プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

 ブッダの独自性は何でしょう?

 そのむかしアブラハムという人に《信じる》という非思考の場が芽生えました。
 神とわたしとの関係がその信じるままであるならば――という意味は 非思考のはたらきとして記憶能力において精神および身体の秩序がととのっているならばということですが そうであるならば―― とうぜんのごとくひとはやわらがしめられている。こころはやすらかである。ひとと仲良くやっていく。
 と知りました。

 このことは 古代インドでは神をブラフマン(梵)と呼び《わたし》をアートマン(我)と捉えて その両者の一体(つまり 梵我一如)という思想に表わしました。
 あるいは同じく神を プラトンでしたかは 世界霊魂(プシュケー・コスムー)と呼びました。ローマ人たちは アニマ・ムンディと訳し換えて使っています。その後ドイツ人らは 同じくヱ゛ルト・ゼーレと言ったりしていました。

 ところで ゴータマ・ブッダは 天の邪鬼よろしく 無我(アン‐アートマン)の説を唱えました。(諸法無我)。ほかのものに依存せずみづから成ってあるという存在を――つまり ブラフマニズム(バラモン教)の宇宙霊であるブラフマンのことを言っているのですが これを―― そんなものは無いと言いました。(もしくは 有るとも無いとも言わないと説明しました)。
 ですから いわゆる仏性は――あたかも 宇宙霊のブラフマンが 《わたし》としてのアートマンに宿るというそのようなものとわれわれは捉えていると思うのですが その仏性は―― ブッダは説いていません。あくまで後世になって説かれたものです。 
 ただしそのブッダも あたかもみづからが宇宙霊となって 自分はブッダとして永遠に生き続けており 自由自在に好きなように歴史に即して人間となって現われるのだというようなことを言ったとされています。つまりそのように後世の人びとは 捉えるようになっています。

 乱暴にひと言で言ってしまうなら ブッダは ブラフマニズムという思想の中で孫悟空のように飛び回り暴れまわっていたということではないでしょうか。
 《成道》を得たブッダに おまえの悟りを人びとに伝えたまえとブラフマンが勧めた(梵天勧請)と自分(ブッダ)では言っていますが 果たして どれだけの独自性があったでしょうか?
 (ないと思って言っているわけではないのですが 批判にまわりたいと思っていますし そのことに道理はあると考えています)。
 もし仏性という普遍性の定理は別として言えば もはやブディズムは惰性としての仏教しかないのではないでしょうか? 橋から落ちた犬に引導を渡すのは 哲学の役目だと考えます。

A 回答 (7件)

補足の要求となりますが、中国明代のロマン小説である西遊記


それに出てくるキャラ「孫悟空」と
仏様は関係がないのではないでしょうか?(イメージ戦略なのでしょうか)

仏典についての議論もないようです。まず党派があって意見があるというのは、不自然なような気がします。
それとも、マの理論(マルクス主義)ですか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 19oyaz-akana83さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 孫悟空は
 ★ イメージ戦略なので
 ☆ す。というのは半分冗談ですが 要はブッダが ブラフマニズムの――特に 梵我一如の――説を出なかったのではないか? こういう問い方になっています。

 ★ 仏典についての議論もないようです。まず党派があって意見があるというのは、不自然なような気がします。
 ☆ 典拠を明らかにしてはいませんが (1) 梵我一如と諸法無我 (2) 仏性をめぐる問題 (3) それと(1)に戻って 宗旨を問わず ひとにとっての《こころにおける非思考の庭》つまり信仰のあり方をどう捉えているか こういった主題をあつかっています。
 そして むろん質問者としての意見も述べています。それについて問うています。別に《党派》をつくろうとか作らないとかいう問題ではないと考えます。

 どうでしょう?

