都会のビルの谷間で、汚れた天使のようなものに会ったことがあります。
たまたま上京した時に見かけた光景です。
道路の分離帯の植込みに、雀が二羽いました。
狭い植込みの中を、二羽の雀が仲むつまじく餌を求めてついばんでいました。
立ち止まって、しばらく見ていたのですが
気がついたのは、何となく薄汚れていた事です。
頭の茶色いところが、特に黒っぽく煤けたように見えました。
田舎に住んでいる私にとって雀は珍しくないのですが
こんなに汚れた雀を見たことはありませんでした。
かわいい汚れた雀に けなげなものを感じました。
汚れていたからこそ 汚れていないものを感じたのかもしれません。
天使とは 汚れた姿で現れる
時と場所と 人に応じてでしょうか?
A 回答 (8件)
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No.8
- 回答日時:
天使と質問者様が思っているのは、優しい感情を引き出してくれる何か、なのではないでしょうか。
雀については憐れみという感情によって、それを愛しく思ったのでしょう。しかし翻ってみれば、天使が汚れるまで、それが天使であったと気づかない人もいます。そうではなく、ありのままの自然な天使を私は見出したいと思うところです。この回答への補足
そろそろ締めたいと思いますので、感想を言います。
ごく一般的に 天使に喩えられるのは かわいい子供や赤ちゃんだと思います。
無邪気でかわいい姿は 穢れのない感じがします。
何の穢れも汚れもない 無垢で純粋な命の姿です。
でも 私が見た天使は汚れていたのです
雀という天使は汚れていました
もちろん 汚れたくて汚れていたのではないと思います
正直言って 痛ましく感じられた
なぜ
そうした姿を私が見ることになったのか
見なければならないのか といった疑問がずっとありました。
その答えは 今も見つかりません。
様々な仮定はありますが 決めることはできなかったと思っています。
心の交通事故みたいなもんでしょうか・・・
これ以上 その問いかけはしない事にします。
キリスト教の信者の方には失礼であったことは確かだと思いますので、お詫び申し上げます。
ただ 宗教、非宗教を問わず 命を見つめる智慧というか、心は共通しているように思います。
そうした心に気付かされた感じもします。
汚れた命が与えてくれた 汚れていない心です。
そんなふうに思うと
昔読んだ 松原泰道師の言葉が浮かんできます。
「気付いておくれ 分かっておくれ」 と 祈られているのだと
祈る以前に、祈られている
私が雀を祈るように 私も祈られている のかもしれません。
私自身も また汚れた雀であったのかもしれません。
祈られる資格はなくても 祈られているのだとすれば
私という自分を粗末にしてはいけないのでしょう。
ありがとうございました。
あと一日開けておきます。
ありがとうございます。
>ありのままの自然な天使を私は見出したいと思うところです。
そうですね 自然な天使がいいです。
前にこんな句ができたことがあります。
左手に ばかり止まるや 赤とんぼ
草刈りをしていて、どういうわけか赤とんぼが左手にばかり止まるのです。
利き腕が右手なので 右手はちょっと怖いのかな とも思いました。
そうか・・分かるのか なんて呼びかけたものです。
自然の中に天使は いっぱいいるみたいです。
かわいい天使がいっぱい
ちょっと幸せみたいな そんな感じもしますね。
No.7
- 回答日時:
こんにちは。
★★(趣旨説明欄) ~~~
天使とは 汚れた姿で現れる
時と場所と 人に応じてでしょうか?
