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日本の古代史を調べれば調べるほど、日本は朝鮮半島の南部まで影響力を広げたという証拠がたくさん見つかります。
広開土王碑によると、日本(倭)は4世紀には既に朝鮮半島の南部を影響下に置き、当時の大国である中国(南北朝時代)や高句麗と対峙できるくらいの力はあったようです。
古事記や日本書紀には、神功皇后による三韓征伐の話も出てきます。

白村江の戦いで唐(当時の超大国)に敗北するまでは、日本(倭)は東アジアの強国の一角を占めており、白村江の戦い後も中国の影響力を排除できる程度の力(これができる国はあまりありません)を持っていたということで合っているでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • 日韓の力関係は、古代から
    日本>>朝鮮
    だったということですね。日本が支配する側、韓国が支配される側だったわけなので。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/01/27 07:44
  • 一時的に攻めこんだどころか、継続的に支配していましたよ。任那日本府って知ってます?

    高句麗は朝鮮北部から中国東北部にかけての政権、中国は中国本土の政権(当時は南北朝)で、彼らにとっての「本土」を統治していただけですから、本土以外を支配していたと言えるのは倭国だけです。

    まあ、漢や唐なんかは異民族を支配していたのは明らかなんですが。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/01/27 20:07
  • あなたは「軍事大国である大和」と書かれていますね。軍事大国=強国ですから、軍事大国である大和を強国という評価を下すのは難しいというのは矛盾しています。

    あと、神武天皇以前に新羅系の武装集団が播磨、紀伊、丹後方面に侵入したって、モロに神武の東征ですよ。当時近畿地方に住んでいた人は西からの侵入は朝鮮半島からなのか九州からなのか区別できなかったはずですから。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/01/29 06:49
  • 稲爪神社の鉄人伝説、見ました。推古天皇の頃に大陸から海賊が攻めてきたもののようですね。
    おそらく国として日本を侵略したのではなく、大陸のごろつきが集まって瀬戸内海の海を荒らしただけでしょう。言ってみれば倭寇の逆バージョンです。国として攻めたのであれば必ず記録に残りますから。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/01/29 13:35

A 回答 (5件)

その通り。


でも、タブー視されています。

もともと、朝鮮に統治能力無いから、
日韓併合のように、日本がお世話しなければならないのです。

学校では、教えていません。
でも、その通りだと思います。
この回答への補足あり
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思想背景が違うと思いますが、播磨国の稲爪神社の鉄人伝説を参照して見て下さい。

神武東征とは全くに違うことが判ると思います。
この回答への補足あり
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古代史の難しいところは、播磨国や瀬戸内海地域に推古天皇以前のある時期に半島から大軍が攻めてきたとの伝承(播磨国稲爪神社の鉄人伝説)が残ります。

また、天之日矛伝説から神武天皇時代以前のある時期に新羅系の武装集団が播磨、紀伊、丹後方面に侵入したのではないかとも推定されています。
このように、どの時点で歴史を切り取るかで景色は変わります。おおむね理解されている歴史の景色が安定するのは、推古天皇の時代以降ではないでしょうか。
それまでですと、海峡を挟んだ両岸が鉄を通じた同じ経済圏を構成していた場合、対高句麗と云う場面では利害関係から連合軍と云う組織組成の可能性がありますので、大和単独軍団となるかは難しいのではないでしょうか。大和軍は人数は揃いますが、大量の兵員を渡海するには多くの外洋船が必要で、その準備には新羅や百済の協力が必要です。
連合軍と云う姿では百済役が良い例です。対新羅戦線では大和による単独の軍団が当たり、白村江の戦いでは大唐・新羅連合軍に対し百済遺臣軍に大和からの支援隊が組んだ姿です。この百済役の評価も白村江の戦いを中心に見るか、伽耶・新羅戦線を含めて見るかで評価は変わります。大和の対新羅戦線部隊は白村江の戦いの敗残部隊と百済遺民を連れて支障なく大和へと帰還していますから、こちらの戦線では秩序は保たれていたようです。百済役で白村江の戦いでは唐に負けましたが、なぜか、旧唐書などは対新羅戦線部隊の大和帰還への掃討戦について、一切、触れていません。日本書紀に示すように大和軍の本体は対新羅戦線部隊であって、白村江の戦いの大和軍は百済豊璋王の護衛部隊であって支隊です。この大和軍本体と大唐軍は戦ってはいないのです。

ご指摘のように、百済役以降、大唐軍と新羅軍との関係悪化が進んだ段階で、陸軍を欲した大唐軍は軍事大国である大和の天智天皇と盟約を結び、対新羅戦争に備えることとなりました。ただ、次の世代の天武天皇や高市皇子は対新羅融和策を取り、これが長屋王の時代まで続きましたので、主力部隊が激突するような戦争を行ってはいませんので「強国」と云う評価を下すのは難しいのではないでしょうか。
建前として、百済役以降は相互に海賊が互いの沿岸を荒らすことはあっても、元と日本、清と日本、ロシアと日本と云う対立はあっても、半島と日本と云う対立は「河野洋平氏」時代まで生じなかったので、これまた評価は難しいのではないでしょうか。
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そんなに強くはないです。

海賊に毛が生えた程度。

神功皇后の三韓には、高麗(高句麗)は入っていません。三国志(史書)にある辰韓・弁韓・馬韓のことで、これは新羅(辰韓・弁韓)と百済(馬韓)のことです。
一時的に攻め込みましたが、漢(中国)や高麗(高句麗)のように継続して支配しつづけるほどの力はなかったわけです。

どちらかというと、争わずに共存していた。新羅と百済の戦いでは、百済だけでなく新羅のほうともつながりがあったようです。傭兵のように、双方に力を貸していたのではないかという人もいるようです。
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合ってます。

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