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元日にとある大規模な神社へ初詣に行ったら、ものすごい数の
参拝客でした。
行列整理の警備員がロープを張ったままゆっくり移動し、
人が押し合わないようにしていました。

しかし、警備員がこれだけたくさんいるのに、賽銭箱を監視する
警備員は一人もいませんでした。
賽銭箱には蓋が無く、しかも近いので、ちょっと手を伸ばせば
賽銭の千円札も手に取れそうな場所にありましたが、そんな事を
する者は誰もいないのは、「日本人の美徳」だと思いました。

「賽銭を盗む奴がいるわけない。当たり前だ」と言うかもしれません。
でも、その「当たり前」ってとても素晴らしいことだと思います。

「賽銭を盗んだってすぐ捕まるだろ?」 という意見は「治安への信頼」を
意味します。
「盗みがバレたら新聞に載るんじゃね?」は、「恥の意識の高さ」。
そして、「バチが当たるんじゃね?」は、「信仰心」。

外国人が見たら、あれだけの大金が目の前にあるのに、すごく無防備で
あることに驚くかもしれません。
「日本人は無宗教だ」なんてよく言われますが、神様の領域を守ろうという
意識を共有できるのは、日本独特な立派な信仰心だと思いました。

さて私は、このような宗教感覚を考慮すると、日本人は無宗教ではないと
考えますが、みなさんの見解はいかがでしょうか?

A 回答 (12件中1~10件)

日本の国教は神道です。

但し国教である事は信教の自由を侵害するものではありません。明治時代に既にその事が明言されていて、破棄されていません。
教育が共産主義に席巻されてから方針転換を明確にしていない事、裁判所もマトモに政教分離の意味を理解できていないなどの不備があります。
米国でも多くの宗教団体が問題を起こしていますが、彼国ではそれでも宗教を大切にしている、むしろマトモな宗教観こそが邪教を封じるとしているのに対し、日本は宗教を持つ事が問題の原因だとして捨て去ることが是とするものが多いのです。(それなら宗教を否定した共産主義国は超安全のはず)
しかし日本人には長年培われてきた神仏習合の精神が血肉となっています。

基本的に日本人の姿勢は神道(神社本庁とは別です)にあります。その中枢をなす神道には教義というものがなく、唯一敬神崇祖の念だけがあります。そこには本来バチだとかバツだとか試練などといった概念はありませんし、作法などもありませんでした。(作法が統一されたのは明治以降です)人々はその中からそれぞれに道を見出し、教義を考察しているのです。
節句や新年の参詣はその象徴で、日本人の中にある信仰が心を揺り動かすのです。
「日本人は無宗教」と言っているのは共産主義や社会主義のものくらいで、あとはキリスト教などの教義絶対主義から見た日本人の分析というもので、彼らには教義が無いという姿勢を理解できないのです。
もちろん一般人と称する人々も、教育は冒頭に書いたように共産主義とそれが崩れた無主義的なものしか受けてきていませんから、社会主義やキリスト教等との対比によってしか述べられない事から自国を「無宗教」と見るしかないのです。
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はい、もちろん日本人は無宗教ではありません。

西洋と日本では宗教のありようが違っているから、西洋人から見れば、日本人は無宗教に見える。また日本人は宗教を意識していないから、そういわれればそうかなと思ってしまう人もいる。それだけの話です。
西洋にとっては宗教は、自分の行動を正当化する根拠として必要だったのです。だからローマ教皇が聖地を奪還せよと号令を発すると、待ってましたとばかりに烏合の衆が盗賊軍を組織できるわけです。キリスト教は、異教徒を奴隷にしても虐殺しても全然OKですよと教える宗教です。本当はそうじゃなかったのだけど、そういわないとゲルマン人に布教できなかったので、布教の都合でそういうことにしたわけです。その布教戦略は大成功でヨーロッパ中がキリスト教一色になってしまった。キリスト教徒でないと奴隷にされるかも知れない。虐殺されるかもしれないとなれば、恐れをなして皆キリスト教徒に改宗してしまったのです。ところが頑固に改宗を拒否したのがユダヤ人。だからユダヤ人が差別・虐殺されたわけです。ペストが大流行すりゃユダヤ人が毒を撒いたにちがいないと疑われた。魔女と疑われりゃ拷問にかけられて自白を強要される。それが西洋の歴史であり、それが西洋の宗教です。

