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キリスト教では『神は愛なり』と言っていますが、何故そう言えるのか、実感が湧きません。
神が愛であるということが実感できるような具体的な事柄を教えて戴きたいと思います。

人間の罪を購うために、父なる神がその子イエスをこの世に遣わし、イエスが十字架上の死をとげることによって、人間の罪を許したのが、神の愛の証拠だと言われても、信じる人には有難い話かも知れませんが、普通の人間にとっては、全く馬鹿馬鹿しい荒唐無稽の話としか思えません。
もし、神が全能であって、人間の罪を許そうと思うなら、なにもイエスを地上に派遣してイエスを死なせるなどとややこしい小細工をしなくても、いくらでも許せるのではないでしょうか?

しかも、この話を信じた者は救われるが、信じない者は救われない、と言うのでは、なおさら、神はえこひいきの神としか思えません。

クリスチャンの方々から見れば、とんでもない、不遜な質問ですが、真面目に悩んでますので、信者さんの信仰告白的な話ではなく、信者でなくても、普通の人間でも神の愛を感じざるを得ないような、具体的な「事実・事柄」を教えて欲しいと思います。

勿論、人によって感じ方の差はあると思いますが、具体的な「事実・事柄」を教えて戴ければ、それを神の愛の表れだと感じられるような人間になれれば幸せだと思っています。

A 回答 (11件中1~10件)

 あなた自身が愛そのものになればいいと思います。


 そう思えばいいことです。
 神といっても目の前にいる人にその思いをするしかないでしょう。
 それは人に対する振る舞いになります。
 よく人格神と聞きますが、人はそういう成長の中にいるからわからないんでしょう。
 5歳の子供と80歳の経験者では違います。この程度の例え話ならわかるでしょうか?
 それがわからないなら、、、まず、聞くという態度を習うことです。まずは聞くことから始まりますから。
 仏教では諸天善神は必ず守るといわれ、これは周囲の人の行為などに見ます。
 その先の詳しいことは生命哲学に入るでしょう。
 目的地にたどるためにはいろんなルートがあるのでしょうが、信仰は周囲に人にするしかないでしょうね。仏教では人の中に諸天善神を見ますし、、、
 信仰を持たない人は、神よりも親を優先するとも聞いたことがあります。なぜなら、あなたの存在のもともとの原因だからです。
 愛とセックスを間違えないために、みだらな行為を禁止してるのは理解できます。
 お母さんが赤ちゃんが生まれたときのうれしさや喜びが生命に対しての愛なんでしょうね。
 命をいつくしむということでしょう
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私は幼稚園のころからキリスト教になじんできました。


お誕生日にはこんな歌を歌いました。

生まれる前から神様に愛されてきた友達の誕生日ですおめでとう。
生まれて今日までみんなから愛されてきた友達の誕生日ですおめでとう。

一人一人の人間の価値の基本には神様に愛されているからという根拠がある。
これは漠然とですがしっかりと焼き付いていたと思います。
のちに基本的人権という思想や福祉の思想の基本になっていることを知りました。
それでも聖書がなかなか納得できず受洗したのは30を過ぎていました。
イエス様の教えに山上の垂訓というのがあります。
その中の「幸いなるかな嘆き悲しむものその人は慰めを得ん」
というところに長いこと引っかかっていました。いまさら人にも聞けないし
と思っていたら、ある時お説教の中で神は嘆き悲しむものを決して見捨てず
ひときわ深く気にかけてくださる。という解き明しを頂き、なんだそうだったのか。
と思いました。聖書は突然目の前が明るくなるような分かり方をするものです。
どうか根気よく道を求めてください。
教会は行ってみれば明るい面白い人が多く何でも聞いてくれたり教えてくれたりします。
決して堅苦しいところではありません。神の前に何も背伸びする事も、虚勢を張ることもなく、
あるがままの自分でよいのです。
とてもすなをな気持ちになれるところです。
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うちの近所にはユダヤ人の方がたくさん住んでいる地域があって、お話をする機会も多いのです。

最近は何度か二十歳前後の男の子達を話をすることがあって、当然、イスラエルとパレスチナの和平の話しになります。アメリカにもう何年も住んでいる若い男の子でも、”絶望的である”と太鼓判を押します。

戦後六十年以上もたつのに、いまだにナチスのメンバーを探し出して、裁判にかけようというお国柄です。ユダヤ人の方たちの尽力で、立派なホロコーストミュージアムもあります。不当な扱いを受けたときには、絶対に忘れない人たちなのです。この精神性の対極を行くのが日本人のおおらかさです。

大宝律令を見てみると、もう7~8世紀のころから、罪を犯したら、罰金を払え、と書いてあります。今でも心の深いところに、禊を受ければ罪はきれいさっぱり洗い流される、という認識があって、いつまでも過去を根に持つのは、みっともない、という方が大多数です。自分の犯した罪におののく度合いも低いように感じます。

