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日本(倭国)は、なぜ百済の救援要請に応じたのですか。
唐と新羅に滅ぼされた百済の遺臣たちは、なぜ日本(倭国)に救援を求めたのですか。
飛鳥時代の皇室や蘇我氏などの豪族たちの多くは、元をただせば百済の遺臣たちと同じ民族だったから、というわけではないのですか。
5万人近い派兵をしたのはなぜ、という単純な疑問です。
よろしくお願いします。

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A 回答 (11件中1~10件)

一般的には



高句麗・百済・日本VS唐・新羅

といった軍事同盟を確固たるものにしたかったがため。という理解だと思いますが。
唐の軍団30万。対する日本の動員兵力について、実数は詳らかにされておりませんが、日本が派遣した兵員が5万人はいい線だと思います。どうでしょう。5万人の兵員を割いて唐・新羅の侵入を防ぐことができうるならば、派兵しませんかね?
そして結果は「そんなおいしい話はなかった」といった感じだと思います。

そして、皇室や蘇我氏が百済系の民族であったとすることが、はたして可能なのか?について、現在においては、蘇我氏渡来人説に批判的な解釈は多いはずです。代表的な論調としては、蘇我氏渡来人説における代表的な骨子として、蘇我満智と木満致を同一人物とみる見方がありましたが、冷静な判断から両名が同音同名であることを除けば、活躍年代からして微妙にずれていますし、その他にも積極的に同一人物であると考えられる要素はほとんどないのではないかな?と現在では考えられていると思います。
また天皇は百済系か?については、天皇の血脈については喧々諤々さまざま言われますので、そのすべてを網羅しているわけではありませんが、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であったようだ。という所が代表的でしょうか?それにしても時代がだいぶ変わりますから、白村江とは直接関係がなさそうですよね。

いずれにせよ、質問者様が気にされておられる、血縁による感情的な開戦という感じは、白村江開戦の伏線としてはどうやら成り立ちそうにないな。と僕は思います。

ですから、ご質問の「5万人近い派兵をしたのはなぜ、という単純な疑問」については、不安定な東アジアの情勢をふまえれば、日本としては百済に再興してもらい、従前のごとく三国の同盟を維持しながら、東アジア地域における唐の勢力を牽制して行きたい。という外交戦略の中での派兵だと思います。

ちなみに蘇我氏の出自については
1、大和国高市郡宗我
2、大和国葛城地方
3、河内国石川郡

などと推定されていると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>いずれにせよ、質問者様が気にされておられる、血縁による感情的な開戦という感じは、白村江開戦の伏線としてはどうやら成り立ちそうにないな。と僕は思います。

やはり、成り立ちませんか。
弥生時代に半島から大量の人びとが列島にやって来たので、同じ民族かなと思っていました。
ここのカテの質問・回答をみていると、朝鮮や韓国に対して、過去から現在まですべて日本が優位であるとの意見をよく目にします。
これすなわち、負けたくないという気持ちは身内ほど強烈ですから、裏を反せば弥生時代から続く同じ民族だからそうなるのではないか、と思って質問しました。

お礼日時:2012/11/17 12:49

>いつ頃から日本が上位になったのか、この疑問が出てきますが


任那日本府が古代にあったわけですから、その時代から、つまり古代の大和朝廷成立のごく古い時期から朝鮮半島南部は日本の勢力範囲であったと思われます。
それが時代を下るがごと中国およびその朝鮮半島における同盟国新羅に圧迫を受け、562年、ついに新羅に任那が滅ぼされます。その後も失地回復に遠征軍を数度派遣し失敗に終わっています。
つまりもともと朝鮮半島南部は倭国の地であり、それを数百年かけて奪われて次は日本本土という状況だったわけです。