~~~~~~~~~~~~
☆ この問いに対してなら こう答えたいと考えます。
○ 人に応じてでしょうが 天使は いつでも・どこでも どのようにでも現われる。夜中の盗人のごとく。
あるいは さらにもっと一般化して こうも考えられます。
○ 世界のすべてのものごとは 神から《わたし》へ送られた手紙である。要らないものもあるし それらは反面教師になる場合もあればならない場合もあるかと思われるが ともかく一切のものごとは 神と《わたし》のあいだに置かれたものである。つまり神の使いであり 天使である。
*
★★(No.1補足欄) 私の目を釘づけにした 二羽の雀は 天使の如きものではなかったか という疑問です。
☆ ですから《疑問》は 天使というその《使い》つまり手紙の内容いかんにあります。しかもそのメールの内容をどう読むかは すべて《わたし》にゆだねられています。つまり 言うまでもなく《主観》のもんだいです。いっさいが主観の問題であり そうでないものはない。となります。
曰く:
★★(同上) ~~~~
たぶん キリスト教の方に言わせれば
命の大切さを知らされたのだよ と言われそうな感じです。
★★(同上) ~~~~~
知る事を与えられた というように捉えれば 雀は汚れた天使だったのかもしれません
しかし、私が勝手にそう感じたに過ぎない と捉えれば 雀はただの汚れた小さな生き物だったのでしょう。
後者の解釈が一般的であることは勿論です。
★★(No.2お礼欄) ~~~~
当たり前 というところを
普遍的な生命感の享受 と解釈してもよろしいのでしょうか。
時と場所と人とは それを写す鏡が その時の私にあったという事なのでしょうか。
★★(No.4お礼欄) ~~~~~
今日も その事をずっと考えていましたが
気が付いた言葉があります。
「見よ 私はすぐに来る」 という言葉です。
これは 愛や慈悲という心が顕れることを言っているように思います。
★★(No.5お礼欄) ~~~~
私自身の存在状況においての意味、もしくはその事が必要であったのかどうか という事において答えが確定しないのです。
~~~~~~~~~~
*
☆ ということで 回答としての結論ですが つまるところは《主観》のもんだいであるというその中身が どれだけ共同性を持つか。ここにかかっているのではありませんか?
天使であったかどうかに問題はなく 天使が《よごれているかどうか》にもなく 使いの中身がどうであったかだと考えられます。
しかも そのとき《神とわたしとの関係》としての主観内容に問題があるというとき 実際にはその主観内容の共同性ないし普遍性にあるという見方に行き着くかと見ます。
わたしだけではなく ほかの人びとにとってもその内容がどうであるかです。つまり哲学の話に《神》を持ち出す意味は そこにあって そこにしかないと言ってもいいと思うからです。
ただし・ただし・ただし 《神と ほかでもないわたしとの関係〔としてのその手紙〕》という規定には やはりそれとしての意味があって その本人の主観が 《いま・ここ》に立っていることが大事なのだと見ます。
★★ ~~~~~
「見よ 私はすぐに来る」 という言葉です。
これは 愛や慈悲という心が顕れることを言っているように思います。
~~~~~~~~
☆ ここには《いま・ここ》なる時間性が見当たらないように思うのです。そこらへんの問題をわたしは感じましたが これは見方が片寄っていましょうか?
