東京は万昌院功運寺に吉良家のお墓があるようですけれども、上野介(義央)の父=義冬、その上の義弥、義定のお墓が並んでいるようです。義央の戒名、並びにお墓に書いてある日付、名前は調べられたのですが、彼のご先祖様方々の戒名が分かりません。それぞれ、要山、法山、興山であるらしいことは wiki で分かりましたが、2文字だけの戒名でしょうか、、、?最低、フルで義冬の戒名が知りたいですが、もちろん義弥、義定の戒名も分かれば大変助かります。どなたかご存知でしたら教えて下さい。

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A 回答 (2件)

『断家譜 第三/斎木一馬・岩沢愿彥/続群書類従完成会/1969』


(88~90頁)によれば、下記のとおりですが如何でしょうか?

◇義定…寛永四年丁卯九月十五日没、年六十四、葬市谷万昌院、
法名「長松寺興山中公」

◇義彌…寛永二十年十月二十四日於京洛而卒、年五十八、
法名「華蔵寺法山猷公」
(「猷」の文字表記は、偏側の上部<八>+下部<酉>で旁側<犬>)

◇義冬…寛文八年戊申三月二十五日卒、年六十三、葬牛込万昌院、
法名「大雄寺要山玄公」

◇義央…元禄十五年壬午十二月十五日為浅野内匠頭家士等被討畢、
年六十二、葬牛込万昌院、
法名「霊性寺実山相公」


◆GoogleBooks『断家譜 第3/斎木一馬・岩沢愿彥/続群書類従完成会/1969』
http://books.google.co.jp/books?id=ooghXCt8gfQC& …
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直接的な答えでなくて申し訳ありませんが,群馬県藤岡市の龍泉寺には,吉良上野介を含む4代の戒名を刻んだ位牌が安置されているそうです。


http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/shiseki/003/ …
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Q吉良上野介は悪人でしたか?

忠臣蔵の契機となった浅野内匠頭による吉良上野介襲撃事件に関して、
吉良上野介が悪人とされていますが、それは特に根拠がないという説もあります。
1.吉良上野介は事件前から評判が悪い人物だったのでしょうか?
  性格が悪いとか、賄賂を要求するとか。
2.吉良上野介が赤穂藩の朝廷使節接待に関して邪魔した事実がありますか?
3.事件後、江戸住みの赤穂藩士への聞き取り調査は行われましたか?
4.たしかNHKの番組で、赤穂浪士が世論操作のために江戸で吉良上野介の悪口を触れ回ったということをいっていたと記憶していますが、事実ですか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

堀部弥兵衛の記録によれば、「吉良上野介が勅使らの宿舎・伝奏屋敷で浅野内匠頭に悪口を言った」ということです。
どのような悪口かはわかりません。

広島の浅野家がのちにまとめた文書によれば、浅野内匠頭がそのときになって場当たり的に吉良上野介に質問したことから」、他の人のいるところで「今になってそんなことを」と言われたとあります。

また常憲院御実記によれば、浅野内匠頭はよく「時刻を間違えた」ということです。

浅野の刃傷を制した梶川輿惣兵衛の日記によれば、当日の朝になって急な前倒しスケジュール変更があった。吉良上野介はその連絡のために走り回ったり、老中たちと打ち居合わせをしていました。

浅野は家来とともに勅使らの宿舎・伝奏屋敷に併設された長屋に泊まり込みで生活の世話をしていましたが、勅使らよりも一足早く登城して玄関で出迎えることになっていました。

勅使らは予定よりも早く登城したことから、急なスケジュール変更になったようです。伝奏屋敷での時刻管理にミスがあったようですが、それが浅野の指示によるのか、伝奏屋敷にいた家来が間違ったかは定かではありません。

製塩に関係する確執があったという説はすでに否定されているし、賄賂(まいない)は吉良に限らず立場上当然のこととしていた人が大勢いるので、吉良にだけ少なかったということは考えられません。

ほとんど問題にされていなかったことですが、当日になっての急なスケジュール前倒し変更については検討すべきことだと思います。

さて、それがどうして討入事件に発展したか、です。

将軍綱吉は、自分の生涯でできなかった仕事を託そうと、次期将軍には娘(鶴姫)が嫁いだ紀井徳川家の綱教を考えていました。
ちなみに、紀井徳川綱教の妹は吉良上野介の息子・上杉綱憲の正室です。

