No.1ベストアンサー
- 回答日時:
>ビザンティン美術で、イコノクラスムがなぜ起きたか
8世紀にビザンツ帝国でイコノクラスム(聖像破壊運動)
起きた背景
おもに外政的な理由、内政的な理由があると言われている。
ビザンツ帝国ヘラクレイオス朝(610~711)最後の皇帝
ユスティニアノス二世は二度目の反乱によって殺され、
ビザンツ帝国は内紛とアラブの攻撃が激しくなる。
イサウリア朝(シリア朝、717~802)は、このような状況
のもとで、北シリア出身のレオン3世が皇帝に即位し、
始められるのである。
彼はアラブのコンスタンティノープル包囲を退け、帝国の危機
を救うことになるのだが、その際、北シリア出身である彼は、
イスラム軍に対して東部の国境を守っていた東部の住民の
忠誠を確保しなければならなかったのだが、その帝国東部
では、オリエント世界に弘布していたユダヤ教やイスラム教の
偶像否定論の影響をうけた聖像禁止派が基盤を持っていた
ので、皇帝は東部の住民に配慮し聖像禁止の立場をとらざる
を得なくなった。
これが外政的な理由の一つ。
もう一つ、内政的な理由の一つとしては、
このころ帝国内で大いに発展した修道院が帝国の徴税権、
徴兵権をむしばんでいたため、(帝国維持のためには
「軍管区制」を進める事が必要不可欠だった)
修道院から土地、財産を没収する狙いがあったといわれている。
それだけでなく、修道僧の徴兵、修道僧と尼僧の結婚までもが
帝国によって強制され、修道院の反発を招いた。
こうして、皇帝が神学の問題にまで立ち入ってまで指導権を
発揮するという、いわゆる皇帝教皇主義を取ることによって、
皇帝に教皇を密接に協力させる事により、帝国の維持、
統一を成し遂げようとしたのである。
こうしてまずレオン三世によってまず726年、聖像(イコン)の
崇拝が禁止され、つづくコンスタンティノス五世のもとでは
聖像そのものの禁止、さらにその破壊へと発展し
各地で聖像の破壊が行われる事になる。
>その影響
この聖像破壊運動の圧迫をうけ、一部の修道僧や聖像製作者が
イタリアに移住し、ビザンツ美術の西方への伝播に一役かった
といわれている。
(一応回答を述べてみましたが、もしかしたら歴史の
カテゴリーで改めて質問をしたほうがいいかもしれません)
No.2
- 回答日時:
A.No1です。
申し訳ありません。誤 >皇帝に教皇を密接に協力させる事により、
正 皇帝に教会を密接に協力させる事により、
に訂正します。
ビザンツ帝国においてローマ教皇に対応するのは
コンスタンティノープル総主教でしたね。
尚、A.No1での >その影響 で
歴史的に重要なのはもちろん東西教会の分離の伏線であって、
事実、ローマ教皇はこの後カール・マルテルに接触を試みる
ことになるのですが、ここは美術のカテゴリーですので、
その点についてはあえて述べるのを避けました。
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