最速怪談選手権

本質 【が見える / を見る / を見抜く / を見極める】
という視覚表現を使った言い回しを、慣用的で身近だと思い何気なく使っています。

ある形而上的事象について 「本質は何か」 と質問されたとき、「本質とか、わかりませんが、視える展望があったならむしろ懐疑します」と答えました。

文は、仮定を疑う形をとっていると言えます。
順当に読めば、"何かと問われても本質が有るか無いかでいえば無いかもしれず、仮にその本質が有るとしてもその本質は見えないのではないか、本質が見える展望はないだろう、あるとすれば疑わしい展望だろう"
と伝わると思われます。(視の表記を使っているのは、見抜く・見極めるに引き寄せた印象がこの字形にあったからですが)

しかしながら、質問者から「本質が見えるなどと言ってない」という意外な反応を引き出してしまいました。
さらに、「ことの本質が”見える”というような言い方をすること自体?マークで考えもしてなかった」と言わせてしまいました。

これはどういう齟齬なのでしょうか。わたしの文の表現に分かりづらさがあったのでしょうか? 
どういう分かりづらさに由来するのでしょう?
(もちろん、形而上学の質疑応答に無理がない教養を前提にしています。)

A 回答 (7件)

本質が見えなければ本質は何かがわからないので、


「本質は何か」と問うた人が「本質が見えるなどと言ってない」と言うのは矛盾しています。

感情的になって論理を逸脱しているわけですが、
「ことの本質が”見える”というような言い方をすること自体?マークで考えもしてなかった」
もその流れでしょう。
別に?マークではありません。

齟齬と言うなら、相手は本質を言葉にしたい、雨合羽さんは言葉にできない、という見解の違いでしょう。
原文で、「仮にその本質が有るとしてもその本質は見えないのではないか」という本意は十分伝わりますし、「本質は何か」の答えのひとつになり得ると思います。
表現はむしろわかりやすいのですが、相手の期待に直截に答える内容にはなっていなかったので、そこに相手が感情的に反応しただけでしょう。
言葉にすれば嘘になる、というありきたりな表現の機微すらも理解してもらえそうにない相手かもしれませんね。

冷静な相手であれば、
「なるほど、そういう捉え方もありますね。なぜそう思われるのか、その理由をもう少し教えてください」
などといった具合に対話が進んだように思われます。
  

この回答への補足

そろそろ締め切ります。

仮定の提示を受けたとき、それが論理を運ぶ手段であって「あなたが~」という主語の潜んだものではないということがわからない、こうしたケースを稀にですが見なくもありません。
発達障害であるとか、感情障害、気分障害の傾向であるというのは簡単ですが、
じゃあどうすれば別の言い方で伝えることが出来るか、となると、むずかしいんですよね。。。

補足日時:2011/09/25 00:20
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
わたしもそう思います。しかしもしかするとある種の人々にとって日常的な光景のように感じています。
学校で教師や友人と、家で親兄弟や配偶者と、「そんなこと言っていない」式の喧嘩がありふれていそうだからです。感情、のあたりに鍵がありそうですね。

お礼日時:2011/09/15 18:15

 こんばんは。

丁寧なコメントありがとうございます。しかしながら少しばかりカチンともきました。
「本質という語は、根っから分析的な概念です」この言葉遣いそのものがamaguappaさんを困惑させている原因とも考えられました。「順当に読めば」と但し書きされていますが、これもamaguappaさんにとっての「理解あるいは認識」であり、それが全てに通用するとは限りません。、"何かと問われても本質が有るか無いかでいえば無いかもしれず、仮にその本質が有るとしてもその本質は見えないのではないか、本質が見える展望はないだろう、あるとすれば疑わしい展望だろう"とはどの様な根拠によるものでしょう。なぜ「無いかもしれず」と考えるのでしょうか。「有ると考えること」の余地はないのでしょうか?。こうした部分に相手の方は「独断性」を感じ取っての反応ではなかったのかと思われます。これは下記の文面からも明らかです。

>>遠山茂樹の昭和史は、高校の日本史をさぼりすぎた罰として単位と引き換えのレポート課題でした。高校出身者の野田さんが松下政経塾出たてで毎朝通学路で演説をしていた頃です。

野田さんが駅頭で街頭演説をしていたのは80年代も後半です。この時には遠山茂樹の『昭和史(旧版)』は既に絶版となり街頭に流布していません。図書館でも貴重書・稀覯書扱いで滅多に目に触れることなどなかったはずです。amaguappaさんが目にしていたモノは恐らく1959年の「新版」で重版のはずです。同じタイトルでありながら両者は性質が異なる内容です。恐らくは『明治維新と現代』の誤解でしょう。これなら辻褄もあいます。