今の我々からしたら対馬海峡をはさんで明確に日本と朝鮮は分かれていますが、当時の大和朝廷からしたら一続きの領土、数百年にわたり徐々に自分の領土が切り取られそれに対する抵抗を繰り返していたにすぎないんです。百済は同盟国でありそれ以前に唐からの防波堤であり、また黙って百済が攻め滅ばされるより百済とともに戦ったほうが百済の兵も活用できるという目算があったわけです。
結局唐の征服意欲がどこまで伸びるかわからない大和朝廷からしてみれば、侵略者からはとにかく抵抗するだけだったんですよ。百済が滅亡、百済遺臣兵が壊滅したため防衛線を遠い朝鮮から九州に引き寄せただけで、派兵も防人派遣も同義だったんですよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>つまりもともと朝鮮半島南部は倭国の地であり、それを数百年かけて奪われて次は日本本土という状況だったわけです。

全く同感、そのとおりだと思います。
#3のお礼欄に書いています。
ただし、私は、倭国の列島側に住んでいたのが「日本人」で、半島側に住んでいたのが「朝鮮人」というのではなく、どちらも同じ民族「倭国の人」だと思っています。
ただ、両者の間に頻繁な行き来があったとしても、列島側の人びとは、縄文人との混血が進んでいるのではないか、とつまらぬ想像をしています。

私の疑問は、「飛鳥時代の皇室や蘇我氏などの豪族たちの多くは、元をただせば百済の遺臣たちと同じ民族だったから、というわけではないのですか」ということでしたが、これは、多くの方のご回答から、私の妄想に過ぎないことが解りましたので、「近いうちに」締め切りたいと思います。

お礼日時:2012/11/18 17:31

たびたびスミマセン<m(__)m>#1・3です



今回の回答とお礼の部分をあたらめて通読してみました。
質問からはじまり、回答が徐々に増えるごとに回答者様も「東アジア地域における外交関係が根幹にあったのであろう」という意見を知り、同時代に対してより理解を深めてゆかれたのだろうな。と感じました。
「kouki-koureisya」と冠するだけに、僕のだいぶ先輩なんだろうな。と思いつつ、物事に疑問を持ち。考え。理解を進めて行く姿を垣間見ると、陰ながら応援するとともに、脆弱な知識しか持ちえないわが身を思い、「もう少し知識を吸収しないと」というネガティブな思いと、「知らないことが多い事は伸びしろがまだまだあるってことかな?」とポジティブな思いが交錯しています。

そして、長々と前置きをしたのは他でもありません。僕あての「お礼」の文面が気になったというか、僕もココこそが、同時代の理解にあたって、とても重要な部分かな?と思ったからです。

「どんなことが起きようとも万難を排して百済を再興させねばならない、と日本は決意したのですね。」

そうなんですよね。白村江直前の時点で、何も百済再興だけが日本の選択肢ではなかったはずです。御承知のように当時の半島の三国は「付いては離れまた付いて」の連続で、国の外交方針を柔軟に変えながら国家運営の活路を見出してゆくんですね。そのような中で結果を知る我々現代人が評価することはおこがましいのですが、客観的に見れば白村江時点で日本はあえて負け戦に突入してゆきます。

同じく大国・古代中国の勢力圏内ないし若干外に位置する半島諸国と日本。一方は柔軟な外交戦略を駆使し、一方は愚直なまでに古代中国との対等関係に執心する。この差は何なんでしょうね?

日本は海を隔てているからでしょうか?海を隔てる安心感から少し生意気に古代中国との対等関係を標榜していたのか?
私見ではありますが、もちろん地理関係は大きな要因なんです。ただし必ずしもそれだけではなかったんでしょうね。
たとえば白村江時点で「天嶮の要塞・日本列島」に守られているといった抽象的な論理より、単純に唐・新羅の連合軍と戦わない方が、はるかに効率的に国土防衛ができたのでしょうから。
また、白村江の敗戦後、日本はただちに国土防衛拠点を北九州に作り始めます。ですから海を隔てる国土という、中国と日本の位置関係は、日本が古代中国との対等関係を標榜してもおつりがくるくらいのアドバンテージであるなんて、当時は考えていなかったと思うんですよね。
重ねて申し上げます。海を隔てる位置関係は重要なのです。ただ問題はそこだけにはなかったということです。

