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こんにちは。
私自身クリスチャンです。

キリストは「聖霊を冒涜する意外の罪は全て赦される」と言いました。

旧約には「貴方が緋の様であっても、雪の様に白くなる事ができる」と書いてあります。
旧約は信者向けの書ですから、一度信者となった身にも関わらず犯した罪も赦されるという意味だと解釈しています。

しかし、多くのクリスチャンが「裁き」を口にしますし、キリスト自身も裁きについて触れています。

どう解釈すれば良いのでしょうか。
因に聖書は3回読みましたし、飛ばし読みは数えきれません。スタディバイブルもいくつか読みました。
その程度の知識背景はあるという前提でお答え頂けると幸いです。
よろしくお願い致します。

A 回答 (8件)

お礼カ所に質問があったようで、気にしておりましたので、本日時間を作って回答を再度書いてみました。

ただしお悩みがあるというわけでは無いようですので今回を最後にしたいと思います。

>多少の偏見が混じっているであろうかとは思いますが、現状こそ地獄、これ以上落ちる事は無い的な思想には心の弱さからくる解釈の強引な捻じ曲げの様なものを疑ってしまうからです。たとえ罪を繰り返しても現状が最低ならまー良いじゃないかと思えますからね。

聖書が述べる罪の結果というのはあまり書きたくないことですが、極めてはっきりしています。有名な言葉ですが、「罪の支払う報酬は死です」という言葉通り生きながら精神と心の死に至るということです。また聖書では、その結果の地獄とは「永遠の炎による罰である」ユダ1:7と述べられイザヤ書66:24では「(体にたかるウジは絶えず、彼らを焼く火は消えることがない」のが地獄の状態で、そこでは死ぬことさえできない場所です。黙示録20;10-15では「10:そして彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池になげこまれた。そこはあの獣と偽預言者がいる。そしてこの者共は昼も夜も世々限りなく責め苛まれる。12:私たちはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。いくつかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じてさばかれた。15:その名が命の書に書かれたいない者は、火の池に投げ込まれた。さらにマタイ13:50によれば「燃え盛るロの何かに投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて、はぎしりするだろう。」さらに黙示録14:10「聖なる天使達のまえで火と硫黄でくるしめラ得ることになる。11:その苦しみの煙は、世々限りなく立ち上がり、獣とその像を拝む者達、。まただれでも獣の名の刻印を受ける者は昼も夜も安らぐことはない。」

今まで何回もお読みになったとのことですので、解説する必要もないことと思います。

>(神は愛である)しかし聖書にはそう書いてあるでしょうか?

以下のカ所に神は愛であるという趣旨の文章があります。ヨハネの手紙1:4章7~19節「7愛する者たちよ、互いに愛し合おうではないか。愛は神から出る。愛する者は皆、神から生まれ、神を知っている。8愛することのない者は神を知らない。”神は愛だからです”。9神の愛がわたしたちの内に顕されたのは、神が独り子をこの世にお遣わしになり、わたしたちが、彼によって生きるようにしてくださったからである。10ここで愛というのは、わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、御子をお遣わしになり、わたしたちの罪への贖いとしてくださったことである。

>(聖書全編を読んでいますか)cincinnatiさんはいかがですか?

たしかに回答者は聖書全編を読了しておりません。現状ではいつになるのかわかりません。ただ当方の聖書理解では聖書は 「大切なものは多くない、いや一つである」(ルカ10:42)のそのただひとつのことがわかりましたので、あわてて全編をよむ必要を感じてはおりません。

聖書のエッセンスはヨハネ福音書3章 16節に記載されておりますので、このカ所につきさらにご検討を加えていただくことは意味があるのではないかと存じます。
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この回答へのお礼