日本は変わるのか? ですとか 世界資本主義はさらにどう展開して行くか? こういった具体性が 手紙にはあるか 見て取れるかすると思われるからです。
世界とのキアスムを見い出せない《観念》だけの内容は 神からの手紙ではないように感じられます。
以上 言いたい放題でした。
言いたい放題 ありがとうございました。
ぶつぶつと いつまで己れの主観をしゃべっているのだ・・・
夜中の盗人が
いい加減にせい・・・
と
叱られたような気もします。
>世界のすべてのものごとは 神から《わたし》へ送られた手紙である
ひねくれた夜中の盗人は 中々素直に うん とは言わないのです。
素直に うん と言える人はいいです
そう思える人は 間違いなく救われる のでしょう。
私も救われたい
先生のように・・・
甘いですか
>ここには《いま・ここ》なる時間性が見当たらないように思うのです。
時の刻みをさらに示せ と仰るならば それも 出来なくはないような気がしますが
わずか 一、ニ分のうちに
と言ったところに 全ては含まれています。
その内面は 雀の姿、動きそのものという 無分別の観察の世界です。
観察という能動性が ありのままを知るという受動態と同時であり
その後に訪れてくるものを否定しないという意識の拡がりです。
総じて、受動態のみが働いているようにみえるところから
与えられた となってしまうのでしょう。
内面の時の刻みは 以上から推し量っていただきたいと思います。
No.6
- 回答日時:
ご丁寧なお礼を頂き、また私の前回答の浅薄なことを反省して、もう少し更に余計なことを書かせていただきます。
>汚れた天使 と書くと 今、流行の侮辱罪になるかもしれません。
天使というのは耶蘇系信者の独占物ではないと思いますし、ほとんど一般名詞になっていますのでそのような心配はないと私は思います。
> その湧き出てきた 愛おしさも同様です。
今はそういった質問者様だけが感じられた素直なありのままの感性の表出を大事にしなければならないと思います。
>今日も その事をずっと考えていましたが
気が付いた言葉があります。
「見よ 私はすぐに来る」 という言葉です。
>これは 愛や慈悲という心が顕れることを言っているように思います。
超越的無意識と呼ばれるものが (外界に応じて)心の表面に顕れる速さです。
仏の方で言うと 速疾に顕わる、とか、忽ちに証す とかいったものだと思います。
そうした急激な心の変化をもたらした・・・汚れた雀の姿 汚れつつ生きている姿
汚れとは ただの汚れではなく この世の塵や苦しみといったもの
背負っているもの のように思います。
>小さな天使が なぜ背負わねばならぬ・・・
前回も書きましたが、既にここでは全体が(宗教的な)文学作品になっていると思います。
文学作品というのはある個人的な感銘の気分を言葉であらわしたもので、それ自身が問いかけになり、回答にもなりうるものです。質問者様の感銘の具体的な内容をここでくだくだと他人が説明しても無駄以外の何ものにもなりません。貴方は既に回答を見出していると私は思います。
ありがとうございます。
>今はそういった質問者様だけが感じられた素直なありのままの感性の表出を大事にしなければならないと思います。
重ねて ありがとうございます。
その時の状況設定みたいなものを振り返ってみたのですが
ビルの谷間の、車が行き交う中にあった狭い場所に雀がいました。
人工的で無味乾燥な都会の中の一角です。
そこだけに緑がありました。
無意識に目が向く といった要素があったのかなと思います。
>既にここでは全体が(宗教的な)文学作品になっていると思います。
そうですね
そんな感じもします。
そうした見方をすれば ですが
ある話に行きつく感じさえしてきます。
早離と即離の話です。
それは 私が くだくだと説明しない方がよい気がします。
二羽の雀は、早離と即離 であったのかもしれません。
早離と即離という天使みたいなもの 観音菩薩と勢至菩薩・・・
菩薩の姿は 自分と同じ汚れや苦しみを背負っていてこそ菩薩に見える・・・
だいぶ ごっちゃまぜになってきました。
分かりませんね。
何か す-と答えが出ない。
キリスト教だと たぶん次の言葉みたいになるのかもしれません。
見よ 私はすぐに来る
汝の目は 私の目であり
汝の心は 私の心である
汝の目に写るものは 私が使わしたものである
私が汝に 見ることを与えたものである
そんな感じでしょうかね
分かり易くて明るい 感じ
だから受けるのでしょう。
さて どうしましょう・・・
No.5
- 回答日時:
わたしの書き方が悪いのでしょうか。
塵、埃、汚れ、労働、務め、消費、代価、
都会のせわしない日常には高貴も優雅も荘厳もないにもかかわらず
掃除夫にも配達夫にも無職者にも雀にも
何かの真理と素速く深く直結する風貌が、その時、その場所、その対話を選んで現れる。
(あれは天使かな)
(天使だったのだな)
そうして、口の奥底に沈めて、心の中に抱いておくのは、
ひとりひとり、当たり前だと、わたしは言ったつもりなのですが。
わたしたちがいつもただ飲み込んでいるのは、主観なのですか?
