7世紀中国の文献にはじめて現れたと記憶していますが、どうしてこの国名を採用したと考えられるのでしょうか。そもそも「ひのもと」とは相対地名であり「朝の鮮やかなるところ」と同じで当時世界の中心であった中国からみて東方にあったことを示すだけの表現ではないか、とも思えます。
・どうして「日元」ではなく「日本」としたのでしょうか。
・「倭」とは中国から見た周辺民族への蔑称としての表現であるとの説から「和」が採用されたとの話は真実なんでしょうか。
・「ヤマタイ」が「ヤマト」に転じたのでしょうか。
・「ヤマト」はどうして「大和」の字があてられたのでしょうか。
・中国は「日本」を名乗ったことに対して激怒したそうですがそれはなぜなんでしょうか。中国の一部ではないことを表明したことになるのでしょうか。
・歴史的には「ニホン」という発音が正しいと聞いたような気がするのですが本当でしょうか。
ひょっとしたら国内向けにはあの中国と対等になったのだと説明し、中国に対しては日が昇るような遠い東方のちっぽけな国でございます、とでも説明したのでしょうか。だとすれば外交手腕は7世紀当時と大して進歩していないような気もします。もちろんこの呼び名に何ら不満はありません。他意のない興味本位な質問です。
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
こんばんは。
難しい質問ですが、
手元の辞書ではこのようなことが出ています。
もう少しお調べになったらもっとわかるかもしれません。ご参考まで。
1.「ヤマタイ」が「ヤマト」に転じたのでしょうか。
邪馬台国 ヤマタイコク
弥生(ヤヨイ)文化中・後期に確認される倭(ワ)の女王国。『魏志(ギシ)』倭人(ワジン)伝の刊本には邪馬壹国とみえるが、定説どおり邪馬台国とするのが妥当。邪馬台は正式には「やまと」と読むが、大和(ヤマト)王権と区別するために一般には「やまたい」と呼称している。
--以下略--
出典:小学館 日本大百科全書
2.「ヤマト」はどうして「大和」の字があてられたのでしょうか。
大和∥倭 やまと
狭義では奈良県の一地域,ついで奈良県全部,広義では日本全体を指した語。大和政権の領域拡大とともに日本全体を指すにいたったもの。狭義のヤマトは,《古事記》《日本書紀》に,奈良を過ぎヤマトを過ぎ損城(かつらぎ)へ,という歌謡があるように,奈良の南方で損城の東北方の,大和国城下(しきのしも)郡大和(おおやまと)郷,今日の天理市新泉町の大和(おおやまと)神社周辺の地とされる。このヤマトは,損城と並んで土着の勢力の中心地。やがて畿内豪族の連合政権である朝廷が奈良盆地に拠点を置くと,今日のほぼ奈良全県をヤマトと呼ぶようになった。語義は山に囲まれた処(と)の意かという。筑後国の山門(やまと)などとは,同じトでも当時のトの音が異なり,意味も別である。倭という漢字は,回り遠い,従順,矮小などの意だが,中国で古くから日本を指すのに用いられたので,5世紀の倭の五王のころには〈倭国王〉と自称するようになり,意味の上では本来関係のない倭という字とヤマトという訓とが結びつくこととなった。7世紀から8世紀にかけて,国号には倭の字を避け,〈日本〉という表記を用いるようになり,その訓もヒノモト,オホヤマト,オホヤシマなどとしてヤマトとはいちおう区別し,倭国,大倭国といえばふつうは奈良全県を指す行政区域名となった。律令体制下の1国としての大倭国は,737年(天平9)から747年まで〈大養徳国〉と表記を改め,757年(天平宝字1)ころから大和国と表記されるようになる。しかしその後も引き続き,一般には倭,和の字やヤマトという語は,日本的,日本風を意味するときに使われている。⇒倭(わ)
執筆:青木 和夫
出典:平凡社 世界大百科事典 第2版
3.国号や国の位置づけに関して
日本
【国号】
日本では大和政権による統一以来,自国をヤマトと称していたようであるが,中国や朝鮮では古くから日本を倭(わ)と呼んできた。《前漢書》《三国志》《後漢書》《宋書》《隋書》など中国の歴史書や,石上(いそのかみ)神宮の七支刀の銘,高句麗の広開土王の碑文も,みな倭,倭国,倭人,倭王,倭賊などと記している。そこで大和政権の代表者も,中国と交渉するときには,5世紀の〈倭の五王〉のように,国書に〈倭国王〉と記するようになった。しかし中国との国交が120年ほど中絶したのち,7世紀初めに再開されたときには,《隋書》に〈日出処天子〉,《日本書紀》に〈東天皇〉とあって,倭と自称することを避けるようになっていたらしい。中国側でも《旧唐書(くとうじよ)》の東夷伝に至って初めて〈倭国〉と〈日本国〉とを併記し,〈日本国は倭国の別種なり。其の国,日の辺に在るを以ての故に,日本を以て名と為す〉とか,〈或いは曰く,倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み,改めて日本と為す〉とか,〈或いは曰く,日本は旧(もと)小国,倭国の地を併す〉とか,倭から日本に変わった理由を紹介している。
