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星までの距離を測る場合、星からでた光が目的を通過すまでの時間で測定できます。
光には速度がありますからね。
少し離れた星なら、光の移動時間もかかり、それより長い距離であることが分かります。

しかし、さらに距離の離れた星ら、距離が長くなるため、測定に時間がかかりすぎます。

このように、どんどん、測定時間がかかってしまいます。

無限の向こうにある星には光が届かず光は帰って来ません。
つまり、宇宙の無限の広さの証明は出来ないと思います。

皆さんは、どう思いますか?

A 回答 (30件中1~10件)

「哲学風」な回答がいくつかなされていますが、それのいくつかの「理科」的な翻訳をまじえて、コメントをします。



宇宙が無限の拡がりを持つかどうかどうかはさておき、質問者の言われる「無限の広さの証明は出来ない」という事の説明ですが。

質問者の「測定」を後回しにして、それを受け容れたとするなら、説明として納得し得る部分は、

「宇宙が無限の拡がりを持っているとするなら、それをこの測定方法で示す事はできない。」

という事でしょう。それ以上の事は何も説明し得ていない。拡がりが有限か無限かの推定にもならないし、ましてその証明が可能かどうかの事も何も示せていない。
なぜなら、無限であるから「光が届かず光は帰って来」ないのか、どうか、何とも言えない。有限であっても必ず還ってこなければならないという保証は無いでしょうし。

「時間がかかる」ということから何かを結論づけるなら、それが「実的」時間か、「理論的」時間かを考えなければならないでしょう。「実的」時間では、仮に人生百三十年だとして、生きているうちに、つまり一三〇年以内に測定できるモノだけがある、とするなら、宇宙ははじめッから有限ではないか。こういう考えは少ないとして、「理論的」時間を考える。それには、その前提となる「測定」を観ておかねばならない。

質問者はまるで、「光」が或星を出発して或所に到達するのを計測するかのように述べられていますが、そんなことはあり得ないですね。我々にはそんなことはできない。仮に「光」がボールのように測定できるものだとしても、用意ドンでスタートして着地点まで測定するというなら、先の「実的」時間と同じで測定可能性は人の限られた命内という事になりますね。従って宇宙などのスケールではそのような計測は話しにならない。

では、天文学で、星或いは星雲まで何光年、何百万光年等と言っているのは如何なる根拠が有るのか。それは地道に積み重ねられてきた観測データとそのデータの解釈体系=理論にあるものでしょう。ある望遠鏡の受光素子に捉えられた像を、百億光年先の星雲をとらえたと称するのはその像を或理論にあてはめて解釈し、そういう計算になると言うに過ぎない---その理論と言うのが宇宙膨張説など---。このように、時間にしろ、観測にしろ「理論」抜きにはあり得ないとするなら、宇宙の拡がりと言うものを考えるのには、その「理論」が問題とされるべきでしょう。それがどのような宇宙像をもたらすか。現在、どのような理論がどのような根拠で主張されているのか、勉強の種は尽きないという事で。
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> でも、一つだけ指摘しておかなくちゃいけないのは、JAXAの「無限大」云々を引用する際に「無限」にしてしまったこと。




ちがうちがう。あれれ、通じないかなあ。わたしは引用したのではないです。
あの頁で、曲率0というのは空間が無限だという算定の説明をJAXAがしているのですが、それについてわたしが思うに、シュヴァルツシルト半径0における算定とちょうど逆でしょうね、という話題なのです。だから曲率0とわたしは明記しておりますでしょう。

JAXAは、宇宙は曲率0に限りなく近いと観測されている述べ、(空間的に)無限大であるだろうと書いておりますね。これは、曲率0ではなく、曲率0に近い、ゆえに無限大、です。念のため。

全体的に振り返ってみてもやっぱり話は通じていないのかもしれない。でもまあ、無限大は無限大なんだ、有限なんじゃなくて無限大なんだと言えなかったら、0なんか物理量から取っちゃえばいいだけさ。
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もっと忘れてました.