ざわわざお時間を作ってご回答頂き、ありがとうございます。

以前に少々長い期間関わった、私から見て偏った教義を掲げている教派の方々のあまりの自信に、それだけ自信があるのであればヨハネの福音書9:41を読み返してみてそれでもまだ「あなた方は知っている/理解している」と言えるのか?
と聞いたところ、2人を除く全ての信者が口をつぐみ、その2人も「言えるのか言えないのかどうなのか?」と強く問いただすまで口をつぐみ、最後の最後に言えると言っていました。
残念ながらその内の一人は初めから何と言おうが口だけの人間だと思っていたのでその言葉には意味がありません。もう一人も自分の信念を支える為に様々なものを歪めている気配がぬぐえませんでしたし、その際の答え方は正直正気の沙汰とは思えませんでした。面と向かって「あなたが正気とは思えない」と言ったほどです。


失礼を承知である種の人々の傾向を書かせて頂きます。
普段はかなり自信満々に自分たちの主張をしますが、都合の悪い事、都合の悪い事につながりそうな事を目の前に出されると口を濁す。
そして聖書の個所を示し、ここに関してもう少し理解したらどうだと言って終わり。
もちろん、その人自身がもっとその個所を理解するしか道は無く、それをその人に丸投げするしかない事もあるでしょう。
しかし、そうした事情を建前に多くの人が自己欺瞞に陥っている匂いがする。。。結局汚れを洗うのではなく、汚れの上に汚れを重ねようとする人間は建前の裏でしか生きる事ができない。探求を止めて思考停止した人もこの意味では同じです。
正直cincinnatiさんがどのポジションなのか量りかねています。
つまり、仕方のない場合もある事を理解していますが、これでは答えになっていないという事です。

お礼日時:2011/09/19 16:13

>”赦されない”という意味は現状から罪を問われて悪い状況になるのではなく、現状に留まり聖霊の喜びにあずかれないだけ。

つまり地獄と呼ばれるひどい所に置かれるのではなく、せいぜい現状程度にとどまる事であると理解している」様に見えましたが、間違いございませんでしょうか。

聖書は大前提として「神は愛である。」と述べています。その結果としての「私たちの罪は全て赦された。たとえ緋のように赤くても、雪のように白くなる。」となると書かれています。義人はいない、一人もいない。すべての人が迷い出て悪を行っていると聖書が述べていたとしましても大前提は神は愛なのです。つまり神様が問題にしているのはそのような罪人を問題視しているのではなく、そのような罪人を愛されているということを皆さんが知らないということなのです。

つまり神様のメッセージはわたしの声に耳を傾けてください。ということだと思います。もし耳を傾けないのであれば神様が与えようとしている幸いな生活ができないでしょう。だからわたしの声を聞いてください。つまり声とは聖霊が語りかける声です。聖書では幸いな生活と幸いでない生活の分岐点は神様の声を聞いて従うのか否かにかかっていると申しておりますので、従わない世界は苦しい世界だと思います。人はそれを生きたまま地獄に落ちているようだとか、目的もなく無気力になっている生活だとか、罪にまみれた生活だと述べていると思います。

ここで問題は地獄は死んだ後行くところという先入観がございませんでしょうか。たしかにその通りなんだと思いますが、上に記載しましたように神様を認めない生活が、地獄のような苦しみの世界であり、地獄といって過言でないと思うのです。従いまして、神様の声を無視することは人によっては地獄の苦しみとなる場合がありえるということです。

聖書に「「神の国は、そこにあるここにある というものではなくて、あなた方のただ中にある」」という言葉があります。言い換えますと天国はそこにあるここにあるというものではなくあなたがたの中にある。と同様に地獄はそこにあるここにあるというものではなくあなたがたの中にある。と言えると思います。

聖霊が小さな声で語りかける言葉に従って、イエスキリストを信じるならば「あなたは幸いになる。」と聖書は全編を通して述べております。私どもはあまりにも長い間、地獄のような苦しみの中におりましたので、その苦しみに慣れてしまって居ないでしょうか。赦されるという体験が全てを変えてくれると思います。そこでは日常の言葉でなく、ご質問者さんだけが解る方法で神様が語りかけます。多くの人はAM放送の電波でしか情報を受取れませんが、イエスキリストを信じるとFMでも聞くことが出来ます。FMとは聖霊の声と言えると思います。聖霊を否定するとはまるで神を否定するということと同じ結果をもたらすことがお分かりいただけましたでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

cincinnatiさんの仰るような「現状こそ地獄」論を唱える方々の考えは概ね承知しているつもりです。
私は殆どの場合確定しない事は断定しない方なのでそれも否定しません。

