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 例えば

 上野・下野

 備前・備中・備後

 下総・上総

 豊前・豊後

 これらは全て、隣同士であるのに

 越前・越中だけは、間に加賀と飛騨があって離れていますが

 これは何故なのでしょうか?

A 回答 (3件)

「越国が689年-692年(持統天皇3-6年)越前国、越中国、越後国の三国に分立し、718年養老律令制定により能登国が越前国から分離し、その後823年、さらに越前国から江沼郡と加賀郡を割いて加賀国が設置された。



同823年6月4日に、江沼郡の北部から能美郡、加賀郡の南部から石川郡が分けられた。加賀郡は後に河北郡と呼ばれ、大海川は現在も加賀と能登の両地方の大まかな境界となっている。

大化の改新の頃までは加賀郡は賀我、加宜、香我、賀加とも言われたとされる [1]。

加賀国は、令制国の中で最後に建てられた国である。その建国への提案は越前守の紀末成による。末成は、加賀郡が国府から遠く往還に不便で、郡司や郷長が不法を働いても民が訴えることができずに逃散し、国司の巡検も難しいといったことを理由にあげた。太政官はこれを受けて弘仁14年 (823年) 2月に、越前の二郡を割いて加賀国を建て、中国にすることを奏した。3月1日に太政官は符を下して加賀国を作り、中国と定めた。同年6月4日に、江沼郡の北部を能美郡とし、加賀郡の南部を石川郡とすることを、加賀守を兼任した紀末成が言上し、これによって四郡になった。天長2年(825年)1月10日に、課丁と田の数が多いという理由で、加賀国は上国に変更になった[2]。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80% …
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 越前の国から加賀の国が分離したのは、紀末成が下記の理由により建国の提案を行ったからです。



  「加賀郡について国府から遠く往還に不便で郡司や郷長が不法を働いても民が訴えることができずに逃散する、国司の巡検が困難である。」

 これにより弘仁14年(823年)3月に太政官は符を下して越前国のうち加賀郡・江沼郡の二郡を分割して加賀国を建てた。

   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E6%9C%AB% …
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越]



越の国が
越前・越中・越後に分割された時は
地続きでしたよ。\(^^;)...

年表にすると

672-686間
越を、越前、越中、越後に分割

718(養老2)
越前から能登が分離

741(天平13)
能登が越中に併合


757(天平宝字元)
越中から能登が再分離

823(弘仁14)
越前から加賀が分離

という感じ
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