ではその他の要因は?これはもう「国民性」としか言いようがない気がするんですね。
冷静に戦力を分析して、なお負ける可能性が高いとされる戦いは、近代における「日露戦争」や「先の大戦」などにも見られます。
まずは強めの先制パンチを放ちつつ、おいおい行われる外交交渉を優位に進めてゆく。この論法は日本のお家芸であり、白村江の頃からの伝統的な日本の外交戦術の一つだったと僕は思うのです。
このような国民性(国民の考え方の傾向)は、四季折々に豊かな恵みを育み、かつ他国の蹂躙を困難にせしめる「日本の国土」から生まれたのでしょう。そしてそのような恵まれた環境に甘んじることなく、常に真剣に。そして誇り高く日本という国を頑なに守ってきたのが、我々日本人の先人達だったのでしょう。

国家を運営するに当たり、他国との関係悪化は今も昔も避けることができないのでしょう。少なくとも日本人にとっての外交とは、他国との関係悪化をも前提としつつ「すぐには攻めて来るまい」や「先制パンチからガムシャラな殴り合いに移る瞬間にこそ外交がある」といった感じを、日本人は連綿と受け継いでいる気がしてならないのです。だからなのでしょう。TPPのように「まずはじめに関税撤廃」みたいな交渉は苦手というより「これは外交じゃなくて命令でしょ?」という向きが、少なからず存在するんですね。

長々と申し訳ございませんでした。取り留めのない話をしましたが、古代の日本を知るということは、日本人の根っこを知る。ないし知る手がかりを見つける事にもつながる気がします。
私自身も今回の回答を私なりに考え「日本人とは何なのか?」に愚行を巡らせてみたいと考えております。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

>ではその他の要因は?これはもう「国民性」としか言いようがない気がするんですね。
>冷静に戦力を分析して、なお負ける可能性が高いとされる戦いは、近代における「日露戦争」や「先の大戦」などにも見られます。

そうですね。
「国民性」というのは、あるでしょうね。

ところで、私は、適切な言葉を見いだせなかったので『民族』と書いてきましたが、この質問における「民族」とは、同じムラに住む仲間といった感じで使いました。
当時、「民族」という概念がなかったことは承知していました。
隣りムラに住んでいたAさん一家がこちら(日本列島)に渡って来たそうだ、そういえば、他にもそんな話を聞いたことがある、といった感じです。
こちらは、住みいいからな。
向こうでは戦いがあってムラが吹っ飛んだそうだ、そこで助けに行ってやってくれと言ってきたぜ。
オレは行きたくないが強制らしい。
そこで、初めて「ムラ」より大きい「クニ」があることを、兵は知った。
そんな他愛もない思いつきで質問しました。
真剣に回答して下さった皆様には申し訳ありません。

お礼日時:2012/11/18 11:44

>弥生時代に半島から大量の人びとが列島にやって来たので、同じ民族かなと思っていました。


ここのカテの質問・回答をみていると、朝鮮や韓国に対して、過去から現在まですべて日本が優位であるとの意見をよく目にします。

広さや人口とか食糧生産量の関係、さらに寒暖の差などから、日本優位なのは当然では?
そう考えないほうがおかしいと思います。


>これすなわち、負けたくないという気持ちは身内ほど強烈ですから、裏を反せば弥生時代から続く同じ民族だからそうなるのではないか、と思って質問しました。

最近では遺伝子解析がすすんで、日本人と朝鮮人ではかなり隔たりがあるそうですよ。
そもそも、弥生時代に同族だとしても、現代で同族とは限らないわけですからね。
しかし、引用部分の理屈はすごく気持ち悪いですね。
普通に考えれば、日本に統治されていたコンプレックスを克服するために、日本に常に優位に経とうとする朝鮮、それに対する反感というだけではないでしょうか。


>にも拘わらず、木の葉のような舟で3次にわたり、5万弱(Wikiによる)の兵を送り込んだわけですから、<ここで防がないと>の必死の決意が伝わってきます。

「木の葉のような舟」って、なにか出典があるのだろうか?
100人近く乗れる船は、この葉のような船とは言わないような気がします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>広さや人口とか食糧生産量の関係、さらに寒暖の差などから、日本優位なのは当然では? そう考えないほうがおかしいと思います。

