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公家と武家の説明を子供(小学2年)に聞かれたのですが、今でいうと政治家と公務員のようなものなのでしょうか?お恥ずかしながら私もよくわからないので困っています。よろしくお願いいたします。

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A 回答 (5件)

「公家」さんは今で言う「皇族」です。

武家さんは今で言う「政治家」です。したっけ小学校2年生のお子さんに説明するなら

「公家さんはね、今の天皇さんのご家族や親戚の事、武家さんは、今の政治家さんみたいなものよ」

と言えば理解できるかな?と思います。


ただし時代背景では「平安時代末期」までは天皇による朝廷政治が行われており、武家政治は「鎌倉時代」から本格的に始まり「江戸末期」まで武士統制は続きました。お子さんが歴史を勉強する年代・学年になれば、その辺の区別も勉強するので、今は最初の教え方でいいと思います。
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この回答へのお礼

説明しやすくてわかりやすいですね(*^_^*)ありがとうございますm(__)m

お礼日時:2010/10/26 15:19

公家と武家の説明としてはNo.4の方の説明が妥当だと思います。


(他の方のは、少し雑駁過ぎる気がします)
ただ、このまま小学2年生には説明できないですよね。

お子さんには、まず「歴史」というものの認識をさせた方がいいと思います。別に難しい説明をしろということではなく、今私たちはこんな風に生活しているけど、100年前はほとんどの人が着物を着ていて、車を持っている人はとても少なくて、テレビもゲームもなかったんだよ。200年前は、お侍さんていう人たちがたくさんいて、男の人はみんなちょんまげを結っていて、話す言葉とかも違ったんだよ。その前にはもっといろんなことがあって、500年、1000年、2000年…って、人間は長い間をかけて生活や考え方を変えてきた。それが歴史というもので、高学年になったら少しそういう勉強をするようになるということなどを前置きした方がいいと思います。

その上で、「公家というのは天皇の周りにいた人たちで、政治家や官僚のような仕事をしていた人が多くて、武家というのは政治家や公務員+警察や自衛隊みたいな仕事をすることもあったんだよ。でも時代によっても少し違うから、詳しいことはもう少し大きくなったら勉強しようね」みたいな感じで、言い切らないのがいいのではないでしょうか。

ちなみに公家は政治家だったのかと疑問を持たれるかもしれませんが、平安時代まではもちろん、鎌倉~江戸時代の間も、朝廷と幕府の二重政治のような面があるので、武家政権の時代でも政治家的公家はいたと思います。また平安時代に発生した当時、武家は貴族のお抱え警備隊のようなものから警察的・軍事的役割がほとんどで、政治家的側面は平氏政権以降ということで、やはり時代によって違います。
蛇足かもしれませんが…。
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この回答へのお礼

わかりやすく説明するのって難しいですね^_^;
詳しく教えていただきありがとうございましたm(__)m

お礼日時:2010/10/26 15:27

まず、下の回答は概ね不適切だと断定していいと思います。



その理由は、”武装した公家が武家”という認識に過ぎないからです。

極めて乱暴に回答すれば、公家とは朝廷に名を連ね、形式的に政務に関わる家のことです。

ここで重要なことは、公家とは個人に対する概念ではなく、家であることが重要です。

下の回答は個人の職能から公家と武家を分離しているようですが、家系から職能を分離するのが日本の伝統的傾向です。

「武家」という概念は、世俗の地方実力者が<朝廷の公認を得ずとも認知されうる>ものですから、
武家というのは実態的政治基盤のある為政者全般に該当すると考えるべきでしょう。