しかし、聖書に明確に書かれていない教義(一つの解釈でしかない)を強く信じている人を見る時少々の拒否感というか、警戒感は否めません。
多少の偏見が混じっているであろうかとは思いますが、現状こそ地獄、これ以上落ちる事は無い的な思想には心の弱さからくる解釈の強引な捻じ曲げの様なものを疑ってしまうからです。
たとえ罪を繰り返しても現状が最低ならまー良いじゃないかと思えますからね。


私は霊感による体験をいくらか持っており、その体験から神は愛であり、愛でしかないとは思っています。
マザーテレサも「私は神が人を裁くとは信じられない、神は愛だから」と言っていたようです。正直私も私の体験をどうとらえ方を変えて見ても信じられません。神は只管愛です。

しかし聖書にはそう書いてあるでしょうか?

私は原理主義ではありません。
どちらかというと聖書は真理の書ではあるが事実の書かどうかは解らないという考えです。神の霊感によって書かれたとは思っていますが、それでも人の手を通して書かれたものだからです。
しかし、だからと言って聖書の一句一句を軽んじて軽率に判断するつもりもありません。


今は時間の関係で割愛させて頂きますが、聖書には現状より悪い状態に陥ると解釈するのが妥当な箇所が沢山あります。
それらの箇所はご存知でしょうか。
私は聖書を3回通しで読みましたし、部分読みは数えきれません。しかし私は聖書に対する強い信念を持っている信者さんで聖書全体を読んだ事がある人にあった事が一度しかありません。因みにこの一度に対してもその人は聖書以外にも色々な偏った理解の本を読んでおり、かなり歪んだ理解だなと思っていました。

聖書に偏った理解をしている人たちの多くが聖書全体を読んだ事が無いのですが、cincinnatiさんはいかがですか?



どう聖書を引用するかにもよりますが、偏った人たちは自分たちの支持する個所は断言し、声高らかに言いますがその引用の仕方は原理主義的「聖書にこう書いてある」的な言い方をする事が多いです。ではなぜ他のそれに反対するような個所に対して「聖書にはこうも書いてある」と考えないのでしょう。
それら二種類の個所を目の前に置いたとき、「一解釈でしかない」とは考えないのでしょうか。
ここで偏った見方をする人たちには前後の文脈やユダヤ習慣などを持ち出してきてここはこういう解釈になるから一見対立しているように見えても実は同じことを言っているのだよというのが常套手段のようですが、その内容も聞いててなんだかなーと思うものばかりでした。
つまり一部を強調するあまり他の個所に対する目つぶりが激しすぎるのです。



お答えを頂きながら少々失礼な応答になっているかとは存じますが、重要な事柄の話し合いには多少は仕方ないと考えております。
なにとぞ、よろしくお願い致します。

お礼日時:2011/09/14 12:23

カトリック教会で、洗礼を受けられたのなら


分かると思いますが、カトリックは
「聖書のみ」ではなく「聖書と聖伝」です。

聖伝のほうは読んだことがないので
煉獄について書かれているかどうかは
分かりませんが。

また、聖書のほうにも「死者のため祈る」ことを
薦めている箇所があると思います。

天国、地獄にいる人のために祈っても
意味はないので、間接的に
煉獄を認めているのではないでしょうか。
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このような考え方をするということはプロテスタントですか。


カトリックの考え方を書きますが
天国と地獄以外に煉獄というものがあります。

苦しみを受けますが、その期間は有限で、
出られれば必ず天国に入れます。

裁きと赦しが矛盾しないのは、
これくれらいしか思いつきませんが。

私審判(死後の裁き)を受けた人が
公審判(最後の審判)を受けなおさなければ
ならない理由は私にも分かりません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
不意に忙しくなってしまい、お返事が遅れてしまって大変失礼いたしました。
申し訳ありません。


