東京は万昌院功運寺に吉良家のお墓があるようですけれども、上野介(義央)の父=義冬、その上の義弥、義定のお墓が並んでいるようです。義央の戒名、並びにお墓に書いてある日付、名前は調べられたのですが、彼のご先祖様方々の戒名が分かりません。それぞれ、要山、法山、興山であるらしいことは wiki で分かりましたが、2文字だけの戒名でしょうか、、、?最低、フルで義冬の戒名が知りたいですが、もちろん義弥、義定の戒名も分かれば大変助かります。どなたかご存知でしたら教えて下さい。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (2件)

『断家譜 第三/斎木一馬・岩沢愿彥/続群書類従完成会/1969』


(88~90頁)によれば、下記のとおりですが如何でしょうか?

◇義定…寛永四年丁卯九月十五日没、年六十四、葬市谷万昌院、
法名「長松寺興山中公」

◇義彌…寛永二十年十月二十四日於京洛而卒、年五十八、
法名「華蔵寺法山猷公」
(「猷」の文字表記は、偏側の上部<八>+下部<酉>で旁側<犬>)

◇義冬…寛文八年戊申三月二十五日卒、年六十三、葬牛込万昌院、
法名「大雄寺要山玄公」

◇義央…元禄十五年壬午十二月十五日為浅野内匠頭家士等被討畢、
年六十二、葬牛込万昌院、
法名「霊性寺実山相公」


◆GoogleBooks『断家譜 第3/斎木一馬・岩沢愿彥/続群書類従完成会/1969』
http://books.google.co.jp/books?id=ooghXCt8gfQC& …
    • good
    • 0

直接的な答えでなくて申し訳ありませんが,群馬県藤岡市の龍泉寺には,吉良上野介を含む4代の戒名を刻んだ位牌が安置されているそうです。


http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/shiseki/003/ …
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q吉良上野介は悪人でしたか?

忠臣蔵の契機となった浅野内匠頭による吉良上野介襲撃事件に関して、
吉良上野介が悪人とされていますが、それは特に根拠がないという説もあります。
1.吉良上野介は事件前から評判が悪い人物だったのでしょうか?
  性格が悪いとか、賄賂を要求するとか。
2.吉良上野介が赤穂藩の朝廷使節接待に関して邪魔した事実がありますか?
3.事件後、江戸住みの赤穂藩士への聞き取り調査は行われましたか?
4.たしかNHKの番組で、赤穂浪士が世論操作のために江戸で吉良上野介の悪口を触れ回ったということをいっていたと記憶していますが、事実ですか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

堀部弥兵衛の記録によれば、「吉良上野介が勅使らの宿舎・伝奏屋敷で浅野内匠頭に悪口を言った」ということです。
どのような悪口かはわかりません。

広島の浅野家がのちにまとめた文書によれば、浅野内匠頭がそのときになって場当たり的に吉良上野介に質問したことから」、他の人のいるところで「今になってそんなことを」と言われたとあります。

また常憲院御実記によれば、浅野内匠頭はよく「時刻を間違えた」ということです。

浅野の刃傷を制した梶川輿惣兵衛の日記によれば、当日の朝になって急な前倒しスケジュール変更があった。吉良上野介はその連絡のために走り回ったり、老中たちと打ち居合わせをしていました。

浅野は家来とともに勅使らの宿舎・伝奏屋敷に併設された長屋に泊まり込みで生活の世話をしていましたが、勅使らよりも一足早く登城して玄関で出迎えることになっていました。

勅使らは予定よりも早く登城したことから、急なスケジュール変更になったようです。伝奏屋敷での時刻管理にミスがあったようですが、それが浅野の指示によるのか、伝奏屋敷にいた家来が間違ったかは定かではありません。

製塩に関係する確執があったという説はすでに否定されているし、賄賂(まいない)は吉良に限らず立場上当然のこととしていた人が大勢いるので、吉良にだけ少なかったということは考えられません。

ほとんど問題にされていなかったことですが、当日になっての急なスケジュール前倒し変更については検討すべきことだと思います。

さて、それがどうして討入事件に発展したか、です。

将軍綱吉は、自分の生涯でできなかった仕事を託そうと、次期将軍には娘(鶴姫)が嫁いだ紀井徳川家の綱教を考えていました。
ちなみに、紀井徳川綱教の妹は吉良上野介の息子・上杉綱憲の正室です。

