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これは単なる偶然でしょうか。何か理由があるのでしょうか。

百済のピョンアンと奈良の都は歴史的関連があるのでしょうか。
奈良県には百済姓の人がいるとか。
平城京では朝鮮語が公用語として使われた、また持統天皇が百済の要請をうけて派兵したとも。

同様に、平井康三郎の平城山は『ならやま』と読まれますが奈良県の奈良と同じ発音ですね。理由は何でしょうか。

A 回答 (13件中1~10件)

多少、韓国・朝鮮語の心得があるのでそちらからのアプローチを。



「平壌」の現地語読みは「평양(pyeong-yang)」です。
「平城」をハングル読みすると「평성(pyeong-seong)」です。
日本語では「壌」と「城」は同じ「じょう」となりますが、韓国・朝鮮語では「ヤン」と「ソン」となります。

韓国・朝鮮語の漢字の読み方と日本語の漢字の読み方には密接な関連性があり、漢字の読み方の変化を元に、ハングルが発明される前の古代朝鮮語を推理するような学問もあるようです。
私が韓国・朝鮮語を勉強するに当たっては、主に漢字の読み方から入ったということもあり、「日本語での音読みはこうだから、ハングルではこうだろう」あるいは「ハングルではこう読むから日本語の旧かな遣いはこうだろう」と、ある程度推定することができます。

以上のようなことを踏まえて「壌」と「城」を比べてみると、元の読み方が同じであるとはとうてい考えられません。
ハングルの「ㅇ(子音なし)」という字母は、日本語では「ア行」「ヤ行」「ラ行」に変化することが多いですが、その他にはほとんど変化しません。「壌」とか「嬢」などの漢字が日本語では「じょう」となるのは非常に珍しいケースです。
一方「ㅅ(s)」という字母は日本語では主に「サ行」「ザ行」「チャ・チュ・チョの音」に変化します。

さらに、母音部分でも「ㅑ(ya)」と「ㅓ(eo)」は、互換性のない母音で、一方が他方に変化することはまずありません。

ちょっと端折ったところもありますが、以上のようなことから、「“平壌”と“平城”が同じ語源を持つ」とは99%ありえないと思います。

「平城山」が「ならやま」と読まれるのは簡単な理由です。
「奈良の都が“平城京”と呼ばれていたから」です。深い意味はありません。
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この回答へのお礼

韓国・朝鮮語からのアプローチは興味深いですね。参考になりました。


「平壌」の現地語読みは「평양(pyeong-yang)」です。
「平城」をハングル読みすると「평성(pyeong-seong)」です。
日本語では「壌」と「城」は同じ「じょう」となりますが、韓国・朝鮮語では「ヤン」と「ソン」となります。

これからすると両者を同一視するのは無理ですね。

「壌」とか「嬢」などの漢字が日本語では「じょう」となるのは非常に珍しいケースです。

何故珍しいケースなのですか?ここが知りたいところです。

お礼日時:2012/09/12 02:49

No.11です。


> 「壌」とか「嬢」などの漢字が日本語では「じょう」となるのは非常に珍しいケースです。

表現不足で失礼しました。
「嬢」とか「壌」など、韓国・朝鮮語では「ヤン(yang)」と読む漢字が、日本語で「じょう」となるのは非常に珍しいケースです。
ということです。

韓国・朝鮮語を元に、旧かな遣いからもアプローチ可能です。
ハングルのスペルからいって、「平壌」は「へいじやう」になると思います。
一方、「平城」は「へいぜう」になると思います。
(国語辞典を見ればすぐ分かりますが、手元にありません)

現代日本語での発音は「へいじょう」で一致していても、時代を遡れば、まったく違う発音であろうということは確実です。しかも、遡れば遡るほど遠い関係になっていることが推定できます。
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ウィキペディアが正しいとすれば日本最古の歴史書「古事記」は712年(和銅5年)に太朝臣安萬侶( おほのあそみやすまろ)と太安万侶(おおのやすまろ)によって献上された、現在確認できる日本最古の歴史書である。

とあります。

記憶力抜群の稗田阿礼が当時の口語で伝承されていた歴史を太安万侶が漢字で記録したものと私は認識しています。

では、漢字はいつから日本に入って来たか考えるにあたり、日本に仏教が伝来した時と考えると、ウィキペディアによると552年か538年頃らしい。

しかし、仏教のお経は中国の三蔵法師や鳩摩羅什がシルクロードを経てインドのサンスクリッド語の発音をそのまま漢字にして中国に持ち帰ったと私は認識しています。

ということをまとめると、710年当時の平城京は、日本固有の言葉、中国語、ハングル語、サンスクリット語などの原型の言葉などがチャンポンになっていたか?

