幕領四百万石とされていますが、どこで、そんなに多くの収量があったのか、調べてみたのですが、よく分かりません。
幕府直轄地は、次のURLでは、ほんの少しです。

NAO pieces (NHKビデオ教材 大名配置図―中学)
http://www.naoweb.jp/project/recommended/pieces_ …
ちょっと見にくいのですが、紫色の部分が幕府直轄地です。

手元にある『日本史図表』(第一学習社)を見ますと、「1664年の大名配置図」として上記URLと同じ図があります。

ところが、次のURLに出ている図では、同じ1664年の大名配置図ですが、幕府直轄地として旗本・御家人の領地を含んだ図になっており、この場合は700万石だと思うのですが…。

大名の種類と配置(東京書籍)
http://earlgreyimperial.bufsiz.jp/edo_q/edo_q02_ …

教えていただきたいのは、幕領四百万石とはどこの地域での収量でしょうか。
よろしくお願いします。

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A 回答 (2件)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3% …


府藩県別身分人員表
これの 府県 というのが旧幕領(天領+旗本領)となります。

県 7,811,887
府  323,514
静岡藩700,000
だいたい 880万石程度
幕末の佐幕藩からの没収したぶんもあるので若干これから下がるかなという感じ。

どのへんでどのくらいの取れ高は それぞれの県をみてください
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この回答へのお礼

これは素晴らしい!
よく解る資料です。
こんな資料があるのですね。
助かりました。
ありがとうございます。感謝!。

お礼日時:2011/04/18 21:32

さっきの資料、始めて見つけたんだが



薩長土肥が、実高がすごいのがわかるなぁ、関係ない話だが。
経済力+経済を成長させた人材
やっぱ これが幕末の勝敗を決したんだろうな
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Q江戸幕府と李氏朝鮮の指導者の共通点と違う点

江戸幕府と李氏朝鮮はそれぞれ将軍に対して大老老中がいて、国王に対して領議政がいて。

親政と部下の集団指導体制のかわるがわるみたいな感じで、朝鮮のほうが国王の親族になった人が牛耳ったり、綱引きしあったり対立的。江戸幕府は親藩などで構成してきちっと委任している。

朝鮮は中央集権、中国をまねた王朝。

江戸幕府は地方分権で武士政権。

これだけだと日本がいいように書いてますが、こんなもんでしょうか。

Aベストアンサー

 統治システムが異なりますので、一概に同一基準で比較することは不可能です。その上に「江戸幕府は地方分権で武士政権」これも誤解です。領国支配を大名に任せていたとはいえ、実質は徳川による一元的支配ですから、地方分権とはいえません。
 尚且つ、徳川将軍といっても「武家の棟梁」として朝廷に序列化されるわけですから表向きは「配下にある者」となりもします。
 「大政奉還」も政治的権限を天皇から一時的に預かっていたものを、元々の主権者である天皇(そんなことも嘘っぱちですが)に返上するとの意味です。
 大義名分なんぞにこだわる儒教的発想や思想自体がつまらない前近代的なものの特徴でもある。

Q鎌倉幕府、室町幕府の直轄領

江戸幕府の直轄領(天領)は400万石くらいあって、いかなる雄藩もはるかに上回るものでした。
それでは鎌倉幕府や室町幕府の直轄領はどのくらいあって、それは有力な御家人や守護大名
と比べてどれだけの規模だったのでしょうか?
どの範囲までを直轄領とみなすかにもよりますし、江戸時代と鎌倉時代や室町時代では土地の制度も
政治制度も違うから、一概に比較は難しいかもしれませんが。

Aベストアンサー

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄領はなかったようです。
直轄領に裏付けられた直轄軍がありませんでしたから。

室町将軍家は、直轄軍としては奉公衆がおり、最大で一万程度と言われています。逆算すると江戸時代の換算では、35万石くらいになります。
室町期の人口が1000万≒1000万石(全国)だったはずなので、江戸期の3000万人≒3000万石 に換算すると江戸時代における100万石くらいではないでしょうか。