 もしブッダのおしえをめぐってわたしが問うて来た質問でのやり取りをお知りになりたいのでしたら 次のような質問を参照していただければよいと思います。
 
 【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3454478.html
  ☆ ここでは かつてのブディストとしておしえを乞うています。これ以降は うたがいを持ち始めています。

 【Q:ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?】  
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5224310.html
 【Q:ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5440380.html
 【Q:それでは ブッダのさとりとは何だったのか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5151054.html

 【Q:ブッダの性愛観は 間違っていませんか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5145751.html
 【Q:ブッダの美女マーガンディヤー事件】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5121424.html

 【Q:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5764972.html
 【Q:無明( 煩悩 )とは 何なのでしょう?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5170144.html
 【Q:梵我一如に仏教は密着したのでは?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3966013.html
 【Q:輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか】 
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3965802.html
 【Q:輪廻転生説は 愚の骨頂】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4927327.html

 
 【Q:ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4279578.html
 【Q:ブッダ葬送がやっぱし必要ではないでしょうか】 
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6162876.html
 【Q:信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5364088.html





 ★ それとも、マの理論(マルクス主義)ですか?
 ☆ ひとによっては 魔が差すのマの理論であるかも。・・・冗談ですが。よろしくどうぞ。

お礼日時:2010/11/25 21:42

No.3さんの言うとおりだと思います。


何かの縁でそれぞれの宗派に出会ったわけですから、そこで善行を積めばいいと思うのですが・・・

それができないということは、逆に宗派の教義に対して確信が薄いと言わざるえません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 にゅうとさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 良心・信教の自由は 哲学がそれを唱える前から無条件でひとに与えられています。
 何をえらんでも自由です。えらんだあとの あらゆるかたちの表現も自由です。

 その自己表現の自由は おそらく 答責性をも傍らで同時に伴なっていると思われます。何かおかしなことを表現しているなら それについて説明責任を果たすということです。

 ブッダは インチキではないのかという物言いを挙げていますので それに対する答弁を用意するのが ブディストであるでしょうし 他方では なるほどその物言いには妥当性があるという見解も寄せられることでしょう。
 
 そういう投稿をお待ちしています。

お礼日時:2010/11/25 22:43

私見ですが



禅定には段階があり、梵天と同じ境地の禅定もあるということ。
そして、その境地が梵我一如と呼ばれブラフマニズムの基盤になった。

ブッダは、ブラフマニズム的なるものを学んで理解したが
ブラフマニズムを超え、梵天と同じ境地の禅定より上の禅定に至った。

ブッダの発見以前は、梵天は永遠であると看做されていたが
ブッダは「人間から見れば永遠と感じられるが、実際は寿命があり
諸行無常の真理の下に存在している」と認識した。

これが独自性ではあるが、
ブッダはブラフマニズムを超え内包しただけで、ブラフマニズムの具体的内容を
全否定するものではなかった。
また、ブラフマニズムの方法論などの良いものは吟味して取り入れた。

ただ、時代が経つに従って、取り入れた方法論から芽がではじめ
本来のブッディズムからいろいろ派生していきました。

*********************************************************************************
日本仏教と禅定 [編集]

日本仏教のほとんどの伝統的宗派においても、禅定を得るために様々なアプローチが派生してきたといわれる。曹洞宗・臨済宗における坐禅はもちろんのこと、天台宗では法華禅とも呼ばれる止観を重視し、真言宗では印相を結んだり、陀羅尼や真言を唱える身体性を重視する。浄土宗や浄土真宗では称名念仏である南無阿弥陀仏をくり返し唱える。時宗においては踊りながら念仏を唱え、日蓮宗では題目の南無妙法蓮華経をくり返し唱える。いずれのアプローチも、思考や妄想から離れて精神を集中させて禅定に至る行といわれる。
*********************************************************************************
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 いやぁ 細かくなって来ましたね。にゅうとさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。ブッダとその後世との区別も――この《禅定》の系譜としては―― 必ずしもはっきりしていないようにも感じます。顕教としては きちんと言葉においても言い表わしていないといけないはずですが それもほとんどすべてが一般論として言っているように思われます。
 境地にかんしては 段階や次元がちがうと言われてもなかなか理解しがたいところが残るでしょう。

 引いておられるヰキぺからさらに引いてみます。
 ▲(ヰキぺ:禅定) ~~~~~~
 (ぜんじょう、サンスクリット:dhyaana、パーリ語:jhaana)は、心を統一して瞑想し、真理を観察すること。またそれによって心身ともに動揺することがなくなった、安定した状態を指す。

 元来は、大乗仏教の菩薩が実践すべき修行徳目である六波羅蜜のうちの第五禅那波羅蜜のことである。禅那 (Dhyāna) は「禅定」と訳され、真理を思惟して散乱の心を定止することを指している。