そのような、対対象的な構成原理を持ちだしてすむとは思わないから、
わたしは、そんなの主観だよ、なんて書かないのです。
(天使からの合図と象徴)は、
現前というもののやわらかさにおいて到来するのではないのか。
共立する諸関係の時間的な表出と前提としての無限遠のひろがりや持続を、
現前に、保全しようとしながら、
知覚は、synchronicityを感受してはいないだろうか。
今回のご質問の参考になるわけではありませんが、
世界が主観という立ち現われ方をするとお考えなら、
メルロ=ポンティの間身体性について答えたことがありますので、どうぞ。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6052608.html
ありがとうございます。
>塵、埃、汚れ、労働、務め、消費、代価、
都会のせわしない日常には高貴も優雅も荘厳もないにもかかわらず
掃除夫にも配達夫にも無職者にも雀にも
何かの真理と素速く深く直結する風貌が、その時、その場所、その対話を選んで現れる。
これは素晴らしい
都会の風景が目に浮かぶようです。
>天使からの合図と象徴
>知覚は、synchronicityを感受してはいないだろうか。
結果的にはそうなんでしょうね。
ただ、どこまでがsynchronicityであったのか ですが
私自身の実感でいえば 偶然とは感じなかった
また 必然とも感じなかった のです。
つまり 意味ある という事においての意味は その時には生じなかった、知らされなかったのです。
偶然である という見方からすれば その時間において当然なのですが
後付けで 何かがあってもいいはずです。
それがまだ見つからない。
見つけては まだ先がある といった感じです。
私自身の存在状況においての意味、もしくはその事が必要であったのかどうか という事において答えが確定しないのです。
情けないですね。
十年以上もかかって答えが出ないのです。
ただ私にとっての一ページであった事は確かです。
本を閉じる時に 分かるのでしょうか。
資料については後でゆっくり読ませていただきます。
ありがとうございました。
No.4
- 回答日時:
面白いはなしですね。
精神的な意味ではなく、文学的な意味で、です。
一般的に、天使は汚れとは正反対のものです。
そこが面白い、というか、貴方が打たれたのは、そのような異物と異物との融合にはっとされたのかも知れません。それはあるいは貴方自身の発明、というよりもインスピレーションですよね。
新しいもの、価値のあるもの(芸術も含めて)はほとんどが異物同士の組み合わせでなされます。
貴方自身の小さな生命に対する優しい心眼がそれを見出したことは間違いないと思いますが。
回答としては、ずれているかもしれません。
ありがとうございます。
>一般的に、天使は汚れとは正反対のものです。
汚れた天使 と書くと 今、流行の侮辱罪になるかもしれません。
確かにそういう意味にとられる怖れはあります。
信者の心を逆なでするもの だと
でも 馬鹿を承知でいえば
ありのままなのです。
もともと私は 田舎暮らしで 雀や小鳥には親近感をもっています。
でも これほど印象に残る雀の姿は今までにないものでした。
その湧き出てきた 愛おしさも同様です。
今日も その事をずっと考えていましたが
気が付いた言葉があります。
「見よ 私はすぐに来る」 という言葉です。
これは 愛や慈悲という心が顕れることを言っているように思います。
超越的無意識と呼ばれるものが (外界に応じて)心の表面に顕れる速さです。
仏の方で言うと 速疾に顕わる、とか、忽ちに証す とかいったものだと思います。
そうした急激な心の変化をもたらした・・・汚れた雀の姿 汚れつつ生きている姿
汚れとは ただの汚れではなく この世の塵や苦しみといったもの
背負っているもの のように思います。
小さな天使が なぜ背負わねばならぬ・・・
No.3
- 回答日時:
こんばんは。
私は 人には幼い時まだ汚れの無い純粋な心があると思います。この世界は 幼い心には無限な希望に溢れ美しいものに感じられたと思います。たとえ何も無い状態でも 世界は光に溢れていた。人は大人になると 他人と比較することをおぼえ 満たされない欲望が襲って来ます。誰にも気が付かれることのない薄汚れた雀の寄り添う姿は 貴方にしか見えなかったと思います。
大人に成った貴方が自分の心に一瞬抱いた純粋な心が 寄り添う薄汚れた雀を見つけたのかもしれません。私はその心が 貴方の人生を豊かなものにし 価値ある物にしてくれると思います。薄汚れた雀に対する貴方の心を大切にしてください。それは 誰も気にかけられない貴方の宝物(妖精)ですから。また 出会えますよ。^^
