こんにちは。

この間「このごにおよんで」を変換したら、
「この期に及んで」と変換されました。

私は「この後に及んで」だと思っていたのですが、
私の表現は変換に出てきませんでした。

私の考える?「このごにおよんで」とは
「この期に及んで」でいいのか。

また、「この後に及んで」という表現は存在しないのか、教えてください。

無知ですみません。

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A 回答 (10件)

「期」と言うのは、この場合「ある時点」と言う「時期」を表しているものだと思います。


http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/50230/m0u/% …

また、「及ぶ」の意味として「ある状態に至る」と言うものがあるので、
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/33739/m0u/% …

「この期に及んで」=「この時期(状態)に至ってまで(なってまで)」
と言う事なのだと思います。
ですので、意味を考えてみると「後」ではなく「期」と使うのが正解だと思います。
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この回答へのお礼

なるほど!
この後(あと)に及んで、ではなく、
状態になってしまったのに~ということを指すのですね!

納得です。

お礼日時:2011/01/08 17:50

「この期」と「この後」はおなじ発音ですが


むしろ訓読みだったら「こののちに及んで、、」となれば両方使えますね。
ちなみに現代中国語の「期」の意味は”日時を約束する”ですが
期(ご)というのは 話し言葉ではあまり聞いたことがありません。
余談ですが 中国語を45年学習していますが 母国語である日本語は
ほんとうに複雑ですね。
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この回答へのお礼

確かに、期(ご)はあまり聞きかないので、ぱっと出てきませんでした。

日本語は難しいです。

お礼日時:2011/01/09 16:01

 ANo.4:類似の言い方がありますね。


 死後:死期十日(これも“しご”十日と読みます)
 死期:死期に臨んで(これも“しご”に臨んでと読みます)。いまわの際(きわ)ということですね。
  臨死体験なんて言葉がありますが、これはこの“いまわの際”を過ぎて、此の世での意識がなくなったか、肉体を出ている情況ですね。
 だから、この臨死体験は“いまわの際”の向こうに行ってしまっているが、時として戻ってくるなんていうわけですね。
 死期に臨んで(いまわの際に)、言い残す。打ち明ける。なんてことがあるのですね。
 それは未だ、肉体の中で生きているのですね。
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この回答へのお礼

後、というのは本当に終わった後のことなのですね。

納得です。

お礼日時:2011/01/09 16:02

 「この後に及んで」という表現は存在しません。

「期」(最期さいご、はその例)が正しいです。
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この回答へのお礼

やっぱり存在しないのですね。

お礼日時:2011/01/09 16:03

「此の期に及んで」は辞書でも期ですね。

とき おり 期限 際限などの意味。
末期もまつごとよみます。いよいよという決断を迫られた時迷って反対したりすると、
この期に及んで何を血迷ったことをなどとよくきくせりふです。
今というこの時に、この切羽ずまった局面に

「この後では意味が通じません」「今後ともよろしく」「今後の予定について」
という時使います。 
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この回答へのお礼

「この期に及んで何を血迷ったことを」という表現にも使うのですね。
面白いです。

お礼日時:2011/01/09 16:04

「一期一会」(いちごいちえ)という言葉がありますね。

ここでも「時間」をあらわすのに「期」が使われています。
「この期に及んで」の「期」はそれと同じように「時」や「現時点の状態」を指しています。

「この期に及んで」を別に言い換えれば、「事ここにいたって」あるいは「現在このような状況になってしまった、その上で」と言い換える事ができるのではないでしょうか。
この「後」のことを指す表現ではありませんので、「この後に及んで」という表現は誤りであると言えます。

強いて言えば、「その後に及んで」という使い方であれば、日本語としては通じると思います。
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この回答へのお礼

そういう意味の言葉だったのですね。

「このあとになってさらにこのようなことに」?というような意味の言葉だと、履き違えていたようです。

お礼日時:2011/01/09 16:05

目で文字を見て覚えるより先に、耳で言葉として覚えちゃうと、こういう間違いをしやすいですよね。

解ります。

「このごにおよんで」の「ご」を、自分はどういう意味だと解釈しているのか、を考えてみましょう。
「こんなときになってまで」「いまさら」という意味ですよね。

であれば、「後」という字を当てるのは変だ、ということに気づくのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