一方で、甲府の松平綱豊(のちの徳川家宣)が次期将軍にふさわしいと考えている人たちがいました。
綱豊の正室は朝廷の実力者、関白の近衛基煕の娘・煕子です。
水戸光圀の正室の甥が近衛基煕ということもあって、光圀は次期将軍に甲府の松平綱豊を推していました。

吉良上野介は幕府の朝廷との窓口で、騒るさがられた存在でした。

刃傷事件の三ヶ月前に、水戸光圀が亡くなりました。

事件の3日後に、将軍綱吉は初めて紀井徳川家江戸屋敷を訪問しています。

刃傷事件の報を受けた近衛基煕の日記に「秘事」という言葉がありました。

各大名家に、参勤交代の時江戸に余計な従者を連れてくるな、との仰せあり。

事件の翌月、四月から六月まで幕府の軍隊を総動員した銃と弓による射撃演習がくりかえしおこなわれ、それが終わると江戸にいる大名が集められ、武家諸法度の厳守がいいわたされました。

この時点で、反綱吉派との和議が成立したのでしょう。


討入は幕府は幕府主導で行われたものでした。
はじめ吉良屋敷は鍛冶橋門内にあり、元禄十一年九月六日の大火で焼けたため、呉服橋門内に新たに屋敷を拝領しました。
そして、浅野内匠頭による刃傷事件発後、本所御竹蔵跡にあった松平登之助信望の屋敷だったところに移ったのです。

松平登之助の屋敷は、本所の前は神田川沿いにある神田佐久間町一丁目の北にありました。その屋敷が吉良の鍛冶橋の屋敷と同じ火事で焼けたため、本所の御竹蔵跡に新たに屋敷を拝領したのです。

浅野内匠頭による刃傷事件は、元禄十四年三月十四年日。松平登之助に下谷への屋敷替の命が下ったのは八月十二日。登之助は翌日には指定された屋敷の受取証を提出しています。

吉良上野介に本所御竹蔵跡の松平登之助の上ケ屋敷への屋敷替の命が出たのは八月十九日で、本所屋敷の受取証提出は九月三日でした。

ここで二つの注意事項があります。その一つは、「屋敷」の意味。本来は「館を建てるための敷地」です。しかし、館があるものを居抜きで拝領することもあります。

もう一つは、本所松坂町という町は元禄十六年十一月の大地震に続く大火の復興後にできたものでいっぺんにできたものではないし、本所松坂町は町人の住むところなので、「本所松坂町の吉良邸」というのはおかしい。「本所松坂町があった場所に吉良邸があった」のですが、松坂町の名も今から80年以上前になくなっています。

元禄十一年九月六日の大火後に吉良が拝領した呉服橋内の屋敷や松平登之助が拝領した本所御竹蔵跡の屋敷は、整地した後に区域わけの新道を敷いたり排水溝をつくっただけのもので、更地のようなもの。館は屋敷を拝領したのち、自前で建てたのです。

元禄十一年九月六日の大火は、万石以上の大名屋敷だけでも80以上も焼きました。それ以下の旗本・御家人の屋敷や町屋、寺地などを含めたデータは史料により差がありますが、今の銀座五、六丁目あたりから南千住まで焼き尽くしたたいへんな火事でした。

大火後の建築ラッシュを考えれば、松平登之助および吉良上野介に屋敷替の命が出た時点で、築2年ほど。松平登之助の本所御竹蔵跡の屋敷も吉良上野介の呉服橋門内の屋敷も新築に近いものです。

松平登之助は将軍の側に仕え、政以外の日常の諸事にかかわる「小姓」でした。彼には極めて親しい松平右京大夫という従兄がいました。その松平右京大夫は、柳沢出羽守保明(のちの美濃守吉保)とともに中央政治に深く関与していた側用人(この当時は側用人という言葉はなかったが)でした。

大石内蔵助が討入直前の十二月十三日に赤穂の3人の僧に宛てた手紙には、「関所も何事もなく通過し、江戸に着きました・・・若老中(若年寄)もご存じのようですが何も言ってきません。(討入は)うまくいくいくようです」という意味のことが書かれていました。

武家地の辻には辻番がいて、夜でも戸・障子は閉めずに監視し、一とき(時・刻)に一度は周囲をパトロールすることになっていました。辻番の番人には二十歳から六十歳までの年齢制限があり、昼夜の番人の人数規定もありました。

