可能にしているのではないか、と思うのです。

たとえば、漱石はイギリス留学時代、ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』を夢中になって読んだ、と手紙に書き送っていたように記憶しています。
このオースティンの作品などは、ほんとうに、ストーリーにしても、盛り込まれた思想なども、他愛もないものなのですが、作者の人間観察の目の確かさ一点で、今日まで鑑賞に堪えうるものとなっています(余談ですが、数年前イギリス本国でも日本でも、アメリカでも一大ベストセラーになった『ブリジット・ジョーンズの日記』も、あきらかにこれをふまえて書かれたものです)。

『こころ』もやはり、漱石は明治人であったこと、そして、その思想は明治人の枠内にあったことを考えると、漱石の言う“エゴイズム”も、明治人としての倫理観のうちにあった(大正人の谷崎でさえ古くさく感じられるほどの)、と思うのです。

作中、唯一名前を与えられた存在が、“静”(後の“お嬢さん”)です。
この女性が、作中でも自死が伝えられる乃木将軍の妻静子をふまえた名であることは、従来から指摘されているところです。先生の自殺と乃木夫妻の自死は、漱石の中で重要な繋がりを持っていたはずです。
けれども現代の自分にとって、乃木将軍の自死(殉死)は、非常に理解しにくいものであり、漱石の意図も正確にはわかりません。おそらくそれが明治人としての倫理観によるものではないか、と漠然と感じられるだけです。
おそらく作品にとって極めて大きなファクターとしてあった乃木将軍の自死は、今日、ほとんど顧みられることもなく、またその必要もなくなっているのではないかと思うのです。

結局、深い洞察に支えられた作品は、時代によってさまざまな読まれ方をするということなのだと思います。
思想の器として利用された文学作品は、時代とともに古くなっていきます。たとえばサルトルのように。
けれども、作者の深い洞察と筆力によって、作中で自由に生きる登場人物たちは、時代を超えて生き続ける。
そして、そのときどきの読み方を可能にするのではないでしょうか。

ご紹介にあった作田啓一の『個人主義の運命』、ぜひ読んでみたいと思っております。ありがとうございました。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

再度のご回答、ありがとうございます。
深い背景知識に感謝申し上げます。

>漱石の深い人間の洞察力が、時代を超えて、さまざまな読み方を可能にしているのではないか、と思うのです

このことは今回強く感じました。現代的な読まれ方のできる作品が現代的だということですね、作者の意図うんぬんでなく。

お礼日時:2003/08/17 16:48

「作者の意図」というものはなかなか特定しにくいものです。

こういう解釈もできる、という程度ですが私見を書かせて頂きます。

よく『こころ』について論評される「エゴイズム」には、私も昔からしっくりしない思いを持っていました。というのも「エゴイズム」というと、まず先に主体としての自己がはっきりと確立されていることが前提としてあって、その自己が利己的に行動することを指す言葉だと思うのですが、ご指摘のように先生は若い時ですらこの意味のエゴからは遠い感じを受けます。
その先生が「エゴイズム」と評されてもやむを得ない行動をとったのは事実にせよ、それを「エゴ」のせいでそうなったのだ、我々はエゴと戦う倫理観を確立せねば…と簡単に断罪して切り捨ててしまうだけでは、「なぜそうなったのか」という肝要なところがブラックボックスに入れられてしまうように感じられるのです。

例えば、子供を見ていると、もう遊ばなくなってしまった古いおもちゃでも、他の子供が使おうとすると途端にそれで遊び出して使わせない、といったことがよくあります。これは外面的にはわがまま、つまり「エゴ」として叱責されますが、子供自身にしてみれば、他の子供が欲しがった際には本当にそれに価値があるように思え、またいなくなればそう思えなくなるだけのはなしで、問い詰めてみたところで子供はその理由を説明できません。
大人でも同じことです。

このことは、その行為がエゴを発揮したものと見るよりも、自分では理解できないところに自分の価値観の源泉があるせいだ、という風に理解することができるでしょう。欲望が確固とした「自分」から生まれるのでなくて、むしろ他者との関係においてこそ生み出されるもので、それが現象的に「エゴ」と便宜的に呼ばれているのだ、というわけです。

こういった視点を基礎に、「こころ」をジラールの「欲望の三角形」を軸に社会学的に読解したユニークな書物があります(作田啓一「個人主義の運命」、岩波新書)ので、ご一読をお勧めします。

ジラールは欲望というものを内発的でなく社会的な関係の中で生み出されるもので、具体的にはあるモデルを模倣して生まれるものだと考えました。例えば名声を求める欲望は、名声を博しているある人物をモデルとしてそこに同一化したい、「~のようになりたい」というものとして表れます。
重要なことは、モデルが歴史上の人物であったり、手の届かない人物であればその同一化は単なるあこがれで終わりますが、モデルとの距離が近い場合には同一物を欲望の対象とすることとなって、モデルは同時にライバルとなる、というものです。この解釈に立てば、Kは先生のモデルであり、お嬢さんを挟んではモデル=ライバルの関係にあると言えます。