そうですね。
この言葉を目にすることって少ないですよね。

お礼日時:2011/01/09 16:08

 仰せの“ご”は、“その時になっても”という意味ですよね。


 それは感じでは“期”とかきます。これは“この場を迎えても”という現在とその情況意味しています。
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この回答へのお礼

“この場を迎えても”という意味だったのですね。

「このごにおよんで」とは後の祭りになってもまだ、というような雰囲気の意味だと勘違いしていたようです。

お礼日時:2011/01/09 16:07

goo辞書より引用


この‐ご【×此の期】
この大事な時。いよいよという場合。「―に及んでじたばたしない
引用ここまで

>私の考える?「このごにおよんで」とは「この期に及んで」でいいのか。
はい、そうです。

>また、「この後に及んで」という表現は存在しないのか、教えてください。
一般的にそういう字は使いません。
ただ、PC等が一般的になってきて正しい意味を知らずに誤字変換を信じ込み、違う字を使ってします事は考えられます。
何らかのWEBサイトなどが基になって、間違った字が一気に広まる可能性はあるかもしれません。
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この回答へのお礼

この大切な時期になってまで、という意味の「この期」だったのですね。
納得です。

お礼日時:2011/01/08 17:54

>この「ご」に及んで



    ↓

さいご→「最期」と「最後」の違いと使い分けで考えると分かり易いと思います。

◇この期に及んで・・・・最期の時に至っての意味、決断の時期を示している。

◇この後に及んで・・・何事かの後に成ってもと言うような意味になりますが、聞き間違いや「これからは・・・で通じる」ので余り使われない表現だと思います。
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この回答へのお礼

最後と最期の違いなんですね!
わかりやすかったです!

お礼日時:2011/01/08 17:52

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古典分法の問題です。
「乗る」「包む」「漕ぐ」「思ふ」「往ぬ」「飽く」「居り」「勝つ」の活用の行と種類を教えてください!

Aベストアンサー

みんなこういう質問には冷たいね。
辞書をひけば済むからね。


原則的には、現代語で五段活用なら古典文法で四段活用です。
「乗る」:乗らない、乗ります、乗る、乗れば(ラ行)
「包む」:包まない、包みます、包む、包めば(マ行)
「漕ぐ」:漕がない、漕ぎます、漕ぐ、漕げば(ガ行)
「勝つ」:勝たない、勝ちます、勝つ、勝てば(タ行)
行はそのままで、四段活用と答えればいい。

気をつけなければならないのは、「思ふ」と「飽く」
現代語は
「思う」:思わない、思います、思う、思えば(ワ行)
だが、古典は「ハ行四段」。
「(おも)う」じゃなくて「(おも)ふ」だからね。

「飽く」も現代語は
「飽きる」:飽きない、飽きます、飽きる、飽きれば
で上一段活用だが、古典文法では「カ行四段活用」


あとは「往ぬ」「居り」ね。
これは変格活用だから覚えるだけ。
「往ぬ」:ナ行変格
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だから、あなたは、書くときは「行け」または「いけ」、読むとき歌う時は「ゆけ」でよいのです。

メンドウっていえばメンドくさいですね、日本語は。

Q「強引」という言葉の「ポジティブ変換」をお願いします!!!^^;

ちょっと、考えたのは、

「積極的」とか、「セールスがうまい」とか・・・

他にも、3つ位お願いします!!!

批判は不要です。。。。><

お願いします!!^^;

Aベストアンサー

ゴーイングマイウェイ

Q「愛」と「哀」、「哀しみ」と「悲しみ」

「愛」と「哀」が同音異義語である事。「悲しみ」と「哀しみ」が同音異義語である事。また、「哀」には「哀れ(あわれ)」という意味もある事。
哀れ『goo辞書引用』
1.強い心の動き
2.かわいそうな状態
3.底知れないような趣。情緒。ものがなしさ。
(以下略)

特に、この場合は「3.」の意味合いが強いように思われます。
要するに、日本における「哀」には、「愛」「悲しみ」「日本的な情緒、即ち『しみじみ?』」が含まれていると推量されます。

具体的に考えてみると、桜を見て、その見た目の美しさに「愛」を感じますが、いずれ儚く散り行く様に春の終わり、「悲しみ」を覚えるのだと思います。しかし、それは同時に夏の到来、そしてまた次の年に来る春をも意味するのではないでしょうか。