これに対して日本は全く違う。神道は、日本人の人智の及ばない領域での神のご加護を祈願する宗教です。五穀豊穣、大漁祈願、戦勝祈願、夷敵降伏、夫婦和合、交通安全、学業成就、子宝祈願、、、、、とにかく何でも祈りまくり。そして願いが叶うと、酒を飲んで歌って踊りまくって神に感謝の意を伝える。それが祭りです。古来より現代に至るまで日本人はひたすら神に祈るのです。教義なんてないし、神道は日本人にどうしろとも教えていません。ただ、どうすれば神様が喜んでくれるのかというしきたりを定めているだけなのです。しかし、これだけではなんだかな。そう考えた欽明天皇が仏教受容の是非を重臣たちに諮ったわけです。仏教の役割は、日本人の心のありようを教えることです。すべての災いは煩悩が招きよせるのだと教えるわけです。では、どうすれば煩悩から解放されるのか。その方法論が仏教各宗派で異なる。

以上が西洋の宗教と日本の宗教の違いです。
キリスト教は「異教徒を奴隷にしても虐殺しても全然OK」という教義ゆえに排他的独善的で他の宗教との並立共存を許さないばかりか非常に攻撃的なわけです。十字軍、レコンキスタ、奴隷貿易、宗教戦争、魔女狩り、ユダヤ人虐殺、、、、西洋の血塗られた歴史は全部キリスト教の教義によって正当化されているわけです。その教義ゆえに他人の宗教も気になります。あの人は本当にキリスト教徒だろうか?もしかして魔女ではないか?そういうことを心配してしまう。逆に言うと、そういう疑いをもたれないように日頃から精一杯忠節なキリスト教徒だと演じる必要があったわけです。

ところが日本ではそうではない。そもそも異教を意識しないのです。神道と仏教は車の両輪のように平和共存し全く矛盾しません。神道と仏教は相互補完しあって、機能が重複していないからです。また他人が何教を信じていようがいまいが、全然気にならない。キリスト教でもイスラム教でもユダヤ教でもなんでもよいのです。日本には、十字軍、レコンキスタ、奴隷貿易、宗教戦争、魔女狩り、ユダヤ人虐殺に相当する歴史が全くありません。

西洋人は常に排他的独善的です。自分だけが常に正しいと信じ、いつも自分たちのルールを押し付けようとします。何でも自分勝手に自分の都合の良いルールに変えてしまう。それが神の御心に叶うと信じているから、彼らは自信を持って、そういうことができるわけです。
それはスポーツ界でもビジネス界でもなんでもそうです。まあた日本人がのし上がってきた。よし日本に不利なルールに変えよう。それが西洋人の発想です。ところが日本人にはそんな発想はない。また西洋人がそう考えていることも分かっていない。え!?何、新ルール?どんなルールなの?けなげに必死についてこようと考えてしまうのです。それが今話題のTPPであり、それが野田総理の発想でもあるのです。

キリスト教はキリスト教徒の言動を正当化するためにある。それに対して、神道も仏教も日本人の行動を正当化しない。悪いことをするとバチが当たる。悪いことをすると仏罰が下る。神道も仏教も日本人のよからぬ言動を諌めるためにあるのです。

どちらの宗教が正しいでもないし、間違いでもない。西洋は西洋の宗教で良いし、日本は日本の宗教で良いのです。日本人に必要なのは、そういう大きな違いが西洋と日本にはあるのだという知識です。
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日本人は決して「無宗教」ではないと思います。

ただし、国全体としても個人のレベルでも、特定の宗教(宗派)が卓越した地位にはなく、混在しているかのようにも見えるので、「特定の宗教(宗派)を特別に信仰しているわけではない」という意味で「無宗教」という人もいるのだと思います。皮肉な言い方を許してもらえるなら、日本人の少なからざる人たちは「無宗教」という「宗教」を信じている、と言えるかもしれないと考えます。