(このあたり、以前に先生のKへの感情やKを下宿に招いたことを中心に簡単にまとめていますのでご参照下さい:
「こころ」http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=268375

いずれにせよ、Kに対して先生は尊敬と敵視の両方の感情を持っていたこと、先生のお嬢さんへの思いはKを媒介として増幅されたこと、そしてその両方に先生は無自覚であったことは重要な点だと思います。
先生がいう「人は突然変わるのだ」という言葉は、私たちの欲望は自分の中に源泉があるのではなく、言わば社会的な網の目に乗って形成されるものでしかないのだ、という事後認識を苦々しく吐露したもの、という風に見ることができます。
私たちはそんなに確固とした自分を持って生きているわけではありません。むしろ、社会的な関係性の中で無自覚に生み出される結び目のようなものを、「自己」とかりそめに、かつ無自覚に呼んでいるのだ、という諦観にも似た感覚がここには感じられるようにも思えるのです。

このことは大変皮肉なことで、この小説は古い因習の迷妄から抜け出ていわゆる「近代的自我」を確立したはずの知識人が、気がついてみればその自我は実は社会的な所産であったということを身をもって知った、というはなしに読めるわけです。言わば、「こころ」の中を覗いてみても実は何もなかったのだ、というシニカルなテーマであるとも読めるでしょう。
少なくとも私にはそうであった方が意義深い小説だと感じられます。

参考URL:http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=268375
    • good
    • 3
この回答へのお礼

どうもご回答ありがとうございました。
何というか、今までの読み方と全然次元が違う読解のし方があることに正直いって驚きました。
確かにおっしゃる通り、人を動かすものは人との関係なんだなあと感じました。つまり自分の中をいくら見つめてもそこにはっきりした原因があるわけではない。だからこそ先生もそうですけれど人は色々と悩むのでしょうね。
今まで小説は作者の考えがこめられていてそれを探し出すのが読解だという風に考えていましたけど、この考えを適用すると、読み手との関係で意味が生まれるということになるのかなあと考えてしまいました。どう読まれるかという読まれ方が大事という事なんでしょうか。
やっぱりこの『こころ』は深いものがありますね。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2003/08/17 16:45

普段は人格者である人間が、土壇場で人を裏切りエゴを剥き出しにする。


そういう人間の醜さを、読みやすい形で包み込んで
書いているのだと思います。

単にエゴを描くというと、ドロドロの作品しかかけない
作家ばかりですが、『こころ』に関してはそういうドロドロ
した部分はあまり感じられません。
しかし、先生のそのとき(Kを裏切ったとき)の情景を
考えると… そこにはエゴがあった、といえるのではないでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

どうもご回答ありがとうございました。

お礼日時:2003/08/17 16:32

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q日本文学における「近代的自我」って、わかりやすく言うとどういうこと?

いまいち、ピンときません。近現代の日本文学を理解する上では必須の概念のようですが。たとえば、封建時代には無かったこういう考え方が、明治以降の思潮として生まれた…というような具体例をふまえて、わかりやすく教えていただけませんか。素人にわかるようにお願いいたします。

Aベストアンサー

明治以降、戦前までの、あるいは現代にいたるまでの日本の文学を貫く大きな主題を「近代的自我の確立」として見ていく、というとらえ方があります。

大雑把に言うと、
西洋近代社会の根本には、近代的自我があった。
それに対して、封建時代を続けていた日本には、近代市民社会というものは存在しない。そして、その核となる近代的自我もない。明治に入って、外圧によって開国を余儀なくされ、西欧列強に植民地化されないために、社会は急激な近代化を遂げた。

けれども、それは、西洋のように、近代的自我が自然な発達段階を経て成熟し、それと軌を一にして市民社会も成熟した、その結果としての文明ではないわけです。
そのギャップを埋めようとして、なんとか個人の内側に「自我」というものを確立しようとして苦闘した、一連の作家がいる、という考え方です。

ではヨーロッパの近代をささえた「自我」とはなんなのか。

これをまた考え始めると、大変なのですが、ここでは簡単に、「わたしとはなんなのか(わたしはなぜわたしなのか、わたしと他者はどうちがうのか、といった一連の質問も含みます)」という問いを立て、それに答えていくこと、としておきます(もし自我とはどういうことか、に興味がおありでしたら、宮沢賢治の作品を自我という観点から読み解いていく見田 宗介『宮沢賢治―存在の祭りの中へ』 岩波現代文庫が大変おもしろく、参考になるのではないかと思います)。

ヨーロッパ社会では、キリスト教の強い支配と、封建的な身分関係のなかにあって、ひとは、社会からも、神からも自由で独立した「わたし」を想定してみようとも思わなかった時代から、近代に入って、自我が哲学の中心的な問題となっていきます(ヨーロッパ社会の中で「個人」という意識がどのように確立していったか、ということに興味がおありでしたら、作田啓一『個人主義の運命』岩波新書を。この本は手に入りにくい本ですが、非常によくまとまっています)。