自然環境の良い日本列島、同感です。

>最近では遺伝子解析がすすんで、日本人と朝鮮人ではかなり隔たりがあるそうですよ。

そうですか?。
最近、こんな記事もありました。
毎日新聞記事 2012年11月1日 「日本人:アイヌは琉球人と近縁 DNA配列の解析で判明」

http://mainichi.jp/select/news/20121101k0000m040 …
その結果、アイヌと遺伝的に最も近いのは琉球人で、本土日本人はアイヌより琉球人や韓国人と近いことが分かったという。

>「木の葉のような舟」って、なにか出典があるのだろうか?

ありません。Wikiの記事「白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上した。」という記事から、河口に小舟がひしめいていたという想像です。
一方、唐の舟は、170隻余ということは、おそらく黄海を渡って来た船もあるはずで、日本の舟より大きく、舷側が高いので、海戦に有利だったのでは、という想像です。

>100人近く乗れる船は、この葉のような船とは言わないような気がします。

確かに、そうです。
しかし、日本が海戦を望んでいたのなら大船を建造したでしょうが(建造する技術があれば)、舟の数が千隻ほどというところから、兵を運ぶためにかき集めた小舟ではないだろうか、と想像しました。
私は、陸戦を予定していたのでは、と思っています。

お礼日時:2012/11/18 10:21

>同盟国として日本も人質を百済に出していたのですか。



出してません。同盟国といっても対等な関係ではない。日米同盟=日米安保条約と同じです。そうして百済の再興には失敗したが百済の王族・貴族らを帰化人として受け入れたという流れです。

また新羅が唐と結び、百済が日本と結んだことでも明らかなように当時は現代人が考えるような民族意識などありません。それぞれの王族にとって敵対する勢力から、どうやって既得権益を守ろうかという課題があっただけなのです。
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この回答へのお礼

再質問にご回答下さってありがとうございます。

日本(倭国)の方が百済を引っ張る立場にあったのですね。
すると、いつ頃から日本が上位になったのか、この疑問が出てきますが、これは朝鮮半島史の本でも読んで、私自身で一応考えてみます。

「当時は現代人が考えるような民族意識などありません」と言われると、確かにそうだと納得しました。
日本人で唐の高官になった人もいましたので。

お礼日時:2012/11/17 21:33

おまけ



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%83%A1% …
とか

中国史は、中原の覇権を握るために、異民族を導入するという歴史ですので、同民族だからとかそんな考えは希薄かと。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
私は、同じ民族だからという理由もあるのかな、と思っていたのですが、全くの外れでした。
質問した甲斐がありました。

お礼日時:2012/11/17 21:48

当時、百済の王子である扶余豊璋を人質として預かっていたことで分かるように百済は同盟国だった訳です。


同盟国を見捨てるようでは、今後二度と日本を頼ろうとする国は現れないでしょう。
百済の救援要請に応じたのは当然の政治決断だったのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。


>百済の救援要請に応じたのは当然の政治決断だったのです。


そうですね。多くの方のご回答を得て、やっと理解できました。


>当時、百済の王子である扶余豊璋を人質として預かっていたことで分かるように百済は同盟国だった訳です。


同盟国として日本も人質を百済に出していたのですか。

お礼日時:2012/11/17 15:15

なぜ日本(倭国)に救援を求めたのですか。



No4に書いたように、すでに高句麗は戦闘中であり、現在のソウルや平壌のあたりはすでに戦場ないし、唐の軍隊が進出していたから、援助を求めても、戦闘中なので余力がないし、来ようとしても百済の旧領にやってこれない

http://www.coara.or.jp/~mieko/koreahistory/korea …
「百済降伏直後の660年から新羅と唐は南と北から高句麗を攻撃します。」
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

唐・新羅連合軍が強いことは百済の遺臣たちはよく分かっていたと思うのですが、そして、日本も承知していてはずですが、こういう結果になったのが歴史ということですね。
私が想像していた、百済も日本も同族だからという理由ではなさそうですね。