お正月には神社に初詣に出かけ、お盆にはお寺に墓参りに行き、結婚式はキリスト教の教会で行う、といった表面だけ見ていますと、外国人が日本人はどんな宗教を信じているのかわからなくなるのもあたりまえだと思います。ただ、それは、人は特定の宗教(宗派)を信仰するべき(または何も信仰しない)ものだ、という前提に立っているからです。日本の伝統的な宗教観はそうではなく、外来の宗教を次々に取り込んで変容(日本化)させてきました。例えば6世紀ころ仏教が伝来した時に、これを信じるべきか否かの議論が起きましたが、仏教を信じた人たちも、これまでの固有の宗教(信仰)を完全に捨て去って仏教に改宗したわけではありませんでした。のちに神道と融合して、本地垂迹説や逆本地垂迹説などの考え方が生まれたように、明治維新まで「神仏混合」はむしろ普通のことでした。

もちろん現在では、少なくとも表面上は神社(神道)とお寺(仏教)は別のものだということにはなっていますが、それでも私たちの心の奥には、神道や仏教、さらに民俗宗教が混然一体となった「ご先祖教」あるいは「日本教」とでもいうべき「伝統的宗教」が生きているように感じます。

なお興ざめなことを言ってしまえば、田舎の無住の寺社などでは「賽銭泥棒」や「仏像・神像の盗難」は結構多い犯罪です。混雑した都会の神社やお寺の賽銭が盗まれ難いのは、信仰心の厚さや道徳心からだけではなく、極めて多くの人の目(監視カメラを含め)があることを意識しているからではないでしょうか。(盗まれない理由が信仰心や道徳心だけであれば他人が見ているかどうかは関係がないはずです)
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文化庁の調べによると、日本人は、神道の


信者が1億1千万人、で仏教が9千万人だそうです。
日本の人口は1,3億しかいないのに
少し変?

それに、神道の信者である、なんて自覚のある
日本人はほとんど存在しないでしょう。

日本の基本的な宗教は神道です。
神道といっても色々ありますが、この場合は
始源的な神道のことです。

宗教というとキリスト教のようなモノを想定しがち
ですが、この始源的神道てのは、果たして宗教と言えるのか
という宗教なんです。

神道の教義ははっきりしません。
せいぜいが、自然は仲間だ、先祖を想う、てぐらいです。
そんで、信者であるという自覚も不要の宗教です。
つまり、日本人の宗教的感情、てぐらいの程度の
宗教なんです。

この神道は八百万の神々がおります。
仏もキリストも、神道にとってはこの神々の一人
に過ぎません。

日本人は無宗教ではありません。
こういう特殊な宗教の信徒なのです。
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宗教的なものは、政府、政治、経済、企業にも確実に入り込んでいると思います。

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日本人は無宗教ではありません。

ただ、宗教への執着があまり無いというだけです。宗教を他の国ほど重視はしていないという感じです。

神や仏の領域は宗教に関わらず神聖であって、仏教徒だから神道の神様を粗末してもいいとか、神道だから仏様は粗末でいいとかでは無く、神や仏は皆神聖で粗末に扱ってはいけないと日本人は考えるのだと思います。

八百万の神だろうが、釈迦や仏だろうが、キリストやマリアだろうが、アッラーだろうがその他全ての神や仏は等しく尊いものであるわけです。だから、神道の信者でなくとも髪の領域を尊重し守ろうとするのだと思います。

無教というよりは多教ですね。

そして、互いの神の存在から生ずる矛盾は気にしない。なぜなら、宗教についてそれほど考えないから。矛盾に気づかないか、有っても特に気にしない。

もしくは、僕の様に特に神様や仏様は信じていないというか気にしてはいないけど、やはり神社仏閣その他宗教的施設ではそれ相応の行動とマナーを社会常識として心がけているにすぎない人もいると思います。そして、信者さんと話をする時は最大限に相手の宗教を尊重する。そうすることで、相手とうまく打ち解け事ができる。