近代社会を構成するのは、ひとりひとりの市民である。そしてその市民は「自我」を有している。これがヨーロッパの近代を支える思想であり、ヨーロッパの近代文明を裏打ちしているのは、その思想であったわけです。

さて、上でも言ったように、ヨーロッパでは百年~二百年の期間を経て成熟していったところへ、日本は一気に追いつかなくてはならなくなってしまった。

文学も、それまでの戯作文学のように、楽しみのためだけに読むようなものではダメだ、西洋の芸術観に基づいた新しい文学が生まれなければならない、と、そのように考えられるようになった。そうやって、明治二十年代に入って、新しい文学が起こってきます。

その代表的な作品が、二葉亭四迷の『浮雲』、あるいは森鴎外の『舞姫』です(『舞姫』に関してはhttp://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=993639で回答しているので、もし興味がおありでしたら、ご覧になってください)。

両者とも、知識階級の青年を主人公にしています。
主人公は、どういうふうに生きたらいいか考え、悩み、自分が良いと信じる生き方と、社会の現実が相容れないことに悩みます。
つまり、現代までつながってくる問題が、明治二十年代に、初めて登場したのです。

この二葉亭や鴎外がここで提出した問題は、そののち、鴎外自身や漱石によって深められ、あるいは明治四十年以降からは私小説という表現形式をとって現れたりもします。

その現れはさまざまだけれど、いずれも、社会のなかで生きる「わたし」は、社会から独立した存在である、それゆえに、社会とは相容れず、みずからの理想を、社会のなかで体現することもできない、その「わたし」は、いったいどう生きていったらいいのだろうか、ということを、日常生活のなかに描き出そうとするものだった。そういうものが、日本の近現代の文学であった、と概観することもできるわけです。

非常に大雑把に書きましたが、「日本文学における近代的自我の確立」と言ってしまうとずいぶんたいそうなことのようですが、その内容は、そうしたものである、と考えて良いのではないでしょうか。

明治以降、戦前までの、あるいは現代にいたるまでの日本の文学を貫く大きな主題を「近代的自我の確立」として見ていく、というとらえ方があります。

大雑把に言うと、
西洋近代社会の根本には、近代的自我があった。
それに対して、封建時代を続けていた日本には、近代市民社会というものは存在しない。そして、その核となる近代的自我もない。明治に入って、外圧によって開国を余儀なくされ、西欧列強に植民地化されないために、社会は急激な近代化を遂げた。

けれども、それは、西洋のように、近代的自...続きを読む

Q夏目漱石のこころについて

夏目漱石のこころについてなんですが
①こころの主題
(上・中・下に分けてもいいですしまとめてでもいいです)

 
②先生はなぜ自殺をしなければならなかったのか

 
この2つを教えてください
m(__)m

Aベストアンサー

(1)こころの主題(上)
こころの在り方とこころの自己依存性、そして、喪失と再生が主題になります。
(1)こころの主題(中)
(1)こころの主題(下)
こころがこころであるための苦悩として、自己保存意識に目覚めてしまったこころと、本来の自分であり続けようとするこころの葛藤が描かれます。一方のこころは、現状維持を望むこころであり、もう一つのこころに対して従属する政策を行います。しかし、もう一方のこころは、心の自治権の確立を求め、独立戦争を起こしてきます。戦線は膠着状態となり、11ヶ月が経過した頃、ある事件が起こります。


(2)先生はなぜ自殺をしなければならなかったのか
増長したこころは暗黒面に落ちてしまったため、それを破壊するための新たなこころが生まれるのは必然であり、自殺という整体活動を停止する恋により、より高い次元での心の融合を果たし、次のステージへと進んだ。

Q羅生門とエゴイズム

 学校で羅生門を読みました。いろいろ調べていると、羅生門は、「人間のエゴイズムを描いている」と書いてありました。
 でも、人間のエゴイズムって何なんでしょうか?
 辞書では「利己主義」と書いてあったのですが、そのまま、「人間の利己主義を描いている」と書くと、意味不明になりました。
 ちなみに、僕なりの羅生門の解釈をしてみると、「大正(羅生門のかかれた時代)の民衆の文化が発達して、平安末期のような生活は少なくなっている。豊かな生活ができるようになったからこそ、自分を失わないためにも、しっかり自分を持つことが大切である。だからこそ、平安末期に老婆の言葉によって行動を起こした下人を描き、大正の今と対比して、民衆に警告している。羅生門は、現在の人々への芥川からの警鐘である。」
 うーん、かっこいい言葉を並べすぎて、自分で赤面してしまいますが、この考えについてどう思われますか?
 意見、または解釈の誤解があると思うので、皆さんの意見を教えてください。

