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プロテスタントのクリスチャンになって四年になります。

私の叔母が牧師婦人なんですが、その叔母が「いつも祈ってますよ、必ず神のときがきますからね。」と、よく励ましのメールを送ってくれます。

でも「神のとき」っていったいどう言う意味なんでしょうか?

「奇跡が起きる」ってことなんでしょうか?

「平安なときが来る」ってことなんでしょうか?

「もっと幸せなことが起こる」ってことなんでしょうか?

どう解釈したらよいのかわかりません。
私は、現在仕事をするために勉強をしています。(何を勉強しているかは、ここでは問題ではないので言いません。)また、私はある病を持っています。

四年前に病をきっかけに、生まれて一度も会ったことがない遠方に住んでいる叔母の教会で洗礼を受けました。

また、私はここ10年間ほど、苦難が続いております。

病、仕事、恋愛、その他、さまざまな苦難等です。

ですので、牧師はもちろん、それを知っている叔母がよく、メールを送ってくれるのです。

まだ、クリスチャン歴も浅いので、「神のときがきますからね」という意味がわかりません。

キリスト教的に言うとどういう意味なんでしょうか?

是非、よろしくお願いします。

A 回答 (9件)

ご質問をお読みして最初に頭に浮かんだのは次の箇所です。



その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。(第一テサロニケ4章16の後半から17節)

このような言葉だけではなく、聖書の言葉自体が、クリスチャン以外の人々には全く意味がないことを知っていますが、ご質問者さんが、

>プロテスタントのクリスチャンになって四年になります。

ということですので、この箇所を読んでご自分が神の時がきたらどうなるのか理解しておくのは大いなる慰めになると思いました。ある時いつの間にか天国に移されているとしたら、これほど幸いな人生はないでしょう。
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先に書きますが、私はクリスチャンではなくどちらかというと仏教徒です。



キリスト教の言う「神の時」は日本人の感覚にあまり親和的ではないように思います。
キリスト教では歴史に始点と終点がある直線的思考なのに対し、
日本では歴史は四季や繰り返しを通じて円環の環を描く思考です。
「神の時」は終点に個人の死んだ後の復活を約束するイベントが含まれていると聞きます。
それに向けて頑張りましょうね、という事だと私は捉えています。

ただ、少しお節介をすれば、私としては宗教の言う事を盲目的に飲み込む事はできませんし、一般的な感覚もそうだと思っています。
人というのは神様のような存在から与えられた天命のようなものがあって、それを全うすれば良いのだと考えています。

悩んでいる方に勧めているのが下記のHPです。
http://kajipon.sakura.ne.jp/meigen.htm
(以下抜粋)
私は神が私のことを見捨てたとは決して思っていない。 神はきっと、唯一私だけがこの試練に耐えられると思ったのでしょう(ミニー・リパートン)ポップス歌手
※名曲「ラヴィン・ユー」で知られるミニー。彼女は乳ガンが全身に転移して31才の若さで他界した。その晩年の言葉だ。
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あなたのその疑問を叔母さまか


そのご主人の牧師様にぶつけてみたらいかがでしょう。
せっかくそういう方が身近にいらっしゃるのですから。

よろしかったら以下のこともついでに
お聞きになってみていただけないでしょうか。
信仰上だいじなことなので。

この世はすべては神がつくったのなら
みずからつくったものが自分の気に入らないことをしたといって
怒るのは愚かではないか。
まして自分のつくったものが不出来だからといって
それを罰するというのはガキのすることじゃありません?
しいていうなら自分を罰するべきでしょう?
「悔い改めよ」ってそれをつくったものが悔い改めるべきでしょう?

この世のすべてをつくった、というなら
空間も時間もつくったということになる。
しかし「つくる」という概念自体、すでに時間経過と
空間概念が前提にあるわけなので
神が「つくった」というなら
すべてをつくる前にすでに時間も空間も存在したことになる。
そもそも「神」が存在する、ということの
「存在する」「神という存在」ということ自体に
時間と空間概念を前提としている。
存在はそれを意識されてはじめて存在となる。
意識には時間と空間が必要です。
・・・・「創造神をつくったもの」がいることをこれはみずから証明している。

「つくる」という概念自体、人の身体感覚からもたらされたものでしょう。
実際はただものが変容するだけで
そこに人的効用とか有益性とかいうフィルターがかかり
「つくる」ということになる。(「壊す」の反対)
また、「変容」も人の五感にしばられ、それによってつくられた
概念にすぎない。
4、
この世に起こることはすべて神の計画の一部
であり、すべてに意味がある、というなら
人はなぜ祈るのか。神の計画に注文を付けてもいいのか?
神はそれを聞き入れる可能性があるから
祈るのでしょう?
「神の計画」なんてそんなに簡単に変えてもいいほどの
ものなのでしょうか?
だって2000年前からキリストの説く神に実に多くの人は祈ってたのでしょう?
そして時に祈りが通じたとかいうことが古今東西市井にあって
神に感謝してきたのでしょう?
実に簡単に変えるのですね。
神の計画ってほんとうははかりしれないほど深いものなのでしょう?