コインを銀行に預ける案件ですが,利息が無限に付くので
やっぱり無限ですね. (。・ω・)
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ああ,また忘れてました.シュヴァルツシルト半径


でしたね.喩えかたが秀逸だと思います.
ちょうど反対の喩えですね.人間的な.(´ω`;)

主観と客観は人間的には同じですよ.人間がやること
ですから.
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相対性理論はよく分かりませんが,それを真理とする


演繹法が正しいとするのが,はたして正しいのかどうか.

ボクは人間的な感覚のほうが正しいと思うんですよ.
宇宙の広さは証明できないくらい広くて,まっすぐである.
人はそれを感覚的に無限と捉える.みたいな.

無限+無限=無限 でいいと思うんです.宇宙が何枚
あっても成り立ちますからね.

有限が膨張することじたい,何処に向かって膨張してい
るのか分かりません.無いところに向かって膨張できる
んですかね.不思議ですね.

有限なら,重力子は宇宙の端っこに溜まってるんでしょうね.
これも不思議ですね. (。・ω・)
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総合文化研究科ですか、羨ましいですね。

学問は理系だとか文系だとかに分けない方が良いのですが、職人養成系は理科系と分類されたがばかりに、人間を考える訓練が不足してます。

疑り深いとは厳しいですね。自分としては、あらゆる可能性を排除しないという意味で大らかなつもりなんですが(笑)。

>無限があるとも無限の実態があるともわたしはもちろん言いません

ならば、当該質問にして、我々の間には争点はありませんね。 よかった、よかった!

でも、一つだけ指摘しておかなくちゃいけないのは、JAXAの「無限大」云々を引用する際に「無限」にしてしまったこと。

3歳のお嬢さんにお年玉をあげるときに、全て1ユーロコインで上げることにします。お爺さんお婆さんや叔父さんや叔母さんからのお年玉もすべて各国の1ユーロコインにしてもらう。すると、子供はたくさんのコインに囲まれて喜びます。「わーい、こんなにたくさんもらって、数えきれないよ!」。ここで、「数えきれないよ」というのが、その子にとっての無限大です。

たくさんのお年玉を無くすといけないから銀行に預けておきましょうね、ってことになって、Credit Swissあたりに預けに行くでしょ。そしたら、銀行の人は、全てのコインを数えて、預かり金額を確認してくれますよ。有限の数字が記帳されるはずですよね。

つまり、無限大というのは、主観的な指標であって、客観的に特定できる無限とは似て非なるもの。
雨合羽さんも物理学者と数学者のやり取りで指摘なさったとおりですよ。

この無限大と無限を作為にせよ、無作為にせよ、混同してはイケません。

ことに、このスレッドが宇宙の有限性に関するスレッドなのですから、この混同は致命的です。

この点に関しては、#23のok9608さんの引用は正確で、解釈も妥当だと思います。
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ボクは難しい計算や理屈などは分からないのですが,ただ


人の道さんが,あまりに気の毒なので,可能性を信じて,
強く生きてほしいと願っています.

そんなとき偶然に,JAXA広報のページをみつけました.
ボクは思いました.
( ジャクサなら信頼できる.ジャクシャ救済できるのだ )
そして小学校で習った先生の言葉を思い出したのです.
「 三角形の内角の和は180度である.」

かくしてボクの人間的な決意は,人間的な確信へと変様を
とげたのでありました.ボクの心は歓喜の叫びを発した.
( 小学校の先生は正しかった )

ちょうどそのころ,人の道さんはスレッドを立てていた.
『やっぱビッグバンはただのギャグでしかなかった』
ボクはなぜか,安堵の表情をディスプレイ枠に反射させな
がら,まるで他人の笑顔を見るかのような趣を感じていた
のでありました.

