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ハイデガーによると
“死”は“現存在”の究極の可能性である。
ということですが…

よくわかりません(笑)。

どなたか、わかりやすく解説していただけないでしょうか??

A 回答 (5件)

人間は死んじゃうというのは、どんな可能性よりも高い。



人間=現存在

この回答への補足

回答ありがとうございます。

私は、「死と向き合うことによって、真の自己存在を確立していく」という意味で“究極の可能性である“と受け止めたのですが、間違っていますか??

補足日時:2011/01/20 04:04
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現存在=生きている者。



今の状態は人によって違う、

今赤ん坊の人尾いれば、幼児、少年、青年、成人、中年、熟年、老人の人もいる。
それぞれの今は違う。


おぎゃあと生まれた段階で、死に向かっているわけです。
死に至る過程で、少年、青年、成人、中年、熟年、老人という未知をたどるわけです。

赤ん坊が突然 中間をすっとばして 老人になるってことは無い。
(早老病ってのがあり、子供で既に老人と同じ状態になる子もいますが)

可能性があったから、少年になったわけで、可能性があったから青年になったわけです。
途中で死んじゃうってことは可能性が少なかったわけです。

が、途中死んじゃったものも、すっとばせないものは死。

そして先になにかになるって可能性はない。

だから死は可能性の端っこ。


中世までは地球は平らだと思われていて、海のはしっこまでいくと落ちてしまうと考えられていた。
あの状態で生きている状態のはしっこが死で、それより死より先に海(生)はないので死より先を航海することはできない。

だから生きているものがいろいろな過程の末絶対に至るものが死で、死より先には何もないってことじゃないかと。


ちなみに宗教だとスピリチュアルとか超常現象が好きな人は、死後の世界や死の先に高次の世界があるとか言ってますが、それって現存在(生きている状態)のまま至れるよって言っている人はいませんよね。
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ハイデガーは、現存在(動物ではない、モノではない人間)を、


「被投的企投」というふうに捉えています。つまり、
この世にいやおうなく投げだされて存在しているが、しかし、
そんな自分でも来るべき明日を選び、そこに向かって努力することもできる、
そいう存在です。
そういう現存在は過去に規定されていますが、将来を選びとれるという意味で、
常に未完の可能性に向けて活動しうる存在です。しかし、そうやって生きていく
現存在の全体像を現存在が把握することはできません。なぜなら、
現存在は「死」によって完成する、全体像が確定する、わけですが、
確定したときに、すでに現存在は存在していません。現存在が存在している時に
可能性である「死」を体験することはできません。そういう意味で、
「死」は追い越せない可能性であるとともに、しかし必ずやってくる
可能性です。
現存在にとって、どんな可能性も可能ではありますが、唯一、「死」だけが
「確実な」可能性であって、しかしそれは現存在にとって体験することはできません。
そういう、「死」の可能性の特異性が、「究極の可能性」として、
捉えられています。
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間違っているかもしれませんが、



「死」というより「終わり」と考えたほうが理解しやすいようにも思えます。

「中学時代は楽しかったなあ」という感慨あるいは文の意味が可能であるのは、

「中学時代は3年間しかなかった、始めと終わりがあった」からで、いつまでも中学時代が続くとしたら、それは「中学時代」でもなんでもなくなります。
「終わり」がある、限られているから、そこから「意味」「可能性」が生じてくると見るわけです。

「死」ではなく、むしろ「終わり」と考えたほうがいいと言ったのは、
「死」はあまりに「人間論的」だということもありますが、
たとえば「一週間後には確実に死ぬ」と宣告されたとしても、そこで「死」を(ハイデガーによれば)先駆的に覚悟したとしても、それは「死(の眼)」からすべてを、眼のまえにある「椅子」や「窓」や「空」や「花」や「葉」などを「見直す」ことが始まるでしょう、「死」とは見るものではなく、そこから「見る」ための一種の「地点」ではないかと思われます。

すべての(人間にとっての)「可能性」は「死」から発現する。だがたとえば、「正三角形」があるとして、その「可能性(意味)」は「死」からだと?、そんな馬鹿なですが、
「死」から切り離して「三角形」を見るとき、「永遠化」が始まっているように思われます。いわば「幾何学」には「持ち主」がいません。(3本の線分であって、3角形ではないと見るとき、一瞬、持ち主が現れる?)

「死」はいまのところ「自分にはやってこないもの」とみるとき、それは「いま」を「引き延ばして」できるだけ「いま」を永遠化したがる傾きがあります。ところが「永遠の中学時代」が無意味なように、「いま」の永遠化はしょせん無理ですが、むしろ、すでにわたしたちは「いま」を永遠化してししまっており、「瞬間としてのいま」を奪われているように思えます。

「可能性」という言葉は(わたしは)「人間論」的に理解しています。
「リンゴがおちる」(可能性)といいますが、リンゴそのもにとって「落ちる」は意味をなしません、リンゴには「落ちる可能性」はありません(リンゴは「落ちることができません」)。

「瞬間としてのいま」は、べつに「決意」などしなくても、ふだんから何ということもなく、そこにあるように思えます。
奪われた(ように見える)「瞬間」をどう取り戻すかが(ハイデガーにとっても)重要であるように思えますが、その答は
あくまでも「日常」のなかにあるというのが、いまのところ、わたしの結論です。
(わたしは、ハイデガーの大げさな(空疎な)語り口に辟易することがあります)
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>“死”は“現存在”の究極の可能性である。



はい、ハイデガーの言う通りでして、われわれ人間だけが「自分はいつか必ず死ぬ」と知ることによって自らの生き方を根本的に規定された存在であり、その意味では石ころ、草木や、本能的プログラムに従って生きるだけの他の動物のような、単なる《存在者》とは本質的に異なるということで、彼は死を意識する存在を“現存在”と呼んだわけです。

たとえば、われわれが一度しかない人生だから精一杯享楽的に生きようとするにせよ、現世をそれよりもはるかに永い来世に安寧を得るための心の備えのための期間と考えるにせよ、いずれも時間の非可逆性、生の一回性を肝に銘じて弁えているからとしか説明しようがないわけです。

ですから、恥ずかしながら、私などは普段はのんべんだらりと生きていますが、それでも何かの拍子に死に隈取られた生を意識したり、いずれ自分にもお迎えがやって来ると思ったりしたときには、少しは自分の惰性的な生き様を恥ずかしく思わないわけでもありません。

もし、この世に不老不死の妙薬があると仮定すれば、もし、われわれが時計の針を逆に回せたりできると仮定したら、これまでわれわれの生を支えてきた、あらゆる生き甲斐も人生の目的意識も、つまり、ありとあらゆる世界の意味も価値もすべて消滅してしまうはずです。
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