この世のすべてをつくったのなら
なぜ最初から完璧なものをつくらなかったの?
全知全能なんでしょう?
なぜ「計画」なんか必要なんですか?
なぜ最初から「神のみ国」にしなかったの?
ちょっと回りくどいことして時間つぶしというか
楽しみたかったのかな?
それならそうといってくれると
とてもわかりやすい。
まあそれで神を慕うかどうかは別だけど。

「平安」ですか?「平和」でもいいが
それは「不安」というものがあって成り立つ概念です。
つまり不安が全く無い状態は「平安」もないのです。
死があるから生、生きているという概念、意識があり
暗さがあるから明るさがあるのと同じです。
影や暗さがまったくない状態は明るくも暗くもないでしょう?
幸福、喜び、うれしさ、・・・・・すべて同じです。
「みないつも平安である」なんてありえないでしょう?
そうそう、それと「奇跡」も同じです。
奇跡的でないこと、普通に不自由であることが
当たり前だからそれに対して超越的に、反法則的なことがおこるから
「奇跡」というわけですよね。
神の世界はなにせ全能だから奇跡だらけなんだろうけど
それはつまりあらゆる法則がないに等しいので
つまり完全なカオスですよね。
7、
神はなぜ自他の区別をつくったのか?
全知全能の神も自他の区別はのりこえられない。
時空の制限も受けている。
それで全能っていえるのか?

・・・・ごめんなさい。きりが無いのでこれぐらいにします。
きっとこんな話をすると
「そういう疑いをもつこと自体人の浅薄なところで
神にすべてを委ねまかせることが大事なのだ」
ということになるのでしょうが
それってよく詐欺師などが人を洗脳するときにつかう言い回しですよね。
まあ、洗脳されるのもある意味気持ちいい楽なことではありますが。
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宗派で 随分見解が違います。


>神のとき…
これは 〔ハルマゲドン、若しくは アルマゲドン〕をさすのだと 私は思っていますが。
神のその行為は サタンとの闘い…。〔ハルマゲドン…アルマゲドン〕です。

その行為により人間は 山羊と羊を区別するかの様に 選別される。羊は神の統一するパラダイスへ行く事になる。これは復活と呼ばれている。

山羊に復活はありません。
余談ですが 信じる者は救われる→神を信じるかで 結局羊なら救われて 山羊なら救われない。羊は神に忠実な象徴。

神の時とは パラダイスという 神により統一化された所で神が全てを掌握している。つまり アルマゲドンにより 一旦は全て死ぬが、神の選別により パラダイスに導かれる→そのパラダイスが神の時…。
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この場合の「神のとき」は「苦難の状況から開放される」「努力すれば報われる」という意味でしょう。


つまり、神の御心に従っていれば、必ず“神”の救い手が差し伸べられるということです。
多分、その程度に使っているんだと思います。

本来“神のとき”というのは“神”が支配するとき、つまり最後の審判後の世界を言います。
最後の審判によって地上のすべての命は消え、天国と地獄に振り分けられてしまいます。
キリスト教には輪廻思想は無いので、この世に再生する事はありません。(キリストの再生は輪廻ではありません)

キリスト教はローマによって迫害を受けてきたユダヤの人々の中から生まれた新宗教の一つです。
当時ユダヤ教の司祭も自国を守るため、信仰を守るためとはいえローマにへつらい、やがて富を得てローマとの共存へと進みました。つまり司祭はローマの手先になってしまっていたのです。
そのため洗礼者ヨハネなど多くの預言者や指導者が生まれました。
キリストはその中で、真に生きる場所は天国にある。
この世に生きている間に天国に入る資格を得なさいと教えました。そして苦難や貧困に耐え、脱出しようとする意志が天国の門を開けると教えたのです。
決して甘んじて受け入れなさいとは教えていません。耐えて戦いなさい、必至で生きなさいと教えていました。