一方で、甲府の松平綱豊(のちの徳川家宣)が次期将軍にふさわしいと考えている人たちがいました。
綱豊の正室は朝廷の実力者、関白の近衛基煕の娘・煕子です。
水戸光圀の正室の甥が近衛基煕ということもあって、光圀は次期将軍に甲府の松平綱豊を推していました。

吉良上野介は幕府の朝廷との窓口で、騒るさがられた存在でした。

刃傷事件の三ヶ月前に、水戸光圀が亡くなりました。

事件の3日後に、将軍綱吉は初めて紀井徳川家江戸屋敷を訪問しています。

刃傷事件の報を受けた近衛基煕の日記に「秘事」という言葉がありました。

各大名家に、参勤交代の時江戸に余計な従者を連れてくるな、との仰せあり。

事件の翌月、四月から六月まで幕府の軍隊を総動員した銃と弓による射撃演習がくりかえしおこなわれ、それが終わると江戸にいる大名が集められ、武家諸法度の厳守がいいわたされました。

この時点で、反綱吉派との和議が成立したのでしょう。


討入は幕府は幕府主導で行われたものでした。
はじめ吉良屋敷は鍛冶橋門内にあり、元禄十一年九月六日の大火で焼けたため、呉服橋門内に新たに屋敷を拝領しました。
そして、浅野内匠頭による刃傷事件発後、本所御竹蔵跡にあった松平登之助信望の屋敷だったところに移ったのです。

松平登之助の屋敷は、本所の前は神田川沿いにある神田佐久間町一丁目の北にありました。その屋敷が吉良の鍛冶橋の屋敷と同じ火事で焼けたため、本所の御竹蔵跡に新たに屋敷を拝領したのです。

浅野内匠頭による刃傷事件は、元禄十四年三月十四年日。松平登之助に下谷への屋敷替の命が下ったのは八月十二日。登之助は翌日には指定された屋敷の受取証を提出しています。

吉良上野介に本所御竹蔵跡の松平登之助の上ケ屋敷への屋敷替の命が出たのは八月十九日で、本所屋敷の受取証提出は九月三日でした。

ここで二つの注意事項があります。その一つは、「屋敷」の意味。本来は「館を建てるための敷地」です。しかし、館があるものを居抜きで拝領することもあります。

もう一つは、本所松坂町という町は元禄十六年十一月の大地震に続く大火の復興後にできたものでいっぺんにできたものではないし、本所松坂町は町人の住むところなので、「本所松坂町の吉良邸」というのはおかしい。「本所松坂町があった場所に吉良邸があった」のですが、松坂町の名も今から80年以上前になくなっています。

元禄十一年九月六日の大火後に吉良が拝領した呉服橋内の屋敷や松平登之助が拝領した本所御竹蔵跡の屋敷は、整地した後に区域わけの新道を敷いたり排水溝をつくっただけのもので、更地のようなもの。館は屋敷を拝領したのち、自前で建てたのです。

元禄十一年九月六日の大火は、万石以上の大名屋敷だけでも80以上も焼きました。それ以下の旗本・御家人の屋敷や町屋、寺地などを含めたデータは史料により差がありますが、今の銀座五、六丁目あたりから南千住まで焼き尽くしたたいへんな火事でした。

大火後の建築ラッシュを考えれば、松平登之助および吉良上野介に屋敷替の命が出た時点で、築2年ほど。松平登之助の本所御竹蔵跡の屋敷も吉良上野介の呉服橋門内の屋敷も新築に近いものです。

松平登之助は将軍の側に仕え、政以外の日常の諸事にかかわる「小姓」でした。彼には極めて親しい松平右京大夫という従兄がいました。その松平右京大夫は、柳沢出羽守保明(のちの美濃守吉保)とともに中央政治に深く関与していた側用人(この当時は側用人という言葉はなかったが)でした。

大石内蔵助が討入直前の十二月十三日に赤穂の3人の僧に宛てた手紙には、「関所も何事もなく通過し、江戸に着きました・・・若老中(若年寄)もご存じのようですが何も言ってきません。(討入は)うまくいくいくようです」という意味のことが書かれていました。