ちなみにボクは,地球上の人間の数が無限大だと思ってい
ます.それはすべての人の愛が無限であれとの願いです.
いま自分は苦しいけれど,きっと誰かが幸せであるはず.
そんな願いを宇宙の無限に込めています.

無限であるならば,誰も独占することはできない.
無限であるならば,誰にとっても平等である.

あまりに人間的な,強い人間原理でした.(´ω`;)
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総合文化研究科というところが出身で、理工系知識は木造さんに遥か遠く及びませんですね。

高校の理系クラスは男女の比率が3:1でわたしなんか我儘放題だった記憶ばかりで勉強した記憶がないですよ。

それにしても木造さんは疑り深い人ですね。

無限があるとも無限の実態があるともわたしはもちろん言いませんが、大事なのは無限か有限かを出発点にした議論は本末転倒だってことじゃないでしょうか。
連続や運動や変化が「実感の彼岸でどういう地平になっているか」ってのがわたしにとっては出発点です。
通常、自然を見たり触ったりしたとき、素朴な実感のほうが連続を受け入れ、学問のほうがそれらの非連続を突きつけるものじゃありませんか。
うちのチビは今3歳ですが、昨晩は駒を回しながらストップウォッチで回転時間を測る遊びを発明してしました。連続と時間に何の疑いもなさそうです。
静止についても、知覚では自然界に静止を認めるけれど、ミクロにもマクロにも静止が存在しない厳密な理屈というのは、学問でわかることでしょう。
連続も静止も現象で、しかしながらそれが錯覚的な現象にすぎないと証明できる段階ではまた別の現象が明らかですから、現象って入れ子構造ですね。
だから、小さな入れ子から大きな入れ子に結果をフィードバックして連続や静止が抽象概念だなんていう頭は立派な勉強をしすぎた頭なのではないかとちょっと文句をいいたくなります。

自然観察から出発して連続や静止ありきという事象から始め、それらを科学的に記述するときに数学的無限で都合をつけるのがわたしの感性の方向ですが、しかしそれはあくまで演算過程なのだから物質の連続や静止を計測する物理量となれば有限だろう、なんてことを考えたならそのあとは注意しないといけない。単位が有限だから便利になるのが世の中であって、世の中が有限だから単位があるんじゃないものね。
なるほど有限とは現象です。入れ子構造で明らかにされている現象はどの入れ子でも有限だ。
無限は現象か。これは現実に観測できないのでわからないでしょう。ただ状態ではあって、状態というのはおしなべて確率的であったり想定的であったり暫定的であったりします。
状態の世界といえる量子によって現象を記述しようとすると、有限の現象を微細な状態に区分するよりも、無限の方が計算に織り込みやすいかもしれませんね。
具象抽象に分けるばかりが人間の脳ではないですから、いろいろ考えてみるべきですしそのほうが楽しいでしょう。

井戸型ポテンシャル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E6%88%B8% …

ところでがっくんさんのJAXAの引用の宇宙が無限で曲率0って、シュヴァルツシルト半径の特異点0が導く曲率無限大とちょうど逆なのかな?
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気になりまして、



『GA_CK_UNさんの 無限はすでに論証されています. 
引用~~~~~~~~~~~
宇宙の曲率はいったいどれくらいでしょうか?
これまでの観測で、ほぼ0(おそらくは0)であることが
分かっています。空間としては宇宙は無限大だと言える
でしょう。  JAXA・・・』
の話は 一般相対性原理 の宇宙解として曲率0の解説と思われます。
これは 無限の時間を経れば無限のサイズの宇宙になる という膨張
宇宙のことであって、ビッグバンから有限時間経たところでは 無限大
宇宙ではない ということと思います。

 
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イマヌエル・カントは1809年に死んでおります。


1845年生まれのゲオルグ・カントールが無限を解明し、人類に無限を教える遥か以前の人です。

イマヌエルは地頭が良い人だったらしいので、もし、ゲオルグから無限に関する教えをうけることができれば、別の論述をしたに違いありませんね。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA% …
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