【お題】NEW演歌

古代、日本は百済と友好関係にありました。
地理的に近いことから、両国は友好だったのでしょうか?

A 回答 (10件)

不思議と昔から友好的だったようです。


三国志(史記)の東夷伝にも、韓と倭の人が争わずに銅を採っているなどと書かれていますね。当時の三韓は、馬韓・辰韓・弁韓なのですが、馬韓が後の百済、辰韓が新羅、弁韓は弁辰などと辰韓とまとめて呼ばれることも多く新羅になったと思っていたのですが、伽耶や任那などと呼ばれていた地であったようです。
なので馬韓や弁韓とは仲がよく、辰韓とも敵対的ではなかったことが伺えます。新羅の時代でも九州の遺跡から贈られた馬具が出てきていたりと、百済だけではなく新羅と近しい勢力も居たことが分かってきていますね。

扶余というと高句麗の北にあった国ですが、この言語と高句麗や濊・貊、そして百済の支配層の言語と似ていたようで、また日本語との関連も指摘されています。つまり、もしかしたら同じ言語系統のつながりのある人々だったから有史以前から仲が良かったのかも知れませんw
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<同じ言語系統のつながりのある人々>だったのですね。


昨日鳥越憲三郎の「古代朝鮮と倭族」を図書館で手に入れました。
彼によると、新石器時代の初めのころ倭族は、長江付近に住んでおり、稲作を携え北上し、山東半島から朝鮮東部に移動した。そこで馬韓・弁韓など建国し、その子孫が百済になるそうです。彼らは、依然として倭族と称されている。
したがって、朝鮮の倭族と日本の倭とは同族で、言語も文化も類似しているのだそうです。

お礼日時:2024/08/28 12:00

友好関係より百済かその前に存在していた国の植民地が倭国かとおもいます。

大陸から離れた国の方が文化、兵力で優れていたとは思えないので。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
倭族・倭国の範囲が明確でないですね。

お礼日時:2024/08/30 12:00

友好というか、百済が日本に人質を送ることで


友好関係を保っていたみたいですね。
最後は新羅に負けて王族が生き残って
日本に亡命で、終わった。
日本は唐新羅連合軍に敗れ、朝鮮半島から追い出され、
本土に逃げ帰った。天智天皇は防人を日本本土各地に置いて
新羅の日本本土攻め込みを警戒。
しかし、さすがに新羅は日本本土へは攻め込みまではしなかった。
日本書紀は勝ち戦に描くこと多いが、
新羅本紀は日本の負け戦に物語を描いていますね。

さあ、どっちが本当かですね。

半島には新羅・百済・高句麗(高麗)・加羅などの国々があって、
加羅に任那日本府があったかなかったかで学者間で議論白熱。

日本書紀の記事は三国史記を正史とみれば、年代ずれが多く、
そこで古代天皇の実在・非実在を巡る議論白熱ですね。

百歳を超えた天皇はいるわけないので、
年代捏造の可能性大でしょうね。

年代を直せば、古代天皇は全部実在に持って行けると思うが、
信じない人多いですね。

100歳を超えることはあり得ない。
ただ、春秋暦とかで
年数を2で割れば成立というのはおかしいと思いますよ。
古事記と日本書紀の違いをどう説明するのか、
何でも2で割ればは私は賛成しません。
でも、そこまで行くと信じる信じないで
泥仕合になるので、そこは読む人の良識に
任したい。だから、100歳を超える人々の
年齢や天皇の在位年数をどう解釈するかですね。

そこで納得できない者はいるいないで
実在を否定するのは勝手ですが、誰にも親は居るはず。
非実在にすれば、親がいない子が出来てしまうでしょう。

ありえないことになる。

ほかにも邪馬台国や倭の五王問題も議論を分ける。

ちなみに質問者さんはどっちの味方なのでしょうかと
問いて見たくなるが、これ以上はそちらの良識次第ですね。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。

お礼日時:2024/08/30 11:58

朝鮮半島の中で、百済は弱小国でした、倭国は南韓に鉄鉱石などの


利権を有していました。
百済は国土防衛で、倭国は国土防衛と南韓の利権の確保の為、利害が
一致してました。
百済は石積を始めとして土木建築が優秀だったので、人質の王子
豊璋(ほうしょう)と善光(ぜんこう)と共に技術者も数多、
倭国に来ています。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございまいした。

お礼日時:2024/08/27 12:08

唐や新羅に対抗するためでしょ。



利害が一致したからです。

地理的に近いと、到って対立関係に
なることが多いです。



4世紀半ばに成立した百済は、 高句麗 や、
新羅 に対抗するため
日本と同盟を結びました。

しかし、660年に 唐・新羅の
連合軍に敗れてしまいます。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<地理的に近いと、到って対立関係に>は起きますね。

お礼日時:2024/08/27 12:07

漢帝国滅亡後は、北の高句麗が勢力を拡大して大国化し、半島南部の百済と新羅にも圧迫を加えてきました。



当時は日本も半島南端の鉄鉱石資源に利権を持っていましたので、百済と新羅を挟んで高句麗と対峙することが増えてきました。
新羅も日本に人質を送って同盟関係を結んでいた時期もありますが、百済は基本的に日本に人質を常駐させて強い友好関係を結んでいました。

しかし、日本は、国内の砂鉄を原料にした「たたら製鉄」による玉鋼などの生産が拡大するにしたがって、半島南端の鉄資源に対する関心が薄れ始め、半島への軍事力行使が停滞し始めます。

そのこともあって百済は滅亡してしまいますが、滅亡後とはいえ、百済復興軍への援軍として大軍を半島に送っていますから、両国の友好関係は一応最後までしっかりしていたという事でしょうか。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。

お礼日時:2024/08/27 12:00

当時は伽耶は倭国(旧日本)の領土でした。


そして、百済も同朋の国で同盟が結ばれていたそうです。

つまりほぼ倭国です。

その後、北方から軍事的に奪われて上級国民らは民を捨てて
現在の日本へ移り住みました。
それが、藤原鎌足の一族です。
残された民は、奴隷になるか処刑されました。
だから、半島南部には日本人のDNAが多く見つかるそうです。

ちなみに私の先祖も、元百済王朝の側近でした。
要は王の召使いの系統です。
古文書を観るとかなり酷い扱いを受けていた様です。
流れ者ですから、貧民以下の扱いだったようです。

つまり友好でなく、下僕としての地位しか無かった。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
伽耶・百済・北九州は同族に近かった、のですね。

お礼日時:2024/08/26 15:02

友好関係というか、北部民族に追われた百済人がたくさん日本に入っていたのです。


その分土着の日本人は北へ移動しています。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<追われた百済人がたくさん日本に>なのですね。

お礼日時:2024/08/26 13:23

百済は新羅や高句麗から圧迫を受けていましたから、対抗上日本と同盟関係になって逆に新羅を圧迫したかったのです。

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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
<対抗上>なのですね。

お礼日時:2024/08/26 13:21

有効です。

聖徳太子に会いに来たり、多くの人が移住してきています
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。

お礼日時:2024/08/27 12:01

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