このサイトを見ている在日朝鮮人や在日中国人の方たちの回答も欲しいですが、歴史カテゴリーから逸脱?
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この回答へのお礼

ご回答ご認識参考になります。

『記憶力抜群の』一族を語り部、服部と呼んだとか。金田一京助がアイヌのユーカリを日本語文字で記録した際、その語り部は全部は勿論ある部分と指定するとたちどころにその部分にジャンプしたそうですね。

『サンスクリッド語の発音をそのまま漢字にして』いるのはシナ語(長安語)に翻訳する時間がなかったか、概念そのものがなかったか、と思ってます。


『710年当時の平城京は、日本固有の言葉、中国語、ハングル語、サンスクリット語などの原型の言葉などがチャンポンになっていたか?』私もそう思います。

『在日朝鮮人や在日中国人の方たちの回答も欲しい』ですね。京都、東京の京をきょうと発音したのはいつごろでしょうか。京師、単位の京はケイと発音しますね。北京はペキン、ペイジンと原語の発音、土佐日記で京だけはかな表記されなかったのは当時のかなではできなかったのでしょうね。

平譲(土偏)ぴょんあんを日本語読みするとヘイジョウという点はいかがでしょうか?

お礼日時:2012/09/12 02:21

夜中にトイレに起きたついでに・・・。

私はNo.7fumkumさんのアンサー支持。この質問は日本語の起源に関わる、おもしろい質問かもしれない。朝鮮半島の歴史を整理すると、660年に日本の友好国百済滅亡、百済再興を願って、百済・日本連合軍と新羅・中国連合軍の白村江の戦いが663年9月7日で百済・日本連合軍は大敗。668年高句麗滅亡により新羅が朝鮮半島統一。ということで、日本は百済の中心とする大量の難民を受け入れたと考えられます。平城京に都を移したのは確か710年ですよね。ちなみに平譲は高句麗の首都と認識しています。半島を統一した新羅に対抗し「平城」と名づけたかもしれない。とにかく、この頃の懐の大きい日本人は、難民を受け入れ、おそらくは百済の言葉に影響され、日本語が出来ていって、この頃は「ヘイジョウ」とは発音しなかったかもしれない。720年に編纂された「日本書紀」を読めるようになれば、もっと詳しくわかるかも。そういうわけで、日本人と朝鮮人はおそらく、当時結婚し、混血と思うから、竹島問題にゆれますが、仲良くしましょう。では、二度寝入りします。
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>私の認識は百済、新羅、高句麗をまとめての朝鮮人です。



南部は倭人の国だってのは一般的認識では?
それに現在の朝鮮人は、この時代は、中国の東北部あたりで狩猟生活でしょ。
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平城天皇はヘイゼイテンノウと読むけど 今上天皇の平成天皇 ヘイセイテンノウと読み間違えるから


無理やりヘイジョウテンノウに直したらしいです
つまり読み方の違い

あ 補足ですよ
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平城京の読み方については一般的には「ヘイジョウキョウ」ですが、平城天皇の読み方が「ヘイゼイテンノウ」などから研究者の間では「ヘイゼイキョウ」の読み方をされる場合もあります。