そういう国民性の中に育った人が、”罪は許された”といわれても、俄かにその愛の深さに感謝するのは、無理というものです。

旧約聖書の中には、人間らしい罪を犯すユダヤの人たちが、次々と出てきます。そして、自分以外の神を崇めてはいけない、と口を酸っぱくして繰り返すユダヤの神を最後まで裏切り続けて、神様に見放されたところで終わります。(ややこしい小細工なしに、何度も、何度も許し続けた挙句に、堪忍袋の緒が切れた感じです。)

そしてご質問のイエス・キリストがでるのですが、私には、彼の教えが、人間として、美しく生きてゆくためにはかけがえのないものだと思われます。私が長年求めてきた心の安らぎが、彼の教えに従うことで、何の無理もなく叶う。たったそれだけの話です。それが神の愛です。

彼の教えを信じて実行しなければ、この心の安らぎは訪れません。

彼が昇天するまでは、ユダヤ人だけにしか許されていなかった神の教えを、世界中の国々に広めることを弟子達に命じていったのも、彼の”人類全てに対する愛”を感じさせるエピソードです。

存在そのものが罪深く、人を傷つけ悲しませてしまうような、そんな立場にあったとしたら、”許される”ことの素晴らしさも判るというものです。それがあほらしいと思われるのは、今までの貴方の人生が比較的平穏であり、将来の見通しも明るいものだからではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私も、人間としてどう生きるべきかについてのイエスの教えには感動しますし、同感です。
私もその様に生きたいと思っています。

しかし、もし、神が愛であると言うなら、イエスの磔刑だけでなく、この世のいたる所で神の愛が感じられてしかるべきではないかと思うのです。
そこで、イエスの磔刑以外で、この世の中の、どういう事実・事柄に神の愛を感じているのか、神の愛を感じておられる方々に教えて欲しいと思っているのです。

と言うのは、私自身も、出来ればそう言った事実・事柄に神の愛を感じてみたいと思っているからです。
どうも、私の心の中には、この大宇宙に対する信頼感が欠けていて、大宇宙と対立しているような感じがあるように思えるために、出来れば、この不信感を払拭して、大宇宙に対する全幅の信頼感・安心感を樹立したいと思っているからです。

お礼日時:2011/10/30 11:27

 自己を遡登って、凝視すると、そこに全体として唯一として観ている自己いる。

たった一つの全体である星の意識。
 万人万物をみている。
 愛ってその凝視でしょう。その意識に見られている。愛なる凝視。
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この回答へのお礼

うーむ、難しい。
でも、ご回答下さいまして、ありがとうございました。
ご回答を、何回もよく読んで、じっくり考えてみたいと思います。

お礼日時:2011/10/30 10:08

時空間に於いて神が行った壮大な愛について。



時空間に於ける相対的愛情理論による愛とは 私が居なくても
難なく貴方が暮らせるようにする ということです。

言い換えるなら 貴方に難を逃れる術を与えるということです。

具体的には神が 人の脳の発達に合わせて 脳にプログラムを
仕込んだのです。

そのプログラムの内容を紹介します。

1.周りに合わせる情動「擬態」
脳が進化したとはいえ 暴力が生態を支配する弱肉強食の原理は
不変である。したがって人が暴力を放棄することはありえないの
だから 不本意にも敵か味方かに付かなければならないのだ。
もし戦いを拒むなら敵と見なされひどい目に合う。それを防ぐ為
に周りに合わせる「擬態」の能力を神が与えたのである。

2.身代わりによる解決「生贄」
戦いばかり続けていると 人が滅んでしまうため 戦いを回避
する必要もあった。しかしそれでは暴力欲が満たされなかった。
そこで「生贄」を出して皆の欲を満たす知恵を神が与えたのだ。

3.自己の欲求を正当化する「赦し」
他人が欲求を満たす為に人に迷惑をかけた場合 それを赦す事に
よって 自分も欲求を満たす事が赦される 赦しの共有を神が与
えたのだ。

4.見せかけの「救い」
病に苦しむ人がいれば その人の為に働き回復を祈りながらその
人を見下す。そして回復したなら報酬としての貸しを取り立てる
労働の貸し借りを神が与えたのだ。

ここまでは神と悪魔が相談したうえで人に与えた能力です。
ここで悪魔は満足して席を立って消えました。
その後で神は 最後のプログラムを仕込んだのです。

5.プログラムの消去による「魂の解放」
1~4までを消化したのち それらのプログラムが自動的に消去
されるように神が仕込んだのだ。そして最後に残る 何にも囚わ
れない自由な愛を神が与えたのです。それはただ見守るだけの
純粋かつ最強の愛であった。

1~5まですべて神が悩みぬいたあげく人に与えた愛なのです。

貴方は神を愛しますか? それとも 1~4を繰り返しますか?