結構、鎌倉将軍も室町将軍も、直轄軍を持っていません。
結果として鎌倉将軍も、室町将軍も江戸期の将軍よりも専制的でなかった、鎌倉期も室町期も内乱だらけですが、江戸期は内乱がほぼありませんでした。
逆の見方をすると、鎌倉将軍は主敵である平家を滅ぼして、建前上は、武士の統領(=つまり、みんな部下)であり、室町将軍も主敵である南朝を滅ぼして、建前上はすべての守護大名の上司でありました。比較の仕様ありません。立ち位置が違うので。
ところが、江戸将軍は関ヶ原の後も江戸=大坂二重公儀制を保ち、豊臣家を滅ぼしても、完全には仮想敵を滅ぼしきっていません。全部が部下になりきらなかったから、徳川家直轄領が残ったのかもしれません。
最後の二重公儀制にかんしては、戦争の日本史 17 (17) 笠谷 和比古よりです。

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄...続きを読む

Q江戸幕府について。

江戸幕府がどうして長年続いたかを知りたいです。どなたか教えてくださいm(__)m

Aベストアンサー

 家康は知略にたけ、タヌキと呼ばれていました。権謀術数型の底知れない男です。譜代の家臣団からも疑心暗鬼でみられていたこともあり、さらに外様大名や一般庶民から見ると、親しみや温かさがまるで感じられなかったといいます。全てに隙がなく、戦国の世を行き抜くための策略・政略を完全に身につけており、全く油断ならなかったのです。また目的のためには、人を陥れたり、犠牲にすることも平気であった、と思われていました。

 3代将軍家光も利口で政略的なタイプです。もし、家康の後を家光、或いは家康的な人物が継いでいたらどうなっていたでしょうか。

 強烈な専制君主で、油断も隙もない将軍が2代も続いたら、人々は心を許して徳川家についていくことはなかなか困難であったに違いないでしょう。どこかで、豊臣方の怨念が爆発したりして江戸幕府は破綻し、再び混乱が始まっていたに違いありません。

 秀忠が2代将軍を継いだことは、緊張と緊張の間の緩衝剤
としてまさしく、天の配剤だったのです。戦国の世を再び繰り返さないーこれが家康の悲願であり、そのために長子相続制の徹底を断行し、その手本として秀忠に将軍職を継がせたことも考えられますが、それ以外にも、おそらく次代の将軍には、秀忠のような律儀さと人間的な温かさが必要であることを、家康は戦乱を生き抜いた知恵で直感的に見ぬいていたのでしょう。

 また、秀忠の方も、家康の期待によく応えます。家康の方針をよく守り、親藩・譜代・外様などの複雑な大名・家臣の関係をうまくさばいたし、朝廷や仏教界の統制につとめました。優秀な家臣団に支えられていたとはいえ、彼らをよく信頼・服従させ、幕府の基礎を固めた役割は大きいです。

 家康・家光に比べて、秀忠にはあまり歴史の光は当たりませんが、秀忠こそ幕府の基礎を築き、徳川260年の天下を支えた重要な人物です。そして家康・秀忠・家光と3代続く約半世紀の間に、徳川幕府の支配態勢はがっちり固められたのです。

 家康は知略にたけ、タヌキと呼ばれていました。権謀術数型の底知れない男です。譜代の家臣団からも疑心暗鬼でみられていたこともあり、さらに外様大名や一般庶民から見ると、親しみや温かさがまるで感じられなかったといいます。全てに隙がなく、戦国の世を行き抜くための策略・政略を完全に身につけており、全く油断ならなかったのです。また目的のためには、人を陥れたり、犠牲にすることも平気であった、と思われていました。

 3代将軍家光も利口で政略的なタイプです。もし、家康の後を家光、或いは家康...続きを読む

Q室町幕府と徳川幕府

共通点があるのですが
 
 初代(尊氏と家康)はどちらももちろん有名
 どちらも3代(義満と家光)が優秀でこの代で幕府体制が
 確立され、またどちらも名前に「みつ」が付く
 その後はどちらも良くも悪くも8代(義政と吉宗)が有名
 さらにその後はどちらも特出した将軍はいない
 そして何と言ってもどちらも15代で終わり

 ただの偶然でしょうか?