それ自体は死によって私たちは救われるとも解釈できますし、確かにその通りです。
しかし、それは一方では甘んじて受け入れてしまう。つまり悪を野放しにする事になります。
キリストはそんなことは何一つ語っていません。彼自身の行動を見れば判るように、彼は正道を主張し、司祭に道を正すよう行動しました。
彼は死を覚悟しても行動できましたが、私たちはそれほど強くは無い。でも打開しようとする意志だけは持つ事ができる。足りない分は“神”に請えばいいのです。
それを持続する事によって「神のとき」を向かえる事が出来るのです。

私たちは「思い、言葉、行い、怠り」によって罪を犯しますが、同時に「思い、言葉、行い、精励」によって善行を行なえる唯一の生きるものでもあります。だからそれを行う事は私たちに与えられた資格でもあるということなんです。
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単純に正義が到来するってことじゃないでしょうか。




古代ギリシャ人は、正義というものを考えたんですね。
それが哲学になっていった。

イデア界というものがあると考え、そのイデア界は全くの正義だったんです。
人間はもともとそのイデア界に神とともに住み全くの正義だったわけですが、有限の肉体に入ったことで、正義が何かわからなくなった。

しかし、ソクラテスはイデア界から放たれるデーモンの声が聞けて、100%正しいことを判断できるとは言えないが、少なくとも他の人より、自分は何が正しいか分別することができると思った。

そして他の人も、ちゃんと熟考すれば、わかると確信して、もっと熟考することを勧めた。


その400年後くらいに、そのギリシャ地方でキリスト教が起こったわけです。

ソクラテスの死刑。
全く罪がないのに死刑になり毒をあおり息絶えた。
イエス物語でも、イエスは毒を飲み息絶えましたよね。

そのように不正がはびこり、ひどい世の中だったので、正義について考察され、神の国 つまりイデア界に戻ろうというブームが巻き起こった結果 キリスト教がさかんになったと思えます。


しかし 後のキリスト教では、全くの正義の神が到来し、改心しなかったものを地獄に落とし、改心して全くの正義の者を天国 つまりイデア界に坐ませそこで永遠に神とともに暮らすってなったわけです。


このカテのように不正がはびこり、悪人が他の悪人をかばい、私腹を肥やし、平気でうろつき悪を履き散らす、汚い世の中を、神がやってきて 火を放ち浄化する時がやってくるってわけです。


叔母さんは、その神が正義の裁きをしに来ると信じているわけです。

ユダヤ教は病気になったものは、神の怒りにふれたものだと考えていました。
キリスト教もそうで、病気になったのは神がバツを与えたからで、正しい人は病気になることは決してない。
ですから、あなたが心を入れ替え、邪悪なことをやめて、全くの正義になれば、神が裁きにきたとき、あなたを地獄に贈らず、神の住む天の国に連れていくってわけです。


叔母さんは、あなたが病気なのは、あなたた悪であるという認識なんです。
ですから「早く改心しろと 言っているわけです。」
病気が治ったら改心したという証拠になり、おばさんに「改心したので病気がなおりました」といえて、おばさんも「そのようですね」とあなたの改心を認めることになります。

「神の裁きが来る前に、早く改心せよ!!!」というおばさんからの厳しいお言葉なのです。
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死ぬ、てことじゃないんですか。


死は救いらしいですから。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE% …
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ちょっと意地悪な無神論的解釈ですが



「今までに神の時が来たことがあるんですか、あったとすれば、それはいつでしたか」と訊いてみればよいのではないでしょうか。

で、無かったのだとしたら、「今まで一度も神の時が来たことがないのに、何故"必ず"来るってわかるのですか」と追加して訊いてみれば良いでしょう。

あったのだとしたら、「その時が神の時だと何故わかったのですか、そして、それが現在まで続かなかったのは何故ですか」ですかね。

私も相当意地悪だな
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物事が解決したり変化したりするのは、神が定めた時である、というような意味で使われるようですね。


「臨終の時」もそう呼ぶようですが、この場合は違うでしょう。

努力しているのに、信仰しているのに、なぜか報われない。自分の望みどおりにならない。現実にはありふれた話です。
それは、神がより高い視点から見ていて、あなたには神の考えていることが分からないからだよと仰る方が多いです。
個人的には、聖書で言えば、ヨナ記にあらわされている気がします。

私は、キリスト教徒ではありませんので、これ以上の細かな解釈は控えます。
それよりも、叔母様に「意味が分からないんです」と素直に訊かれる方が良くはありませんか?プロテスタントであれば、カトリックのように価値観を丸のみせよということはないと思いますし、積極的に分からないことを訊いてこられれば、叔母様も悪い気はしないと思います。
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