この7世紀には,遣隋使に続いて遣唐使がしばしば派遣されているが,いつから倭に代えて日本を国号とすることにしたのかは,〈日出処〉が〈日本〉に転化していったことはまず確かだとしても,実は明らかでない。遣隋使や遣唐使のそのつどの交渉について,かなり詳しく記述している《日本書紀》も,8世紀になって日本という国号が確立したのちの書物であり,その中に使われている原資料にあったかもしれない倭の字は,国号に関するかぎりすべて根気よく日本と改められている。そこで《日本書紀》以外に文献を求めると,《海外国記》の逸文に,664年(天智3),大宰府に来た唐の使人に与えた書には〈日本鎮西筑紫大将軍牒〉とあったとある。だがこの《海外国記》も733年(天平5)に書かれているから,倭を日本と改めている可能性がある。結局確かなのは,702年(大宝2)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使が,唐側では〈大倭国〉の使人として扱ったのに対して,〈日本国使〉と主張したという《続日本紀》の記述であり,《旧唐書》東夷伝の記事も,この当時の日本側の説明に基づくものと思われる。
この日本が,今日のニホン,あるいはニッポンのどちらに近い発音で読まれたか,または当時の漢音でほぼジッポンと読まれたか否かも,,まだ明らかでない。しかし日本という国号は,中国や朝鮮ではもちろん,はじめは日本の国内でも音読されていたようであり,ヒノモトという日本に対応する訓読も,《万葉集》では〈ヒノモトのヤマト〉というように,古くからの国号であるヤマトにかかる枕詞として用いらるにとどまり,これがヤマトと並ぶ日本語風の国号として独立するのは平安時代以後である。中世に中国を通じて日本をヨーロッパに紹介したマルコ・ポーロの《東方見聞録》では,日本国が Zipangu,Jipangu などを書かれているが,その後ヨーロッパに広まった Japan,Japon,Jap1o などの称については,日本に対する中国の華北音の jih pen に基づくとする説と,華南音の yat pun に基づくとする説とがある。中世末の日本に渡来したヨーロッパ人たちは,ロドリゲスの《日本大文典》や《日葡辞書》に,当時の日本人が日本を Nifon,Nippon の両様に読んでいたことを記録している。近代では日本の読み方を統一しようという動きがあり,1934年の文部省臨時国語調査会では,ニッポンを正式呼称とする案が議決されたが,法律制定には至らなかった。なお正式な国号は,明治憲法では〈大日本帝国〉であったが,現行憲法では〈日本国〉である。⇒大和(倭)(やまと)∥倭(わ)
執筆:青木 和夫
出典:平凡社 世界大百科事典 第2版
お礼が遅れて申し訳ありません。
たいへん興味深いアーティクルのご紹介感謝します。ネット上いろいろ探したのですがこれだというような記事がなく、図書館にでも行ってみるかと思っていたところでした。私はこの国が「日本」を名乗ることで意識的なアイデンティティの確立をはかるなんらかの事件が起こっていたのかもしれないと考えたりもします。1ファンとしてそのようなことを想像するのはとても楽しいことで、この分野における歴史的事実の発掘を見守ることはさらなる楽しみでもあります。
ご回答ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
言葉の問題を中心にお答えします。
漢字というのは中国語を表す文字、そして当時、日本には文字がありませんでした。ですから、日本では中国で日本のことを表す文字「倭」を使い、これを「やまと」と読むしかなかったということです。しかし、この字はあまりよくない意味なので日本では代わりに発音が同じ「わ」である「和」を使うようになったわけです。「大」は尊称です。「日本」という漢字による国名を作ったあとでも、最初はそれを「ヤマト」と読んでいた可能性があります。