Aベストアンサー

とてもとても主体的に作品を読んでいらっしゃいますね。
文学作品は読者が自由に解釈して楽しむものですから、
この方はなんてしっかりしているんだろう、と大変頼もしい印象を受けました。
さて「解釈」というのは、見たり聞いたりしたものに対する説明で、自分の心をフル稼働して言葉にしたものを、他人に「どうだ」と聞いてもらうこと。
そしてその相手とのやりとりの中で自分の(そして相手の)解釈を深めていくということ。
・・・という考え方を私は持っておりまして、
早速質問コーナーに入らせてください。(笑

■「平安末期」と「大正の今」の何を対比しているか分からない■
 これは非常におもしろいところに気づかれたな~と思いました。
ただここには「文化」や「生活」と言葉を挙げられたのみで、具体的に何を対比しているのかが分かりません。
「平安末期の民衆の生活=質素で貧しい」「大正時代はそれに比べて物が豊か」という物的な面だけでなく、人間の心・精神面においても対比しておられるのでしょうか?

■「自分を失わない」「自分を持つ」において、「自分」とは何を意味するのか分からない■
 死人の毛を抜く老婆を目撃して、一瞬正義感のようなものを覚えた下人が、
(「悪に対する反感」「何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう」「悪を憎む心」など)、
老婆の話を聞いた後、「きっと、そうか」「己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」と老婆の着物をはぐという正反対とも見える行動の変化がありますね。
ここまで揺れ動いた行動を通してみて、下人の「自分」というのはいったいどういうものなのか、あなたのお考えを詳しく伺ってみたく思います。
「下人の心」を解くところから「人間のエゴイズム」という問いに対する答えが見えてくるかもしれません。

■芥川が民衆に何を警告しているのかが述べられていない■
警告・警鐘というのは「気をつけろよ、危ないぞ」ということですが、
大正時代の人々にとって、何が危険なのだと芥川は考えていたのでしょうか。

もしよろしければ、上の3つの点について、jm4cvpさんのお考え・解釈をお聞かせくださいな。

とてもとても主体的に作品を読んでいらっしゃいますね。
文学作品は読者が自由に解釈して楽しむものですから、
この方はなんてしっかりしているんだろう、と大変頼もしい印象を受けました。
さて「解釈」というのは、見たり聞いたりしたものに対する説明で、自分の心をフル稼働して言葉にしたものを、他人に「どうだ」と聞いてもらうこと。
そしてその相手とのやりとりの中で自分の(そして相手の)解釈を深めていくということ。
・・・という考え方を私は持っておりまして、
早速質問コーナーに入らせてく...続きを読む

Qエゴイズムからの脱出

夏目漱石のこころを読みました。
私たちはどうしたらエゴイズムから脱出できるのでしょうか。

Aベストアンサー

エゴイズムとエゴティズムという語を区別しなくてはならないと思います。

エゴティズムというのが今一般に言われる「あいつエゴイストだよ」という時のエゴを指します。自分のことばかり主張して他人のことを顧みない、いわゆるわがまま者ということですね。
それに対して、エゴイストは、自分のことばかりを考えたり、話したりすることです。要するに、他人のことに関心を払えないということです。

漱石の「こころ」の場合、エゴティズムというのはやむを得ない部分もあるのではないでしょうか。
なにしろ、恋愛感情というものは、そう簡単に止めようと理性では思っても止められるものではないからです。
恋愛において、自己主張をしないとどうなるかは大体のことは察しがつくと思います。
しかし、秩序というのがありまして、道徳だとか倫理だとかというものですね。それを守っていればとりあえずは大丈夫かな、と思います。
それに逆らってまで自分の利益(恋愛成就)をはかるというのは、やはりエゴティズムであるということができるでしょう。
自分の利益抜きで恋愛をする、というのは不可能だからです。

エゴイストというものは、自分の主張をするばかりですから、他人に恋することはあっても、恋愛感情がうまくいくケースが非常に少ないです。つまり相手への気配りをしなくなる、ということがいけないのだと思います。
文学でよくあるのは、自分で禁じられた恋をして、自分ひとりで悩んで、自分で死を選ぶというパターン(若きウェルテルの悩み、など)です。これがエゴイスティックなものであるとすれば、これは悲劇でもあるといえるし、喜劇でもあると言えます。
特にウェルテルでは、ウェルテルの宛てた書簡ばかりが並んでいます。まさに自分は自分は、の主張の連続です。それで挙げ句に他人の忠告を聞かずに突き進む。
これがエゴイズムというヤツです。自分にとって利益がなくても、自説を押し進めてしまうということです。

宗教を持ち出すこともなく明らかなのは、自分の考えに固執しないことです。
自分が正しいと思い込む人は、意外に後で空っぽであることに気付かされるものです。
ギリシャのデルフォイの神殿(神託で有名)の入り口には「汝自身を知れ」という言葉があります。これは自分が分に応じた振る舞いをせよ、ということです。自分が絶対だと思うこと、他人は「俗人」であると思うことが、そもそもの誤りであると考えることが必要です。そのために、他人の言葉に耳を傾けるということは大事なことなのです。