武家地の辻には辻番がいて、夜でも戸・障子は閉めずに監視し、一とき(時・刻)に一度は周囲をパトロールすることになっていました。辻番の番人には二十歳から六十歳までの年齢制限があり、昼夜の番人の人数規定もありました。

辻番は、大名・旗本家が運営・管理していましたが、幕閣の若年寄もまた管理していました。若年寄の配下の目付の下にいる御徒目付(おかちめつけ)が、辻番を巡回して勤務状況などをチェックしていたのです。

辻番は番人に老人を使ったり、番小屋では食べ物を売ったりしていたといわれますが、それはのちに町人が請け負うようになってからのことです。

吉良屋敷の南西角に、辻番がありました。吉良屋敷とは地続き、北隣東側にあった本多孫太郎屋敷の北東角にも辻番がある。町屋には自身番があります。

辻番・自身番は、今の交番よりもはるかに密度が高い。

前原伊助は、吉良屋敷とは道を挟んだ南隣の本所相生町二丁目に店を開いていたので、討入前から赤穂の士が何人も出入りしていた。吉良屋敷の辻番のすぐ近くに浪人風情が何人も来ているのに何のお咎めもない。大石内蔵助は、「どうもおかしい」と思って江戸の同志に問き質だしたのでしょう。

松平登之助が住んでいた屋敷に吉良上野介が入ったのですが、松平登之助の屋敷だった時には南にあった表門が吉良屋敷になったときには東に移設されていました。

大石内蔵助ら表門隊は東の表門脇に梯子をかけて屋根から邸内に飛び降りて侵入しました。

表門が南にあったとしたなら、こうはいきません。当時の江戸には10か所の定火消役屋敷といくつかの大名屋敷にしか火の見やぐらがなくて、町人の住む町には屋根番がいました。

烈風のときや火事情報があったときは屋根に立って周囲を監視する。
吉良屋敷のすぐ南の相生町二丁目の屋根番が屋根の上に立てば、討入は丸見えになります。

表門が東なら、屋根番の死角になります。

武家には緘口令をしくことはできても、町人にはできない。討入の詳細が江戸中に広がってしまいます。

それともうひとつ。都合のいいことに、吉良屋敷からさほど遠くないところに(現在の京葉道路と清澄通りの交差点近く)、中山勘解由の屋敷がありました。「鬼」と恐れられた初代火付改です。

中山勘解由は、放火容疑者を大量に捕まえ、拷問にかけて自白させた。拷問に耐えかねてウソの供述をした者がいたということで、「鬼勘解由」といわれていました。

事件当時、中山勘解由は「御使番」でしたが、御使番の職務の中には火事の際の定火消と大名火消の監督もあったのです。

近所に「鬼勘解由」が住んでいれば、夜中に多少騒がしくても野次馬に出ることはできません。

そんなわけで、討入は事前にお膳立てができていたのです。

ちなみに、吉良屋敷の北隣西側は当時の老中首座(土屋相模守政直)の本家、土屋主税逵直の屋敷。北隣東側は家康の次男(二代将軍秀忠の兄)を祖とする越前松平家の家老・本多孫太郎長員(二万石)の屋敷でした。

本多孫太郎は越前松平家の監視役ということで大名格として特遇されていたことから、江戸に屋敷を拝領していました。孫太郎本人は越前府中に常住で、江戸屋敷は本多家の江戸出張所のようなものでした。

本多家の江戸常府のナンバー2に忠扶衛門政常という人がいて、この人は堀部弥兵衛夫人(後妻・ほり)の弟でした。

そんなことから赤穂浅野家が改易になって鉄砲州の上屋敷が公収されたとき、屋敷内の長屋に住んでいた堀部一家は、本多孫太郎屋敷内に独立した居宅を与えられていた忠扶衛門宅に仮住まいし、その後、両国橋の西、広小路近くの「矢之御蔵」(米蔵)跡地にできた米沢町の二階建ての長屋に引っ越しました。