そういった「季節的流動性」に、水のような「流れ」を意識する包括的な情緒、気持ち、そして最終的にそういった気持ちを意識出来る「自己」の美意識、自然への同一観、一体感などを「哀れ」と表したのだと考えます。

また、悲しみは英語の「sad」つまり涙を流したり、否定的な感情になったりなど、比較的生理的な意味合いが強いと思います。 
一方哀しみは、悲しみという感情に悲しみを引き起こした対象に対する哀れみ、愛情など、情緒的な意味合いが含まれていると思います。「悲」という言葉に「愛」を含んだのが「哀」でしょうか。

さらに、悲しみは自らの心に雨が降るようなもので、哀しみは降った雨が土に浸み、心の土壌となって花や木を育むようなものだと思います。つまり、悲しみによって哀しみを覚え、時間をかけてより人間的な成長が促されるのだと考えます。

ご教授の程、よろしくお願いします。

「愛」と「哀」が同音異義語である事。「悲しみ」と「哀しみ」が同音異義語である事。また、「哀」には「哀れ(あわれ)」という意味もある事。
哀れ『goo辞書引用』
1.強い心の動き
2.かわいそうな状態
3.底知れないような趣。情緒。ものがなしさ。
(以下略)

特に、この場合は「3.」の意味合いが強いように思われます。
要するに、日本における「哀」には、「愛」「悲しみ」「日本的な情緒、即ち『しみじみ?』」が含まれていると推量されます。