 また、「戒・定・慧」と言われるように、仏教においては戒律を守ることと禅定と智慧とはセットになっている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つねに これこれには実態が――境地として――ありますよと言っていますが その中身はなかなか分かりがたいと思われます。

 仮りにたとえば次のような説明と比べてみてください。《禅定》の心の姿を何とか説明しようとした文章です。
 ◆ (アウグスティヌス)~~~~~~~~~~~~
 神はヨブが試されることを悪魔に許した。
 ヨブは試された。
 悪魔は困惑させられた。

 ヨブが神を自由に(神のために)礼拝すること 神を自由に(神のために)愛することを見出したからです。

 神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。
 ヨブは言っております。

   主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。
   主の御名はほむべきかな。(1:21)

 と。
 試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブが藁ではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。
 (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 茂泉昭男訳 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 単なるおとぎ話に近いものですが 心のあり方がこのようだということを説明しているはずです。


 あと 親鸞においては 《称名念仏》が
 ▲ 禅定を得るため〔の〕様々なアプローチ
 ☆ ではないということ このことを念のために確認します。
 ▲(ヰキぺ:現生正定衆) ~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E7%94%9F% …

 親鸞は・・・信心は阿弥陀如来の本願力により賜わるものであり、その信心を受容することで、浄土に往生することが定まった身となり、現在・現時点で悟り(覚り)を開き仏と成ることが定まる(仏の覚りと等しい位に定まる)とする。

 そのため、信心を賜わったのちの「南無阿弥陀仏」と口で称える念仏、つまり称名念仏は、すでに浄土へ行くことが定まっていることへの報恩謝徳の念仏であるとする。念仏の功徳により浄土へ往生しようとする方法・手段(行)ではない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ ブラフマニズムやブッダやあるいはほかの仏教宗派の宗旨においてどうであるかは知りませんが 親鸞においては まるっきしコペルニクス的回転が果たされていますので 念のために確認していただきたいと思います。
 ですから
 ▲ 禅定を得るため〔の〕様々なアプローチ
 ☆ という見方が ブッダからの定説であるのかどうか。あるとすれば はっきりと区別が ブッダとその後世(親鸞だけ?)とのあいだで出来るかと考えます。

 言いかえるなら この親鸞によるコペルニクス的回転が成っていない場合に 禅定にも次元の高い低いがあるのぢゃよと言われても あぁ そうですかと応えておしまいになると思うのです。
 自由意志の問題だと考えます。つまりこれは 自由意志を超える大きな意志のことであるのですから いわば確かにブラフマンのことを言っているとも解釈できそうですが おそらくそのときにも梵我一如の図式よりほかには思惟がめぐらされていなかったのではないでしょうか?
 だからブッダは この自立して存在するブラフマンのことを否定したくなったのかも知れませんが それはただ否定しただけに終わったのではないでしょうか? 

お礼日時:2010/11/25 21:09

"ブッダは ブラフマニズムという思想の中で孫悟空のように飛び回り暴れまわっていたということではないでしょうか。

" とは以下のような意味と思われますが・・・

ブッダは無我(アン‐アートマン)の説を唱えたが

後世の人々により色々と注釈された結果(*1)

現在の仏教はブラフマニズムに回帰しているように質問者さんには思える。


(*1)ただしそのブッダも あたかもみづからが宇宙霊となって 自分はブッダとして永遠に生き続けており 自由自在に好きなように歴史に即して人間となって現われるのだというようなことを言ったとされています。つまりそのように後世の人びとは 捉えるようになっています。


日本の仏教という大きな枠で考えれば、ブッダ以前の古代インドの宗教に一周して戻っているような気はします。

ただ、”仏教は ブラフマンの掌で暴れまわった孫悟空では? ”が正確でしょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 にゅうとさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 この質問趣旨は 新説であり奇説であるとまだまだ思われていると思っていたものですから まづは――じっさいに初めてです―― ひとつの時代が終わろうとしているかにも思われます。
 ★ ただ、”仏教は ブラフマンの掌で暴れまわった孫悟空では? ”が正確でしょうね。
 ☆ この中身については 質問者として吟味してまいりますが ここまでの見解が述べられたとは 隔世の感を禁じ得ません。