弥兵衛・安兵衛が切腹してからしまらくは、両未亡人は忠扶衛門宅にいました。襲撃事件現場の隣です。

忠扶衛門の次男、文五郎は堀部の家を継いで熊本の細川家に士官。堀部家は熊本の地にずっと続いていたのです。

堀部弥兵衛の記録によれば、「吉良上野介が勅使らの宿舎・伝奏屋敷で浅野内匠頭に悪口を言った」ということです。
どのような悪口かはわかりません。

広島の浅野家がのちにまとめた文書によれば、浅野内匠頭がそのときになって場当たり的に吉良上野介に質問したことから」、他の人のいるところで「今になってそんなことを」と言われたとあります。

また常憲院御実記によれば、浅野内匠頭はよく「時刻を間違えた」ということです。

浅野の刃傷を制した梶川輿惣兵衛の日記によれば、当日の朝になって急な前倒しス...続きを読む

Q徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎した時の「上野□様」は誰?

静岡で書かれた3月7日付けの手紙を解読中です。字の形から、下記の□に「宮」か「亮」が入ると推定できるのですが、どちらでしょうか。
「江戸表は上様御始め御附の御旗本衆迄、上野東叡山へ御入、坊中に御謹慎、上野□様御扱の為、此の程御上京との事に候えば、ひとまず静謐は申すべく、然れども会津の方、よほどむつかしき様子、何とぞ双方静謐に相成候様ひとえに念じ入る事に御坐候。」

Aベストアンサー

歴史には疎いので、的外れかもしれませんが・・・・

http://www.aura-press.com/scriba/si/sst-boshin-ueno.htm
こんなサイト↑見つけました。
慶応4年の、 戊辰戦争 上野の戦い までが日を追って経過が書いてあります。
それによると、
3月7日には
> 旧幕府側の上野輪王寺宮・公現法親王が有栖川熾仁親王に面会し、江戸城総攻撃の猶予を嘆願。
(上記サイトより抜粋)
おっ、"上野輪王寺宮"だって。
この人かな??

参考URL:http://www.aura-press.com/scriba/si/sst-boshin-ueno.htm

Q吉良上野介(きらこうずけのすけ) vs 浅野内匠頭

ちょっと、12月15日には、早いですが、
吉良上野介(きらこうずけのすけ)と、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)

 どちらが好きですか?

Aベストアンサー

吉良みたいな人間好きな人いますかね

侮辱して相手が怒ると

「ご乱心召されたか殿中でござる」

人間の屑だね

Q個人墓が爆発的に拡大しているそうです。 昔は○○家の墓という一族で入るお墓から、戦争とか出稼ぎとかで

個人墓が爆発的に拡大しているそうです。

昔は○○家の墓という一族で入るお墓から、戦争とか出稼ぎとかで地元を離れて自分と子供のお墓として家族のお墓を一族の家系のお墓から独立して建てるように一族のお墓から家族のお墓になって家族のお墓にも入らずに家族の親が建てたお墓ではなくまた新たに自分のお墓を建てる高齢者が増えているそうです。

旦那の実家の家族が入っているお墓に一緒に入りたくないという女の人が個人墓を夫のお墓とは別に建てるのが多いそうで、旦那の実家の家族と一緒に入りたくないが自分の実家のお墓に入れてくれと言うのも言いづらいので自分の好きなようにデザインしたお墓に維持管理費を先払いで支払っていく人が多いらしい。

子供はお父さんの実家のお墓参りとお母さんの個人墓の2つに参りしてるけど、お父さんが一族の本家のお墓参りをしなくなったように、子供の子供はおじいちゃんのお墓参りを止めるのか、おばあちゃんの個人墓のお墓参りを止めるのか両方とも行かなくなるのかわからないらしい。

孫が東京でまた自分たちのお墓を作ったら、完全に本家のお墓とお父さんの実家のお墓とお母さんの個人墓のお参りには行かなくなると思われる。

お墓が負債というか無縁化していって墓地だと無縁墓は引っこ抜かれて墓石は供養されて山住みされて、印字面を削って再利用される。

骨壺はどうするのかは分からない。

お墓が分散化されて個人1人に一個のお墓の世界になってきているのは間違いない。

これって個人墓の時代のお墓の概念はいまと変わりそう。

創価学会はお墓を複数持ちましょうって言った責任は感じているのだろうか?