具体的に考えてみると、桜を見て、その見た目の美しさに...続きを読む

Aベストアンサー

”哀”という概念については、人の成長による感覚の変化が根底にあるのだと思います。



喜怒哀楽は、現実から生じる悩みや、その解決から生じていますが、

これを自分で解決したり、再現できない幼い頃は、

主観としての感情表現になります。

翻弄される時代ですね。

しかし、現実と向き合い、幻想を捨てて合理性を理解しだしますと、

気負わずに自在に手に入れられるようになり、

憧れを失うかわりに、実利を得ます。

全ての物事は手間により制御が可能であると知ったとき、

畏怖や恐怖、焦燥は無くなりますが、神秘も消えてしまいます。

しかし、例え合理によって作り出されたものでも、

幼い時に感じていた喜びや、実際的な良さは変わらないと知り、

心から良かったと感謝するようになります。


これらの考えが定着しますと、

翻弄されるよりも、制御しようとする自分が主体(=成長)と成ります。

しかし、あるとき、

芸術や文学に触れて、自分が幼かった時の感覚を思い出し、

その世界観を(嘘だと知っていても)素敵だと感じます。

こういうときに、思うことは、

物事を制御できても、その成果を味わう感覚が消えてしまったら、

全くの無駄であり、勿体無いということです。

苦労してでも、

翻弄されていた時代の感覚を呼び覚ましたいと思うわけです。

それが無ければ、全体で意味が薄れるという合理的な発想からです。


たまには失敗をし、悲しみや怒りを感じないと、

その感覚を生きている間に使い倒せないと、知るわけです。

ですのでこれらも制御をして、味わうようになります。

ところが無駄に失敗をすることも、無駄と感じて出来ませんから、

何らかの偶然や不注意により生じた事件を大事にして、

悲しさや怒り、解決できた喜びを味わいます。

つまり、これらも自分の機能の一つであり、忌むべきことではなく、

生きているうちに楽しまないと損であると言う考え方に変わります。


この様に成ると、本来の自分の感情は、楽しむという”楽”しかなく、

他の感覚は、意図して呼び起こしたり、他の人に共感する場合のみ

使用するものになるのです。


”悲しい”は主観としての表現です。

ですから、もっと客観的な感情、”哀しい”に変わります。


例えば、

自分の知る因果により結果が見えており、先に結果を知ってしまう。

しかし、それらを知らず未来を信じて活動する人々の様を見たとき、

未来との同時性により、哀しいと思うわけです。

また、思わぬ縁により哀しい未来を変えた人がいて、その喜ぶ姿を見て、

喜ばしいと感じます。

更に、既に知っている人の愚かさを聞き及び、

知っていはいるし、仕方のないことだと分りつつも、

許せないと言う感情が沸き起こったとき、怒りを感じるとなります。

怒るではありません。

総じて、主体としての感覚は”楽しい”しか残らなくなり、

その状態になれば、仏像の様に微笑んでいるでしょう。


愛と言うのは、これらの合理を得て、謎が少なくなり、神秘がなくなり、

欲求が減ってきても、

「では辞めようか?」

と問われたとき、躊躇無く、「それはない。」と答える強い核の様なものです。

哀と言葉が似ていても、違うものです。


合理は、存在する法則を探求し、利用するために使用する道具です。

しかし、そこに既にある物に対しては使用できません。

「だってそうなってるんだもん。」

と言うものは事実そのものであり、

事実から派生したもので説明することは出来ません。

順番が逆になるからです。


愛とは始めから存在する物です。


全ての生物、または自然界の天体であっても、

継続するという強い力が先にあります。

これに理由を求めると、謎が深まります。

疑問と言うのは、継続するためにはどうすれば良いのか?

と言う限定された目的にしか使用できないものであり、

自由に適用できるものではないのです。

何故、継続しないといけないのか? と言う疑問を持つためには、

もっと本来の目的となる継続対象が無いといけません。

xxを続けるために、○○を継続しないといけない。

と言う答えしかないからです。


人は翻弄されますと、「何かの継続が危ぶまれる」と直感し、

そのときに様々な感情が沸き起こり、悩みが生じます。

この感情を強く受け取ってしまい、付随物であるもの

(二次的に引き起こされる現象)愛として理解し、

付随物を追い続けて、本末転倒になることが多くあります。


例えば我が子と共にいて喜びを感じたとき、

これを愛だと思ったり、

仲間や恋人と時を同じくして、喜びを感じ、これを愛と思ったりします。


しかし、これでは喜びが薄れたときに、愛がなくなったと錯覚します。

悲しみが訪れたとき、愛がなくなったと錯覚します。

本来は、「では辞めるか?」と問うたとき、躊躇する僅かな核が愛なのです。


例えば、ハリーポッターを育てた叔父さん夫婦は、

目の悪いハリーにメガネを与え、

個室を与え、食事を与え、教育を与えています。

喜びが無くなり、悲しみと怒りを抱えて別れる恋人同士よりも、

ハリーを愛していた事になります。


体裁が悪いとか、辞めるほうが面倒だ?という気持ちから生じたものかもしれません。

しかし、ここに躊躇があり、「では辞めるか?」と言う問いに、

仕方なく継続を選択しています。

これが長期に続くものほど(継続が本質であるため)愛の強さであり、

我が子ではない(育てる理由にならない)ハリーを愛していたという証明になります。


可愛いと感じたり、好きだと感じる感情も、二次的なものです。

これを愛だと思ってしまえば、

憎らしいと感じたり、嫌いだと感じたら、容易に継続を断念するでしょう。


例えば、

嫌いあっている家族が、家族を半年続けて辞めてしまえば、愛が薄いでしょう。


しかし、

子供が大人に成るまで続けていたら、そこには愛があるのです。

愛とは、個々人がそのとき感じる意思や感情とは無縁であり、

主観が認知する以上に強い制約です。

本人の思考や感じ方・気持ちと言うのは、

継続に関しての不満や不安を指しているだけであり、

(既に継続が前提にあり、これがあるから生じる感覚である)

