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人は人のために生きる以外に何のために生きる道があるというのでしょう。
このとき、「人」とは自分も他人も含めた一くくりの「人」です。
「人」を自と他に分けることに、大した意味などありません。
それでも人を自と他に分けたがる傾向があるようですが、本来ひとつのものを分けようとするから苦悩が始まるというものです。
自のみを大事にし他を切り離す。そんな人がいずれおとずれる自の死を前にして自の敗北を感じない筈がありません。
この考え方は間違っているでしょうか。

A 回答 (14件中1~10件)

この質問大きな矛盾と間違いを・・・・自他のないところから回答のしようがなく・・・

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この回答へのお礼

ご回答いただきまして誠にありがとうございます。
たいそう偉そうな質問をしてしまい、少し後悔しています。
かくいう私は日常の忙しさにかまけている俗物でございます。
あまりに理知に富んだ皆さまのご回答に対し、適したお礼を申し上げる言葉もございませんが、ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/10/18 19:50

それでも人を自と他に分けたがる傾向があるようですが、本来ひとつのものを分けようとするから苦悩が始まるというものです。


自のみを大事にし他を切り離す。そんな人がいずれおとずれる自の死を前にして自の敗北を感じない筈がありません。
この考え方は間違っているでしょうか。

○ 考え方は立派で正しいと思いますよ。
でもね、何故、個があり多数があるかをもっと深く考える必要もあるのですよ。人は遠い昔、1から分かれて複数になったことは霊的事実ですから、心情的に1から多へ回帰する傾向性はみな持っているのですね。自は他の一部であり、他はすなわち自である。難しいく言えば、自即他、多即自、一即多、多即一ですね。
人は互いに他のために働き、社会を形成しているわけですが、何故、自分や個性があるかですね。
自と他を分けた理由があるからですね。それは、個々が向上するためですね。比ゆ的に言えば、甚太郎飴の状態から個を切り離し、個々が新しい金太郎飴になることを「よし」としているからなのですね。
自らを伸ばし、他に報いる。これが「利自即利他」ですね。
この「利自即利他」の精神が基本なのです。
さて、
「人は人のために生きる以外に何のために生きる道があるというのでしょう。 」
この考えは、「利他」が主体ですね。これのみでは、個である意味が薄れるのですね。自分を伸ばしつつ他のために生きる、ですから、自分を伸ばすという観点がすこし希薄ですね。
正しい表現は、
「人は自分を伸ばしつつ人のために生きる。」が正しい表現ですね。
一つ理由を挙げて置くとすれば、人のために生きる自分が立派な精神を持っていないと、他の精神に迎合し自分を含めて他人も不幸にしてしまうからなのですね。互いに切磋琢磨してこそ、個と多数に意味があるのですね。
具体例で言えば、日本と中国の関係ですね。中国の間違いに対して日本がはっきり過ちを正さないと中国は間違いに気づかず、互いに不幸になるということですね。「利他」だけではだめなのですね。そのためには互いに学び、自国の精神を高めないとだめなのですね。現在はどちらの政府もだめでしょ。だめ同士が集まると結局、どちらの国民も不幸になりますね。つまり、日本には「利自」が欠落しているからですね。
・・・・そういうことです。
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ご回答いただきまして誠にありがとうございます。
たいそう偉そうな質問をしてしまい、少し後悔しています。
かくいう私は日常の忙しさにかまけている俗物でございます。
あまりに理知に富んだ皆さまのご回答に対し、適したお礼を申し上げる言葉もございませんが、ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/10/18 19:51

自己が他者に働きかけて相手の状態を変えると、その相手の状態の変化が自己に影響を及ぼし、前の自己ではない新しい自己の状態が生まれる。

そして、その新しい自己が改めて他者に働きかけ、それが再び変化した他者からの影響でまた新しい自己を発見する。結局自己の変化が他者を仲介にして自己の新しい変化を誘発する。このグルグル回る影響のことを、複雑系を取り扱う数理科学では、自己触媒効果と呼んでいる。自己触媒効果はその系を不安定にして、以前の状態に留まっていることが出来ずに全く新しい安定構造に収斂して行こうとする。そのように自己触媒を通した非線形過程は、その系に全く新しい構造を創出するための最も基本的な原理なんだ。だから、自己と他者の相互作用系では自己と他者を部分系として分けてしまっては理解出来ない新しい総体としての性質を手に入れることができる。別の言い方をすると全体は部分の単なる総和ではないもっと大きな物なんだ。