>>歴史学というのも日本人にとっては難しい分野ですね。西欧人が歴史学を成熟させたようにはなかなか成熟させられませんね。なんででしょうね~。

 この理由は簡単です。ヨーロッパ大陸で発生した哲学もそこから派生した社会科学も「モデリング」を志向したからですよ。アダム・スミス然りマルクス然りヴェーバー然り、ブローデルもウォーラー・ステインもジョバンニ・アリギも同様です。彼らに共通する点は「世界をどう認識するか」のただ一点だけです。これに対し、日本の史学史から浮き彫りになる要素として西欧的な意味での合理性が欠落している。人間を社会との関連で見る視座が見られない特質があります。その例として慈円の『愚管抄』では「道理」が採り上げられることも広く知られているところです。少なくとも1945年以降、日本の戦後歴史学は数多くの成果を社会に示してきたことも明らかです。それは重圧からの解放があったと共に新たな重圧に対して自らが立ち向かうことで学問としての自律性を示す責任を積極的に負う形を選んだからです。

 以上、amaguappaさんにはキツイ言い方かもしれませんが、断定とも受け取られかねない表現は避けられたほうが賢明であると存じ筆を執らせていただきました。
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この回答へのお礼

お耳触りでしたか。
以下はタヌハチさんが下さった文章です。

> 事象を対象化する作業です。例えば「時間の本質」を規定するならば、物理学者のスタンスではマクロ的には地球が誕生してから消滅するまでの間とするかもしれません。政治学者にとっては1945年8月15日以降から現在に至るまでの間を55年体制の成立と消滅そしてそれ以後と三段階に区分するかもしれません。ハイデガーの例の本では「個としての人間が生まれてから死を迎えるまでの間」「アリストテレスからニーチェに至るまでの間とニーチェ以後」を時間の区切りとしてます。これらを抽象化した結果「時間の本質」は「AからBに至るまでの間」との曖昧な規定しか出来ない。明確に規定を求めろと言われてもそれは個別の領域により尺度と価値が異なり、辞書的な意味としての本質を規定することは事実上不可能といわざるを得ないとも考えられます。<

わたしはこの文章へのお礼として誠意をこめて書いていますが、次の括弧の中を省略しています。

「(仰る通りですね。) 本質という語は根っから分析的な概念です。(まさに仰る通り、これを既定しようとするなら、事例から抽出することになり、個別の領域により尺度と価値も異なるというわけです)」

繰り返しを省略しないほうがよいのかもしれません。
言ったご本人はご自分の言葉がわたしに浸み込むのを見届けるとき、ご自分のどの言葉にわたしが響いたかを見失わず、ご自分の言葉を忘れはしないだろうとつい思ってしまうのです。

> "何かと問われても本質が有るか無いかでいえば無いかもしれず、仮にその本質が有るとしてもその本質は見えないのではないか、本質が見える展望はないだろう、あるとすれば疑わしい展望だろう"とはどの様な根拠によるものでしょう。なぜ「無いかもしれず」と考えるのでしょうか。「有ると考えること」の余地はないのでしょうか? <

生きることの本質が何かであることが有ると考える人は有るという前提で何々と答えるでしょう。
それだけのことではありませんか。
タヌハチさんがすでに仰ったように、そしてそれをわたしが分析的な概念だとしたように、本質は、固有の領域の視点の取り方に規定されるのですから、統合的な展望が無いと考えることに無理は有りません。しかし1人1人には問いに答えられるだけの固有の領域がありますから、わたしも自分については非分析的な叙述でお答えしてあるのです。

高校時代にレポートさせられた遠山茂樹の『昭和史』は改訂版の新書です。懐かしい筆者名を見たので、思い出話をしました。遠山茂樹の昭和史と言えば、って、こういうのって変ですか?
少しばかり過剰な反応をしていらっしゃるかなという印象です。

日本に歴史学が成熟しないことにお答えを賜りました。
 
> ヨーロッパ大陸で発生した哲学もそこから派生した社会科学も「モデリング」を志向したからですよ。

そうですか。なるほど。

> 彼らに共通する点は「世界をどう認識するか」のただ一点だけです。

ふむふむ。なるほど。

> 日本の史学史.......人間を社会との関連で見る視座が見られない特質があります。

そうなんですか。

> その例として慈円の『愚管抄』では「道理」が採り上げられることも広く知られているところです。

道理は、人間を社会との関連で見る視座にないのですね。

> 少なくとも1945年以降、日本の戦後歴史学は数多くの成果を社会に示してきたことも明らかです。それは重圧からの解放があったと共に新たな重圧に対して自らが立ち向かうことで学問としての自律性を示す責任を積極的に負う形を選んだからです。