ただ狭義に武家を考えれば、『征夷大将軍の号令下において行動する家・一党』を武家というのが正しいと考えられます。

小学生にも分かるような適切な回答とすれば

公家とは朝廷権力が公認した一門・一党
武家とは征夷大将軍の下で行動する一門・一党





と回答すれば、妥当でしょう。

なお、”征夷大将軍の号令下にない武家がありえる”という指摘もありましょうが、交誼すぎる武家概念だと思います。

ちなみに、武家・公家が政治家とは限りません。
朝廷の身の回りの世話などを司る役職が多いことを考えれば、公家・官位の一部が政治的機能性があるだけであって、朝廷の政治権力の基本は、官位上位者のみ、と考えるのが妥当であり、公家の全体像は、朝廷に仕える雑用と見るべきでしょう。
武家に関しても同じで、実態的に荘園領地を持たない武家が存在し、政務を司らない役所が多いことを考えれば、政治家・公務員という肖像は、全体の一割程度と考えても間違いないでしょう

以上
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この回答へのお礼

公家とはお家なのですね。朝廷の説明も上手くできなくて・・・・^_^;
ありがとうございますm(__)m

お礼日時:2010/10/26 15:23

現在で言うと、



自衛隊(軍人)の人たちがこの国はダメダメだ~と、政治家に代わって政治を始めました。で、この人たちが武家となります。政治家と軍と警察と司法を兼ねてます。

ダメ出し出された人たちが公家。議員であるという身分は変わりませんが、立法を始め色々な特権を失った人です。
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この回答へのお礼

公家はダメだしされて特権を失ってしまったのですか!?知らなかったです。
ありがとうございますm(__)m

お礼日時:2010/10/26 15:22

小2用の説明で良いのですよね?



公家は、今の天皇の親戚をぜーんぶひっくるめて公家と言います。
武家は、おサムライさんのことを言います。

江戸時代は、おサムライさんが政治をしていたから、武家は今で言う政治家です。

公家は、特に何もしなかったです。

公家が偉くなったのは、明治時代から。
天皇=神様となってからです。

ちょっと分かりにくいかも…
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この回答へのお礼

なるほどです(*^_^*)簡潔明瞭で子供にもイメージしやすいです。ありがとうございますm(__)m

お礼日時:2010/10/26 15:21

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ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
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別の知人は堂上華族で、維新の後はうまく資産家のところに婿養子に入り込み、戦前戦中は上手に生き抜いて、この知人の父親の代は徴兵逃れで医者になり、知人の代でも医者や歯医者が多く、比較的裕福に暮らしています。

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に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす為には、天皇に代わる権威(支配の
正統性)が必要なのです。徳川に限らず、結局のところ、力では圧倒
しても、天皇に代わる権威を見出せず、実行できなかったのだと思い
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平家は都落ちに際し安徳天皇を拉致?しますが、京都には天皇家の家
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承久の乱では、北条義時が天皇家の家長である後鳥羽院の島流しを敢
行しますが、北条得宗専制ですらまだ始まってはおらず、あまりにも
時期尚早。天皇を頂点とする公家勢力・寺社勢力の息の根を止める以
前に、まだそれ以下の鎌倉「将軍」の権威で武士の統合が必要な時代。
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も未遂。
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どのように権威(支配の正統性)を樹立するつもりだったか、興味深い
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豊臣秀吉は天皇を中国に移し、自分はインド方面まで手を伸ばすつも
りだったとか。天皇を一国王としての地位に留め、その地位を保証す
る世界皇帝になることで、天皇を超えようとしたという説も。
で、本題の徳川家ですが‥
徳川家康の場合は、京都や大坂を掌中に置くのに時間がかかり過ぎ、
短期決戦できなかったのがネックでしょう。家光の代までに幕府も安
定し、禁中並公家諸法度などで従来の権門(公家・寺社)を幕府の法制
下に置き、武家官位と公家官位を分離するなど、色々と手は打ってい
るようですが‥
でも綱吉になると、生母桂昌院に従一位を貰って喜んでみたり‥
そうこうしているうちに将軍の継承問題、そして改革と挫折の連鎖の
時代となり、天皇家に構っている余力はない‥ 要は支配の正統性の
問題は、権力を握ったらすぐに手を打たないと、手遅れになるという
ことですね。