 さて吟味ですが 細かいことなのであまり必要もないかも知れません。でも いちどは詳しく考えておくことは欠かせないとも思われます。後世のブディズムおよび仏教と ブラフマニズムとの違い〔があればそれ〕を明らかにすることになるでしょうから。
 ★ 現在の仏教はブラフマニズムに回帰しているように質問者さんには思える。
 ☆ そこでたぶん 《仏性〔が人にやどること〕》と《梵我一如》との異同を明らかにするのがいちばんよいと思われます。
 ☆☆(No.3お礼欄) ・・・後世にはブッダの系譜において 《われ(アートマン)》に〔ブラフマンなる宇宙霊に似た〕仏性がやどるという説が 出されました。
 ☆ と言っているのですが その内実を示さねばならないと考えます。
 仏性は ひとに内在する。とまづは 見るべきなのでしょうね。それが ブラフマニズムにおけるブラフマンとアートマンとの一体のときの姿でありその要因であると言えば もうそのままつながっているというわけですが では違いはないのか?
 
 まづ いわゆるアーラヤ識という記憶の貯蔵庫において仏性がやどるといった見方は それほど大したことでもないと思われます。モノは宇宙のあらゆる場にわたって存在しており そこにあるヒトなる存在もとうぜん同じモノで出来ている。といった見方とそう変わらないからです。

 そうすると どうなりましょう。無我(諸法無我)あるいは無常(諸行無常)という見方が 部分的にはそういうブッダの説を受け継いで この仏性をやどすというヒトの《わたし》なる存在にどう影響しているか。影響が大きいと見るなら ちがって来ていましょうか。
 早い話として影響が大きい場合には 仏性を内在するはたらきとして認めるが その器としての《わたし》についてわざわざそして人格の枠組み(ないし核)としてのような《アートマン》を立てることもない。――となるのでしょうか? 
 
 あるいは 空海がひとは大日如来(マハーワ゛イローチャナ)と一体となると言ったとすれば そのわれとこのブッダとの一体は アートマンとブラフマンとの一体と同じようなかたちなのでしょうか? 自力(修行を知識や言語表現よりも先行させるという意味での自力)によると言うとすれば そのわれはアートマンに似ているように思われます。

 あるいは 親鸞はこの一体ということを すべて《わたし》の内なる心の非思考の庭において――あくまでアミターユス(阿弥陀如来)の側からのはたらきによって――或る晴れた日にふと起こる事件だと捉えていると思います。《非思考の庭 / アミターユスの側からはたらく》ということは そこにまるで〔人間に理解しうるかたちでの〕根拠がないことを言います。雲をつかむようなことが起こると言っています。――これは たぶん あらたな展開なのでしょう。
 空海も 《即身成仏》が 大毘盧遮那仏の側からのはたらきによって――つまり 《無根拠》において――成ると言っているとすれば 親鸞と同じようだと考えます。
 
 取り敢えず――になってはいけませんが・つまりさらにおしえて欲しいのですが―― このように考えると 後世のブディズムはブラフマニズムと同じようでもあり そこには違いもあるようである。と考えられます。
 ブラフマニズムは きわめて素朴であるとも思います。《わたし》の存在つまり こういうときの問題点としては自由意志の存在 これについてあいまいであるようだと。だとすれば 展開の余地があったと思われます。《回帰》という言葉ではおさまらないかも知れません。

 ゴータマ・ブッダについて批判的な見方をしている方々から さらにおしえていただきたいと考えます。ブッダ派の方々からもさらにご見解をあきらかにして欲しいです。

お礼日時:2010/11/25 14:11

bragelonneさん



 個人的な意見です。

 万教は一なる真理への多様な道。
 その周辺の事柄にとらわれずに、真理に向かって一直線。

 人間に与えられた時間は少ないです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 える84さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 そうですね。
 のっけから反論ですが
 ★ 真理への多様な道
 ☆ にはなっていないのではないかという物言いなのです。ブッダ観についてです。
 その中身についてさだかではないにもかかわらず ブッダと言えば泣く子も黙るというふうになっています。おかしいです。