「元」と「本」は日本語でおなじ「もと」でも中国語では意味が区別されます。「元」は原理などの意味が基本義ですので適当ではありません。
激怒したのは、普通の外交手続きをとらなかったからです。中国の朝廷お伺いを立てて認めてもらうのが普通でした。突然、中国に行って私たちは「日本国の使者」だと名乗りました。中国の方では話を聞いているうちに自分たちが「倭」と呼んでいる国だとわかり、礼儀知らずと怒ったわけです。
「日本」の音読みが「ニホン」だったか、「ニッポン」だったかは難しい問題です。なぜなら、当時、促音「ッ」や半濁点を表記する習慣がなかったので、「にほん」としか表記できず、発音は「ニッポン」と読んでいたかもしれないからです。後にはこの表記に従って「ニホン」という読まれるものが定着しました。今の「ニッポン」という読みは昔は「ニッポン」と読んだだろうという学術的な復元でできたものです。最初は「ニッポン」と読んでいた可能性が高く、「ニッポン」→「ニホン」→「ニホン・ニッポン」と変わってきたと思われますが、あくまでも推測です。
>ニッポンかニホンか
平安時代だかハ行の発音は上下の唇をほとんど接触させていたとの話を聞いたことがありますが、発音として二つの間に違いがあまりなかったのかもしれません。音は保存ができないので単なる想像ですが。
中華思想は儒教や仏教などよりもずっと強いコンセプトなんだと思い知らされます。
ご回答に感謝します。
No.2
- 回答日時:
1元でなくて本、
これはわかりませんが、元は~でできている、とか~を原理とするなどの意味ですから、日が出てくる意味にはとりにくいです。本は本籍、本貫などのことばと同様もともとそこにあった意味ですからどちらが妥当かわかりますね?
旧唐書にはなぜ倭から日本にかえたかについて、諸説のべています。不思議なことに唐の側はこの真相を知らないみたいです。
2「邪馬台国」ならやまとと読むことも可能ですが三国志の原文は「邪馬臺國」です。
臺と台は本来はは別字、別の意味です。今は混用されていますが。
で、臺は「と」と読めないことは古田武彦さんの著書などにくわしく論証されています。
3倭はもともとは委だったようです。
なぜこういう字があてられたかはわかりませんが、
新匈奴単于章というものと漢倭奴國王という字面の比較から匈奴にたいする倭奴なのではないかという説があります。(乱暴ややつとおとなしいやつ)
その後字の意味や読みが変わったみたいですが、近畿王家がこのことを知っていた形跡がないのは興味深い話です。
4やまとという地名はあちこちにあります。
やま+とというかたちですから地形語源なんでしょうか。
で、これと大和という文字はまったく関係ないと思われます。
大倭から大和に変化したのでしょう。
大倭の使用例は三国志の使大倭や、天皇名(通常偽作とされるが)などにあります。何らかの意味で倭国との血のつながりをあらわすのでしょう。
5激怒
隋書の煬帝のはなしのことだとすれば、それは日出る処に激怒したというよりそのあとの「天子」にあるのは明白です。天子はこの世にただ一人、という原則(勝手なものですがそれが隋の側の大義名分)に反するからです。
南北朝の騒乱を勝ち抜いてきた北朝系国家の隋にすれば、南朝をはじめとする諸勢力を倒してきたその理由付けに関する論理が天子はただひとり、という原理であり、東夷のやつがなんかおかしなこといってるなあ、などとのんきにかまえてはいられないのは当然でしょう。
お礼が遅れて申し訳ありません。
>元
なるほど字義が元々別ということですね。図書館に行ったときにでも大きな漢和辞典で調べてみます。
>唐の側は日本に変えたことを知らなかった
なぜでしょうね。興味深い事実です。
>倭
やはり蔑称だったようですね。匈や奴が並立していて中国から見ると国名を識別するためのんらかの必要があったのかもしれないと考えたりもします。
>やま+と
素人考えですが、扇状地のような平野から山岳部への導入地域が推理栽培水運などに利便がよく、集落の発達の条件になったということなのでしょうか。ともかくも呼称と表記が関係ないということは確かにその通りですね。
いずれにせよ大陸の統一国家の出現が日本をはじめとする周辺地域へおおきな影響を与え、およそ2千年前から数百年間の間に起こった国家意識の発達の大きな背景となったとかの話は素人ながらなんとなく理解できます。
示唆に富んだご回答ありがとうございました。
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