そもそも、神社仏閣の賽銭を盗むなんぞ犯罪ですからね。法律をわりと守る方の日本人からすれば、出来ないしやらないのは当たり前です。しかし、これも先人たちが「ルールは必ず守るんだ!」と日本人のDNAにすり込んできた結果ですよね。やはり、日本人というのはいろんな面で素晴らしい国民ですね。
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他人の目があるから犯罪をしないと言うだけで、決して道徳心や信仰心から来ている


とは限らない。もちろん、各人によって異なるので必ずしもそうとは言えない。

教育・哲学の根底にたゆたうのが宗教だが、この国では冠婚葬祭のイベント屋でしかない。
無宗教ではなく、「未」宗教の方が適切かもしれない。宗教観が持てるほどのレベルに
至っていないと感じる事があります。
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特定の宗教を信仰しない傾向にはあるようですが、


墓参り・お盆・初詣・受験祈願や縁結びなど現在も残る様々な風潮を見れば、一般にいう無宗教という言い方は語弊があると思います。
宗教行為として意識的に行っているかどうかは別として、日本人は多神教の宗教感覚を根底に持っていると考えています。
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質問者さんの言われるように、日本人は、宗教的(実際は仏教)の教えを守っている方が多く、無宗教とは言い切れないと思います。


ただ、日本人の悪いこところですが、「論理的な考えができない」という欠点があります。
なので、宗教的な行動をとりながらも、無宗教だと自分では信じ込んでいるってことではないでしょうか?

また、「宗教とか神は信じる」けれど「宗教団第は信じない、信用できない」という方も多いようです。
まあ、最近の多くのお坊さんの説法を聞くとは、「あの世」というか「死後の世界」とか「天国地獄」を信じていないようです。
あの世が無いと思っているのに、○○回忌やったりするのは、詐欺商法ですので、宗教団体を信用しないというのも分からなくはないのですけどね。

海外では、無宗教の方は、「人間ではない。獣と同じ」って見られたりします。
戦後のアメリカGHQは占領政策の中で、「日本の宗教を破壊することで強かった日本を弱体化できる」と考えたわけですけど、その政策は抜群の効力を発揮して、現在のような、背骨の無いフニャフニャ日本になってしまいました。

日本が世界の先進国と外交などで対等に渡り合えるようになるためにも、「私は、宗教を信じています!」という方が増えることが望ましいですね。
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日本人の宗教心の根底にあるのは、八百万の神への信仰だと思います。


もちろん、日本人にも敬虔なキリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒がいると思いますが、
たとえ宗教の欄にキリスト教と書く人でも、根底は八百万ismの人が多いと思います。

特定の神を拝まないから、他の宗教の人からは無宗教に映るようです。
クリスマスを祝い、正月は神社に初詣、死んだらお寺さんでお経をあげてもらう。
特定の宗教に依存しないような、とっ散らかっている感じがするのでしょう。

でも日本人の宗教心の根底は、拝める相手は多い方がいい、なんでも拝む、ですから、
仏教やキリスト教が日本にやってきた時、あまりにすんなり受け入れられたので宣教師たちは拍子抜けしたかもしれません。
でもそれは、南蛮から新しい神様がやってきた、拝む対象が増えた、だけに過ぎず、宣教師が本当に伝えたかったことは伝わっていなかったのかもしれません。


花見でビニールシートとかビニールテープで囲うだけで、その場所をキープできる日本人の治安意識も、海外では驚かれるところらしいですね。
しめ縄とか、要するに神様の領域や他人の領域を明示すれば、そこにみだりに立ち入らないのが日本人の宗教心なのでしょう。

障子や衝立で部屋を区切っているなんて、空気も臭いも音も光も通るのに、それは区切っている内に入るのか?という問題も、そこに境界線があるんだから境界なんでしょ、という感覚なのでしょうね。


だから海外で「トイレの神様」とか言っても、たぶん共感を得られないのでしょう。
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