また、「ナラノミヤコ」とよんでいたようです。
ただ、平城天皇は退位後、平城京に御所を営み、嵯峨天皇に対抗して、平安京から平城京への遷都を命じるなど二所朝廷と呼ばれる状況を作り出し、最終的には薬子の変を起こして失敗しますが、その後も平城京に住むなど最後まで平城京を愛します。その天皇の諡号は当然愛した平城京にちなんでつけられたわけで、その読みが「ヘイゼイ」であることは重要なことだと思います。
また、百済は現在のソウル付近まで領土を拡大した時期がありますが、平壌の地までは領土としていません(平壌の地を攻めたことはあります)。
さらに、百済の滅亡に際して救援を要請されたのは斉明天皇と皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)で、その時日本に人質として来ていた百済の太子余豊璋を即位させて、軍兵を与えて送り出しています。この後有名な白村江の敗戦になるのですが、百済王家はその後は日本に家系を伝え、余豊璋の弟の余善光は持統天皇から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、家系を伝えます。
また、百済系の渡来人は百済王家のみならず、それ以前に渡来したものを含め、現在の大阪府、当時の摂河泉地方が本拠地であったものが多く、大和地方には多くありません。ちなみに百済王の本拠地は現在の大阪府枚方市で、現在でも百済王神社があります。また、百済王家の娘は美人が多かったためか、天皇や皇族、貴族の後宮に入ることが奈良時代後期から平安時代初期には多くみられます。それに比べると男性はぱっとしませんが、ともかく朝廷に出仕する一族もあり、奈良に住むこともあったとは思いますなお、百済王家のレガリアである太刀契は、桓武天皇の即位以来三種の神器に次ぐ伝国の宝器として伝わっています(平安後期もしくは鎌倉期に失われたようですが)。つまり、クダラノコニキシ家は、太刀契を天皇家に献上したということです。
平城京では朝鮮語が公用語であることはありません。大体この時代には万葉仮名が作られ、宣命書の様式ができるなど、いかに和語を文字化するのか試行錯誤していた時代です。ちなみに、宣命書とは基本的に天皇の言葉(命令)を口頭で伝える(宣命使が読み上げる)ためにに書かれたもので、それは和語ですので、朝鮮語が公用語であるはずはありえません。
平城山ですが、平城山は奈良山とも書かれますが、大和の国と山城の国の境の丘陵で、奈良県の「なら」のもとはこの地域にちなんでいます。ナラとナラノミヤの平城京と奈良が表記上混用されたためにそのような表記になったのではないでしょうか。


以上、参考まで。
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鑑真は当然中国語…(当時の唐のことば)を話してたでしょうね


でもあなたの言う朝鮮語も話せたらしいですよ 
だけど平城京には朝鮮語が通じる人がいなかったんだってば
でも百済の言葉を話すひと(今で言う外国人)は居たらしいです
でも鑑真は百済の言葉は知らんので話せなかったんだって


おたくはピョンヤンと平城京を無理やり結び付けたいみたいだけど それは無理
だって無関係なんだもん 笑

発音の仕方の違いでしょうね
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『江戸時代の朝鮮通信使は、京都のことを西京と呼んでい』るのは江戸が実質的に日本の首都と認識していたのでしょうか。

明快なご回答ありがとう。

出典は 講談社 天皇の歴史06 江戸時代の天皇 のおまけで同梱されている小冊子
そこに 京都のことを西京と呼んでいるとあります。
すくなくとも 徳川将軍家への通信使ですから 江戸の将軍が実質的な権力者であると認識しています。
「なにもしないのに高禄をはむものを<倭皇帝>と呼ぶ」というのがあったらしい。
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偶然ですし無関係です


百済に居たのは百済人です 高句麗に居たのは今の朝鮮人ですから

鑑真が平城京に来たとき 鑑真は朝鮮語も話せたが平城京に朝鮮語が通じる人は居なかったと書かれています

この回答への補足

azukiー7さん、私の認識は百済、新羅、高句麗をまとめての朝鮮人です。もっとも、ご指摘ように朝鮮南北を統一するとき国名をどうするかが大きな問題とか。また、もと高句麗にいた朝鮮人は中国にのこされるのでしょうね。長春では朝鮮族、回族、漢民族との店の看板が目に付きました。

牡丹、芍薬などは朝鮮人が日本に持ち込んだと聞いています。平城京ではこれらの薬草を栽培していたとも。かなりの朝鮮人(百済人?)がいたのでは。鑑真の記述教えて、彼の朝鮮語は高句麗語だったのかしら?

補足日時:2012/09/08 20:18
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