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昭和の時代の遊郭ってどのような感じだったのでしょうか?
時代劇でみるようなものは、現代の風俗みたいなものとは違って
情報どころのような役割もあったようですが、
昭和の遊郭といえば風俗と同義なのでしょうか。

また、遊郭を営んでいる家の者は
差別的な目でみられる対象だったのでしょうか。

どなたか詳しいかたよろしくお願いします。

すこしずれてしまいますが
当時の遊女の格好についても知りたく思っています。
着物だったのか、髪型は時代ものの映画のように結ってあるのか、など。
こちらもご存知でしたらぜひよろしくお願いします。

A 回答 (6件)

こんにちは。



私は、戦後生まれなので戦前の遊郭は知りませんが、戦後の昭和30年代前半頃の様子はおぼろ気ながら覚えてます。

当時は、遊郭街は「赤線地帯」といってました。
近所の赤線地帯は小規模な飲み屋が建ち並び、厚化粧のお姉さん達が通りすがりの客に声を掛けて客引きをしてましたが、これ等の遊女(売春婦)を「パンパン」とか「パン助」と蔑んだ呼び方を私の親はしてました。

遊女達の服装は普通の洋服でしたが、髪型はチリチリのパーマをかけたお姉さん達が多かったです。
口紅は真っ赤で子供心にも妖艶なイメージで興味を持ちました。

勿論、小学生だった私が遊女と性行為をしたわけではありませんが、客を引いた遊女は飲食店の二階の部屋で客と性行為に及んでたようです。
また「連れ込み宿」という、今でいうラブホテルですが、旅館風の連れ込み宿が赤線地帯に何軒もあって、遊女と客が宿に入っていくことも見てます。

当時、小学低学年だった私は「旅館なのに休憩2時間〇〇円」という看板が不思議でしたが、赤線が廃止された昭和30年代半ば頃には意味を理解してました。

赤線が廃止された現在でも、飲食店は残ってますが遊女達はいなくなり連れ込み宿もなくなりました。
その代わりに「ピンクサロン」が何店舗か出店していて、今でも赤線の面影を残してます。

なお、東京・浅草の吉原や川崎市の堀ノ内などの大きな遊郭街跡は、現在では「ソープランド街」になってますね。

ちなみに、近所の赤線地帯には「泌尿器科・性病科」の医院があったのが印象的で、小学生だった私ですら「淋病や梅毒」は知ってましたから、赤線イコール性病というイメージです。

この回答への補足

皆さま回答ありがとうございました。
自称歴史作家さまをお待ちしていたのですが、
十分な回答をいただけましたので
回答を締め切らせてもらうことにしました。
私のほうからも家族にそれとなく聞いたところ
卑下されることは少なからずあったようです。
ありがとうございました。

補足日時:2012/01/30 17:32
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この回答へのお礼

くわしく回答していただきありがとうございます。
戦後から赤線と呼ばれていたことは存じていましたが
遊女たちの格好も西洋化していたのですね。
遊女というより、売春婦というニュアンスが
強くなっているのですね。
現在の風俗のような目でみられていたということが
伝わりました。

お礼日時:2012/01/16 16:56

#4です、お礼を有難うございました



<御金持なので・・・・・

と有りますが

御金が有ると同時に

極道と関係が密接か

極道そのものが御店をしていましたので

その意味でも一目も二目も置かれていました

級友もその点では大人しい上品でひ弱な子でしたが(極道の家族ではない)

ガキ大将も一切手出しをしませんでした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
またお話を聞かせていただけて嬉しいです。
ん~極道ですか。
人のにぎわう都会あたりはそうだったのでしょうか。
実は私の実家というか、
ご先祖さまが遊郭を経営していたのです。
といっても料亭の延長として、ということらしいのですが
それで興味が湧き、というか色々と心配になり(笑)、
今回質問を投稿させていただきました。
話は戻りますが私の実家は職業は変われど
代々商いで暮らしていているのですが
極道とは関わったことがないことは確かなのです。
まあ回答者さまは一般的な話をしてくださっているのでしょうから
いろいろな形があるということなのでしょうね。