私は洗礼はカトリック教会で受けました。
しかし、それは儀式を通過するためでカトリックの教義を全面的に受け入れたわけではありません。
煉獄などというものは聖書には一切書かれていませんよね。
それよりもむしろ白か黒かどちらかしか無いとハッキリ書かれている様に見える箇所が殆どです。

真実の正否は解りませんが、煉獄の教えを鵜呑みにはしていません。

お礼日時:2011/09/13 23:49

『許す』という言葉が、


此処では多義的に利用されているのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
不意に忙しくなってしまい、お返事が遅れてしまって大変失礼いたしました。
申し訳ありません。


具体的にどういう意味でしょうか。

お礼日時:2011/09/13 23:46

私は、無宗教者ですが、質問が興味深かったので、あくまで文法的な解釈としてのみお答え致します。


「聖霊を冒涜する意外の罪は全て赦される」・・・ここからわかることは二つです。

1.他は何をしても許されるなんてことはありえない話ですが、それだけ聖霊を冒涜してはならないと強調しようとした文だと思います。換言すれば、「聖霊への冒涜は絶対に許されない」この言い方の方が聖書よりも誤解を生まないのでスッキリすると思います。
2.「全てが許される」で結んでありますが、その後のことが書いてありません。つまりだからどうなんだという部分に良からぬ考えが入る余地があります。
この文では、人によっては、何をしても許されるんだからバンバン人殺しや強盗、詐欺なんでも自由にできるんだと解釈されてしまう余地が生じてしまいます。
この文の主眼は、「聖霊を冒涜してはならない」であり、それはどれぐらい冒涜してはならないかを表現するために、「それから比べたらどんな犯罪でも許されるほどに」と結んだと考えられます。
だが、主眼と別に言葉自体に囚われてしまえば、本意を取り違える余地があります。
つまり、文章からだけ見れば曲解される可能性があるのです。
だから、「一度信者となった身にも関わらず犯した罪も赦される」と考えるのも、拡大解釈になると思います。
何故なら、ど素人でも、いや事実上の犯罪人でさえ、犯した罪が許されるとは思わないだろうし、一旦それが公認されれば、犯罪人にとっては、みんなクリスチャンになる道を選ぶことになるでしょう。
表現が初めから誤解、曲解、拡大解釈される可能性がある以上は、言葉に囚われるのではなく、何を言わんとしているのかという主眼から離れてはダメだと思います。

「貴方が緋の様であっても、雪の様に白くなる事ができる」・・・これも同じです。
どうすればという部分が抜けています。何もせずに自動的にそうなるはずはないからです。
この文章は、「どうしたらそうなれるんですか?」と聞いてくることが前提の表現と言えましょう。
言葉を鵜呑みにしたらいかに価値ある本でもクズ同然になってしまうといういい例でありましょう。
言葉は、人間がしっかりとつかみ取らなければなりません。
矛盾の原因は言葉にあるのではなく、自己の都合を主眼に置いてしまうことで、真の主眼を見失うことです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
不意に忙しくなってしまい、お返事が遅れてしまって大変失礼いたしました。
申し訳ありません。

すみません。
普通の小説や論文を読むのであれば仰る事はよく解るのですが、聖書はそれらとは少し違います。
もちろんそういう要素を無視はしませんが、それだけで読み解く事はできないと思うのです。
ですから、聖書に対して自分自身の思い入れのあるクリスチャンに対して質問をさせて頂きました。
普通の知力を保っているクリスチャンであれば、そういう事は踏まえた上で様々な事を考えているであろうと思ったからです。

お答え頂きました事は感謝いたします。
しかし、少し焦点が違います。

お礼日時:2011/09/13 23:46

>>キリストは「聖霊を冒涜する意外の罪は全て赦される」



気のおかしくなった者から、悪霊をおいだして豚に乗り移らした
ように、イエスの真の姿は、霊の力を持つ者じゃ。

神学など、教会による理論形成の前に、いきいきとした
霊現象があり、それが根幹だとイエスはいっとるのじゃ。

そして、そのような現象をおこしめる聖霊とは、キリスト教に
限ったものではなく、もっと普遍的なものじゃ。韓国の聖書では
聖霊のことは「気」と同じ意味で使われておる。すなわち、病を治す
霊力と考えられる。ここでも、三位一体だの、異端裁判だの、と文字で語られた、
神にまつわる説明、その実はくだらぬ政治的権力の表現を凌駕するできごとなんじゃ。