こころを読まれたということで、もしかすると、国語の授業でしょうか。中高生さんだとすれば僕の書いていることは少し論がしっかりと立っていないのでわかりにくいかもしれません。ですから、最後にきわめて単純に要約します。
「【自分が絶対】、ではなく、【自分も相対、他人も相対】、として、自分の意見と他人の意見を同等の立場において判断するように心掛けることが、エゴイズムからの脱却の第1歩です」

エゴイズムとエゴティズムという語を区別しなくてはならないと思います。

エゴティズムというのが今一般に言われる「あいつエゴイストだよ」という時のエゴを指します。自分のことばかり主張して他人のことを顧みない、いわゆるわがまま者ということですね。
それに対して、エゴイストは、自分のことばかりを考えたり、話したりすることです。要するに、他人のことに関心を払えないということです。

漱石の「こころ」の場合、エゴティズムというのはやむを得ない部分もあるのではないでしょうか。
なにし...続きを読む

Q夏目漱石の「こころ」。「私」はなぜ「先生」に惹かれたのか。

今夏目漱石の「こころ」にはまっているんですけれども、
なぜ「私」が「先生」に惹かれたのかがいまいちよくわかりません。
考えられる可能性としては、「私」が「先生」の奥さんに一目ぼれしてしまった、ってことなんですけど・・・。

おしえてください、よろしくおねがいします

Aベストアンサー

 こんにちは。私もNo.1さんと同様に、人生の師と仰ぐべき「先生」としての、また一人の人間としての「尊敬」の気持ちと、「先生」のなぞめいた雰囲気に、惹かれたのだと思います。
 先生との最初の出会いは、鎌倉の海水浴場で、先生が西洋人を連れていたところから始まります。東京帝国大学の学生である「私」は、若い頃の「先生」や「K」と同様、明治という新しい時代(「私」が大学を卒業してすぐ、明治は終わってしまいますが。)に希望を持ち、社会的に有用な人間になるべく、自分の未来に大きな夢を持っていたのではないかと思うのです。そうした私の目の前に現れた「西洋人」を連れた一人の日本人は、時代の最先端を行くとても魅力的な人物として見えたのではないでしょうか。この時「私」は意図的に「先生」の目につくような行動をしています。「私」は、「先生」を大学の講義とは違う「生きた教材」として「先生」に近づいていくうちに、「先生」の人柄、「先生」のなぞめいた行動、若い「私」には理解しがたい「先生」の言葉に、どんどん引きつけられていったのだと思います。「先生」の遺書を受け取った「私」は、実の父親が、重病であるのにもかかわらず、東京に向かってしまうほどにまでなっていました。

 こんにちは。私もNo.1さんと同様に、人生の師と仰ぐべき「先生」としての、また一人の人間としての「尊敬」の気持ちと、「先生」のなぞめいた雰囲気に、惹かれたのだと思います。
 先生との最初の出会いは、鎌倉の海水浴場で、先生が西洋人を連れていたところから始まります。東京帝国大学の学生である「私」は、若い頃の「先生」や「K」と同様、明治という新しい時代(「私」が大学を卒業してすぐ、明治は終わってしまいますが。)に希望を持ち、社会的に有用な人間になるべく、自分の未来に大きな夢を持っ...続きを読む

Q夏目漱石「こころ」で「先生」が自殺する原因は?

夏目漱石「こころ」で「先生」が自殺する原因は?
昔、「こころ」をドキドキしながら読んだ記憶があります。
あんなに小説に引き込まれたのは初めてですが、結論に納得出来ないものを感じます。
結局、「先生」は友人を裏切った良心の呵責に耐えかねて自殺しただけなんでしょうか?
将来に対する明るいメッセージはないのでしょうか?

Aベストアンサー

思うに、高校の教科書のいずれもが、「先生と遺書」中の先生がKを出し抜いてお嬢さんと婚約し、その後Kが自殺するという箇所を採用してきたがために、多くの読者も、

>結局、「先生」は友人を裏切った良心の呵責に耐えかねて自殺しただけなんでしょうか?

という疑問に囚われざるを得なくなるのではないでしょうか。
そして、いつまでたっても、どこか「結論に納得出来ないものを感じます」という違和感を持ち続けざるを得ないのではないでしょうか。

でも、虚心坦懐に「こころ」全体を読んでみれば、この小説には、質問者さんがおっしゃるように、まさに「将来に対する明るいメッセージ」に満ちていることが浮き彫りになってくるはず、と私には思われてなりません。

思うに、この小説の最大の謎は、先生が、妻にも明かせない、自分の最重要な内奥の秘密を綴った《遺書》を、ほかでもなく、田舎出の、世間知らずで、勝手に先生に魅了され、勝手に先生宅に押しかけ、勝手に先生を師と仰ぐ、やや青臭さく、思慮の浅い、しかし理想家肌の一青年に託そうとしたのはなぜか?という点にあるのではないでしょうか。