だから質問者さんの考え方は的を射ているよ。我々の存在を理解するためには、そのような高度な非線形現象を認識する必要があることを理解していないと、#1さんのようなことを言い出してしまうんだね。
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たいそう偉そうな質問をしてしまい、少し後悔しています。
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あまりに理知に富んだ皆さまのご回答に対し、適したお礼を申し上げる言葉もございませんが、ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/10/18 19:52

>自己が他者に働きかけて相手の状態を変える



 自のみを大事にし他を切り離す。そんな人がいずれおとずれる自の死を前にして自の敗北を感じない筈がありません。
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お礼日時:2010/10/18 19:52

 ちょっとやぶにらみを。



 ★ 「人」を自と他に分けることに、大した意味などありません。

 ★ このとき、「人」とは自分も他人も含めた一くくりの「人」です。

 ☆ 《自と他 / 自分と他人》を分けて表現しているぢゃありませんか?



 分けてもいいんです。
 関係性と同時に 相対的な独立性もあると想定したほうがいいはずですよ。人間という存在についてはです。自由意志というそれです。
 二人や三人があつまって初めて自由意志が存在し得て その意志の自由が確立するというわけのものではない。こう見たほうが うまく行くのでは?
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お礼日時:2010/10/18 19:53

確かに、現在は社会性(分業化&組織化)が充分発達しており、


個人の生は社会全体の順調な運営に依存している以上、
「自分が生きる」=「人のために生きる」となっています。

とはいえ、第二次大戦頃までは、社会=物質循環の単位は、
国家が主であり、その領土の拡大や覇権争いが、進化=より
優れた“種(この場合国家)”の選択として、正しかったの
です(それを避けるのは人類自体が劣化する事)。
(さらに戦国時代以前は、国内でも県単位で戦争していた)

ただし、「現在は社会性が充分発達した=社会とは助け合う
ために集まったもの」であるとはいえ、個人の意識や為政者
の判断が、それについていっているとは言い難い状況です。
人が働く時に、“人助けのために働いている”という自覚が
あるでしょうか?(実質はそうなのですが)
お金をもらうために仕方なく働いているのであり、できれば
大金持ちになって働かない(=生物的には死)で済む事を望む。

原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、
人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった
“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動を
とらせる方法をとったのです。
(そんな個人の意識をベースにした国家が戦争するのを回避し難い)

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、
自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせる“矯正具”
なので(社会生命として生きる事である労働=助け合いを、
お金をもらうために嫌々働かされる)、当然、自由意志を
束縛する機能があります。

要するに、自己存在の本質に根ざした生による真の喜びに
目をそむけ、他律的生に変質しているのです。
±0の死から充足の増進(プラス)を目指して生きているはずが、
いつの間にか、苦痛(マイナス)から逃げるだけの、限りなく
死人に近い生へと堕してしまった。

「死に臨んでの後悔」どころか、生きる事そのものの意味を
希薄化(社会的二次的情報による他律)させ、日々生きる
真の目的である精神的充足を低下させているのです。
(「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々を
して、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。
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この回答へのお礼

ご回答いただきまして誠にありがとうございます。
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あまりに理知に富んだ皆さまのご回答に対し、適したお礼を申し上げる言葉もございませんが、ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/10/18 19:53

 さぁ、どうでせう・・・何も考えずノープランな


日々を送っていれば、そういった事にすら実感を持たなくなるかと。

他の多くの生物達と同様に、自分の生命維持に対する義務にのみ
最も忠実な生き方も、そう間違ったものではないと思いますが・・・
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この回答へのお礼