お礼日時:2012/01/19 19:39

#4です、追加です


女郎屋が有る通りの入口には
商店街への入り口いある様なアーチ型で頂部には
通りの名前「●●通り」と書いた中に電球を仕込んだ看板が有りました
通りに面したお店は煌々と明るく玄関には暖簾がかかり
垣間見ると御姉さん方がずらりと勢ぞろいで座って客待ちをしていました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
YouTubeで関西のほうに今もあるという遊郭街を
見たことがありますが、
お話のような佇まいをしていた覚えがあります。
時代劇のようなものではなかったですが、
昭和の頃からの遊郭はそんな感じだったのでしょうか。
私のみた映像ですと「勢揃い」というわけではなく、
どの店先も一人の若い女とおばあさんという形式が続いていました。

お礼日時:2012/01/18 23:03

#1の方が仰ってている様に当時は警察が取り締まりをする為に


地図に赤い線で囲っていたのが赤線の語源です
赤線のほかに青線というのも有りました
理由は次を参照してください
<昭和の遊郭といえば風俗と同義なのでしょうか
の答えにもなると思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E7%B7%9A

<また、遊郭を営んでいる家の者は
<差別的な目でみられる対象だったのでしょうか
その通りです特にその家の子供は「女郎屋の子」と言ってからかわれていました
しかし私だけかもしれませんが
彼(女郎屋の子)の家へ遊びに行けば綺麗なお姉さんが
御菓子を出してくれたり話し相手になってくれたりして
彼が綺麗なお姉さんに囲まれている生活を羨ましく思った事を覚えています
中学生になると彼の御家へ行くと何故かしら下半身が固くなってきて
恥ずかく思ったのでだんだんと彼の御家へ行くのが少なくなり
冬休みころからは全く行かなくなったのを覚えています。

パンパンとかパン助とか呼ばれたいた彼女たちのいでたちは
体にぴったりしたチャイナドレスだったりふわっとしたスカートだったり
当時の先端よりももう一歩進んだファッションだったように思います
髪はパーマと呼ばれた制髪で電気鏝でチリチリにカールさせた髪型でした
御化粧や整髪料だったのでしょうとっても良い匂いがしました
思わずくらくらとなるくらいの香りでした。

昔を思い出して思わず長文になりましたがこれで大体の様子はお分かり頂けた事と思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
お金持ちなので肯定的に受け入れられたという説、
女郎屋は女郎屋として差別的な目はあったという説、
どちらもありそうな話ですね。
とても参考になりました。

お礼日時:2012/01/18 22:58

 日本テレビの「笑点」の司会をやっている落語家、桂歌丸は実家が女郎屋ということで知られているそうです。

ガリガリに痩せてる落語家ですね。
 横浜の女郎屋(遊郭)の息子で、「○○屋のおぼっちゃん」としてちやほやされて育ったということを言ってたのを聞いたことがあります。
 去年読売新聞の連載で、日経新聞の「私の履歴書」に当たるコーナーがあるのですがそこでも同じ事を言ってました。今新聞を見たら「時代の証言者」という名前のコーナーでした。
 家がお金持ちなので、何不自由なく育ったそうです。家のことを差別されたなんて書いてありませんでした。むしろ、「お金持ちの家で私は幸運でした。」みたいなよいとらえかたの肯定的な書き方でした。
 予想ですが、普通に家がお商売してるって感覚でみんながいたんじゃないですかねぇ。
 合法でしたものね。今の「○○くんちのお父さんはコンビニやってんだよ。」とか、「○○さんちはケーキ屋さん。」みたいに、普通な感じだったかもしれません。
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この回答へのお礼

回答していただきありがとうございます。
歌丸さんのご実家って女郎屋だったんですか。
これは知りませんでした。
そうですね。
遊郭は儲けているイメージがたしかにあります。
貧乏な感じはしませんね。
手広く商売をするなかの一つということも多いようですし。
大変参考になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2012/01/17 08:29

「洲崎遊郭物語」という本があります。

確か当時の経営者の回想話など実際遊女だった方の回想も含まれている内容だったとおもいます。図書館で借りてわたしは昔読みました。
図書館の民族・風習コーナーに昭和の遊郭本ありますよ。赤線地帯とか鳩の街とかいろいろ(書庫にしまい込まれてるのが多い)けど・・・
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
経営者の回想話がその本に載っているのですね。
私の興味は経営者のほうにあるもので、
これは参考になります。
ありがとうございました。

お礼日時:2012/01/16 17:01

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