辻番は、大名・旗本家が運営・管理していましたが、幕閣の若年寄もまた管理していました。若年寄の配下の目付の下にいる御徒目付(おかちめつけ)が、辻番を巡回して勤務状況などをチェックしていたのです。

辻番は番人に老人を使ったり、番小屋では食べ物を売ったりしていたといわれますが、それはのちに町人が請け負うようになってからのことです。

吉良屋敷の南西角に、辻番がありました。吉良屋敷とは地続き、北隣東側にあった本多孫太郎屋敷の北東角にも辻番がある。町屋には自身番があります。

辻番・自身番は、今の交番よりもはるかに密度が高い。

前原伊助は、吉良屋敷とは道を挟んだ南隣の本所相生町二丁目に店を開いていたので、討入前から赤穂の士が何人も出入りしていた。吉良屋敷の辻番のすぐ近くに浪人風情が何人も来ているのに何のお咎めもない。大石内蔵助は、「どうもおかしい」と思って江戸の同志に問き質だしたのでしょう。

松平登之助が住んでいた屋敷に吉良上野介が入ったのですが、松平登之助の屋敷だった時には南にあった表門が吉良屋敷になったときには東に移設されていました。

大石内蔵助ら表門隊は東の表門脇に梯子をかけて屋根から邸内に飛び降りて侵入しました。

表門が南にあったとしたなら、こうはいきません。当時の江戸には10か所の定火消役屋敷といくつかの大名屋敷にしか火の見やぐらがなくて、町人の住む町には屋根番がいました。

烈風のときや火事情報があったときは屋根に立って周囲を監視する。
吉良屋敷のすぐ南の相生町二丁目の屋根番が屋根の上に立てば、討入は丸見えになります。

表門が東なら、屋根番の死角になります。

武家には緘口令をしくことはできても、町人にはできない。討入の詳細が江戸中に広がってしまいます。

それともうひとつ。都合のいいことに、吉良屋敷からさほど遠くないところに(現在の京葉道路と清澄通りの交差点近く)、中山勘解由の屋敷がありました。「鬼」と恐れられた初代火付改です。

中山勘解由は、放火容疑者を大量に捕まえ、拷問にかけて自白させた。拷問に耐えかねてウソの供述をした者がいたということで、「鬼勘解由」といわれていました。

事件当時、中山勘解由は「御使番」でしたが、御使番の職務の中には火事の際の定火消と大名火消の監督もあったのです。

近所に「鬼勘解由」が住んでいれば、夜中に多少騒がしくても野次馬に出ることはできません。

そんなわけで、討入は事前にお膳立てができていたのです。

ちなみに、吉良屋敷の北隣西側は当時の老中首座(土屋相模守政直)の本家、土屋主税逵直の屋敷。北隣東側は家康の次男(二代将軍秀忠の兄)を祖とする越前松平家の家老・本多孫太郎長員(二万石)の屋敷でした。

本多孫太郎は越前松平家の監視役ということで大名格として特遇されていたことから、江戸に屋敷を拝領していました。孫太郎本人は越前府中に常住で、江戸屋敷は本多家の江戸出張所のようなものでした。

本多家の江戸常府のナンバー2に忠扶衛門政常という人がいて、この人は堀部弥兵衛夫人(後妻・ほり)の弟でした。

そんなことから赤穂浅野家が改易になって鉄砲州の上屋敷が公収されたとき、屋敷内の長屋に住んでいた堀部一家は、本多孫太郎屋敷内に独立した居宅を与えられていた忠扶衛門宅に仮住まいし、その後、両国橋の西、広小路近くの「矢之御蔵」(米蔵)跡地にできた米沢町の二階建ての長屋に引っ越しました。

弥兵衛・安兵衛が切腹してからしまらくは、両未亡人は忠扶衛門宅にいました。襲撃事件現場の隣です。

忠扶衛門の次男、文五郎は堀部の家を継いで熊本の細川家に士官。堀部家は熊本の地にずっと続いていたのです。

堀部弥兵衛の記録によれば、「吉良上野介が勅使らの宿舎・伝奏屋敷で浅野内匠頭に悪口を言った」ということです。
どのような悪口かはわかりません。

広島の浅野家がのちにまとめた文書によれば、浅野内匠頭がそのときになって場当たり的に吉良上野介に質問したことから」、他の人のいるところで「今になってそんなことを」と言われたとあります。