で、その前に「「先生」が自殺する原因は?」となると、先生がKを出し抜く形でお嬢さんと婚約したことは、大正以降の日本人の常識的な倫理規範に照らして、特に恥ずべき行為ではないにせよ、「明治の精神」(封建道徳)に照らす限り、許すべからざる行為であったが故に、乃木将軍が明治天皇に殉死したことに触発され、「明治の精神」に殉ずる形で自殺することを選んだと解しうるのではないでしょうか。

ただし、漱石自身となると、「明治の精神」を単純に賛美していたわけでも、時代遅れの旧道徳と蔑んでいたわけでもないことは、「現代日本の開化」からして明らかでしょうね。
「明治の精神」には、封建道徳だけではなく、文明開化と同時に流入してきた個人主義思想も含まれていたはずですが、かつて信頼していた叔父によって父親の遺産を横領され、その後自分を信頼してくれていたKを裏切るという経験をした先生としては、西洋近代思想である個人主義をとても手放しでは容認できなかったはずです。
となると、この自らのエゴイズムを罰するには、やはり「明治の精神」に殉じるという方法しかなかったのではないでしょうか。

その上で、先生が自殺に至るまでの生き様や経緯を告白した遺書を、主人公の「私」に宛てた動機や理由を考えてみますと、主人公がまだ思慮が浅くとも、理想家肌の青年であることからして、先生はこの青年に、自分の精神上の息子として、自分に代わって新しい時代を生きてくれることを期待したのではないでしょうか。
その意味では、先生の遺書には、大正という新時代を生きる青年の指針、成長の糧となって欲しい、という先生の切なる祈念が込められていると言えるのではないでしょうか。

また、「こころ」という小説を、より主人公中心の視点、観点から眺めてみると、主人公が来るべき新時代を自立(自律)して生きていくための、一種の父親殺し(旧思想切り捨て)に通じるモチーフが潜在していると評することもできるかもしれませんね。
さらには、同じような意味で、「こころ」は「三四郎」と同様、主人公の人間的成長過程をテーマにした、一種のBildungsroman(教養小説)に通底する基本性格を持っていると評することもできます。

もし、「こころ」に以上のような解釈の可能性が内在しているとすれば、やはり、漱石の「将来に対する明るいメッセージ」が潜んでいると解してもあながち間違いではないと思います。

思うに、高校の教科書のいずれもが、「先生と遺書」中の先生がKを出し抜いてお嬢さんと婚約し、その後Kが自殺するという箇所を採用してきたがために、多くの読者も、

>結局、「先生」は友人を裏切った良心の呵責に耐えかねて自殺しただけなんでしょうか?

という疑問に囚われざるを得なくなるのではないでしょうか。
そして、いつまでたっても、どこか「結論に納得出来ないものを感じます」という違和感を持ち続けざるを得ないのではないでしょうか。

でも、虚心坦懐に「こころ」全体を読んでみれば、この小説...続きを読む

Q舞姫について

高校の頃、教科書で学び、最近改めて読み直しましたが、大学になった今でも私が成長してないのか(^^;読後の感想は変わりませんでした。
文体が美しかったり、文学的要素はあるのだと思います。が、確か自分をモデルにした小説だったと思いますが、内容がどうも私には、筆者が「自分はエリートな男な上に、女にももてるんだ」と自慢しているようにしか感じられないのです。そもそも、女をあんな目に合わせて、それを小説化するとはどういうことだと私は思ってしまいます。
しかし、教科書にも載る程の文学ということは、何か内容的にもすばらしいところがある気がします。
そこで、私とは違い、この小説の内容はこんないいところがあると理解できる方、是非どんなところか教えて下さい。
この作品に対して違った見方をしてみたいです。

Aベストアンサー

明治文学の一愛好者として回答させていただきます。

まず、ほかの回答のなかにも誤解していらっしゃる方がいるようですが、『舞姫』に出てくる太田豊太郎は森鴎外の創作人物です。
にもかかわらず、『坊ちゃん』の主人公と夏目漱石をだれも同一視することはないのに、鴎外と豊太郎を平気で同一視して解釈しようとする人が多いことが不思議です。
まず、鴎外=豊太郎とする見方を捨ててください。

>女をあんな目に合わせて、それを小説化するとはどういうことだ

鴎外がElise Wiegertという女性と恋愛関係にあったことはいくつもの資料が指摘するところです。

けれども、鴎外が帰国した二ヶ月後の明治二十一年九月十二日、彼女は鴎外のあとを追って来日、築地の精養軒ホテルに一ヶ月滞在した後、帰国します(鴎外は、二十二年後、48歳という年齢になって、その経験をもとに『普請中』という短編を書いています)。