ありがとうございます。
>誰にも気が付かれることのない薄汚れた雀の寄り添う姿は 貴方にしか見えなかったと思います。
このあたりの実際の事を少しお話します。
上京したのは仕事関係の用件のためで、数人の人達と一緒に
地下鉄の駅を出てから、ビルの谷間を歩いていました。
仕事関係の資格の更新の講習会で、参加すれば間違いなく更新できるという事で、気楽な感じでもありました。
何も考えずに歩道を歩いていた時の出来事でした。
思い出すと
曇り日だったように思います。
歩道があって 車の通る車道があって その向こうに 反対車線との間に狭い分離帯の植込みがありました。
低く刈りこんだ木が続いているところと 途切れているところがありました。
その途切れているところは グランドカバーというものでしょう 小さな青い草が植えられていました。
そこに二羽の雀がいました。
雀の存在に気付いたのは きっと動いていたからだと思います。
動かなければ 周りの木や草の色に紛れて分からなかったかもしれません。
雀を見慣れている私は
あ~いた、いた
こんなところにもいるのか・・
という感じでした。
その後の感じは 既に書いたとおりです。
きれいごと ばかりを並べたようですが
見方によっては 慈悲魔というやつに襲われたのかもしれません。
どうなんでしょう。
心の空白に写った 天使みたいな雀・・・
黒っぽく煤けたように見えたのは きっと排気ガスのせいだったのだと思います。
都会の雀か・・
そう思いました。
その日の講習の休憩時間の時に 一緒に行った人に その雀のことを話してみましたが
誰も気付かなかったみたいで話題にはなりませんでした。
それで そのまま仕舞い込んでしまいましたが 何となく頭から離れなかったことは確かです。
帰り道に 同じところを見てみましたが もう雀はいませんでした。
少しさみしいような感じがしたのも覚えています。
やはり 宝物でしょうか。
あとになって思い出したのは
芸術品のような きれいすぎる仏様は拝む気になれない というお坊さんの言葉でした。
何となく分かるような感じもします。
私も 埃をかぶって汚れた雀かもしれない・・
いや きっと 間違いなくそうなんでしょう
それでいいというような 感じもします。
私という雀が 仲間を見つけた
ちょっと汚れた仲間を見つけた
お~い 元気に生きろ よ
きっと そういう事だったんでしょう。
No.2
- 回答日時:
キリスト教徒のことも仏教徒のことも知りませんが、
わたしの回答はむしろ、
それが天使の現れであるのは当たり前ではないか、
わたしたちひとりひとりが
いつもただ飲み込んでいる、
という回答なのです。
ありがとうございます。
>いつもただ飲み込んでいる
主観の範囲に納めてしまっている という事でしょうか。
主観というものを 個人的な一種の事実として扱えるならばですが
(事実の確認と その 事実の確認がもつ意味 において)
主観という事実の確認がもつ意味を 他者に問うことには無理がある、意義が無い ということになりましょうか。
これが 客観という事実の確認がもつ意味を・・・となれば全く別になると思いますが。
>わたしたちひとりひとりが
いつもただ飲み込んでいる
改めて問う必要もない・・・と仰っているように感じます。
雀が天使であったのか そうでなかったのかは
人それぞれの主観によるものであり、問う必要もない のかもしれません。
ただ あなたが飲み込んだだけの事なのだと
これで終わりと言えば終わりなのでしょう。
ここまでで切れてしまう問いかけになってしまいます。
自問自答は お止めなさい と聞こえてくるような感じもします。
この事は 体験による主観の共有性の有無が
主観に対する解釈の深さを物語っているような感じがします。
私は、答えが見いだせないまでも、そうしたところから少し踏み込んだ意見が聞きたかったのです。
>それが天使の現れであるのは当たり前ではないか
当たり前 というところを
普遍的な生命感の享受 と解釈してもよろしいのでしょうか。
時と場所と人とは それを写す鏡が その時の私にあったという事なのでしょうか。
悲しいかな 今はその鏡も曇って なかなか写りません。
思い出すばかりです。
わずか 一、ニ分の出来事に
祈りの心を呼び覚まされた記憶をです。
No.1
- 回答日時:
ちいさな雀の体に宿った命が都会で生きていくのも愛らしい。
命は汚れた姿でも現れる。時と場所と人に応じての出会いです。
それでも、天使がよいですか?