また常憲院御実記によれば、浅野内匠頭はよく「時刻を間違えた」ということです。

浅野の刃傷を制した梶川輿惣兵衛の日記によれば、当日の朝になって急な前倒しス...続きを読む

Q吉良上野介の義理の息子・吉良左兵衛義周について。

赤穂浪士討入後、信州諏訪の高島藩のお預かりになった
吉良上野介の義理の息子(実際には孫だそうですが)
吉良左兵衛義周についての詳しいお話または資料を教えて下さい。
No.212488の質問にも同様のものがありますが、
更に詳しいお話をお聞きしたいので、
書き込みさせて頂きました。
ちなみに私が今まで集めた資料は、
『吉良の言い分・外伝』
『吉良さま御味方』
『上野介の忠臣蔵』
です。
亡くなった年齢や墓地のあるお寺等はわかったのですが、
高島藩での義周への対応等について
詳しく知りたいです。
(『吉良さま御味方』には高島藩の対応は悪かったと、
『吉良の言い分・外伝』には悪くはなかったと書いてあるのですが…)

Aベストアンサー

下記のHPに吉良義周受け入れ時の高島藩の対応が古文書で示されています。それによりますと、吉良家の当主らしく丁寧に扱われています。当時、城主格の人物が流罪になるときには、将来、再興されることがありますで、あまりおかしな真似はできません。同じ綱吉の治世、高田藩、松平光長・綱国父子が松山や福山に流されましたが後、津山10万石として再興されました。

参考URL:http://www.city.suwa.nagano.jp/scm/kikaku/kira/index.htm

Q23、24日の東京の天気予報

ヤフー天気を見たら降るような事は書いてなかったのでバイクで通勤したら2日連続雨!最悪です!!(雨の日はバイクに乗りたくないんです)他の天気予報はどうだったんでしょうか?降るような事は言ってましたか?(できれば朝の天気予報を教えて下さい)もし言ってたらヤフー天気は使い物にならないという事になります(確か晴れか晴れ時々曇で降水確率10%程度でしたから)

Aベストアンサー

こんばんは。

24日の天気予報では、23日と同じように
夕方頃から雨が降り出すようなことを
言ってました。

洗濯を干していたのですが
23日みたいな天気になると言っていたので
15時位には取り込んだらそのあと雨が降って
きて、本当に昨日みたいな天気だなぁ・・・と
思いました。

ちなみに明日も雨が降るみたいです・・・。
参考になりませんでしたらすみません。

Q浅野内匠頭と吉良上野介の上下関係

内匠頭は江戸城の調度品担当長官、上野介は群馬県
担当副長官と考えます。殿中刃傷事件の要因として、
群馬の副長官の内匠頭に対する"いじめ"が挙げられる
はずです。上野介と内匠頭はそんな関係なのですか?
逆はありえないのですか?

ご教授の程よろしくお願いします。

Aベストアンサー

なぜ刃傷を起こしたかはさておき、上下関係のみ回答します。
上下関係でいうと吉良は浅野より3ランク上位です。
断っておくと、官職は時代で意味合いが異なってきます。他の回答をみますとある時代ではそのとおりだが、他の時代では異なることもあります。

 江戸時代に限りますと、官職には2つの意味があり通称として用いる官職と序列を示す官職があります。さらに位階というものがあります。内匠頭と上野介は通称として用いる官職です。序列を示す官職は
・諸太夫(位階が従五位下で序列を示す官職なしのこと)
・四品(位階が従位四下で序列を示す官職なしのこと)
・侍従 (官職名)
・少将(官職名、正式には左近衛権少将)
とです。侍従以上になるとさらに位階で細かく序列が定められ、同じ少将でも従四位下、従四位上と細分化されてます。
それで、浅野は通称としての官職は内匠頭、序列としての官職はなしで、位階は従五位下です。一方、吉良は通称としての官職は上野介、序列としての官職は少将で、位階は従四位上です。よって吉良は浅野より3つ上、従四位下少将・従四位上少将を区別すると4つ上です。

 江戸時代までは長距、義央という下の名は忌み名といい、文字通り使用するのを避けていました。代わって名乗りためにもちられたのが内匠頭と上野介という官位名です。これは建前上、朝廷から任命されるものですが、通常は自己申告すれば、ほぼ申告どおり任命されます。もちろん本来の官職の職務とはなんのかかわりもありません。単なる呼び名です。

