源義経といえば現在に残る逸話には創作の部分が多くありますが、
幼少の頃鞍馬山で誰かさんに剣術を習ったのはどの程度確かなことなんでしょうか?
お話では鬼一法眼だとか僧正坊だとか鞍馬天狗に習ったとありますよね?
人物は誰か不明にしろ鞍馬山で剣術を習ったのでしょうか?
それともそれすら確かなことはわからないのでしょうか?

A 回答 (1件)

下記が参考になるようですよ。



参考URL:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
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この回答へのお礼

資料を教えていただいてどうもありがとうございます!

お礼日時:2011/06/18 15:03

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参考:村上武吉を題材とした作品
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%AD%A6%E5%90%89
村上武吉ー海賊王
https://www.blwisdom.com/strategy/series/rekishi4/item/10524/10524.html?limitstart=0

Q 源義経が壇ノ浦の戦いの捕虜を連れて鎌倉を目指した際、頼朝は、義経が頼

 源義経が壇ノ浦の戦いの捕虜を連れて鎌倉を目指した際、頼朝は、義経が頼朝に無断で、後白河法皇から検非違使に任命されたことに怒り、鎌倉入りを拒みました。
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http://www.amazon.co.jp/%E7%BE%A9%E7%B5%8C%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%8F%B8%E9%A6%AC-%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4167663112/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1233726741&sr=1-1

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官位を受けた理由は、義経の理想とする体制にあります。
義経の考える体制は、朝廷の下に貴族がおり、
その下に頼朝以下、義経などの武士が横並びになることです。
なので、その理想体制に一歩近づくことになり、源氏の名誉にもなるため、
義経は喜んで官位をもらったということです。

ちなみに頼朝の理想の体制は、頂点に頼朝がおり、
その下にほかの人がいるというピラミッド型。
この体制を目指して進めているのに義経が勝手に官位を受けていては、
他人を管理することは到底できません。

義経と頼朝の考えの違いは、育ちから来ています。
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一方、頼朝は子ども時代~40歳まで伊豆におり、関東武士に詳しく、
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また、アニメ 『まんが日本史』 では、
頼朝を支えるのは関東武士で、勝手に官位をもらったら統制できない。
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Q「源義経が生きていた」と言う説

東北方面に旅行するたびに、とても気になることがあるんです。

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平泉や遠野、八戸なんかの観光名所に行けば必ず「義経北方説」とか言う看板が立っていて、「源義経は平泉で戦死せずに蒙古に渡ってジンギスカンになった」というようなお話が書かれているんですが、あれは単なる伝説なんでしょうか?

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素人の私からすると、チンギス・ハンになったらしいと言うお話は飛躍が大きすぎる気がしますけど・・・。

Aベストアンサー

古来有名人というのはなかなか死ねないものです。
何とかして生かしておきたいという後人の願望が伝承や異説となってのこるものです。

後世はっきりした証拠が出て死亡が確認されるまではこのような伝承は生き続けるものです。
アレキサンダー大王しかりアーサー王伝説しかり洋の東西を問わずこのような事実は存在します。

しかし冷静に考察すれば義経伝説はあり得ぬ事とおもいます。
当時義経は藤原氏の頼人といえどちらかといえば望まれぬ存在でした。
既に頼朝の威令が確立し藤原氏もその埒外に居ることは許されない程の時勢でした。
この為藤原氏の延命を図る為義経暗殺を計画したのですから藤原氏側に準備の遺漏はありません。  十分な兵力を集め包囲し脱出を防いだと思われます。

義経に心酔していた弟国ひらも殺している位です。  このような状態で足弱な妻子をつれて逃げることは不可能と考えるのが普通です。
義経に忠実な郎党らも討ち死にしています。  東北地方は藤原氏の領地で命令は行き届いたでしょう。

義経関連の遺物というのは想像の産物に過ぎないでしょう。

古来有名人というのはなかなか死ねないものです。
何とかして生かしておきたいという後人の願望が伝承や異説となってのこるものです。

後世はっきりした証拠が出て死亡が確認されるまではこのような伝承は生き続けるものです。
アレキサンダー大王しかりアーサー王伝説しかり洋の東西を問わずこのような事実は存在します。

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Qあの源義経がフビライ=ハンと同一人物って本当?

ある本で読んだのですが、どうも信じられません。
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とても気になるので、誰かすぐに教えて下さい!

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それを言うなら「チンギス=ハン」では……(^_^;)。
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フビライだとその孫ですからねえ。

義経=チンギスハン説はそもそもは誰が唱えたのかなー、
とりあえず面白おかしい「お話」です。
いわゆる「トンデモ」系ですね。キリストは日本で死んだ、とかいう類の。
義経の読みが中国語読みするとチンギス=ハンの名前に似る、とか紋所が似ている、とかけっこう面白いのですが、「史実である!」とオオマジメに信じる類のものではありません。

まあ、オモシロがっているのは全然かまわないと思います。トンデモは楽しいですから。

細かい部分はすみません、ご自分で検索してください。
「義経 チンギスハン」でヒットします。

Q源義経

源義経の使っていた刀に名前はありますか?
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源義経が頼朝から逃げているとき、新潟にも行ったのですか?
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義経一行が、安宅関の辺りから「源頼朝が支配する関東地方を通らずに」奥州平泉に行こうとすれば、可能性のあるルートは、

「新潟市・長岡市の辺りから、磐越西線の通っているようなルートで会津地方に出て、次いで奥州街道を北上する」(戊辰戦争の時に、長岡藩と会津藩が連絡に使用したルート)

「新潟市の辺りからさらに北上し、海岸伝いに山形県の庄内地方に出て、最上川沿いを遡って新庄市か山形市の辺りまで行き、奥羽山脈を越えて奥州街道に出る」(越後の上杉家が、出羽の庄内地方を征服したときのルート)

と言ったルートと思われます。どちらでも、新潟市の辺りを通るでしょう。いずれも楽な道ではないですが、通行可能です。

この時代、越後国の中心部は今の上越市の辺りでした。普通の旅人なら、この辺から南に下がって信濃川・千曲川沿いに飯山市の辺りを通って長野市の辺りに出て、さらに軽井沢の辺りで碓氷峠を越えて群馬県に出て、群馬県→栃木県と関東平野の北の方を通って奥州街道に出る方が楽です。ただ、これは源頼朝の勢力圏を通るので無理でしょう。

なお、「義経一行がどのルートで平泉に到達したか」は伝えられていないと記憶します。

義経一行が、安宅関の辺りから「源頼朝が支配する関東地方を通らずに」奥州平泉に行こうとすれば、可能性のあるルートは、

「新潟市・長岡市の辺りから、磐越西線の通っているようなルートで会津地方に出て、次いで奥州街道を北上する」(戊辰戦争の時に、長岡藩と会津藩が連絡に使用したルート)

「新潟市の辺りからさらに北上し、海岸伝いに山形県の庄内地方に出て、最上川沿いを遡って新庄市か山形市の辺りまで行き、奥羽山脈を越えて奥州街道に出る」(越後の上杉家が、出羽の庄内地方を征服したときのルー...続きを読む


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