そうですか。戦後歴史学は、歴史学の非成熟の問題とは切り離しましょう。西欧の歴史学でも二者は切り離されていますでしょうから。

> 以上、amaguappaさんにはキツイ言い方かもしれませんが、断定とも受け取られかねない表現は避けられたほうが賢明であると存じ筆を執らせていただきました。

いえいえ、参考になりました。断定についてのご見解もたいへん参考になりました。

お礼日時:2011/09/19 13:15

 夜分遅くに失礼致します、#5です。

少しばかり昨日の補足をさせていただきます。
揚げ足をとるようで申し訳ないのですが「(本質)が見える/を見る」との言葉を耳にした憶えが僕にはありません。「(本質)を見抜く/見極める」ではニュアンスとそれを裏付ける意識レベルが異なるとも考えられます。
 乱暴な分類が許されるなら、知覚としての「見る行為」と認識としての「理解する」との違いとも言えるでしょうか。
 確かサンテグジュペリの『星の王子様』にこんな言葉が記されていたと記憶しております。狐の言葉ですが「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ」この30字に満たない言葉がこの問題の本質(本意)を言い当てているかと考えられます。
 「モノがあるからその本質が見える」との表現を前にした時、少なからず僕は違和感を覚えます。逆に言うならば「形としての実態がないモノに本質はない」との極論も成り立ち得るはずです。けれども実際に「本質」は厳然として存在するとしか言いようがありません。
 こうして文章で遣り取りすることの本質が何であるかを考えた時、文章が単なる文字の羅列でもなく、送り手も受け手も「そこに記された、織り込まれた、託された意図」を何とか伝えよう、或いは理解しようとする目的で交わされるとの理解に立つならば、「読」は単なる音声信号としての機能に留まる性質の行為ではない、と僕には考えられます。
 寧ろamaguappaさんの本意は「本質を見抜く/見極める」にあったのでは?と僕には感じられます。幾重のベールに隠れたその奥にある部分を「理解する/認識する」とのニュアンスならば、視覚的に「見る/見える」は行為に重点があり「認識」の基本作業でもあっても認識そのものとは言い難い作業でしょう。法隆寺の救世観音の巻き布をフェノロサが外させた時に法隆寺の坊さん達は「災いが起こる」と言って一斉に逃げ出しましたが、仏像を覆っていた巻き布の最後の一巻きが外された時に現れたのは、神々しい仏像の姿だったそうです。もしその巻き布が外されていなかったなら、今でもこの秘仏は謎の仏像としてその存在すらも知られていなかった可能性もあります。
 げに恐ろしきは言の葉なり。
 
 
 
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この回答へのお礼

いえ、揚げ足などではなく回答です。国語カテゴリを選んで、本質が「見える」という表現について伺ったのですから。タヌハチさんと同じ、「見える」「見る」を用いない方もいるのではないかと思ったのです。世代や出身地方によって用いない可能性もあると思いました。ためしにgoogle検索をかけますと、

"本質を見る" 11,500,000 件
"本質を見て"  9,240,000 件
"本質を見た"  5,810,000 件
"本質を見ない" 4,270,000 件
"本質を見ぬ"   379,000 件
"本質を見よ" 495,000 件
"本質を見よう" 1,090,000 件
"本質が見え"  2,750,000 件
"本質が見られ" 1,150,000 件
"本質を見せる" 2,160,000 件
"本質を見せて"  3,110,000 件
"本質を見せた"  1,380,000 件
"本質を見られ" 4,780,000 件

などある程度の流通は見込める表現であるといえそうです。seeやvoirやsiehと同様、「見る」の意味のうち、目の網膜に映るという意味は、辞書の(1)の項にすぎないのは確かのように思います。

>「モノがあるからその本質が見える」との表現を前にした時、少なからず僕は違和感を覚えます。

わたしも違和感を覚えます。幸いなことにそんなことを言う人は、見たことも聞いたこともないです。
また、わたしの考えとは掛け離れています。ご参加の回答者さんたちを見回しても、お一人もいないようなのでご心配におよびません。