個人墓の普及で無縁墓が増加して墓石がゴミ化しているのだが。

個人墓が爆発的に拡大しているそうです。

昔は○○家の墓という一族で入るお墓から、戦争とか出稼ぎとかで地元を離れて自分と子供のお墓として家族のお墓を一族の家系のお墓から独立して建てるように一族のお墓から家族のお墓になって家族のお墓にも入らずに家族の親が建てたお墓ではなくまた新たに自分のお墓を建てる高齢者が増えているそうです。

旦那の実家の家族が入っているお墓に一緒に入りたくないという女の人が個人墓を夫のお墓とは別に建てるのが多いそうで、旦那の実家の家族と一緒に入りたくないが自...続きを読む

Aベストアンサー

うん、本当ですよね。

ゆえに、というか、当然の帰結なんだけど「樹木葬」とか「共同墓」を選択する人も多い。
埋葬に関しては、昔ならば「墓地」はあったけど、そこに樽詰めされた遺体を運んで、穴を掘って埋めるだけでしたからね。
だから墓石なんかも、主な役割は「目印」くらいだったんでしょうね。
それが肥大化し始めた。
墓石が巨大化し、お寺も墓地の「割り振り」を始めて、一族の墓としての役割を持たせるようになった。
それがさらに細分化していったのが昨今で、まるで建売住宅のようです。

個人墓の問題は、そう遠くないうちに転換を余儀なくされるでしょう。
高齢化と少子化は変わることはありませんので、無縁墓は爆発的に増え続け、寺も今までと同じ対応は出来なくなりますから、墓地そのものを減らす方向に傾くと思います。
もしくは、全く「別の場所」に共同墓や樹木墓を集めた「墓地公園」を建設し、読経なども省く方向での経営になると思います。

人間関係が希薄になってきたわけですから、当然、法要の回数などもミニマム化し、寺の存続が窮地に陥るのは目に見えています。
今は過渡期といったところです。

うん、本当ですよね。

ゆえに、というか、当然の帰結なんだけど「樹木葬」とか「共同墓」を選択する人も多い。
埋葬に関しては、昔ならば「墓地」はあったけど、そこに樽詰めされた遺体を運んで、穴を掘って埋めるだけでしたからね。
だから墓石なんかも、主な役割は「目印」くらいだったんでしょうね。
それが肥大化し始めた。
墓石が巨大化し、お寺も墓地の「割り振り」を始めて、一族の墓としての役割を持たせるようになった。
それがさらに細分化していったのが昨今で、まるで建売住宅のようです。

個人墓の...続きを読む

Qどうして吉良上野介さんは...?

わたしは今ドラマで「忠臣蔵」を見ているのですが何故、吉良上野介さんは浅野内匠頭さんに対して嫌がらせ(?)をしたのでしょうか?
わたしは「忠臣蔵」は全くといって良いほど素人なのでテレビドラマをすんなり受け入れちゃっているのですがどうして吉良さんが浅野さんに対して嫌がらせ(?)をしたのかが全く分かりません

過去の質問等を見てみてそれらしき答えは幾つもあったのですがピンと来なかったんです
というのもわたしが知っている嫌がらせの理由というのが
「吉良上野介は浅野内匠頭の妻を見てその美しさにみとれてしまって自分の(もしくは息子の)妻にしたいと思うようになった。その為には夫である浅野内匠頭が邪魔だった」
というものなのですが実際どうなのでしょうか?

またわたしはテレビドラマで入ったくちなので吉良さんには好意感を持てません
ですのであまり吉良さんを正当化されるような返答は頂きたくないのですが...
ではこんな無茶苦茶な質問ですがお暇なときで良いので返答をお願い致します

Aベストアンサー

> わたしはテレビドラマで入ったくちなので吉良さんには好意感を持てません
> ですのであまり吉良さんを正当化されるような返答は頂きたくないのですが...

でも、史実は史実として認識してくださいね。
だって、ご質問中で

> 実際どうなのでしょうか?