 さとりが――言葉では表わせないとはっきり言う場合(つまり 密教。あるいは 親鸞のように非思考だという場合)を別として―― 言い表わされたためしがありません。まぼろしを追いかけているのみです。
 ★ その周辺の事柄にとらわれずに、真理に向かって一直線。
 ☆ と言うのならば 周辺のことはそれでよいとしても 中心の中身がはっきりしていなくて どうすすむことが出来るのでしょうか。
 それに いま上に触れた密教も浄土系の信仰も ブッダとは基本的に別だと考えられます。
 つまりはっきり言えば ブッダはインチキだという物言いです。
 大きくブディズムの系譜としてつらなるという場合 それらはブッダに刺激されて自分の宗旨を決め切り拓いたと言えたとしても それらとブッダのおしえとは別だとはっきり言うべきでしょう。
 どうでしょう。

 たとえば 《仏性》の理論を取り上げましょう。
 これは明らかにブッダのあとの後世の人びとの説です。しかももしブッダのおしえ自体にその要素が――言葉がないだけで――きちんと含まれていると見るばあい それはどうなるか?
 そうだとすると 仏性の説は けっきょく梵天一如の理論とそのまま重なってしまいますから ブッダはブラフマニズムと同じおしえを説いたということになります。
 ブッダは ブラフマニズムに対抗して無我(アン‐アートマン)を唱えています。後世にはブッダの系譜において 《われ(アートマン)》に〔ブラフマンなる宇宙霊に似た〕仏性がやどるという説が 出されました。
 この矛盾は 《多様性》とは言わないでしょう。

お礼日時:2010/11/25 10:21

お世話さまです。


またまた仏教いじめですか・・・
あらゆる視点から仏教を批判して、その本質を明らかにしようとされているように思えるのですが
仏教という箱を開けようとして、いくら叩いても開かない苛立ちを感じておられるのでしょうか
叩かずに、箱をそっと撫でてみれば、案外簡単に開いてしまうかもしれませんよ・・・(失礼)

梵天の勧請の説話は、宗教上の最高の境地を仏陀に譲った譬えとして受け止められているのでしょう。
また、縁起の理法を説いた事により、仏陀は数多くの宗教家の中でも最高位に位置付けられています。
こうした仏陀礼讃は惰性であるというご指摘ですが
仏陀の存在が、余りにも偉大であったが故に、私達一般人とはかけ離れてしまった感があると思われます。
延々と語り伝えられてきた偉大さに進歩は無いところから、その本質を疑う見方として、惰性だと言われてしまったのでしょう。
さてさてどうなんでしょうね・・・

ちょっと一息ついてみます。
私は以前にこんな事を考えてみた事があります。
空海の教えをかじっていた頃ですが
もし空海が生きていたならば、どのような言葉(一般言語です)で話をしたのだろうか?
どのような声で、どのような言葉で、どのような話し方をされたのだろうか・・・と
あれほどの書を書いた人物の言葉とはいったいどのようなものだったのだろうか・・・と
それを聞く事ができたならば、どのような感じであったのだろうか・・・と

優れた人格に直接触れるという体験は正に貴重なものだったに違いない、と思われるのですが
百聞は一見にしかず、の譬え通りだったかもしれません。
仏陀の場合も同様に考えられるのですが、これもまた叶わぬ夢です。

夢と言えば、仏教のすべてが夢だと言えなくもない・・・
惰性という見方なら、まだしも、夢という見方は悲しいですね。
ただ、年を取ってきて分かってきた事は・・・
無常という事と、人は老いて死ぬものだという事です。
夢の中にあった言葉が、確かな現実となって身に沁みて感じるようになってしまった
夢の言葉ではなかったのか・・・といったものです。

論に於いては大局的に惰性であっても、その残された言葉に現実というものが重ね合わさっていく事を思う時
やはり仰がねばならぬ教えのように思われるのですが・・・

ブラフマニズムに対する仏教の独自性を明らかにするという批判論法から見出すものが有り得たとしても、それは私にとっては夢の一つのようなものかもしれません。
私の場合は、沢山の夢の中から拾えるものを拾っていくだけです。
また、かといって、ブラジェロンヌさんがおやりになろうとしている事を否定するものでもありません。
或いは、独自性というものは直接の説法においてのみ主観的に成立するものなのかもしれません。
それ以外は、どのようなきれい事を言っても、論的な惰性的な概念に終始してしまうものなのかもしれません。
狭い考えかもしれませんが(狭さに慣れてしまっているという事もありますが)、そんなところです。
ではお元気で。

この回答への補足

 ★ またまた仏教いじめですか・・・
 ☆ ルネサンスへと拓いていけばよいだけです。
 拓いていけないのであれば ほんとうに惰性のみだということになります。
 でしょ?