勅使饗応役うんぬんについては他の回答があり、私よりも詳しいので私からの回答はしません。

なぜ刃傷を起こしたかはさておき、上下関係のみ回答します。
上下関係でいうと吉良は浅野より3ランク上位です。
断っておくと、官職は時代で意味合いが異なってきます。他の回答をみますとある時代ではそのとおりだが、他の時代では異なることもあります。

 江戸時代に限りますと、官職には2つの意味があり通称として用いる官職と序列を示す官職があります。さらに位階というものがあります。内匠頭と上野介は通称として用いる官職です。序列を示す官職は
・諸太夫(位階が従五位下で序列を示す官職なし...続きを読む

Q彼女に対するお土産について! 関西人ですが東京きてます 東京バナナお土産考えていますが、 ①

彼女に対するお土産について!

関西人ですが東京きてます
東京バナナお土産考えていますが、


普通のやつ


メープルバナナ


バナナシェイク


キャラメル


バナナプリン


チョコバナナ

ならどちらがもらって嬉しいでしょうか?

Aベストアンサー

チョコレートは溶けます。何歳かわかりませんが、浅草雷おこしとかなら溶けません。シェイクも難しいですねえ。キャラメルなら。東京都絵ハガキ、スカイツリーホルダーとか色々と。三重県人です。東京で関西弁使うと面白いよ。これなんぼとか価格聞いたり、通じませんから。おおきにすらわからないんだし。日本は広いなあ。女子受けですからね、クール宅急便とか扱い所ならチョコレートも選んでいいかと。貴方より先についたりして‼女子受けなら東京バナナとイチゴも聞いたことあるけど、夏だし。販売店に売れ筋聞くのもいいです。

Q吉良上野介について

映画や小説では吉良さんは険悪な意地悪爺さんに描かれていますが、
実際はどのような人物だったのでしょうか?
それでもって最後は赤穂浪士に叩き斬られてしまうのは
なんだか可哀想に思うのですが・・・

Aベストアンサー

全ては「話を面白く、分かりやすく」するために、です。21世紀の現代は「何が正義で何が悪か」ってのが分からない時代ですよね。でも、米ソ冷戦の時代までは正義と悪が割とはっきりしていたのです。例えば仮面ライダーも昔は敵の怪人を「悪の手先」として問答無用で殺していましたし、それに対して視聴者も特に疑問は感じていませんでした。でも今の仮面ライダーって単純な正義の味方じゃなくて、見てもどっちがええもんでどっちが悪いもんかわからんですね。

んで、忠臣蔵の元ネタになった赤穂浪士の討ち入りですが、元々はご存じのとおり浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったのが原因です。ところがね、なぜ浅野内匠頭が吉良上野介に襲いかかったのか、これが永遠の謎なんです。斬りかかったときに「覚えておろう!」みたいなことを言ったらしいんですが、それが何の話かどうもわからんのです。
聞いたことがあるかもしれないのですが、浅野内匠頭って人は以前からエキセントリックなところがあったようで、どうもその、接待役という大役のプレッシャーで精神的におかしくなったんじゃないかってのが今最も有力な説となっています。

なにしろ、浅野内匠頭はその日にロクな取り調べもないまま切腹させられました。で、本来であれば「喧嘩両成敗」なので浅野内匠頭が切腹させられるなら吉良上野介も何らかの処罰があるべきなのにそれが全くなかったのですね。おそらく、関係者の間じゃ当時「浅野さん、狂っちゃったからね」ってのが暗黙の了解だったんじゃないかって思うんですが、武士の対面からするとこれは「片手落ち」なんです。
「武士道は、死ぬことと見つけたり」という言葉がありますが、武士っつーのは体面が全てなんですね。だから、体面が持たないのです。これは当時の武士じゃないとピンとこないところだと思います。