> 逆に言うならば「形としての実態がないモノに本質はない」との極論も成り立ち得るはずです。

ヘーゲル解釈のレベルに立ってご返信すべきなのですか? 実態ってなんでしょうか? 
ギリシャ哲学以来、形相という便利な言葉があります。フッサールの場合は形相を本質とするようです。

> 寧ろamaguappaさんの本意は「本質を見抜く/見極める」にあったのでは?と僕には感じられます。

見るも見抜くも変わらないつもりの精度で、「本質が視える展望など、、」と書いています。更に言いますと言葉の重心は「展望」(vision)のほうにありました。
わたしの書き込みは、あのときBAになりました木造さんのお答えへの反応でもあります。
子を生み育てること、生きて暇つぶしをすることは、「生きることの本質は何」という問いに与えられた偽の展望だという意見を込めて。

> 視覚的に「見る/見える」は行為に重点があり「認識」の基本作業でもあっても認識そのものとは言い難い作業でしょう。

そうですか。君は見えてても見えてないんだよ、なんて青年が青臭い科白を耳にしたら、その青年を許してやってください。
ご意見参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/19 11:09

 こんばんは。

果たしてamaguappaさんの御質問に対する答えになっているかどうかは判りかねますが、私なりにない知恵を絞っての感想です。趣旨にあわないとお感じになりましたら、笑い流してください。
 本質が見える、本質を見抜くとの言葉、言い回しには一つの前提があります。事象を対象化する作業です。例えば「時間の本質」を規定するならば、物理学者のスタンスではマクロ的には地球が誕生してから消滅するまでの間とするかもしれません。政治学者にとっては1945年8月15日以降から現在に至るまでの間を55年体制の成立と消滅そしてそれ以後と三段階に区分するかもしれません。ハイデガーの例の本では「個としての人間が生まれてから死を迎えるまでの間」「アリストテレスからニーチェに至るまでの間とニーチェ以後」を時間の区切りとしてます。これらを抽象化した結果「時間の本質」は「AからBに至るまでの間」との曖昧な規定しか出来ない。明確に規定を求めろと言われてもそれは個別の領域により尺度と価値が異なり、辞書的な意味としての本質を規定することは事実上不可能といわざるを得ないとも考えられます。
 先日、故人となられましたが遠山茂樹という近代史の研究者に『昭和史(旧版)』という書物があります。ここで描かれた歴史像(歴史叙述)を巡って、亀井勝一郎や小林秀雄などの文芸畑から「人間不在の歴史叙述」との言われない批判が寄せられると共に言論界の全てを巻き込む大論争が繰り広げられました。小林秀雄や亀井勝一郎が主張する「個々の人間の足跡=歴史」とするものですが、歴史学の立場は「社会と人間の関連性を描くこと=歴史」であり、「現在をどう認識するか」に力点が置かれています。「過去を過去として描くノスタルジアに浸るだけ」か「過去から未来へと繋がる道筋から何を学び取り、将来への道標とするか」では明らかに歴史の「本質」をどう見るかが異なる。思索を重ねる中でしか「本質」の一側面すらも理解し得ないと僕には思われます。
 ハイデガーには『物とは何か』との著作もありますが、その冒頭は「物とは何か。あの“もの”のことです」との禅問答にも近い形で始まります。この様なお題に出会って、眠れない夜がしばらくの間続きそうです。
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この回答へのお礼

本質という語は、根っから分析的な概念です。話は逸れますが、いま、哲学カテで、本質観取と仏教という質問を立てています。実はわたしはこれらが相容れないと考えているものの、僧侶や、仏教に熱心な方の中には、現象学から見た仏教とか量子力学から見た仏教などという、分析的思考を駆使する方が散見されるものです。そういう方が参加してくださるとよいのですが。自分の直観にしたがって誤差か狂いの在り処を精緻に見出したくなりました。

遠山茂樹の昭和史は、高校の日本史をさぼりすぎた罰として単位と引き換えのレポート課題でした。高校出身者の野田さんが松下政経塾出たてで毎朝通学路で演説をしていた頃です。
歴史学というのも日本人にとっては難しい分野ですね。西欧人が歴史学を成熟させたようにはなかなか成熟させられませんね。なんででしょうね~。モノ化する脳の研究なんてのも面白そうなテーマです。

お礼日時:2011/09/17 01:28

 (もちろん、形而上学の質疑応答に無理がない教養を前提にしています。

) というお断りの通り、本質とは形而上学的事項を指示しているのでしょう。
 そして私たちの多くのことばは、経験や物象の事項を幻想的共通性で指示する用具として使用されてきています。
 先ず多くの齟齬の原因はここに由来するのでしょう。
 “見る”、“視える展望”という表現も“見えもしな”、“視える展望でもない”ものを言語を借りて物象的経験ではない事柄を指示しているのでしょう。