信じるか信じないかは貴方しだいです。(´ω`;)
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この回答へのお礼

うーん、とても難しい。
でも、ご回答戴き、ありがとうございました。
良く、考えて見ます。

お礼日時:2011/10/30 10:05

>キリスト教では『神は愛なり』と言っていますが、何故そう言えるのか、実感が湧きません。


>神が愛であるということが実感できるような具体的な事柄を教えて戴きたいと思います。

約2000年前に実際の事件として起こったことは、神を信じない人々の目から見ますと以下のような状況だったと思います。

イエスと呼ばれるユダヤ人でありながら、ユダヤ教を否定するような言動や行動の多いある宗教団体の指導者がローマ兵により捕らえられ、処刑されたということです。

従いまして、2000年後の私ども日本人には実感したり、感情を移入して彼の死を悲しんだりすることが出来ないのは仕方のないことと言わざるをえません。しかしもしご質問者さんのご両親がもしですが、亡くなられたらどうでしょうか。尋常な精神状態では居られないと思います。わたしの妻も自分の子供のためには命も捨てる勢いですが、ご質問者さんのご両親はどうでしょうか。

あるいはご質問者さんが結婚をされていて、お子さんがいたとして、お子さんにはどのように接しておられますでしょうか。少しぐらいと言わず、かなりの犠牲も喜んで負えると思っておられないでしょうか。

愛とは犠牲です。犠牲の究極の姿は自分の命を誰かのために与えてしまうことだと思います。なぜなら人は普通、自分の命ほど大事なものはないと思っているはずだからです。「命あってのものだね」というのは日本人の間に流布している誰でも納得させられる言葉のひとつです。イエスは処刑されましたが、実はそのような死を迎えることをすでに了解して死に向かいました。

いまイエスキリストとまるで関係ないと思っているかもしれませんが、イエスは全人類のために命を捨てましたので、実はご質問者さんとも大いに関係がございます。その関係に気づいて頂ければ即座に神は愛であるとご了解いただけると思います。

しかしこのことに「気づく」にはおそらく、後戻りのできない「跳躍」が必要なのではないかと思います。イエスキリストを信じるということは理論では受け入れることができないと思います。神の存在を証明することができないように、神が存在しないことを証明することも理論や理性では出来ません。

「神は愛である」というのは聖書の中心と思います。また聖書は全編を通じてこれを説明しようとしていると述べても大きく外れていないと思います。聖書をお読みいただければ、必ずご質問の回答が得られるとお約束いたします。
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この回答へのお礼

とても丁寧なご回答、ありがとうございました。
ご回答を何回も良く読んで理解したいと思います。

お礼日時:2011/10/30 10:01

1,映画で視たんですけど。



拳銃で胸を撃たれたが、胸のポケットに
入れていた聖書が弾をくい止めたので
助かった。

これぞ神の愛、と神様に感謝しきり、という話し。

神様てセコイ真似をするんだなあ。

おなじ手法で絶対的権力を手に入れたのが
某学会の名誉会長。

どん底に突き落としておいて、それでも裏切らない奴を
再び、持ち上げる。
それで、めろめろになって、盲従人間の出来上がり。

神様も人間心理の操作には長けているらしい。
なにせ全知全能だから。

2,これは私が実際に見聞した話しですが。
信者の人が病気になった。
それで、これは信心が足りないからだと、反省し
寄付を増やしたところ、快方に向かった。
これぞ神の愛!
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。

>2,これは私が実際に見聞した話しですが。
信者の人が病気になった。
それで、これは信心が足りないからだと、反省し
寄付を増やしたところ、快方に向かった。
これぞ神の愛!
⇒うーん!?

お礼日時:2011/10/30 09:58

そもそも愛を実感できていますか。


それが出来ないなら「神は愛なり」を実感できるわけが無いと思いますし説明も不可能でしょう。
逆にそれが出来るなら説明は不要なんじゃないでしょうか。
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 こんにちは。



 1. 《愛》とは かかわり(関係)のことです。

 2. ヱクトルのように 力と向きがあると言えましょう。

 3. したがって 方向関係は同じでも(つまり相手は同じでも) 向きの如何によって プラスの好感や愛情もあれば マイナスの嫌悪や憎悪もあります。

 4. 嫌いなら何故嫌いなのかをじっくりと考え 恨みつらみをむしろ《はぐくみ》 憎しみを超えて 好悪ないし善悪の彼岸としての《愛》を 人間〔どうし〕は 現実としうるか?

 5. 出来なくても まづは この関係を維持すること その持続こそが 愛に通じる。と考えられるのではないでしょうか?