ですので実は吉良上野介は赤穂浪士に斬られたわけではないのです。いや実際に殺しているのは彼らなんですが、赤穂浪士は吉良上野介の首を泉岳寺の浅野内匠頭の墓の前に持って行って「どうぞ、無念をお晴らしください」といい、当たり前ですが何も起きないので「では代わりに失礼させていただきます」といって小刀でえい、えいと斬ったふりをするという「儀式」をやりました。
実は赤穂浪士の最終目的はこの「儀式」にあり、これができなければ全てが「ムダ」なんです。だから赤穂浪士が最も恐れたのは吉良上野介の首が奪回されることだったんです。上野介の息子が上杉藩の藩主になっていて、吉良邸と泉岳寺の間で上杉邸の近所を通らなきゃならなかったんです。もし息子が首奪回のために兵を出したら、上杉藩といえば謙信公以来非常に精強なことで有名ですから奪回されてしまう可能性が高い。ですので実は上野介の首はひそかに船で運ばれたという説もあります。

赤穂浪士は私怨で討ち入ったわけではないのです。「主君の無念を晴らすために復讐を代行した」のであり、それは当時の考え方としては「実に正しい」ことだったのです。

ああ、話が思いっきりそれてしまいました。なぜ上野介が意地悪爺さんと描かれるのかというと、もし上野介が名君ということになると赤穂浪士の正義が説得力がなくなってしまうからです。
お芝居なんかを見ると分かりますよ。たまにすごい凝ったストーリーにしているものがありますけど、途中で「あれ、こいつ悪い奴だっけ?それとも主人公の味方の奴だっけ?」と分からなくなっちゃうのです。映画でも芝居でも、名作といわれる作品て比較的ストーリーは単純なんですよ。

全ては「話を面白く、分かりやすく」するために、です。21世紀の現代は「何が正義で何が悪か」ってのが分からない時代ですよね。でも、米ソ冷戦の時代までは正義と悪が割とはっきりしていたのです。例えば仮面ライダーも昔は敵の怪人を「悪の手先」として問答無用で殺していましたし、それに対して視聴者も特に疑問は感じていませんでした。でも今の仮面ライダーって単純な正義の味方じゃなくて、見てもどっちがええもんでどっちが悪いもんかわからんですね。

んで、忠臣蔵の元ネタになった赤穂浪士の討ち入りで...続きを読む

Q東京の観光地の回る順序(国立新美術館と東京国立博物館)

東京の観光地の回る順序(国立新美術館と東京国立博物館)


宜しくお願い致します。
25歳・女で、現在四国在住です。

8/12に観光と知人に合うために東京に行きます。
観光では、東京の国立新美術館(オルセー美術館展)と東京国立博物館(特別展「誕生!中国文明」)に行く計画です。

現在住んでいるところから飛行機で9:00前に羽田空港に到着し、各美術館や博物館を回って、
17:00過ぎに渋谷で知人と待ち合わせの予定です。

そこで質問なのですが、国立新美術館と東京国立博物館のどちらから回った方が効率的でしょうか?
羽田空港から各美術館や博物館へ行くためにかかる時間は大差ないみたいですが、
オルセー美術館展が、現在お盆で終盤に近いこともあり、どれくらい時間がかかるか読めないため悩んでいます。

東京には仕事の都合で3年前に1年弱通勤しており、国立新美術館・東京国立博物館共に以前訪れたことがあるため、地理や乗換えにはあまり困らないと思います。

以上、宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

こんにちは

通常、平日はガラガラなのがこういう展覧会ですが、
オルセー美術館展は夏休み中ということもあり、開館時間直後からぼほ終日混雑がきついようです。
展覧会オフィシャルサイトで今の混雑状況が見れますが、入場規制がかかっていますね。
水曜お昼で入場するのに1時間~1時間半待ちの状態のようです。
http://www.ex-systems.net/orsay/situation2.html

入場制限がかかるくらいですから、中も身動きが取りにくい状態だと思います。
特に絵の前は、前の人が終わらないと見えない状況かと思います。

待ち合わせが渋谷ということもあり、先に上野の国立博物館に行った方がいいと思います。
こちらの方が比較的混雑は少なそうですし、
新美術館は何時に行っても同じかと思いますので。
疲れて果ててからもう1つ展覧会を回るのはきついですよ。
私は上野公園内だけでの展覧会ハシゴでダウンしました。(^^;)

羽田から上野に直行すれば、ちょうど見終わったくらいでお昼になると思います。
お昼を取った後から、ゆっくり六本木に向かうべきでしょう。
13時くらいに六本木に着ければ、入場待ち時間を含めても16時には見終われるでしょう。
あまり見たような気分にはならないでしょうが・・・。