こちらを優先すると、因果が逆転しますから、不幸になるのも当然なのです。



継続を前提に、その不安要素を取り払うように頭脳を使うことを賢いといい、

一過性の物として扱って、他に逃げようという意思が働いたまま、

頭脳を使うとズルイと表現されます。


人の本当の知能は、前者のときしか向上せず、

全ての偉人(普通の人の日常もですが)は、継続を前提に考えをめぐらしており、

全ての犯罪者は、妨害や阻止、断念や回避、攻撃と逃走を前提に考えをめぐらしております。

ここにも愛の有無が違いとして存在しています。


そして、継続を断念する他人の姿に哀を感じ、継続を断念した過去に哀を感じるわけです。

自らが継続を断念する予感や不安から生じた悲しみとは別のものです。


例えば、自分や他人が持つ、嫉妬や劣等感、優越感、ねたみは全て、

「それほどまでに自らを継続したいのだね。

 それほどまでに、善を自ら成して、他人に喜ばれる姿を求めているのだね。」

と言う強い望みがあるわけですから、

その姿を見てショックを受けずに、落ち着いて考えると、

その姿の中に愛があることが分ります。


人はこれを知ることで、愛しいと感じます。

忌むべきものの様に感じられるのは、これらの本来の感情の使い方になれておらず、

愛から生じていると考える習慣が無いからです。

一方で、恨みや憎しみは、他人を滅して継続を断念させる意思があります。

つまり本来は愛であったのに、

望みが強すぎて苦しくなり、反転してしまったことになります。

八つ当たりですね。

これらは知識として知ってはいても、

やはり有っては成らないことと感じますから、

躊躇無く、滅すると考えるべきです。

この強い炎が本来の正しい怒りです。

しかし、当人が恨みを捨てて、泣き言をいい、嫉妬の気持ちに戻ったときは、

これを愛しいと感じて、助力をする。

これを愛するといいます。



悪しき感情であっても、愛であるものと、愛とは反対になったものでは大きく違い、

ここに線を引いて考えることが、愛(継続)に対して忠実であるとなります。


また、これらの線引きが出来ていませんと、合理性に欠ける行動が多くなり、

自らの消耗が激しくなり、自らの継続が困難になります。

愛とは自らの主観ではなく、根底にある法則であり、継続を指します。

主観を優先すると、それは愛ではありません。

気持ちを無視して継続をしていれば、そこには強い愛があるのです。


幼い時は、自らの継続が不安であり、他人が頼りです。

ですので、世話を焼いてくれるときの相手の表情や感情を覚え、

それを得られるように考えて、それを大事にしてしまいます。


しかし、大人に成れば世話を焼く側になるのですから、

気持ちや感情を大事にしすぎる必要は無く、その時代の後遺症か、郷愁であるとし、

あまり深追いをせずに、継続(=愛)にのみ強いプライドを持てば良いと思います。


ですが、

そうした感情を持てる今現在は、自分の”継続”が続いており、愛が続いています。

これは是非楽しんで、使い倒したいですね。


以上、ご参考に成れば。

”哀”という概念については、人の成長による感覚の変化が根底にあるのだと思います。



喜怒哀楽は、現実から生じる悩みや、その解決から生じていますが、

これを自分で解決したり、再現できない幼い頃は、

主観としての感情表現になります。

翻弄される時代ですね。

しかし、現実と向き合い、幻想を捨てて合理性を理解しだしますと、

気負わずに自在に手に入れられるようになり、

憧れを失うかわりに、実利を得ます。

全ての物事は手間により制御が可能であると知ったとき、

畏怖や恐怖、焦燥は無くなり...続きを読む

Q「わがまま?」「ワガママ?」「我儘?」 「我が儘?」

「わがまま」って普通はどう書きますか?
私は平仮名だと思うんですけど…。
卒業文集の作文に使います。
教えてください。

Aベストアンサー

文章の調子や他の言葉の表記の仕方によって変えます。
ひらがなだらけのいちぎょうのなかでわがままとかいてもよみとりにくいだろうな。
みたいな事を考えるわけです。

Q「と」「ば」「なら」「たら」の使い分け

.
 昔からありましたが、このところ、各所で「と」「ば」「なら」「たら」に関する質問が目につきます。
 ほとんどの場合、質問者が本当に理解できたか否か不明のまま終わっている気がします。よくわからないコメントも多く、食傷気味です。
 一種の「まとめサイト」のようなものができないかと考えています。

 下記のベストアンサーが一番信頼できる気がしますが、ちょっと難解ですかね。
 当方の考えは下記のコメントNo.1にあります。
【と、ば、なら、たら 区別は何?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8643166.html


1)【日本語文法:「もしもピアノが弾けたなら」】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9547658.html
 これは違いますかね。「弾けたら」と「弾けたなら」はどう違うんでしょ。

2)【この音楽を聞いていると、聞いていたら、聞いていれば】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9537251.html

3)【あの船に乗って(いたら、いれば) 】
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
 うーむ。

4)【(急げば、急ぐと)間に合うと思います。】
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
 うーむ。