補足日時:2010/11/24 22:57
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 もうしわけないが 《返り討ち》に遭わせしめ申し上げます。

 1. 空海そのほか ブッダの後世の人たちについては いま問うていません。扱っていないのです。ブッダについてのみ その独自性を問うています。

 2. しかもそうは言っても たとえば空海じしんがブッダを師匠とすると言った場合には そのつながりについて問うておかねばならないかも知れません。

 3. そもそも空海の思想は 第一義としては 密教です。神秘主義です。あるいは 言葉で表現し伝えることの出来ない何ものかを 境地の問題として扱っているということでしょう。

 4. では ブッダもこの密教の要素を持っていたか?
 ★ 縁起の理法を説いた事により、仏陀は数多くの宗教家の中でも最高位に位置付けられています。
 ☆ この《理法》は 経験合理性を基準とする推論で表現しうるし人びとに伝え得るということではないのでしょうか? 顕教であるはずです。あるいは おのぞみならば顕教の顔と密教の顔とふたつとも持っていたということになるのでしょう。
 
 5. だとすれば 顕教の側面において 人びとに理解しうる表現で納得の行くように伝え得るおしえであるはずです。
 ★ 無常という事と、人は老いて死ぬものだという事です。
 ☆ これのどこが独自性だと言うのでしょう? 世の中の人びとの共有する知恵ないし知識ではないでしょうか? それが間違いだという意味ではなく それだけではブラフマンの掌で踊っていると見ざるを得ないという意味です。

 6. ★ 梵天の勧請の説話は、宗教上の最高の境地を仏陀に譲った譬えとして受け止められているのでしょう。
 ☆ これなども ブラフマン(梵天)の胸を借りているだけだと反論されても 答え返せないのではないでしょうか? 並んで挙げられている縁起の理法のどこが――すでに触れましたように(4)―― 独自性なのでしょう?

 7. ★ ~~~~~~~~~~~
 論に於いては大局的に惰性であっても、その残された言葉に現実というものが重ね合わさっていく事を思う時
 やはり仰がねばならぬ教えのように思われるのですが・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ その例をお示しいただければと思います。

 8. ★ ~~~~~~~~~~~
 こうした仏陀礼讃は惰性であるというご指摘ですが
 仏陀の存在が、余りにも偉大であったが故に、私達一般人とはかけ離れてしまった感があると思われます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 残念ながら レトリックのみであるとお応えせざるを得ません。イドラに祀り上げられただけだとも考えられます。偶像であるかどうかを別として 崇拝にまで到るという場合は その人があまりにもすっ飛び野郎であったからだという解釈も成り立ちます。《敬遠》という扱い方のことです。
 いづれにしましても 中身がともなっていなければなりません。

 9. ★ ~~~~~~~~~~~
 延々と語り伝えられてきた偉大さに進歩は無いところから、その本質を疑う見方として、惰性だと言われてしまったのでしょう。
 さてさてどうなんでしょうね・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 10. ★ 優れた人格に直接触れるという体験は正に貴重なものだったに違いない、と思われるのですが
 ☆ のその空海の場合については 保留しています。ここで扱いません。すなわち
 ★ 或いは、独自性というものは直接の説法においてのみ主観的に成立するものなのかもしれません。
 ☆ これは 明らかに密教の場合についてのみ当てはまります。(ということになっています)。
 果たしてブッダは では 密教のみなのでしょうか? →(4)(5)へふたたび続きます。


 11. 《めざめよ(ブッダになれ)》というのは ブッダ自身が説いたおしえは ことごとく常識であった。かまたは とてつもないすっ飛び理論であった。つまりそのことに人びとよ めざめなさい。
 ブッダをブッダと呼んであがめるのは まったくの《まぼろし》であるのだよ。あくまで方便としてその生涯という時間においては われはブッダとなったのだ。人びとを元気づけるために。――そのことにブッダ自身が《めざめよ》と言っているのかも知れません。せめてもの罪滅ぼしとして。

 12. 後世の議論の展開については いま問うていないのです。
 さて どうでしょう?