Aベストアンサー

この2つの幕府ですけど、良くも悪くも初代の性格が色濃く反映されています。
徳川家康は、ご承知の通り三河の大名から天下人になりましたが、猜疑心が強く、身内の情に薄く、冷徹な性格のため、初期に生まれた子供たちはほとんど殺したり、死ぬように追い込むようなことをした結果、個人の資質を信用しないため、幕府をシステムとして捕らえ、集団で意思を決定する組織を作り上げました。
3代将軍家光も、優秀とはいえない将軍ですが、完成されたシステムの中で生まれた初めての将軍ですから、各種の制度を整え、大過なく人生を全うしましたが、個人の資質としてはかなり落ちると思います。
また、8代将軍吉宗は、初めて直系以外から将軍になりましたから、しがらみが無く各種の改革を行いましたので、中興といってもよいのですけど、結果論としては功罪相半ばする業績ですね。
因みに、15代将軍の慶喜は極めて優秀な人物ですけど、秀才にありがちな泥臭さを嫌う点が残念な将軍と思いますし、幕府を再興しようという熱意は、室町15代義昭にも通じるものがあります。

一方の足利尊氏は、義侠心に富み、勇敢で物欲の薄い、将に男の中の男という人物ですが、家族や功のある部下を冷酷に切り捨てることが出来なくて、不安定な幕府になってしまいます。
パソコンでもそうですけど、安定したシステムを構築するためには、レガシーというか、古い規格との共通性を求めると不安定になり、これがWindowsMeが評判が悪い理由で、ある時点で思い切って古いものを切り捨て、新しい規格だけで組んでいく必要があります、WindowsNTのように。
尊氏はこれが出来ないために、終生弟や養子に出した実子の反乱に苦しめられ、増長した家臣を治めきれず、ひ弱な幕府になってしまいました。
その中で、3代義満は怪物といってもよい政治家で、権謀術策を弄して、幕府の権威を高めます。
資質としては、徳川家光とは比べ物にならない高い力量で、家光がシステムの上に乗った将軍なら、義満は自分の才知で政治を動かした将軍ということになります。
但し、室町幕府が最大領土になったのは、6代義教の治世で、この義教は織田信長に匹敵する改革者とも言われますが、信長同様、部下の裏切りにあって絶頂期に暗殺されます。
この義教にあたるのが、徳川では5代将軍綱吉で、綱吉の時代に戦国の殺伐とした習慣は無くなり、儀礼に支配される世の中になりますから、ある意味綱吉も時代の常識を変えた政治家です。
彼以前では、例えば水戸黄門ほどの人格者でも、刀を試すために乞食を切ってみたりしていますし、九州地方から江戸に来た武士達は、犬コロ飯といって、野良犬を捕らえて食べていましたから、まだまだ戦国の気風が残っています。
足利義教の死により、幕政の改革は頓挫し、信長の死後、秀吉や家康が織田家を空虚なものにしたように、畠山、細川といった有力大名が将軍を操るようになって、8代義政は諦めの境地だったのでしょう。
この点は、中興の祖というべき、徳川将軍の8代吉宗とは大いに違います。

こうしてみますと、大体3代目で幕府の骨格が完成する、5or6代目で一つの切があって、真ん中の8代目で転換期を迎える、足利氏はこの8代目で戦国に突入し、徳川氏は系統が宗家から枝に移った。
偶然ともいえるし、必然ともいえますね。

この2つの幕府ですけど、良くも悪くも初代の性格が色濃く反映されています。
徳川家康は、ご承知の通り三河の大名から天下人になりましたが、猜疑心が強く、身内の情に薄く、冷徹な性格のため、初期に生まれた子供たちはほとんど殺したり、死ぬように追い込むようなことをした結果、個人の資質を信用しないため、幕府をシステムとして捕らえ、集団で意思を決定する組織を作り上げました。
3代将軍家光も、優秀とはいえない将軍ですが、完成されたシステムの中で生まれた初めての将軍ですから、各種の制度を整え...続きを読む

Q≪江戸幕府は、なぜ崩壊に向かったのか?≫

江戸幕府は、なぜ崩壊に向かったのですか?