とお問いになっていらっしゃるのですもの。

> 「吉良上野介は浅野内匠頭の妻を見てその美しさにみとれてしまって自分の(もしくは息子の)妻にしたいと思うようになった。その為には夫である浅野内匠頭が邪魔だった」

は、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」のおハナシです。
時代設定も足利時代で、浅野内匠頭は塩冶判官高貞(えんやはんがんたかさだ)、妻は顔世御前(かおよごぜん)、吉良上野介は高師直(こうのもろなお)という役名(?)です。
歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」も面白いですから、ぜひ一度ご覧ください。

専門は違う時代ですが、日本史を専攻した者です。
そして、吉良家の領地だった「吉良町」のある愛知県に住んでいます。
吉良上野介義央さんは、領地の吉良では「赤馬の殿様」として人気があったようですね。
愛知県警・西尾署のHPにちょっと書いてあります。
http://www.pref.aichi.jp/police/syokai/map/nisiosyo.html

私が歴史の勉強をしている範囲で知ったのは、No.2さんのおっしゃっている「塩」が原因の1つだったということです。
吉良の塩より赤穂の塩の方が良質であったため、吉良上野介さんが、浅野内匠頭さんにその製法を教えてもらおうとしたけれど、浅野内匠頭さんは教えてくれなかった-ということらしいです。

また、浅野内匠頭さんの「付け届けが少なかったから」という説については、歴史的観点からいえば、「付け届け」ではなく「教授料」です。
常識的なというか正規額程度の教授料を、浅野内匠頭さんが支払わなかったから、教える側ももらった教授料相当分しか教えなかった-ということで…。

ごめんなさい。
質問者様のご希望と逆の回答になってしまいました。

時代劇では、吉良上野介を上手く演じられれば(いかにも憎らしく演じられると上手いんだそうですよ)、いい役者らしいですしね。

あと、こんなサイトもありましたので、ご参考までに。
http://page.freett.com/take1975/tyuusinn.htm

> わたしはテレビドラマで入ったくちなので吉良さんには好意感を持てません
> ですのであまり吉良さんを正当化されるような返答は頂きたくないのですが...

でも、史実は史実として認識してくださいね。
だって、ご質問中で

> 実際どうなのでしょうか?

とお問いになっていらっしゃるのですもの。

> 「吉良上野介は浅野内匠頭の妻を見てその美しさにみとれてしまって自分の(もしくは息子の)妻にしたいと思うようになった。その為には夫である浅野内匠頭が邪魔だった」

は、歌舞伎「仮名手本忠...続きを読む

Q先祖調査をしております。先祖に郡蔵という方がいましてまったく子供がいな

先祖調査をしております。先祖に郡蔵という方がいましてまったく子供がいなかったようで慶応元年に養子縁組をしています。養子縁組された方も郡蔵と名前だったのですが同名なのか襲名したのか定かではありません。現地の図書館で調べたら郷土資料に文政二年宗門人別帳に郡蔵(42歳)その息子亀蔵と名前がありました亀蔵(13歳)さんが郡蔵を名乗ることはあったでしょうかまたこの集落でで同名(郡蔵)の方はおられるのでしょうか?この郡蔵さんでしたら慶応元年ですと80歳を越えている事となり当時の年齢としては考えられないのですが?また、宗門人別帳に載っているお寺に行きましたがすでに過去張が無く(火事で燃えてしまったとの事)これ以上調査が出来ません。養子で入られた方はお寺の住職さんは襲名されたのではと言っておりました)どなたかご教授ください。

Aベストアンサー

こんにちは。
bungetsuです。

>>なにとぞお力添えよろしくお願いします。

先にものべましたが、先祖を調べる場合は、
(1)過去帳を調べる。
(2)地元の人たちの口伝を調べる。
(3)人別帳を調べる。
(4)地元の豪氏であれば、町史を調べる。

以上の方法くらいだと思います。

まあ、このOKWabで「郡蔵」さんを知っておられる方がいれば幸いですが・・・。
まず、地方の一人物を知っている方は???でしょうね。

Q吉良上野介屋敷を本所に移転させたのは。

松の廊下刃傷事件後、幕府は吉良上野介の屋敷替えを命じていますが、これは討ち入りしやすいように幕府が配慮したものだ、という説があるそうです。
Wikiにも 「この本所移転は、幕府によって計画的に行われたという説が有力になってきた。理由のひとつは表門の移設である」 と、それらしき記述があります。