お礼日時:2010/11/24 22:52

釈迦が口癖のようにいた話、説法、は


「己を陽炎泡沫の如きものと思う者には既に知恵がある」
「己を陽炎泡沫の如き者と知恵によりて見る者は自らの苦悩を癒す」
であったと聞きます。
「理法を好む者は栄え理法を厭う者は滅びる、これが第一の破滅への門である」というのもありましたが。
釈迦の思想の独自性は「知恵によりて見る(理法に照らして考える)」というところであり。その理法
(考え方)の深さ、にあります。釈迦の理法とか縁起の理法、とか、名、だけは伝えられていますが。内容は殆ど、全く伝わって(理解されて)いないようです。
ご質問に揚げられた、梵天勧講、に。
ああ人類は滅びる、真に正しく悟られた御方が、説法をされようとはしないのだ。
かってマガタ国に悪い思想(本当の仏教?)が広がりました。
説法をなされば、理解する者もいるでしょう。
と熱心に勧められ。
ブッダは蓮の花に思いを巡らされた後。(縁起の理法がただの因果律と解していましたが)
 耳ある者どもに、甘露の門は開かれた。己が信仰を捨てよ。
と第一声を発せられた。というような内容だったと思いますが。これは、大乗仏教、あるいは、ヒンズー教の、蓮の台座に座った神様、仏様、としてのブッダ、なのです。
「バラモンはその行いによりてバラモンなのであり、生まれによりてバラモンなのではない」と行っているように、釈迦の思想はバラモン思想の、継承であり否定なのです。
釈迦が菩提樹の元でも、思索瞑想(ハンニャパラミータ、理法に照らして、事象を検証する修行)の後。
かって修行を共にしたことのある。5人のバラモン修行者を前に行った、最初の説法は。
「世界の歴史」によると

ここに4っ真実がある。苦と苦の起源と苦の滅と苦の滅に至る道とである。
苦とは何か、生も苦、老いも苦、死も苦であり。愛する者と離別するのも苦なら、好まぬ者と結合するのも苦である。苦の起源とはなにか。喜びと貪りとを伴い、あれこれ執著する愛執である。
苦の滅とはなにか、愛着の心を残りなく捨て去ることである。
苦の滅に至る道とは何か。八っの正しいみち
 1、正しい思惟 2正しい見解  3正しい言葉 4正しい行為 5正しい生活 6正しい努力
 7正しい思念 そして 8正しい瞑想
 である。

苦集滅道、とか四諦八正道、とか。四諦の法門(仏教の入門)と伝えられる言葉ですが。
一体どこが、神、とか、偶像、とか、霊魂、や超能力、などと繋がっているのでしょうか。
物理学者の態度であり、理法に裏付けされている。とは哲学そのもの、ではないでしょうか。

釈迦の理法は、無心論者とされる。老子の哲学、と全く同じ考え方になる。に止めますが。

神が登場する教典に
その神は言った
 時は移りゆき、青春の日々は短く、後には老いと死が残る。このことを心に止め、
安楽をもたらす、善行をなせ。

ブッダは答えた
 時は移りゆき、青春の日々は短く、後には老いと死が残る。このことを心に止め
 世間の利欲を捨て、静けさをめざせ。
またその神は言った
 我が子より可愛いものはない、牛に勝る財貨はない、太陽に勝る光輝はない
海は最良の湖である。
ブッダは答えた
己より可愛いものはない、穀物に勝る財貨はない、知恵に勝る光輝はない
 雨雲は最良の湖である。

神とブッダの差って何でしょうね。
知恵と心の差、それとも、釈迦の思想とバラモン思想の差

 




む第一声





説法を勧められ。
め漢
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 そうですね。はんにやぎさん こんばんは。まづは ご回答をありがとうございます。
 そうですね。ちょっと こう言っては何ですが 焦点がさだまらないという感じに受け取ったのですが いかがでしょう?