 この間の現実の齟齬の分析はお二方の仰せのとおりで、更に敷衍する必要はないでしょう。

 質問者Aはがせっかく“本質とは何”とだしたら、はぐらかされるように、“そんなものはわかりません”という対応に接した。
 これはぐらかされたという齟齬だと思います。“本質”に関する見解やその性質、所在レベルが語られという予測と期待に対する、質問自体の存立のひていとなっています。

 そして次に続くことばが、“視える展望があったら懐疑”というのだから、質問者Aとしては“視える視えないの問題ではない、そんな展望などは提示してもいない、展望の問題でもない”ということですね。

 現象経験のことを聞いているのではないのに、その次元の問題とされては心外である、ということなんでしょうね。
 ここには現象経験を越えた事項を指示するのに現象事項を支持する言語で表現することからの齟齬と、現象経験を超えた事項事態を、現象経験のレベル(での表現)で対応している齟齬が起こっているのだと存じます。

 本質っていう以上は、やはり世界と手法について経験ではなく観照というのか、存在それ自体とかカントのもの自体とか、思考や弁証、推論を超えた事項になっての問題として出していると存じます。

 正に、(形而上学の質疑応答に無理がない教養前提)の問題だったのでしょうね。
 形而上学的質疑応答に必要な教養がないのですが、天河童さんの質問なので参加してみました。
 着流しの落とし差しが、許せよと頭で暖簾を分けて。
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この回答へのお礼

こんにちは。ありがとうございます。竹取の翁で御一緒しましたね。

> 現象経験を超えた事項事態を、現象経験のレベル(での表現)で対応している齟齬

ここが難しいところですね。
言葉と論理の世界に立って対話することを好まない人もいます。
でも、現象、経験を超えたことだからこそ、論理では、さまざまな言葉を否定して思考の言葉を狭めていくしかなくなります。
そうしてそのようなテーマでは、否定弁証法みたいな、ないない尽くしの言葉になってしまうのでしょうね。
わたしの用いた、仮定を否定する導入の仕方、これはとても近代科学の手法に染まった論理の導入の仕方であります。
便利な方法ではあるのですが。。。まあ、禅問答では用いないですものね。

お礼日時:2011/09/15 18:04

 混乱を避けるため、文中の「質問者」をA、「わたし」をBで表現します。



 一番あいまいなのは「本質が見える展望」という言葉です。これは可能性というような漠然としたことを指しているとしたら、議論は恐ろしく低レベルでナンセンスです。Aは本質は何かと問い、Bはそんなもの解るわけはないといっているだけの話です。

 従って、ここでは「本質が見える展望」とは分析方法を言っていると仮定します。そうするとAは本質は何かと聞いているのに対し、Bはそれに至る方法はないと答えており、方法論がないといっているのであって、祖語もいいところです。

 さらにAが「ことの本質が”見える”というような言い方をすること自体?マークで考えもしてなかった」といっているのは「私(A)は本質に対するBの思考結果を聞きたい、それも用意していないのか、手がかりもないのか、nothing at allで何しに来たのか」と言っているわけです。

 つまり、祖語なんてレベルではない、結果を出せと言っていると思われます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
思考結果を求めるものに対し、方法がないと答えると、起こりがちな低レベルでナンセンスな議論なのですね。
形而下の俎上ではよくありそうな話です。

お礼日時:2011/09/15 17:35

あなたは、本質が見えるを視覚表現だと思い、視える展望があったなら~と答えたのですね?



この場合、本質が見えるの見えるは、目に見えるという意味の見えるではなく、隠れていた内面が浮き彫りになったという意味での見えるです。

つまり、表面的な部分ではなく内面的な部分が確認できた際、「お前がどういう本質なのかわかったわ」というような表現を「本質が見える」というのです。

目に見えている訳ではありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

> あなたは、本質が見えるを視覚表現だと思い、視える展望があったなら~と答えたのですね?

わたしは、本質が見えるではなく「見える」を視覚表現だと思うのみです。
また、慣用に従い、本質がわかる よりも 本質が見える を咄嗟に使って云々と答えました。

視覚表現と形容したのは、本質に対して英語ならseeを、フランス語ならvoirを、日本語なら見るをあてがうという程の意味でございました。

お礼日時:2011/09/15 17:29

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