ご回答いただきまして誠にありがとうございます。
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お礼日時:2010/10/18 19:53

人は多すぎる(笑)。

個人は、個人の自我という妄想のうちに囚われています。実質的に考えると、その対応を一人でなさるのは、無理があるのではないかと・・・

 それより、本来ひとつとおっしゃられるなら、そのひとつの存在の現れである、真理のために生きられるのが、妥当ではないかと。それだと、応用が利きます。

 奇想天外かもしれませんが、神は、人のために在るのではなく、人が、神のために在るにある、と思えるのです。一番上を、押さえといたら、間違いない!
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お礼日時:2010/10/18 19:54

>この考え方は間違っているでしょうか。


:冒頭と終盤は殆んど同意できますが、中盤にはやや異論があります。

「他人のためだけ」になるようなものは存在しない、というのが私の基本的な考え方です。
「他人のためになることをした」と認識した時点で、そのように認識できること自体が自分のために他ならない、つまり、自身の満足感、あるいは納得につながるからです。
しかし、これは、
>「人」を自と他に分けることに、大した意味など
:無い、ということとは違います。
「自と他の交感」という形式が根底にあればこその作用だからです。

>本来ひとつのものを分けようとするから苦悩が始まるというものです。
:うすうすお感じになっていらっしゃると思いますが、これはやはり無理があるのではないでしょうか。
たしかにマクロ的(あるいは神の)視点から見ればおっしゃるとおりでしょう。
しかし、人類というものがまず存在するわけではなく、あくまで個人の集合体としての人類であって、「自も他も無い」「ひとつのもの」という捉え方は、学術的な分類と殆んど変わらない意味しか無いように思います。

ただ、実際はどうかわかりませんが、私の考え方と似ているところもあるような気がします。
「苦悩の始まり」あるいは「誤謬の始まり」は、「他人と同じひとつのもの」と考えないからではなくて、「他人も自分と同じ可能性を持ったもの」と想像できないからではないでしょうか。どちらの場合も、
>自のみを大事にし他を切り離す。
:ということにつながりやすいでしょう。ただ、理由(原因)が違えば対処法や解決法も違ってきます。

>そんな人がいずれおとずれる自の死を前にして自の敗北を感じない筈がありません。
:同意できます。
このような結果が訪れるだろうことは、どちらの場合にも言えるでしょう。
ただ、この場合も同様で、理由(原因)が違えば対処法や解決法も違ってくる、ということは言えるでしょう。

以上、ご質問の内容に沿ってまとめると、
「他人も自分と同じ可能性を持ったもの」と想像できないために誤謬が生まれ、そこから『苦悩が始まる』。

また、「人=他人」ではないが、心理的力学として「人のため⇒自分のため」という真理が存在しているという認識が必要。
この場合のように、「人のため」が言動のモチベーションになること自体は尊いことと思いますが、逆に、「自分のため」が結果として「人のため」となっていくのが理想的ではないかと個人的には考えています。
最終的には、やはり人は自分が大事な生き物で、また、それが自然だと思うからです。

ここで、「人のため」「〇〇のため」と言う場合の「ため」とは一体何を指しているのか、ということも重要な検討課題になってくるでしょう。
「〇〇のため」と言いつつ人類は数多くの誤謬を犯してきましたし、犯しつづけているように見えます。

この「ため」の価値観を、どのように進化させていけるのか、ということになると思うのですが、この場合のバックグラウンドとして、
>人は人のために生きる以外に何のために生きる道があるというのでしょう。
このとき、「人」とは自分も他人も含めた一くくりの「人」です。
:という認識は不可欠だと私も思います。
  
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この回答へのお礼

ご回答いただきまして誠にありがとうございます。
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かくいう私は日常の忙しさにかまけている俗物でございます。
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お礼日時:2010/10/18 19:54

私は、


「汝等生命の為に生きよ。」
という宇宙の叡智者のお言葉を心の指針にしています。
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この回答へのお礼

ご回答いただきまして誠にありがとうございます。
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お礼日時:2010/10/18 19:55

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