小5の子供から質問されました。
「どうして山椒魚と蛙はお互い罵り合い、悪口を言っていたのに、次の年は両者とも黙っていたのか?」
駄目な母です・・・。山椒魚の気持ちも、蛙の気持ちも、全然分かりません(T.T)
心の中で「死んだフリじゃね?」なんて思いましたが、絶対ちがうな~っと思ったので答えませんでした。
どなたか教えて下さい。宜敷くお願いします。

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A 回答 (4件)

 誠に失礼かとは存じますが、国語の設問には「正解」という存在はありません。

正解のある問題が国語にあるとすれば、それは漢字書き取りであり、「文脈」をどう読み取るかとの点で「傍線部に関して著者が違う表現をしている部分がある。その言葉を書け」という出題はなされます。
 井伏鱒二の『山椒魚』に関して言えば、終わりが2種類あって恐らくは改訂版のテクストだろうと思われます。これは私の理解ですが、前日まで罵りあっていた両者が翌日には沈黙を続けていた、という意味は互いに存在を認め合っていたことが次の段階で言葉を交わすことでの認め合いから「言葉はなくとも認め合っている」ことへの深化、じゃないのかということです。
 文学作品は読者によっても理解の仕方は異なります。夏目漱石が好きな人でも『夢十夜』が好きな人もいれば『心』が好きな人もいます。或いは漱石よりも太宰が好きだという人もいます。どれが「一番イイか」などと決めることは不可能で無意味な問い掛けということはこれだけでもお分かりいただけるでしょう。この意味でこんな設問をする公文はロクな教室ではないことだけは確かです。
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「井伏さんの話によると、この作品はチェホフの「賭」を読んで書いたという。

チェホフは一人の男が絶望から悟りに入るまでを書いている。しかし、「山椒魚」は諦めるところで打切ったという。」(小沼丹「井伏鱒二 作家と作品」)

「井伏文学は悲しみの文学です。山椒魚は悲しんだ。井伏はその処女作から悲しみの文学を書いたのです」(河上徹太郎氏談)

最後のセリフの「今でもべつに…」は、あくまでも「今でも」すなわち最初からであり、であればあれだけ罵り合った経緯からして、続く「べつにお前のことを…」の内容自体、もちろん本心ではあるわけがないという流れを無視され、勝手に友愛やストックホルム症候群扱いされるようなら、確かにカットした方が「あきらめと悲しみ」の意図ががはっきりするということでしょうか。
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これ公文の問題なんですか。

すごいですね。

Netで検索しても、これが「正解」というのはみつかりませんでした。
棲家にしている岩屋から出られなくなってしまった山椒魚が、紛れ込んできた蛙を外に出さないように閉じ込めてしまって口論をしていた。
1年?経つと口論もしなくなった。

ここまでは、「自己のエゴを押し出してばかりいる自分に嫌気がさした」という解釈でしょう。

井伏鱒二はその後、体力もなくなった蛙が「君のことをうらんでいない」といった結末を、「友情の発生」と誤解されるのを嫌って削除したということです。
ですから、学校でどう教えるのかわかりませんが、非常に微妙な問題です。
すいすいとは答えられなくて普通です。



余談ですが、せっかくこの方法があるのですから、お子さんの疑問などをどんどん質問されてはどうですか。
子供の宿題とか、子供の問題集とかのカテゴリーがあればいいのですけど。
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井伏鱒二は「山椒魚」の結末を晩年、喧嘩したままに変えました。


以下の考えは最初に発表された結末がお互いに許し合う方のものに対してのものです。
山椒魚と蛙はもう外に出られないんじゃないか、という自分たちの運命に気がつき始めたから黙っていたのではないでしょうか。
でも認めたくはないから、お互いに何も言わず黙っている。
そしてそれを認めたとき、運命にあらがえない者同士としてお互いを許し合う境地に至る、というのが改訂される前の「山椒魚」だったと思います。
改訂後のものを読まれていたら、すみません。

この回答への補足

申し訳ありません。
改定後のプツンと終るバージョンの「山椒魚」の方なんです。
2人で黙りこくって終るやつです。
削除された最後の所、まったく予備知識が無い状態での、各々の心情を推察するのです。
こんな事って、すごい難しいとおもいませんか?