渋谷へは、新美術館からですと、ちょうど千代田線乃木坂駅が直結していますので
乃木坂→表参道→渋谷のルートで行くのが早いですね。
日比谷線六本木駅は新美術館からかなり離れていますので、おすすめしません。

こんにちは

通常、平日はガラガラなのがこういう展覧会ですが、
オルセー美術館展は夏休み中ということもあり、開館時間直後からぼほ終日混雑がきついようです。
展覧会オフィシャルサイトで今の混雑状況が見れますが、入場規制がかかっていますね。
水曜お昼で入場するのに1時間~1時間半待ちの状態のようです。
http://www.ex-systems.net/orsay/situation2.html

入場制限がかかるくらいですから、中も身動きが取りにくい状態だと思います。
特に絵の前は、前の人が終わらないと見えない状況かと思います。
...続きを読む

Qどうして吉良上野介さんは...?

わたしは今ドラマで「忠臣蔵」を見ているのですが何故、吉良上野介さんは浅野内匠頭さんに対して嫌がらせ(?)をしたのでしょうか?
わたしは「忠臣蔵」は全くといって良いほど素人なのでテレビドラマをすんなり受け入れちゃっているのですがどうして吉良さんが浅野さんに対して嫌がらせ(?)をしたのかが全く分かりません

過去の質問等を見てみてそれらしき答えは幾つもあったのですがピンと来なかったんです
というのもわたしが知っている嫌がらせの理由というのが
「吉良上野介は浅野内匠頭の妻を見てその美しさにみとれてしまって自分の(もしくは息子の)妻にしたいと思うようになった。その為には夫である浅野内匠頭が邪魔だった」
というものなのですが実際どうなのでしょうか?

またわたしはテレビドラマで入ったくちなので吉良さんには好意感を持てません
ですのであまり吉良さんを正当化されるような返答は頂きたくないのですが...
ではこんな無茶苦茶な質問ですがお暇なときで良いので返答をお願い致します

Aベストアンサー

> わたしはテレビドラマで入ったくちなので吉良さんには好意感を持てません
> ですのであまり吉良さんを正当化されるような返答は頂きたくないのですが...

でも、史実は史実として認識してくださいね。
だって、ご質問中で

> 実際どうなのでしょうか?

とお問いになっていらっしゃるのですもの。

> 「吉良上野介は浅野内匠頭の妻を見てその美しさにみとれてしまって自分の(もしくは息子の)妻にしたいと思うようになった。その為には夫である浅野内匠頭が邪魔だった」

は、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」のおハナシです。
時代設定も足利時代で、浅野内匠頭は塩冶判官高貞(えんやはんがんたかさだ)、妻は顔世御前(かおよごぜん)、吉良上野介は高師直(こうのもろなお)という役名(?)です。
歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」も面白いですから、ぜひ一度ご覧ください。

専門は違う時代ですが、日本史を専攻した者です。
そして、吉良家の領地だった「吉良町」のある愛知県に住んでいます。
吉良上野介義央さんは、領地の吉良では「赤馬の殿様」として人気があったようですね。
愛知県警・西尾署のHPにちょっと書いてあります。
http://www.pref.aichi.jp/police/syokai/map/nisiosyo.html

私が歴史の勉強をしている範囲で知ったのは、No.2さんのおっしゃっている「塩」が原因の1つだったということです。
吉良の塩より赤穂の塩の方が良質であったため、吉良上野介さんが、浅野内匠頭さんにその製法を教えてもらおうとしたけれど、浅野内匠頭さんは教えてくれなかった-ということらしいです。

また、浅野内匠頭さんの「付け届けが少なかったから」という説については、歴史的観点からいえば、「付け届け」ではなく「教授料」です。
常識的なというか正規額程度の教授料を、浅野内匠頭さんが支払わなかったから、教える側ももらった教授料相当分しか教えなかった-ということで…。

ごめんなさい。
質問者様のご希望と逆の回答になってしまいました。

時代劇では、吉良上野介を上手く演じられれば(いかにも憎らしく演じられると上手いんだそうですよ)、いい役者らしいですしね。

あと、こんなサイトもありましたので、ご参考までに。
http://page.freett.com/take1975/tyuusinn.htm

> わたしはテレビドラマで入ったくちなので吉良さんには好意感を持てません
> ですのであまり吉良さんを正当化されるような返答は頂きたくないのですが...