 6. 逆に言えばこの関係――これだけで 愛です――をもはや打っちゃって相手をないがしろにするなら これは 愛の死です。無関心が 心の死であり 愛の反対だと思われます。



 7. ブディズムにも 無縁慈悲という考え方があるようです。人に対して無差別に慈悲の心であい対するのだそうです。ただし 人間としては そのような――おそらく――心構えや努力のことを言うのでしょう。

 8. クリスチアニズムも 敵を愛するほどの・あるいは善人にも悪人にも同じように雨を降らせるかのような《憎しみを包む愛》は 人間には無理だと見ているのではないでしょうか?

 9. 別様に言えば もし神ゆるしたまうならば その神の愛――それは 霊です――がめぐまれてその力を人間も発揮することができるようになりましょう。

   * 霊とは 無根拠のことです。

   



 10. ★ もし、神が全能であって、人間の罪を許そうと思うなら、なにもイエスを地上に派遣してイエスを死なせるなどとややこしい小細工をしなくても、いくらでも許せるのではないでしょうか?
 ☆ アダムとエワは エデンの園を追われましたが 赦されています。弟のアベルをころした兄のカインも 《カインを殺す者は 七倍の復習を受ける》というふうなかたちにおいて赦されています。
 つまり 人類はすでにゆるされています。赦されているのですが その後遺症に悩んだのは むしろ人間のほうでした。
 
 ▲ (創世記4:13-14) ~~~
  カインは主に言った。

  「わたしの罪は重すぎて負いきれません。
   今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが
  御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしま
  えば、わたしに出会う者は誰であれ、わたしを殺すでしょう。」

  ~~~~~~~~~~
 ☆ と打ち明け話をしているようにです。(その答えは 上に掲げたところです)。

 11. では どのようにすればその神の愛を 人間は分かるようになるだろうか? 時を経て時が満ち イエス・キリストの登場となったようなのです。イエスなる人間は キリストなる神の子であり神である存在だという物語になって現わされました。

 12. もしイエスが十字架上にあって キリストなる神であるままに――その全能の力をもって――堂々と降りて来たとしたら どうなりましょう? 神の愛に限りなく近づく人間の愛も それを実現するのはやっぱしだめだよなぁ 無理だよなぁと人びとは思ってあきらめてしまわないでしょうか? なぜなら イエスは神であるから 磔になってもそこから降りて来たのだ つまり奇蹟は それは神だから出来たのだと思ってしまうからです。

 13. あるいはもし ただの一人の人間イエスが磔になって死んだという場合は どうなりましょうか?

 14. ところがそうではなく 物語(聖書)は イエスは キリストなる神の独り子であり神であったと書いています。このキリスト・イエスが 抵抗という抵抗もせず 自分を磔にしている人びとは何を行なっているのかを知らないから 父なる神よ 負のむくいをあたえたまわないようにと言ったとも記されています。

 15. すなわち (12)で 神の力としての奇蹟をおこなうことなくあくまで人間としての存在でい続けたが それでもその人間としての感情を――その好悪を――超えて《関係》しつづけようとした。

 16. と思われます。

 

 17. ★ しかも、この話を信じた者は救われるが、信じない者は救われない、と言うのでは、なおさら、神はえこひいきの神としか思えません。
 ☆ 愛情と憎悪とにかかわらず神の愛は すべての人をつつむと考えますが 具体的にこの人あの人についてどのようにその神の愛がそそがれるかは 人間には分かりません。《この話》もしくは聖書の物語を《信じる》というよりは 受け容れるということだと思います。あるいはキリスト・イエスという名を信じるつまり受け容れることです。

 18. ということは すでにアダムとエワの時からゆるされていたそのことが そのまま現実となる。ただそれだけのことだと考えられます。《救われる》という言い方もしますが 実質は すでにゆるされていることの受け容れのことです。そのために わざわざ――たしかにわざわざ――神の子が肉となったということのようですから。 
 
 19. そして これを受け容れない人たちには たしかに えこひいきします。神がえこひいきしています。つまりは もはや罰を与えないというかたちで えこひいきしているのではないでしょうか?

 20. これは イエス・キリストの歴史的登場が 二度三度とあるわけではないという意味だと見ますが どうでしょう?
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この回答へのお礼

とても丁寧なご回答、ありがとうございます。
ご回答を何回も良く読んで理解したいと思います。

お礼日時:2011/10/30 09:55

科学的、理論的に考えれば、宗教なんて矛盾だらけです。



宗教を信仰するとは、論理を超えることだと
理解しています。

「神は愛なり」を説明されて論理的に理解しようとするのは
無理があります。

頭脳を捨て心を捨て、自我を捨てた人に
神は訪れるでしょう。

リンゴを食べたことがない人に、リンゴの味を
言葉で伝えられるでしょうか。
小さなリンゴの味ですら伝えられないのに
神の愛を言葉で伝えることはできません。
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