公文の問題なのですが、もう、お手上げです。

補足日時:2011/04/19 15:10
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  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%A4%92%E9%AD%9A_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)

  http://homepage1.nifty.com/hamatidori/yodann.2.htm

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Aベストアンサー

この手の質問の多くは「作者は何が言いたかったのか?」という問題の立て方をしています。
これが、作品の読解を妨げているのだな、と、ここで回答をするようになって、わたしは確信を深めました(というと、大げさですが)。
問題の立て方がちがいます。そんなことを考えるから、わかんなくなっちゃうんです。
問題は、「何が書いてあるか」です。

こういうと、バカみたいなんですが、こういうと高尚に聞こえます。
「プロットをつかむ」
高尚だけど、何が言いたいかわからないので元に戻します。

何が書いてあるか、すなわち、
「何が」「どうした」という形で、作品を要約するトレーニングを積んでみてください。

おそらく質問者さんは高校生だと思うのですが、読解の能力はこれでグッとあがるはずです(高校生以外の方にもおすすめです)。

小説というのは、何がどうしてどうなって、つぎはああしてああなって、それからこうしてこうなって、と、だらだらと続いていきます。これを「ストーリー」といいます。

けれども、小説には一本、背骨のようなものが通っています。これが「プロット」です。
人間の背骨が外から見ただけではわからないように、小説のプロットも外から見ただけではわかりません。
けれども、表面(ストーリー)ばかりに気を取られているのは、ちょうど服のひだかざりとか、リボンの具合に目を奪われるようなもので、その人がどんな人だか、ちっともわかりませんね。そんなものなのです。

ストーリーを読みながら、プロットをつかむ。
ちょうど、X線撮影をするように、透かして見つけていくのです。

このプロットは「何がどうした」という形で要約できます。ロランバルトが『物語の構造分析』(みすず書房)の冒頭でそういうことを言っています。石原千秋は『大学受験のための小説講義』(ちくま新書)のなかでもう少しそれをわかりやすい形で言っています。

実は、本を読みながら、あるいは、マンガでも、映画でもそうなんですが、たいていの人はこれを無意識のうちにやっている。
途中でわけがわからなくなっちゃう人は、これができない人なんです。
これはスキルですから、練習すれば上達します。
だから、「何がどうした」話か、いつも考えるようにしてください。

ここから『鯉』の読解です。

これは「私が鯉を助ける」話です。明快ですね。
どんな複雑な小説でも、プロットは単純です。
語り手である「私」は鯉を早稲田大学のプールに放ってやったのです。

ここから、読解の第二段階です。
第二段階では、「なぜそんなことをしたか」を考えます。

これは冒頭、二番目の文章に、すべてあきらかにされています。
(以下、引用はすべて集英社日本文学全集41井伏鱒二集より)

「学生時代に友人青木南八(先年死去)が彼の満腔の厚意から私にくれたものであるが」

友人がくれたものだからです。
そうして、その友人は、死んでしまっているからです。

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作者はそれをはっきりとあきらかにはしません。
読者が自分の力でそれを掘り出してくれるのを、待っているからです。
この作品の場合、作者が埋めておいた「宝」は、その「悼む気持ち」です。

この手の質問の多くは「作者は何が言いたかったのか?」という問題の立て方をしています。
これが、作品の読解を妨げているのだな、と、ここで回答をするようになって、わたしは確信を深めました(というと、大げさですが)。
問題の立て方がちがいます。そんなことを考えるから、わかんなくなっちゃうんです。
問題は、「何が書いてあるか」です。