「霊は生かし、文字は殺す」とはそういうことじゃ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
不意に忙しくなってしまい、お返事が遅れてしまって大変失礼いたしました。
申し訳ありません。


私のご回答に対する解釈が正しければ、本質的には全てが赦されるが、文字に躍ってしまった人たちはその躍った行動故に自ら身を滅ぼす。この期に及んでも神は一切人を罪に定めておらず、人は自らを罪に定めているだけ。
しかしその人もある時気づけば赦されている事を知る。

の様な意味になりますでしょうか。
もう少し具体的に書いて頂けると助かります^^;
よろしくお願いいたします。

お礼日時:2011/09/13 23:42

>キリストは「聖霊を冒涜する意外(以外)の罪は全て赦される」と言いました。


>旧約には「貴方が緋の様であっても、雪の様に白くなる事ができる」と書いてあります。

プロテスタントのクリスチャンです。モルモン教、統一教会、エホバの証人とは関係ございません。また牧師でもなく教会の何か教職にあるものでもございません。一介のクリスチャンに過ぎないものです。そのような立場ですので、発言にも冒険ができるということをはじめに述べさせていただきます。

コンピュータの設定やプログラミングでは順番が非常に重要な意味を持つ場合があります。ご質問者さんの文章も順番を変えますと、聖書の意図がはっきりするところがございます。つまり全部を肯定して一部を否定するか、全部をまず否定して、一部をその後肯定するという手法を取ります。

つまり聖書も同様の手法を用いて、「あなたの全ての罪は赦される」とすべてを肯定しております。しかしその後に「但し聖霊を冒涜する罪は赦されない」と述べていると一クリスチャンである回答者あ受け止めております。

また同様に聖書で語られている神が実は側面を持っているということを考えてみたいと思います。この宇宙と世界を創造した理解不能の神という存在と、特に人間に向かい合っているイエスキリストという面、およびイエスを通してみることができる神の意志を伝える媒体としての聖霊という面があると思います。聖霊の働きというのは私どもに何かを伝える面があると思います。

聖書を読んでいるときも、日常的な業務をこなしているときも語りかけてくるのは聖霊です。極論すれば電話機のような存在で、もしその存在を否定してしまったら、実際問題として何も聞こえてこないということになります。ご自分が赦されているか否かもわからなくなってしまうのではないでしょうか。

つまり聖霊を冒涜(否定)することは神が与えようとしていることをあえて受け取らないと拒否することであり、結局は神を否定することであるからではないかと思うのです。聖霊とは何か超自然な存在ではなく、キリストを受け入れた後、私どもに語りかけ、確信を与えてくれる存在です。すなわちキリストを受け入れた後、私どもの導くものとなるのが聖霊とおもいます。聖霊の働きの最大のことはなにはともあれ、私どもに状況に関わらず嬉しくさせてしまう力にあると思います。そのような聖霊を冒涜してしまうというのは自分を無意味に痛めつけているようなものではないでしょうか。それで聖書では聖霊を冒涜してはいけないと述べているのだと思います。

聖書を全編読んでいないので回答者としての資格が問われるところですが、
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
不意に忙しくなってしまい、お返事が遅れてしまって大変失礼いたしました。
申し訳ありません。


さて、ご回答を読ませて頂いた私の解釈は、「cincinnatiさんはイエス様が仰った”赦されない”という意味は現状から罪を問われて悪い状況になるのではなく、現状に留まり聖霊の喜びにあずかれないだけ。つまり地獄と呼ばれるひどい所に置かれるのではなく、せいぜい現状程度にとどまる事であると理解している」様に見えましたが、間違いございませんでしょうか。

お礼日時:2011/09/13 23:38

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