このElise Wiegertがどういった人物なのかはよくわかっていないのですが、とにかく鴎外を追って単身日本に来れるような彼女が、少なくとも作品中の「エリス」とはずいぶん境遇がちがったことは間違いない(当然狂気にも陥っていないし、妊娠の事実も疑わしい)。
むしろ、ごく普通の恋愛だった、と見るべきではないかと思います。

>筆者が「自分はエリートな男な上に、女にももてるんだ」と自慢しているようにしか感じられないのです

自慢がしたいなら、「エリス」を令嬢として描き、そんな極悪非道な仕打ちを書くかわりに、どれだけ彼女が別れをつらがったか、さらに「彼女ったらオレを追っかけて、日本にまできたんだゼ~、どうだ、オレってすごいだろー」と書けば、(文学として成立するかどうかはともかく)作者の自尊心は、はるかに充たされるはずです。

豊太郎はエリスに対してひどい仕打ちをする。
おそらく『舞姫』を読む人のだれもが、太田豊太郎を嫌いになるはずです。
豊太郎の行動を、批判するはずです。
憐憫を持つことはできても、好きにはなれない(たとえば「坊っちゃん」をキライになるのがむずかしいと同じくらい、豊太郎は好きになるのがむずかしい人物です)。

どうして鴎外は、あえて主人公をそのような人物として造型していったか。
また同時に、そんなひどい人間を描いた小説が「明治時代の青春を象徴する小説」(中村光夫『日本の近代小説』岩波新書)として、今日まで読み継がれてきたのか。
そこを読み解いていかなければならないと思います。

この場で読解をやっていく時間もスペースもありませんので、比較的手に入れやすい参考文献をひとつあげておきます。
山崎一穎『森鴎外 明治人の生き方』筑摩新書、とくに第四章「作家誕生 ――『舞姫』を読む」では、読解と作品が誕生した経緯が描かれています。

「鴎外が『舞姫』を発表した時、不特定多数の読者を対象にしてはいない。豊太郎の文脈に添えば、手記の読者として想定可能なものは、「心ある人」であり、豊太郎とエリスとの行実を「あやしみ、又た誹る人」であろう。これを鴎外の文脈で語るならば、エリス(エリーゼ)に代表される西欧の自由と美に象徴される市民精神を自らの手で扼殺した己れの生のあり様を「心ある人」に告白することであり、「この行ありしをあやしみ、又た誹る人」として陸軍軍医部の上官、特に石黒忠悳へ向けられた痛烈な刃であった。おそらく『舞姫』発表は対自家用(鴎外の母や妻登志子)を超えた標的に向けて放たれた小説であり、鴎外としても自己の進退を賭けた表現であったと言える」(引用同)

以下、簡単にわたしの解釈を書きます。
やはりこの小説を読むとき、何よりも忘れてはならないのは、明治という時代の特殊性です。

こんにちのわたしたちは、「日本」というものをそれほど意識せずに生活していますが、江戸末期に生まれた文学者、たとえば坪内逍遙も、二葉亭四迷も、そして鴎外も漱石も、「日本」をどうしていくか、が、自分の人生をどう生きていくか、と表裏の問題としてあった(エリートというのは、そのような社会的重責を課せられた存在でもあったのです)。

とくに鴎外は、ほかの文学者たちが、ともかくも文学を専業(二葉亭の場合はなかなかそういうのもむずかしい側面はありますが)としていたのに対して、陸軍の軍医として、作家とは別の顔を持っていた。

おそらくは鴎外の内面は、公的な生活の充実にもかかわらず、ひどく空虚な部分があったのではないか。
その空虚さとは、当時の日本の「外発的開化」の現状とも結びついていた。
鴎外の創作活動は、その精神的空白を見据え、なんとか埋めようとしたものではなかったか。
その空白は、早くも『舞姫』のなかに胚胎していたと思うのです。

冒頭、豊太郎は自己を恨みます。自分のしたこと、自分の卑しさを、だれよりもよく知っている。
おそらく豊太郎は、どれほど世間的に成功しても、みずからに対する尊敬の念を取り戻すことはできないでしょう。
だれよりも、鴎外がそれを許さないものとして『舞姫』を創作した、と考えることができると思います。

『舞姫』はこの文章で終わります。
「相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり」

相沢謙吉とは誰か。
豊太郎を日本に連れ戻した友人は、同時にまた母であり、日本でもあったのではなかったか、と思います。

明治文学の一愛好者として回答させていただきます。

まず、ほかの回答のなかにも誤解していらっしゃる方がいるようですが、『舞姫』に出てくる太田豊太郎は森鴎外の創作人物です。
にもかかわらず、『坊ちゃん』の主人公と夏目漱石をだれも同一視することはないのに、鴎外と豊太郎を平気で同一視して解釈しようとする人が多いことが不思議です。
まず、鴎外=豊太郎とする見方を捨ててください。