こういうと、バカみたいなんですが、こういうと高尚に聞こえます。
「プロットをつかむ」
高尚だけど、何が言いたいかわからないので元に戻します。

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Q井伏鱒二の「山椒魚」で質問です。

小5の子供から質問されました。
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Aベストアンサー

 誠に失礼かとは存じますが、国語の設問には「正解」という存在はありません。正解のある問題が国語にあるとすれば、それは漢字書き取りであり、「文脈」をどう読み取るかとの点で「傍線部に関して著者が違う表現をしている部分がある。その言葉を書け」という出題はなされます。
 井伏鱒二の『山椒魚』に関して言えば、終わりが2種類あって恐らくは改訂版のテクストだろうと思われます。これは私の理解ですが、前日まで罵りあっていた両者が翌日には沈黙を続けていた、という意味は互いに存在を認め合っていたことが次の段階で言葉を交わすことでの認め合いから「言葉はなくとも認め合っている」ことへの深化、じゃないのかということです。
 文学作品は読者によっても理解の仕方は異なります。夏目漱石が好きな人でも『夢十夜』が好きな人もいれば『心』が好きな人もいます。或いは漱石よりも太宰が好きだという人もいます。どれが「一番イイか」などと決めることは不可能で無意味な問い掛けということはこれだけでもお分かりいただけるでしょう。この意味でこんな設問をする公文はロクな教室ではないことだけは確かです。

Q「蛙と子ども」の寓話のあらすじを教えてください。

 多分、イソップ物語ではなかったか、と思うのですが、子ども(王子だったかも知れません)が池の蛙に石を投げて遊んでいると、蛙が「あなたには遊びでも、私たちにとっては生きるか死ぬかなのです」と答える話し。正確にはどういう筋だったか教えてください。またイソップ物語でなかったら、何の話だったか教えて下さい。

Aベストアンサー

イソップ寓話集でこの話を読んだ記憶があります。

検索をかけてみたら、まちがいなくありました。「少年たちとカエルたち」というタイトルがついているようです。(参考URL)

タウンゼント版イソップ寓話集によると52番に入っています。
http://www.geocities.co.jp/Bookend/9563/Aesop/Aesop1.txt

参考URL:http://www.din.or.jp/~m-o/ran/aesop/02.html#052

Q現代文の山椒魚について教えてほしいです! 「諸君」を使っている意図を教えて下さい! 分かる方いまし

現代文の山椒魚について教えてほしいです!

「諸君」を使っている意図を教えて下さい!
分かる方いましたらおねがいします。

Aベストアンサー

「山椒魚 」は、山椒魚から見た人間社会を描いています。

つまり、実は「山椒魚であるかどうか」の必然性はありません。
「山椒魚」という語り部(ストーリーテラー)が1人称で書かれているため、山椒魚の立場(目線)で「諸君」と書かれているのは、わかりやすく説明すると、「山椒魚」という「あくまでも客観的に人間社会を俯瞰(ふかん)出来る存在として、総じて人間社会を「諸君」と呼んでいます。
山椒魚を、山椒魚では無く、身近な昆虫に例えても、この作品は成立します。
ただ、山椒魚は目が見えない爬虫類なので、その点、他の昆虫などとは違う、という点に心がけて読むと、何故、他の生物では無く山椒魚なのかが理解出来るでしょう。
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小学校2年生向けの読書感想文に合う図書を紹介してください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

毎年各学年対象の「読書感想文の課題図書」が発表されていますので、それを参考にされても・・・検索するとすぐ出てくるかと・・・

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Q井伏鱒二の「山椒魚」について

井伏鱒二の「山椒魚」について
『井伏鱒二自選全集』に収録する際に、最後の部分を割愛して改稿したのはなぜなのでしょうか?
教えてくださいっ!(つд`)

Aベストアンサー

 井伏自身が何を考えていたかは不明なので、推測するしかありません。

 有力視されていて、まあ、実際それが真相だろうと思われる説は、友情物語として読まれるのが嫌だったから、という理由です。そう読まれるくらいなら、その原因となる部分を削除してやれ、と。

 そもそもこの作品は、意地の張り合いの末に共倒れするという、人間の愚かさを風刺した寓話です。要するに山椒魚と蛙は人間のダメな部分を象徴しているのです。にも関わらず、彼らを肯定的に捉える人が多かったのです。最後に友情が芽生えて良かった、とか。
 確かに変な友情が芽生えたかもしれませんが、彼らは罵り合い、足を引っ張り合った結果、死んでしまうのです。「良かった」などと言える結末ではありません。
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小泉八雲が、ご存じの名句を、英訳したものです。
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