お礼日時:2012/11/17 15:06

614年 第4次隋の高句麗遠征。


618年 隋滅ぶ
626年 唐、中国本土をほぼ制覇
630年 東突厥、唐に屈する
642年 高句麗淵蓋蘇文がクーデター
643年 日本 山背大兄王殺害
644年 第1次唐の高句麗出兵。
645年 日本 乙巳の変
648年 羅唐同盟。
650年 新羅が独自の元号を廃し唐の元号を用いる。
660年 唐と新羅が百済を滅ぼす。
661年 第2次唐の高句麗出兵。
663年 白村江の戦いで唐・新羅連合軍が倭国・百済遺民の連合軍を破る。
668年 唐と新羅が高句麗を滅ぼし、唐は平壌に安東都護府を設置

唐による旧満州~朝鮮半島~日本列島まで征服のドミノ倒しの真っ最中であると、日本の支配層は認識した。
救援要請が来たから救援に行ったなんて余裕をかましていたのではなく、ここで防がないと次は自分たちだと考えていたと思います。

飛鳥時代の人口が450万程度
秀吉の時代の人口が1200万人程度

農耕社会での、近接地への動員は 5%程度で、遠征ですと1~2%程度の動員が最大値になります。
秀吉の朝鮮出兵が 14万~15万ですので、飛鳥時代の5万は同程度の経済負担になり、遠征としてはほぼフルフルの動員になります。
そのくらいの、真剣味で白村江に軍勢を送っていると思われます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>救援要請が来たから救援に行ったなんて余裕をかましていたのではなく、ここで防がないと次は自分たちだと考えていたと思います。

なるほど。
660年に唐・新羅連合軍が百済を一蹴していますので、日本は、唐・新羅の実力を知っていたはずですね。
にも拘わらず、木の葉のような舟で3次にわたり、5万弱(Wikiによる)の兵を送り込んだわけですから、<ここで防がないと>の必死の決意が伝わってきます。

お礼日時:2012/11/17 12:59

#1です


大変失礼いたしました<m(__)m>

百済の立場に立ち「なぜ日本だったのか?」という質問だったようですね。
2回目の回答なのでサラリと回答させていただきます。

斉明6年(660年)3月。唐は新羅からの百済に対する攻撃要請を受けて攻撃を開始します。そして各地で百済軍を破り、7月には義慈王を捕虜とし百済を滅ぼします。
ここで注意していただきたいのは、その後に行われる百済遺臣たちの戦いは、あくまでも滅びた百済を再興する戦いなんですね。

そして同年9月。日本にも百済滅亡の知らせが届き、翌10月、百済復興運動の中心人物である鬼室福信が、唐の捕虜100人を献じて日本の援軍と人質として居住していた百済・義慈王の子、余豊璋の送還を要請します。つまり、従前からの同盟関係があったことが一つ。そして、日本には百済復興の盟主となるべき王族がいたから、まず日本に声をかけました。

そして同年12月。斉明天皇は百済救援軍の派遣を宣言します。この時点における対外関係の伏線は、先ほどの回答でご説明申し上げた感じだと思います。高句麗・百済・日本といった三国同盟における地理関係からも、百済がなければ、高句麗と日本は朝鮮半島をまたいで端と端ですから、朝鮮から分断され孤立を深める日本は、場合によっては第2の百済になり得る情勢でしたからね。
そのような情勢は、百済の遺臣も十分に熟知し、百済救援軍の話に日本は乗るだろうとは思っていたのだと思いますが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>従前からの同盟関係があったことが一つ。そして、日本には百済復興の盟主となるべき王族がいたから、まず日本に声をかけました。

これが結論ですね。ここは、よく解ります。
そして、どんなことが起きようとも万難を排して百済を再興させねばならない、と日本は決意したのですね。

そのようになさしめたのが、私の勝手な推測ですが、朝鮮海峡を挟んで半島南部と西日本の日本海側には同じ民族が住んでいて、それが倭国だったので、百済のことは放っておけないと日本は思ったのではないかと…。

お礼日時:2012/11/17 13:34

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