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1973年の優勝目前のとき、江夏投手は阪神本社に呼び出され、
球団代表に、
「勝ってくれるな。優勝せんでもええ。監督も了解済みや」
と告げられたそうです。
理由は、優勝による選手の年俸アップ要求を警戒した球団上層部の牽制とされています。
負けても人気の衰えない阪神ならありえる話だとは思いますが、
にわかには信じがたい話です。
この逸話の真偽はどうなのでしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

巨人がよれよれになって優勝した1973年、V9最後の年のことですね。

もう9月だというのに首位から最下位までわずか3ゲーム差(つまり首位でも貯金3、6位でも借金3)にひしめいたり、一晩にして2位から6位までの順位がすべて入れ替わった日もあったという、今でもオールドファンには語り草の大混戦でした。
結局、その中から地力に勝る阪神と巨人が抜け出しましたが、巨人が129試合目の広島戦に負け、阪神が残り2試合一敗一分けで優勝という状況になりました。関西では「ついに巨人時代の終わりや!」と大騒ぎになりました。その2日後、中日球場(なつかしい!)でのデーゲームに向かう朝、江夏が球団フロントの幹部に「勝たんでええ」といわれたとのこと。
no.1さんの書かれたとおり、江夏の自伝にも出ている話ですので本当のことです。
今は静かになりましたが、フロントのごたごたが年中行事の阪神のこと、「江夏に対する牽制」というよりも彼らにはごく自然の発想でしょうね。その後の権藤金田監督殴打事件や江夏、田淵の放出を思うと、さもありなん、です。

ただ、この話、その年中日に対してめっぽう強かった(確か8勝1敗)上田次郎をなぜ先発させなかったのか? チーム全体で勝つことを放棄していたのでは?なんて憶測も飛び交いましたが、これは考えすぎで、「エースの江夏で優勝を決めるんや」という当然の考えによる先発とのことです。

このとき5対2で敗れ(勝ちたくね~よ~、という中日選手の気持ちがブラウン管越しにマジマジと伝わってきました)、2日後の巨人戦争の悪夢の0対9につながります。
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江夏豊著「栄光の左腕」にそのくだりがありますが、


No1の方のいうように発言は事実みたいです。

 ただ質問者様の指摘通りの受け取り方もあれば、
余計なプレッシャーをかけないために、「負けても
かまへんで」と言いつつ勝ってほしかったという
両面があって、今となれば球団は都合のいいような
解釈をして、「本気で負けろなど言うわけがない」と
弁解するでしょうけど、当の江夏は「わざと負けろ言うんかい」
と、逆に負けたるかいと気張りすぎて自滅したみたいです。

 球団の思惑はどうであったかは藪の中で、結局
江夏の受け取り方の問題ですね。

 でも当事者の江夏が、負けを強要されたと受け取ったのなら
そうなのでしょう。
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エ夏自身が出版した本に書いて有ります。

本当のことです。
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