>女をあんな目に合わせて、それを小説化するとはどういうことだ

鴎外がElise Wiegertという女性と恋愛関...続きを読む

Q自己中とエゴイズムの違い

自己中心とエゴイズムの意味の違いっていうのがまったくわかりません。

Aベストアンサー

先ほど「大辞林 第二版」で調べたところ
自己中心とエゴイズムは厳密には異なるようです。
(引用は著作権にひっかかるので、gooの辞書で調べてみてください)
http://www.goo.ne.jp/

素人意見ですが、日常で使う分には
そんなに厳密に使い分けていません。

ただ、自己中心という言葉は、タバコのポイ捨てとか、マナーなど、集団で何かをするときになど、周囲のことを考えないで自分の好き勝手にやるという印象が強いです。

エゴイズムはどちらかというと、心理学・哲学的な用語という印象が強いです。「それはあなたのエゴでしょ?
」など、心の中にある部分の身勝手さやワガママさの部分を意識してつかわれている感じがします。

専門用語としてみた場合は、使い分けているかもしれませんね。
どこでつかうかによって、意味は似たようでもあり、大きく異なるものともなるのでは?と思いました。

Q夏目漱石「こころ」のレポート

今学校で「こころ」の学習をしています。3月7日までに原稿用紙5枚以上のレポートを書かなければなりません。
「今までの授業で気になっているいくつかのこだわりなどを『こころ』を出発点として、作者漱石の考えを探りながら、さらに一般的問題、自分自身の問題について考え、個人レポートにまとめてください。
 テーマ例:・「僕」が「僕」であるために(自由独立己)
      ・生き方の問題(倫理、道、自分を支えるもの)
      ・人間の罪(人間の存在というもの)…他いくつも」
人間の罪に興味があるのですが、どう書けばいいのかわかりません。アドバイスお願いします。
また、すぐ読めそうな参考文献があったら教えてください。

Aベストアンサー

この方面の専門家ではないので個人的感想としてしか回答できませんが、少し述べてみます。

私は、漱石といえばやはり前期三部作(三四郎・それから・門)、及び後期三部作(彼岸過迄・行人・こころ)を思い浮かべます。
今、改めて考えると、これらの作品に共通するのは「裏切り」というテーマだろうか、という気がします。
普通に存在して生きているだけの人間が、ほんの少し自分の心情に忠実に自我を押し通そうとすると、結果として人を裏切ってしまわざるを得ない人間の性に焦点が当たっているように思います。
普通に存在しようとするだけで、結果として他者を裏切ったり、犠牲にしてしまっている可能性は現代の世においてもあるのではないでしょうか。
漱石の作中人物における「裏切り」は、どのような精神の変遷から生まれているでしょうか。
そして、「こころ」の先生のようにそれを悔いるという生き方を、あなたはどのように感じておられるでしょうか。

そういったことに着眼して、ご自分なりの考えを述べてみられるのもひとつの方向かもしれません。
ただし、私は素人ですので、この方向で書いた事によって悪い点を取ったとしても責任はとりかねますので、悪しからず。

この方面の専門家ではないので個人的感想としてしか回答できませんが、少し述べてみます。

私は、漱石といえばやはり前期三部作(三四郎・それから・門)、及び後期三部作(彼岸過迄・行人・こころ)を思い浮かべます。
今、改めて考えると、これらの作品に共通するのは「裏切り」というテーマだろうか、という気がします。
普通に存在して生きているだけの人間が、ほんの少し自分の心情に忠実に自我を押し通そうとすると、結果として人を裏切ってしまわざるを得ない人間の性に焦点が当たっているように思い...続きを読む

Q夏目漱石で卒論

現在、文学部の生徒です。卒論に夏目漱石を選んだのですが、なかなかテーマを決めることが出来ません。
漱石に関しては、かなりの論文が書かれていて、自分なりの新しい意見というものが出せそうになくて困っています。評論を読むと、「なるほど~」と関心して終わってしまいます。

実際に、文学部の方で、漱石で卒論を書かれた方がいらっしゃいましたら、どういったテーマだったのか、使った文献等を教えて下さい。
また、一人の作家を選んで論文を書くとなると、やはり全作品を読むものなのでしょうか?
「当たり前だ!」と叱られるかも知れませんけど、アドバイス等ありましたら、宜しくお願いします。

Aベストアンサー

 卒業論文を書くのはとても大変な仕事ですので、お悩みも大きいと存じます。
 全集を全部読み通すかどうかは、テーマが何かによると思います。作品論(特定の作品について論じる)、作家論(作家について論じる)、個別テーマ(作家や作品を材料に用いて、何かのテーマについて論じる。例えば「家族」「ジェンダー」「近代」「身体」「戦争」等々)等の、どれをやろうとなさっているのかということです。作家論という形で漱石自体を問題にするのなら全集を読み通していなければなりませんが、それ以外であれば全集を読んでいなくても、必ずしも書けないことはないと思います。
 漱石は論文がものすごく多いだけに、ともすればそれに引きずられることになりがちですね。是非頑張ってください。御健闘をお祈りしています。


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング

価格.com 格安SIM 料金比較