詳しく、簡単に教えてください。

よろしくお願いします。^_^

Aベストアンサー

日本人独特の閉鎖主義が生み出したんだと思います。

江戸初期に鎖国をして貿易を出島に限定していた形式は間違っていないと思います。
しかし時代は流れているので、その流れを読むことが出来なかったのが、
平和ボケしていた江戸幕府でしょうね。

黒船襲来なんてのは、湾岸戦争時に自衛隊を出す出さないで揉めた政府と一緒では無いでしょうか?
開国すると幕府の法度が…などと言っていたと予想されるので。

いづれにせよ。流れとして開国は必要だったのです。
それが、外国によって

開国させられた

と言う受身の幕府に国民の不満は表面化しました。
※元々不満はあったが、言えなかった。

アヘン戦争の勃発です。
これが日本に大きな影響を与えた事は確かです。

日本にとって中国とは「先生」であり様々な文化を教えてくれた国です。
大きな中国が英仏に犯されていると知った時に、
やはり国内に憂いを抱く事が多かったはず。

倒幕で盛んに動いた薩摩長州なんてのは西国で長崎が近いのと、
もともと英仏蘭とも交流可能であったこと。

江戸はそういった情報が収集できなかったことかも知れません。
黒船の威嚇によっての開国ではなく、幕府自らの決断で開国していれば
また違った結果になったでしょうね。

となると、幕臣に有能な人間がいなかった、と思いがちですが、そうではないです。
小栗とか勝とか人材はいました。
いたからこそ、鳥羽伏見まで幕府は頑張れたのだと思います。

でも体制を変えられなかった。従来を重んじる文化が滅亡した原因でしょうね。
鎖国をしても幕府だけは海外情報を積極的に収集し、体制を変更し、
時代を読む動きをしていれば…と思いますが、そんなに易しい話では無いでしょう。で

崩壊すべくして崩壊した。新時代を作るために。
客観的に見て、あれだけキッチリした体制なら、変更も楽で無いです。

日本人独特の閉鎖主義が生み出したんだと思います。

江戸初期に鎖国をして貿易を出島に限定していた形式は間違っていないと思います。
しかし時代は流れているので、その流れを読むことが出来なかったのが、
平和ボケしていた江戸幕府でしょうね。

黒船襲来なんてのは、湾岸戦争時に自衛隊を出す出さないで揉めた政府と一緒では無いでしょうか?
開国すると幕府の法度が…などと言っていたと予想されるので。

いづれにせよ。流れとして開国は必要だったのです。
それが、外国によって

開国させられ...続きを読む

Q豊臣200万石、徳川250万石

一般に言われている秀吉死去時の両家の石高、豊臣の直轄領は徳川よりも少なかったという評価。
でもこれっておかしくないですか?
豊臣の200万石には譜代大名の石高は入っておらずに代官管轄の直轄領と旗本領のみ、しかし徳川の250万石には10万石を超える徳川三将(本多、榊原、井伊)、それ以下でも大久保や酒井の万石級の所領や与力にあたる結城秀康の所領も含まれている数字です。
もっとも秀吉存命時は全ての大名は秀吉の家臣だったから、それなら全国全て豊臣領とも言えますが、徳川以外の大老や外様大名は除いて考えればよいと思います。
具体的な譜代・外様の区別は秀吉の手で万石取りになった大名を指せば良いかと。
つまり有名どころでは両加藤、福島、浅野、石田、大谷、藤堂、蜂須賀、山内、堀尾、中村等です。
これを含めれば徳川の250万石をゆうに凌ぐと思うのですが、この解釈はやはり無理があるのでしょうか?
ご意見をお願いいたします。

Aベストアンサー

秀吉の家臣から大名になった者の多くが、関ヶ原の際、東軍についたので、単純に合計するのは難しい気がします。豊臣と徳川の石高を比較する目的にも、よるでしょう。
ちなみに豊臣を二百万石とする数え方でいくなら、家康の直轄領は百万石程度になるようです。ただ徳川家の家臣団は家康の命令通りに動きますので、まとめて二百五十万と数えて問題ないかと。
なお豊臣家へは毎年、全国の鉱山から莫大な金銀(米になおせば一千万石以上でしょうか)が上納されていましたので、経済力では圧倒的に豊臣が上でした。(秀吉の死後、家康によって停止されます)

Q江戸幕府が江戸に置かれた理由

こんにちは

徳川家康が、江戸幕府を江戸に置いた理由を
知りたいのですが
なぜか、ご存知の方いらっしゃいませんか?