でも、史実は史実として認識してくださいね。
だって、ご質問中で

> 実際どうなのでしょうか?

とお問いになっていらっしゃるのですもの。

> 「吉良上野介は浅野内匠頭の妻を見てその美しさにみとれてしまって自分の(もしくは息子の)妻にしたいと思うようになった。その為には夫である浅野内匠頭が邪魔だった」

は、歌舞伎「仮名手本忠...続きを読む

Q東京格安ホテル

東京に19日から20日の予定で一泊します。格安ホテルをさがしましたが、ネット上と電話での値段が違い恐いです。安心出来る格安ホテルおしえて!

Aベストアンサー

http://www.khaosan-tokyo.com/ja/

2200円

Q吉良上野介は

忠臣蔵で悪役となってますが地元・愛知では名君としての評価を受け、逆に浅野内匠頭は短気で世間の疎い殿様という一説がありますが地元愛知や赤穂の人たちの評価はどんなものでしょうか、またそのあたりに詳しい人、赤穂浪士は脚色されたものなのか、それとも事実に忠実に基づいたものだったのでしょうか?

Aベストアンサー

現在に伝わる赤穂浪士の話、「忠臣蔵」とは人形浄瑠璃の話として創作された「仮名手本忠臣蔵」を元に、その後歌舞伎の題材としてズ~と伝わったものであり、その話の中のかなりの部分は創作された話が多いようです。

事実としては浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた「江戸城 松の廊下での刃傷事件」とその翌年に起きた赤穂浪士達による「吉良邸討ち入り事件」という衝撃的な事件は事実のようですが、そこに至る間の様々な小さな事件等はかなりフィクションが多いようです。

さて、質問の吉良上野介の地元の評判ですが、土木工事を積極的行なう等々、評判は非常に良く名君といわれていたようです。
今でも地元の人は上野介のことは悪く言わないようです。
逆に浅野内匠頭はさほど評判が良い人ではなかったようです。

この二人が何故あのような事件を起こすことになったのか?
原因として塩の製法を教えなかったためだとか、浅野の奥方に対して吉良が横恋慕しただとか様々言われていますが、実際にはこの原因さえもはっきりしたことが解っていないのが現実です。

後世の我々は事実を元にした創作物語である「仮名手本忠臣蔵」があまりにも有名だったために、この中の話があたかも全て史実であるかのように思い込んでいる状態です。
しかしながら、「仮名手本忠臣蔵」は当時の徳川幕府に対して正面から批判的な物語を上演することが不可能であった為に、時代設定を徳川時代よりずっと前の足利時代としてさらに登場人物も例えば大石内蔵助⇒「大星由良助」として全く違う名前で上演されています。
しかもこの「仮名手本忠臣蔵」が人形浄瑠璃として最初に上演されたのは実際の討ち入り事件から約50年後のことであり、下手をするとお上から上演中止になってしまう状況でしたので、物語としては非常に面白くできているのですが、反面史実としてどうなのかとなるとかなりの部分が脚色されていると判断されます。

現代の歴史小説でも宮本武蔵には「お通」という女性が必ず登場しますが、史実としては武蔵の回りにこのような女性の存在は無かったといわれており、「お通」は作家である吉川栄治の創作だということは有名ですね。
作家は単に史実を記録するだけでは小説としては全く面白く無いものになってしまう為に史実を元にある程度フィクションを混ぜていくものです。
ましてや幕府にお咎めを受けずに上演するために忠臣蔵の話は細心の注意を払って完成したもののようですので、今更事実がどうだといわれても誰にも本当のことは解らないですね。

将来的には水戸黄門が助さん・格さんをお供にして日本全国を漫遊していたという話も一般に信じられるようになっているかもしれないですね。

現在に伝わる赤穂浪士の話、「忠臣蔵」とは人形浄瑠璃の話として創作された「仮名手本忠臣蔵」を元に、その後歌舞伎の題材としてズ~と伝わったものであり、その話の中のかなりの部分は創作された話が多いようです。

事実としては浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた「江戸城 松の廊下での刃傷事件」とその翌年に起きた赤穂浪士達による「吉良邸討ち入り事件」という衝撃的な事件は事実のようですが、そこに至る間の様々な小さな事件等はかなりフィクションが多いようです。

さて、質問の吉良上野介の地元...続きを読む


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