この説の根拠を教えてください。
また「理由のひとつは表門の移設である」の意味が分かりません。
こうすれば討ち入りしやすくなるのですか。

よろしくお願いします。

吉良上野介
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AE

Aベストアンサー

>この説の根拠を教えてください。
元々喧嘩両成敗という基本政策に反した将軍の短慮により処罰だということが早くから問題視されていました。
当時は、江戸町奉行の支配は隅田川の西側まででした。
本所は代官支配地という管理でした。
万が一何かが起きたときには、代官が一人腹を切れば済みますが、江戸町奉行の管轄地域内ということになると責任関係者が多数となり大事になります。
この辺を考えて推定すると、幕府黙認と考えた方が妥当性が高いと言われています。
真偽のほどは実は正確に解っている訳ではありません。

>また「理由のひとつは表門の移設である」の意味が分かりません。こうすれば討ち入りしやすくなるのですか。
wikipediaの説明不足かと思います。
吉良邸のレイアウトを見ると屋敷の東側が正門の目と鼻の先です。
突入後ただちに屋敷内に踏み込むことができます。
吉良邸の周囲には、お長屋と呼ばれる居室と塀を兼ねた、逆に言うと居室の壁が塀の代わりとなる構造の建物が取り囲んでいます。
この居室に警護の武士が寝起きしていました。
正門の位置を変えさせられたために、警護の武士が正門に駆けつける為には時間が掛かってしまうレイアウトになってしまっていました。
討ち入り側の負傷者が少なかったのもこれが幸いしました。
狭い室内での乱闘には短期決戦であれば少人数側が有利です。

>この説の根拠を教えてください。
元々喧嘩両成敗という基本政策に反した将軍の短慮により処罰だということが早くから問題視されていました。
当時は、江戸町奉行の支配は隅田川の西側まででした。
本所は代官支配地という管理でした。
万が一何かが起きたときには、代官が一人腹を切れば済みますが、江戸町奉行の管轄地域内ということになると責任関係者が多数となり大事になります。
この辺を考えて推定すると、幕府黙認と考えた方が妥当性が高いと言われています。
真偽のほどは実は正確に解っている訳ではあり...続きを読む

Q伊勢崎駅からから華蔵寺公園までのバス

伊勢崎駅から華蔵寺公園まで行ける無料のバスがあったと思うのですが、何番のに乗れば良いのでしょうか
以前ネットで調べて乗ろうとしたものの時間も番号も違っていました

水色のバスで何本か来ていたんですが……

その辺は覚えているのですが、何番だったかは忘れてしまいました

何番のバスに乗れば華蔵寺公園までいけますか?

Aベストアンサー

6番乗り場のようですね

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B4%8E%E9%A7%85

Q吉良上野介の義理の息子・吉良左兵衛義周について。

赤穂浪士討入後、信州諏訪の高島藩のお預かりになった
吉良上野介の義理の息子(実際には孫だそうですが)
吉良左兵衛義周についての詳しいお話または資料を教えて下さい。
No.212488の質問にも同様のものがありますが、
更に詳しいお話をお聞きしたいので、
書き込みさせて頂きました。
ちなみに私が今まで集めた資料は、
『吉良の言い分・外伝』
『吉良さま御味方』
『上野介の忠臣蔵』
です。
亡くなった年齢や墓地のあるお寺等はわかったのですが、
高島藩での義周への対応等について
詳しく知りたいです。
(『吉良さま御味方』には高島藩の対応は悪かったと、
『吉良の言い分・外伝』には悪くはなかったと書いてあるのですが…)

Aベストアンサー

下記のHPに吉良義周受け入れ時の高島藩の対応が古文書で示されています。それによりますと、吉良家の当主らしく丁寧に扱われています。当時、城主格の人物が流罪になるときには、将来、再興されることがありますで、あまりおかしな真似はできません。同じ綱吉の治世、高田藩、松平光長・綱国父子が松山や福山に流されましたが後、津山10万石として再興されました。

参考URL:http://www.city.suwa.nagano.jp/scm/kikaku/kira/index.htm

Q吉良上野介について

映画や小説では吉良さんは険悪な意地悪爺さんに描かれていますが、
実際はどのような人物だったのでしょうか?
それでもって最後は赤穂浪士に叩き斬られてしまうのは
なんだか可哀想に思うのですが・・・