どうぞ、よろしくおねがいします><

Aベストアンサー

こんなところではないでしょうか?

(1)京都の朝廷の影響から出来る限り逃れるため
(2)幕府が開かれた当時、徳川家に反逆する可能性があった大大名は島津家・毛利家・前田家・伊達家くらいで、それらの大名の侵略を考えた場合、大阪・名古屋よりも江戸が防衛上適していた
(3)戦国時代の技術革新で土木技術がすすみ、単なる湿地帯だった武蔵野が有力な穀倉地帯になる見通しがついた
(4)領地が変わると、家臣も引越しで負担がかさみ、現地で徴収される兵士の忠誠度も低い&これまで忠誠を尽くしてくれた支配民と別れなければならない。ほぼ敵なしだったとは言え、既に基盤のできている江戸から他の地域に拠点を移すことは徳川家にとってやはり大きなリスクだった

Q徳川綱豊(徳川家宣)がいるのに徳川綱教が6代将軍候補になっていた理由は?

徳川御三家は徳川宗家の血が絶えたときに、将軍を出す役目を持っていました。
つまり、とくがわ徳川宗家の世継ぎがいる限り、その人物が将軍となることが決まっていたはずです。
5代将軍の徳川綱吉には、兄(徳川綱重)の嫡男であり、家光の孫にあたる徳川綱豊(後の徳川家宣)がいました。常識で考えれば、れっきとした徳川宗家の血をひいている徳川綱豊が6代将軍の筆頭候補になるはずです。
なぜ、徳川綱吉は甥であり、家光の孫である徳川綱豊をさしおいて、分家にあたる御三家の一つである紀州家の徳川綱教を次の将軍にと考えたのでしょうか?
血統的には誰が考えても徳川綱豊こそが次期将軍筆頭候補になるはずです。
徳川綱吉がれっきとした宗家の血をひく人物(徳川綱豊)がいるのに、御三家(分家)の徳川綱教を次期将軍にと考えた理由を教えてください。

Aベストアンサー

綱吉には徳松と言う子がいました。当初、綱吉は徳松に将軍職を譲りたいと思っていました。
水戸光圀の反対を押し切り徳松を江戸城に入れたものの、徳松は5歳で死去してしまいます。
順当に行けば綱豊が将軍継嗣となってもおかしくは無いのですが、
当時、綱吉の母(桂昌院)と兄・綱重の母(順性院)は反目していて、綱吉は綱重の子である綱豊が将軍になるのは避けたかったと言うのと、
綱吉の「自分の血筋を将軍にしたい」と言う願望から、娘婿の綱教を将軍候補に擁立しようとしたのです。

しかし宝永元年、綱吉の娘で紀伊綱教の正室の鶴姫が亡くなってしまい、
綱吉の血筋が絶えてしまった事から綱教が将軍世子になる根拠がなくなり、綱豊が綱吉の世子となり家宣と名を改め6代将軍となりました。

Q江戸幕府の末期について

江戸幕府の末期の
(1)文化
(2)生活(武士、庶民)
を教えてください!

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

余りにも質問が「大雑把」過ぎて焦点を絞りにくかったので、回答しようかどうか何日も迷っていました。

>>江戸幕府の末期の
(1)文化

(1)日本は教育普及率世界一!!
幕末近くでは、日本の教育普及率は85%と言われ、ちなみに、同時代のイギリスでは20%、フランスにいたっては1.4%でした。特に、江戸では庶民にいたるまで大概の人が文字の読み書きできました。
従って、「瓦版(読売とも呼ばれた)」や「絵草子」が飛ぶようにうれたのです。また、「三下り半(離縁状)」も大方の人は書くことができました。
黒船などの外国人が日本に上陸した時、日本人が「これほど」文字の読み書きができることに驚き、脅威さえ感じた、と、言われています。

(2)異国趣味(その1)
大名家を中心として、グラスやワインがもてはやされ、人をもてなす時のステータスとして珍重されました。

(3)異国趣味(その2)
長崎の出島でオランダとの貿易を許可していたことは、ご存知かとは思いますが、年に1度、オランダ商館長が幕府への献上品を持って江戸へ出てきましたが、オランダ商館長が常宿としていたのは石町(こくちょう)の長崎屋でした。その異人を一目見ようと長崎屋の前はお祭り騒ぎで、特に、幕末近くでは、豪華なガラス細工(製品)などでしたので、江戸の庶民は興味津々でそれらを眺めました。