 検索すると下記あたりが上位に来ます。
https://www.google.co.jp/webhp?hl=ja&sa=X&ved=0a …

「私はこう考える」「このサイトが信頼できる」「これはここがおかしい」etc.……を教えてください。

.
 昔からありましたが、このところ、各所で「と」「ば」「なら」「たら」に関する質問が目につきます。
 ほとんどの場合、質問者が本当に理解できたか否か不明のまま終わっている気がします。よくわからないコメントも多く、食傷気味です。
 一種の「まとめサイト」のようなものができないかと考えています。

 下記のベストアンサーが一番信頼できる気がしますが、ちょっと難解ですかね。
 当方の考えは下記のコメントNo.1にあります。
【と、ば、なら、たら 区別は何?】
https://oshiete.goo.n...続きを読む

Aベストアンサー

最初に申しあげますが、3)以下のリンクが切れているのか、表示されません。
 「と・ば・たら・なら」の使い分けについての質問は、ほとんど日本語教育を受けている人たちでしょう。(例外は「弾けたなら」の質問者)日本語教師がこれらの使い分けを不十分に教えるから、分からなくて質問がここに集まることになります。不十分とは言いましたが、これを納得いくまで教えるのはちょっと大変です。私自身これを詳しく説明できる知識はありません。結局どこかのサイトにある使い分けの説明を示すことで済ますことになります。
 ただそういう中でやっと一つ覚えたのが、次のようなことです。
 「昨日デパートへ行くと、休日だった」
 「昨日デパートへ行ったら、休日だった」は言えるけど、
 「昨日デパートへ行けば…」
 「昨日デパートへ行くなら…」は使えない、ということです。
 ところで日本人はこうした使い分けができるのでしょうか。いや、この使い分けを詳しく答えられるのでしょうか。ほとんどの人はだめでしょう。ただ日本人は必要な場合、自分の言い方を見つけ出すことは容易にできます。
 「昨日デパートに行ったけど、休日だった」
 「昨日デパートに行ったが、休日だった」
 これが言語においてネイティブと言われる人の特徴です。
 
 一方で、○庭三郎氏の説、○「日本語教師のページ」(用語検索マンボウ),○「『たら』の類語・シソーラス」(特に最後にある[対比表] がすぐれている)

 これらはいずれも克明に用法を説明しているけれども、簡単に覚え込めるほどのものではありません。おまけに、最後に登場してきた、「たなら」は初めて目にした人もあり、これはこれで説明が必要だと思います。「類語シーソラス」や「東京外語大日本語科」のサイトでは「たら」「なら」をほとんど「接続助詞」のように取り扱っていますが、そう簡単に「助詞扱い」をしていいものかどうかは問題です。
 使用例を「青空文庫」や「少納言」で検索すると、「たなら」「たのなら」「たならば」「たのならば」などが混在しています。国語学的には「たら」は「た」の仮定形。「なら」は「だ」の仮定形であり、もとは「ば」がついて「仮定条件」が成り立ってきたのだと分かるのです。「たのならば」の「の」が抜け落ち、さらに「ば」が脱落したのが「たなら」だと判明します。結果的に「た」も「たら」も「完了・過去」の助動詞と認識できることになります。同様に「ならば」の形が存在している以上、「なら」は断定の助動詞「だ」の「仮定形」と認めざるを得ません。
 「たなら」についても「もしもピアノが弾けたなら」は、「もしピアノが弾けたら」というのが普通であり、「歌詞である故に「もしもピアノが弾けたなら」と七五調にしたかっただけであり、事実この歌は「七五調」になっています。この作詞者は昭和の名作詞者「阿久悠」ですが、その後(時期的なことはあまり調べていません)何人ものシンガーソングライターによって「~たなら」の形が使われています。
 最後に、分かりやすいサイトをお作りになるなら、「類語辞典」の「対比表」をあげ、その例文を書き上げることでできるのではないかと思います。

最初に申しあげますが、3)以下のリンクが切れているのか、表示されません。
 「と・ば・たら・なら」の使い分けについての質問は、ほとんど日本語教育を受けている人たちでしょう。(例外は「弾けたなら」の質問者)日本語教師がこれらの使い分けを不十分に教えるから、分からなくて質問がここに集まることになります。不十分とは言いましたが、これを納得いくまで教えるのはちょっと大変です。私自身これを詳しく説明できる知識はありません。結局どこかのサイトにある使い分けの説明を示すことで済ますことにな...続きを読む


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