あと、蛇足ではありますが、源・平・藤原・豊臣などの「氏」が、
日本の場合天皇から与えられるという性格を持つという点も、天皇制
存続に関して何らかの意味を持つのかもしれません。平清盛・源頼朝
・平(北条)義時・源(足利)義満が姓を自分で決めて自称せず、織田信
長・徳川家康が源・平姓を名乗り、羽柴秀吉が豊臣姓を貰って喜んで
いるうちは、天皇の風下に甘んじるという一面を持ちます。もっとも、
姓を自分で決めて自称するとか、姓を捨てて天皇家と同じ無姓となる
という発想自体が、思考力の枠を超えるものでしょうけど。でも、信
長あたりは長生きしていたらやっていたかもしれないし‥

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

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江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q紀元前と紀元後をなぜ分けるの?

タイトル通りの疑問なのです。当たり前すぎなことなのかもしれませんが、教えてくださいお願いします。どういういきさつで分ける必要になったのでしょうか?
またいつから分ける様になったのですか?

Aベストアンサー

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれた年を紀元とすることにしました。
これが、現在我々が使っている西暦の始まりです。
何故西暦0年が存在しないかと言うと、西暦が作られた6世紀半ばのヨーロッパは、まだ数学が発達していなかったためか、「0」の概念が無かったのです。
そのため、「西暦0年」ではなく、「西暦1年」から始まったのです。これは平成0年がないのと同じですね。
だから、紀元1年より前の年をあらわすには、0がないので当然ながらマイナスを使えず、「紀元前」とするしかないわけです。
この西暦は、まず教会で用いられ、それがヨーロッパの一般人に定着するのはそれから数世紀経ってからで、 実際に世界的に使われるようになったのは、18世紀になってからです。
日本に至っては、明治以降、つまり19世紀に入ってから、やっと使い始めました。

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれ...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

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 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q簡単な歴史の質問

公家と朝廷と貴族の関係性を教えてください!!

歴史の教材に
公家(朝廷)と書いてありました。
しかしさらに読み進めていくと
公家(貴族)と書いてありました。

公家=朝廷、公家=貴族→朝廷=貴族ということですか!?

朝廷は場所ですよね
公家もまぁ朝廷と同じですよね
ども貴族って人ですよね!?
朝廷に住んでる人ってことですか??


すいませんよくわかりません。

Aベストアンサー

公家の頂点が天皇陛下です。朝廷とは天皇陛下がお仕事される場所のことで、その場所で働いていた人たちが公家です。ですから公家=貴族といっていいです。

貴族といっても、征夷代将軍といって武家でも官位を持つことが許されていましたので厳密に公家=貴族とも言えません。正六位と従五位以上の官位を持つ公家は殿上人として直接天皇陛下に合うことができたようです。また従三位以上の高官は特別に公卿と呼ばれていました。

平氏と源氏の流れがありますが、源氏での最高位は「征夷代将軍」で官位は様々です。徳川家康は最終的には「従一位 右大臣」になっています。豊臣秀吉は平氏なので「従一位 関白」になっており、最終的に両方ともは「大政大臣」となり死後「贈正一位」の位を貰っていますね。

織田信長は、足利義昭を征夷代将軍にしたときに「従五位 下弾正少忠」という官位を貰い、その後「正四位 下弾正大弼」「従三位参議」「正三位」「従二位」「正二位」となっています。35歳~なくなるまで。死亡後は「従一位太政大臣」となりさらに「正一位」となって同じですね。

調べると結構ボリュームがあって大変そうです。

公家の頂点が天皇陛下です。朝廷とは天皇陛下がお仕事される場所のことで、その場所で働いていた人たちが公家です。ですから公家=貴族といっていいです。

貴族といっても、征夷代将軍といって武家でも官位を持つことが許されていましたので厳密に公家=貴族とも言えません。正六位と従五位以上の官位を持つ公家は殿上人として直接天皇陛下に合うことができたようです。また従三位以上の高官は特別に公卿と呼ばれていました。

平氏と源氏の流れがありますが、源氏での最高位は「征夷代将軍」で官位は様々です。...続きを読む

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む


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