(4)異国趣味(その3)
両国の見世物小屋では、「ギヤマン(ガラス)の大灯籠」が有名で、木戸銭10文(約100~150円)を払ってまでも、見物人が絶えなかった、と、言われています。
このギャマンの大灯籠は、高さ二丈(約6m)余りあり、六角形をしており、同じくギャマンで出来た「ぼんぼり」や「朱玉」「青玉」「黄玉」などがぶら下がり、それはそれは豪華だったとか。

>>江戸幕府の末期の
(2)生活(武士、庶民)

(1)武士(その1)
これはもう、何と言っても「坂本龍馬」の写真で有名なように、ブーツが密かに流行しました。
ただし、西洋のように靴下を履くことはせず素足で履いていましたので、「蒸れる」と言うことで、爆発的な流行とまではいきませんでした。

(2)武士(その2)
軍服。西洋式にボタンで止める洋服が主流になりました。ズボンも機能性から軍服に採用されましたが、これも、上下が服なのに、足元は「足袋」に「草鞋」履きで和洋折衷でした。

(3)武士(その3)
大名家を中心に、テーブルや椅子がもちいられるようになりました。当初は舶来品(輸入)で「ニス」や「ペンキ」でしたが、日本人特有の「まね」で作られたものは、「漆塗り」でした。

(4)庶民(その1)
蒸気船を一目見ようと、浦賀や横浜などに見物に出かけるようになりました。
「泰平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん=蒸気船)」
と、落首にも詠まれ、帆船のように風任せのような船から、スピードも速く、自在に向きを変えられる蒸気船は、人々に衝撃を与えました。

(5)庶民(その2)
長崎では、幕末近くになると、異人に対する「恐怖?」もなくなり、かえって、帆船を見ると七福神の「宝船」を見た、と、喜びました。

(6)庶民(その3)
ペリーが来航すると、いち早く「瓦版」にペリーのスケッチ画が描かれて売られましたが、中には、眉と目が釣りあがり、鼻が高く、一見して「鬼」のような肖像画まで出回りました。

まあ、まだまだありますが、「焦点」をどこに絞ったら良いのか判りませんので、これくらいで・・・。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

余りにも質問が「大雑把」過ぎて焦点を絞りにくかったので、回答しようかどうか何日も迷っていました。

>>江戸幕府の末期の
(1)文化

(1)日本は教育普及率世界一!!
幕末近くでは、日本の教育普及率は85%と言われ、ちなみに、同時代のイギリスでは20%、フランスにいたっては1.4%でした。特に、江戸では庶民にいたるまで大概の人が文字の読み書きできました。
従って、「瓦版(読売とも呼ばれた)」や「絵草子」が飛ぶようにうれたのです。...続きを読む

Q徳川幕府に国軍の創設は可能だったでしょうか?

徳川幕府に国軍の創設は可能だったでしょうか?

歴史にもしはありませんが
もし明治維新がなかったとしたら
幕府に日本国軍を作ることは可能だったでしょうか?

Aベストアンサー

徳川幕藩体制は、地方分権を基本としています。名目上は大名と将軍は君臣関係にありますが、各大名は基本的に個々に軍事権を有しています。その各藩の軍事組織の構成員(すなわち藩士=武士)は各藩の大名(小名もいますが)と君臣関係にあり、将軍との君臣関係はありません。

基本的にこうした諸侯連合軍というものを国軍とは呼びません。

近代軍における国軍とは、最低でも中央集権下に編成された統一指揮命令系統をもった軍でなければなりません。そしてできれば、市民革命を経て国民(市民)としての成立が必要です。

よって、徳川幕府があのままでは国軍の創設は不可能です。

ただし、小栗上野介は郡県制を採用して中央集権を行い、公武合体の上で天皇を君主、将軍を宰相にすえた幕藩体制の改革を考えていました。これが成し遂げられていれば、旧徳川幕府を存続した形の国軍の創設は可能だったかもしれません。


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