Aベストアンサー

全ては「話を面白く、分かりやすく」するために、です。21世紀の現代は「何が正義で何が悪か」ってのが分からない時代ですよね。でも、米ソ冷戦の時代までは正義と悪が割とはっきりしていたのです。例えば仮面ライダーも昔は敵の怪人を「悪の手先」として問答無用で殺していましたし、それに対して視聴者も特に疑問は感じていませんでした。でも今の仮面ライダーって単純な正義の味方じゃなくて、見てもどっちがええもんでどっちが悪いもんかわからんですね。

んで、忠臣蔵の元ネタになった赤穂浪士の討ち入りですが、元々はご存じのとおり浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったのが原因です。ところがね、なぜ浅野内匠頭が吉良上野介に襲いかかったのか、これが永遠の謎なんです。斬りかかったときに「覚えておろう!」みたいなことを言ったらしいんですが、それが何の話かどうもわからんのです。
聞いたことがあるかもしれないのですが、浅野内匠頭って人は以前からエキセントリックなところがあったようで、どうもその、接待役という大役のプレッシャーで精神的におかしくなったんじゃないかってのが今最も有力な説となっています。

なにしろ、浅野内匠頭はその日にロクな取り調べもないまま切腹させられました。で、本来であれば「喧嘩両成敗」なので浅野内匠頭が切腹させられるなら吉良上野介も何らかの処罰があるべきなのにそれが全くなかったのですね。おそらく、関係者の間じゃ当時「浅野さん、狂っちゃったからね」ってのが暗黙の了解だったんじゃないかって思うんですが、武士の対面からするとこれは「片手落ち」なんです。
「武士道は、死ぬことと見つけたり」という言葉がありますが、武士っつーのは体面が全てなんですね。だから、体面が持たないのです。これは当時の武士じゃないとピンとこないところだと思います。

ですので実は吉良上野介は赤穂浪士に斬られたわけではないのです。いや実際に殺しているのは彼らなんですが、赤穂浪士は吉良上野介の首を泉岳寺の浅野内匠頭の墓の前に持って行って「どうぞ、無念をお晴らしください」といい、当たり前ですが何も起きないので「では代わりに失礼させていただきます」といって小刀でえい、えいと斬ったふりをするという「儀式」をやりました。
実は赤穂浪士の最終目的はこの「儀式」にあり、これができなければ全てが「ムダ」なんです。だから赤穂浪士が最も恐れたのは吉良上野介の首が奪回されることだったんです。上野介の息子が上杉藩の藩主になっていて、吉良邸と泉岳寺の間で上杉邸の近所を通らなきゃならなかったんです。もし息子が首奪回のために兵を出したら、上杉藩といえば謙信公以来非常に精強なことで有名ですから奪回されてしまう可能性が高い。ですので実は上野介の首はひそかに船で運ばれたという説もあります。

赤穂浪士は私怨で討ち入ったわけではないのです。「主君の無念を晴らすために復讐を代行した」のであり、それは当時の考え方としては「実に正しい」ことだったのです。

ああ、話が思いっきりそれてしまいました。なぜ上野介が意地悪爺さんと描かれるのかというと、もし上野介が名君ということになると赤穂浪士の正義が説得力がなくなってしまうからです。
お芝居なんかを見ると分かりますよ。たまにすごい凝ったストーリーにしているものがありますけど、途中で「あれ、こいつ悪い奴だっけ?それとも主人公の味方の奴だっけ?」と分からなくなっちゃうのです。映画でも芝居でも、名作といわれる作品て比較的ストーリーは単純なんですよ。

全ては「話を面白く、分かりやすく」するために、です。21世紀の現代は「何が正義で何が悪か」ってのが分からない時代ですよね。でも、米ソ冷戦の時代までは正義と悪が割とはっきりしていたのです。例えば仮面ライダーも昔は敵の怪人を「悪の手先」として問答無用で殺していましたし、それに対して視聴者も特に疑問は感じていませんでした。でも今の仮面ライダーって単純な正義の味方じゃなくて、見てもどっちがええもんでどっちが悪いもんかわからんですね。

んで、忠臣蔵の元ネタになった赤穂浪士の討ち入りで...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報