 批判に移ります。
 (1) 《信仰》とは何か?
 ★ 耳ある者どもに、甘露の門は開かれた。己が信仰を捨てよ。 
 ☆ これでは 人ごとに思う《信仰》の中身があることになってしまうかも分かりません。あるいは 単純にいまの思いを捨てよと言っていると受け取って 自分(=ブッダ)の言うことを信じなさいということになる。この程度だと考えます。つまり 《信仰》とは何かが ちっとも理法にしたがって明らかにされていない。

 言いかえると
 ★ 神とブッダの差って何でしょうね。
 ☆ もし
 ★ 無心論者〔*→たぶん 無神論者のことだと受けとめて〕
 ☆ だとすれば その《無神》という神を――つまりは 大きく類型としてブラフマンなる宇宙霊を――神としているのではないだろうか? と考えられます。

 (2) 《理法》とは何か?
 ★ 知恵がある / 苦悩を癒す / 思索瞑想(ハンニャパラミータ、理法に照らして、事象を検証する修行) / 老子の哲学
 ☆ これらはもし
 ★ 老子の哲学、と全く同じ考え方になる。
 ☆ ということでもあるとすれば すべてブッダの理法である無しにかかわらず 人びとの中には身につける者も出て来ているのではないでしょうか? 独自性は 明らかではありません。

 (3) 《正しい》とは どういうことか?
 ★ ~~~~~~~~~~~
 苦の滅に至る道とは何か。八っの正しいみち

 1、正しい思惟 2正しい見解  3正しい言葉 4正しい行為 5正しい生活 6正しい努力
 7正しい思念 そして 8正しい瞑想

 である。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これでは《正しい》という言葉を唱えれば それは正しいのだと言っているのとあまり違わないと思われますが どうでしょう? 
 《まことのみち》と口で言えば そのひとは《まことのみち》を歩んでいると言えるでしょうか?

 (4) 《生も苦》とは どういうことか?
 ☆ うまれてくること あるいは 生きること これが何で 一義的に(そもそも)《苦》なのでしょう? もし《生》が苦なら その生がなくなろうとする《病いや死》は 苦がなくなるゆえ苦ではないとも考えられましょう。いったい何を言おうとしていましょうか?


 (5) ブラフマニズムとの関係
 ★ 「バラモンはその行いによりてバラモンなのであり、生まれによりてバラモンなのではない」と言っているように、釈迦の思想はバラモン思想の、継承であり否定なのです。
 ☆ いえいえ ブラフマナ(ブラフミン=いわゆるバラモン)たちも 善因善果および悪因悪果という因果律を 前世・現世・来世の時空間にわたってつらぬかれるものと言っています。その輪廻転生かつ因果応報の説がまちがっているにしても それに対する批判の仕方はしょうもないものになっています。
 バラモンの家に生まれれば 多少は修行するという《おこないによりて》バラモンになるとも言えるでしょう。生まれのことを指摘しその親の七光りによって高い地位や身分に就けるという批判の仕方は それではあたかもその人たちをロボットか何かのごとくに見なしていることになるでしょう。しょうもない論理です。


 (6) 神との対話(神が登場する教典)
 ★ ~~~~~~~~~
 ブッダは答えた
  ――己より可愛いものはない、穀物に勝る財貨はない、知恵に勝る光輝はない
   雨雲は最良の湖である。
 ~~~~~~~~~~ 
 ☆ これは 相対的・経験的な世界における考えであるでしょう。だからどうなの? というところだと思います。
 これが 理法でしょうか? だれでもこの程度のことは言えるはずです。世間の知恵にふくまれていると考えます。
 あるいは
 ★ 世間の利欲を捨て、静けさをめざせ。
 ☆ 《利欲を捨て》るなどとよくも澄ました顔をして言えるものだと思います。自分たちは布施をもらっているからいいものの 世間の人びとが利欲をおいそれと捨てられましょうや。むろん捨てて生きる人たちもいましょうが。
 
 (7) 要するに いったい何が言いたいのか。
 たしかに
 ★ 己を陽炎泡沫の如きものと思う者
 ☆ と言って自己認識はたしかなものであるかも知れません。しょうもないことを言うという意味で自覚して自分を《かげろう・泡沫のごとき者と思》っていたのでしょうか? 

 どうでしょう?

お礼日時:2010/11/24 00:01

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!