誰かと天使の話をするということは、
簡単ですか?
わたしが現前していることの、調和について、話すこと、
知らされていない約束に対する、和解について、話すこと、
さりげなく印される痕跡と予兆について話すこと、
自分に属するそれらを、
ウェブのQAサイトで、どうするのですか。
この回答への補足
天使のイメージを壊すのか・・・と叱られそうです。
美しい神の使者というイメージが台無しではないか・・・と言われそうです。
薄汚れた雀を天使にたとえることが間違っている・・・とも言われそうです。
でも私は ありのままの感想を書いたつもりです。
都会の片隅で懸命に生きている 汚れた小さな生き物の姿です。
その姿が 私の心を捕らえて離さなかった時間があったことは確かなのです。
この光景を見たのは もう十年以上も前の事です。
今でも目に焼き付くというか、そんな感じで浮かんできます。
たぶん、というか きっともう二度と見ることも無い感じがします。
時間にすれば わずか 一、ニ分の事だったと思います。
少し大げさに言えば その けなげに生きている姿に胸が締めつけられるような感じでした。
いいものを見たとは思ってはいない、だが忘れる事のできないものです。
たぶん キリスト教の方に言わせれば
命の大切さを知らされたのだよ と言われそうな感じです。
仮に もしそうであったとしたならば そこには
キリスト教における 神の使者と人との関係とか
仏教における 方便身と人との関係とかがあるのかもしれません。
しかし 本当のところは分からないのです。
分かっているのは
小さな雀が汚れながらも生きている姿 良くない環境の中で精一杯生きている姿 寄り添うように生きている姿 です。
知る事を与えられた というように捉えれば 雀は汚れた天使だったのかもしれません
しかし、私が勝手にそう感じたに過ぎない と捉えれば 雀はただの汚れた小さな生き物だったのでしょう。
後者の解釈が一般的であることは勿論です。
しかし、疑問は消えないのです。
私の目を釘づけにした 二羽の雀は 天使の如きものではなかったか という疑問です。
それは 祈りを呼び覚ますものとの出会いが 偶然ではなく、与えられたものであったのか という疑問です。
畏れ多くも キリスト教における天使の解釈も知らぬまま用いた事は誤りであったかもしれません。
しかし キリスト教を蔑視するようなものではない事をご理解願いたいと思います。
私という一個人における自然な表現であった とご理解ください。
ありがとうございます。
>命は汚れた姿でも現れる。時と場所と人に応じての出会いです。
これを
>それでも、天使がよいですか?
神との関係に持ちこんではならない
というようにお受けしました。
煮詰めてみれば、野良猫の姿も同様ですし
取るに足らない主観を質問すべきではないのかもしれません。
しかし、同様の体験を持たれた方もいるかもしれないと思いましたし
一度は質問してみたかったのです。
説明不足もあったかと思いますので、補足をお読みください。
またお願いします。
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